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one of the our Summers【4】

その日は、珍しいことに校舎敷地内でイデアに遭遇したのだった。


居眠りをしているか、素っ頓狂な行動を起こすかの二択しかないグリムに対する教師陣の注意を、のらりくらりと躱し続け、スケジューリングされた講義を全て乗り切った放課後。一階の外廊下にふたりぶんの足音が響く。すっかり草臥れた身体を引き摺りながら、監督生はグリムとともにオンボロ寮への帰路についていた。

兎にも角にも重たいリュックの所為で、監督生の視線は中庭からやってきた小石や落ち葉で彩られた石畳に注がれ続ける。

次の一歩を踏み出すと、右足裏に苛々してくるような違和感を覚えた。面倒臭くて気にせず歩き続けていると、違和感の場所はコロコロ変わっていく。どうやら、スニーカーの中に小石が入ってしまったようだ。そもそもタダ同然のマドルと引き換えに、古着屋で急ぎ見繕ったものだから仕方が無い。そういえば靴底はベロベロに捲れ上がっているし、雨の日にはすぐに浸水するようなシロモノだ。

「……んー」

進行方向と垂直に右足をぶらぶらと振りながら、小石さんにはどうか出て行ってもらえないかなあ、と監督生は諦め半分に考えていた。地味に痛いのだ。不眠のツボだか、頭痛のツボだか知ったこっちゃないが、足裏を刺激されると自身の不健康さを指摘されているようで、あまり良い気分ではなかった。荷物が重いのが悪い。魔法が使えない監督生に分厚い教科書を背負わせ、意味のない講義を受けさせるこの環境が悪い。


本当に苛々し始めた監督生は、ふと、シェイクする右足を見やる。

その延長線上には、足を引き摺って背中を丸めて歩く相棒グリムがいた。

今日はバルガス先生によるスパルタ体力育成講義があったためだろう。グリムはいつもの放課後に増して疲れ切っているようで、小さな耳から溢れ出る炎の量も少ない。大きな瞳は、半分瞼の肉に覆われている。この様子だとオンボロ寮に帰ったあとも、ゴーストたちと喧嘩してぎゃあぎゃあと騒ぐこともないに違いない。

そんな大人しくて可愛いグリムの姿を見て、靴の中の小石がどうでも良くなった監督生。
視線を上げて、中庭に広がる狭い空を見上げた。


この頃は、日が暮れるのも少しだけ早くなったものだ。

腕時計で確認した時刻は、まだ午後四時五十八分。

随分低くなったまあるい太陽は赤色と橙色の中間の色をしていて、空をいっぱいにお揃いの色へと染め上げている。監督生とは一生縁のなさそうな、おかしいくらいに情熱的な色だと思った。太陽は真っ直ぐ見上げた視線の先にいて、中庭に生える立派なりんごの木や、誰も座っていないベンチ、使われているところを見たことがない井戸を真っ黒に塗り潰している。なにも無い世界だった。チッ、チリリッ、チッ、チッ……、とマツムシの寂しそうな鳴き声が聴こえる。時折吹く緩い風は、暖かくも冷たくもなくて、ただ監督生とグリムを撫でて消えていった。

なんだか穏やかで感傷的な気分になった。腹の底まで空気を吸い込んで、いっぱいになったところで全て吐き出すと、心に残っていた夏の空気が無くなってしまった気がした。異世界においても季節は勝手に進むもののようで、動植物はそれを自然に受け入れるようにできている。一度瞳を閉じて、溜息を吐いた。瞼の裏は、赤色と橙色の中間に彩られていた。



ゆっくりと重たい瞼を開く。

「あ……」

先ほどまでは無かった、大きな黒い影がひとつ。
ちょうど、監督生とグリムを追い抜かそうとしていた。

馬鹿でかいスニーカーから伸びた、棒切れみたいな二本の脚。なにより特徴的なのは、りんごの木の枝よりも大きく広がったゆらゆら夢のように揺らめく炎。真っ黒な影の淵はぼんやりと青を帯びていて、それは鮮やかな空の色にふっと掻き消されてしまいそうで。幽霊みたいなその影は、よたよたと頼りない足取りで廊下を一定の速度で進んでいた。

影の正体に心当たりがありすぎた監督生は、声を掛けようか戸惑った。

伸ばしかけた手のひらは中途半端に空を切って、いつの間にか手汗の滲んでいた指は小指から順番に閉じて緩い拳を作る。開いた唇は空気を吸い込み、しかしそのまま閉じてしまう。拳も呆気なく下ろされたが、太腿の隣で強く握り直され、肩口に力が入った。話しかけようにも、切り出し方がわからない。

しかし監督生はもう一度、無策のまま唇を開いて、

「…………せんぱ、」
「イデア! 今日もオレ様とゲームするんだゾ!」

グリムに見事、先を越されてしまった。

監督生は口をつぐんだあとに苦笑して、横に並んだ相棒を見下ろす。先ほどまで小さく燻っていたグリムの耳の炎はぼっと燃え上がって、水色の瞳は大きく開いてイデアを見上げ、キラキラと輝いていた。疲れ切ってとぼとぼと歩いていた先刻までの様子が嘘のようだ。

グリムの声に振り返ったイデアの表情は、一瞬、燃えゆる太陽の所為で黒いのっぺらぼうのように塗り潰されてしまって判然としない。髪の毛だけがサファイアブルーに縁取られていて、それは金環日食という天体現象を彷彿とさせた。不思議で、寂しくて冷たくて、綺麗だった。

「……ヒヒッ、グリム氏。いいよ、オルトが遊びたがってたし」

きっと笑ったのだと、思う。
黒い影の中に金色の月がきらりと鈍く光る。歪んだ形に口が開いて、黒い影の中に整列した尖った歯がぽっかりと白く見えた。下手くそだったが、イデアなりに笑ったのだと思った。



監督生とオルトが偶然出逢った、あの日。

あれよあれよといううちにイデアの部屋に(監督生自身も心のどこかで望んでいたこととはいえ)引き摺り込まれ、テストという名目で監督生に隠された魔力を精査され。その真相についてはよくわからないまま、教えてもくれないまま、グリムが乱入してきて確か……。時計の針がてっぺんを回った頃まで、シュラウド兄弟とグリムによるテレビゲーム大会が続けられたはずだ。

その間、監督生は途中で意識が飛びながらも(恐らく眠っていたのだと思う)、ここぞとばかりに部屋にあった興味深い学会誌や書籍を片っ端から読み漁っていた。どれもこれもこの世界の図書館には置いていないアクの強い資料ばかりで、時間も忘れて夢中になっていたことだけは思い出せる。



実はあの日から、シュラウド兄弟とグリムはすっかりゲーム友達となり、一週間に一度は部屋に遊びに行く仲になっていたのだ。もちろん、グリムを「監督」しなければならない監督生も一緒に。「監督生」としての責務は最低限果たさなければ、彼女は学園に居られなくなるかもしれないから……というのも言い訳で。放課後、なにも娯楽のないオンボロ寮で「暇なんだゾーーーー!!」とグリムが怒り出すことも滅多に無くなって、言葉にはしないものの、監督生はふたりに感謝をしているくらいだった。

その過程で、オルトと監督生の仲も自然に深まっていった。それこそ学園敷地内でお互いを見かければ、「やあやあ監督生さん」「なんだいオルトくん」とわざわざ用が無くとも声をかけるほどには。

それに対して、イデアといえば。学園敷地内で彼を見かけることはほぼ皆無と言っていいため、気軽に声を掛けるような関係には(監督生は)なっていない。しかし、イデアの部屋で資料を読み耽っているとき、わからないところを聞けばぶっきらぼうにも教えてくれるくらいの関係にはなっていた。そして監督生はイデアの博識さを仰ぎ見て、密かに慕い、そしていつの日からか羨んでいる。


「よし子分! 今日もイデアの部屋に行くんだゾ!」

夕日に拳を突き上げて、楽しそうに跳ねるグリム。

彼の冷たい灰色の毛並みに赤色と橙色が滲んで、身体全体に高揚感が表れてしまっているようで実に可愛らしい。ついさっきまでは、疲労困憊という言葉を体現していたくせに。と、なんだか面白おかしくなってきた監督生は、怒りっぽいグリムにバレてしまわないように斜め後ろを向いてくすくすと笑う。

彼の小さな足元から真っ直ぐ伸びるのは、相反するように大きくて真っ黒で随分長くて、廊下の床を薄く染め上げるインクのような影だった。身長の高いイデアが落とす影の大きさと、それは然程変わらない。監督生は正体不明の違和感を覚えたものの、「グリムも学園で成長しているんだなあ」と適当に解釈することにして、既に歩き出していたふたりのあとを追いかける。そもそも「魔法」なんてモノがまかり通っているファンタジーのような世界だ、ヒトと魔獣の影の比率が違ってもおかしくなんてないと思ったのだ。

「待ってよグリム、イデア先輩」

鏡舎に向かうふたりの背中を追って。
わざと少し間を空けて、監督生は歩いて行く。

目の前を蚊が柱になってぶんぶん飛び回っていたから、負けじと右手をぶんぶん振り回して追い払ってやった。先を行くふたりからは「今日はどんなゲームをするんだ?」「ヒヒッ、そうですなあ……」と、楽しげな声が聞こえてきて、ゲームに参加するつもりのない監督生まで浮ついた気持ちになる。もう夏というには涼しくなり過ぎてしまったが、夏休みに友達の家へ遊びに行った小学生の頃の記憶が甦ろうとしていた。



空は次第に彩度を失くし、夜が確実に近づいている。


[newpage]

それはメインストリートを抜けて、購買部の前あたりを歩いていたときだった。

「——あ、」

監督生の少し前を歩いていたイデアが出し抜けに呟き、サファイアブルーの髪を靡かせて空を見上げる。つられて、監督生も見上げた。


すっかり暗く黒くなってしまった空には、外廊下を歩いていたときには無かった厚い雲が立ち込め、重々しい雰囲気を醸し出している。夜が急速に近づいているような気がしたのは、この暗い雲の所為でもあったのだろう。どこかで鳥がギャアギャアと鳴いて、騒がしく集団となってバサバサと飛び立つ音が聞こえる。植物館の方から、キャッキャッキャッ……と蛙が鳴く。目の前には、やっぱり蚊の柱がブンブンと立っている。
土と草が混じった、鼻をくすぐる独特の匂い。ペトリコール。

「雨」

口をついて出た言葉。

次の瞬間、見上げた眼鏡のレンズにボトッ……、っと大粒の雨が落ちてくる。一粒目。水滴の玉が崩れてじわりと侵食していく様子を、焦点を合わせきれないままに監督生は見つめている。顎を上げて、ぽっかりと口を開けて。そんな風に間抜けなツラを晒していることにも気づかないでいると、西の空からザアアアアアアア……と秋驟雨の音と匂いが急ぎ足でやってくる。秋驟雨。秋に降る夕立のこと。


監督生はひとつ、瞬きをする。

遠い場所を想ってしまう、懐かしい感覚。

「雨だ……面倒臭いけど、鏡舎まで走るよ。君、魔法使えな——、」
「急ぐんだゾ! こぶ——、」


先を行くイデアとグリムの声が遠くなって、一瞬のあと夕立に掻き消された。






それは、雨に濡れたフラッシュバックだった。


狭くて暗いダイニングキッチン。光を採り込む窓はひとつだけ、小さく壁に張り付いている。外は雨。もう秋驟雨、秋の夕立と言っていい時期だ。トタン屋根の物置に雨粒が降り注いで、バン、バン、ババン、ダン……と不規則に音を鳴らし続けている。それは耳に刺さって苛々するような、気になって仕方が無いような、それでいて心が落ち着く不思議な音だった。

深いブラウンのダイニングテーブルに左肘をついて、男は時折低い声で唸りながら、分厚い参考書をパラパラと捲っている。他にも男の前に積まれているのは、大学受験用の面接対策書ばかり。それもまだ新しいものらしく、ソフトカバーには指紋が全くついておらず、チラチラと点滅を繰り返す蛍光灯の光をまあるく反射している。上部から短冊状の薄い売り上げスリップが覗いているものもある。

面接の対策には、手をつけたばかりのように思えた。

「面接、むず……僕の対人能力じゃあ落とされかねないよ」

呟く男は高校三年生。夏生まれ。ふたつ下の妹がいる十八歳の受験生。

少し黄ばんだ白いキッチンが迫り来るような、ブゥゥゥン……と音を立て続けるグレーの冷蔵庫に見下ろされるような、圧迫感のある位置に置かざるを得なかっただろう古いダイニングテーブル。椅子は四脚。父と母と、自分と。妹。広げたノートに男が左手で文字を書き込んでいると、テーブルは頼り無くぐらついて思考をまとめる邪魔をしてくる。志望動機。医師を目指す、志望動機……。板張りの暗い床がギシギシと鳴いている。そんな湿り気のある空間だった。


築数十年の家屋の不便さに溜息を吐きながらも、左利きの男は文字を書き続けていた。


男が座る隣の椅子には、また別の参考書が積み上がっている。

テーブル上に置かれた面接対策の参考書とは違い、ソフトカバーは手垢に塗れていたり、端から破れていたり、日に焼けて白が黄土色に変色していたりしている。参考書は湿気を吸って歪に膨らんでいて、積み重ねたそれらは首の皮一枚のところでバランスを保って、さらにガタつく椅子の上でも整列していた。男の求知心と努力が積み重なっているようなものだ。

男はチラ、と隣の椅子を見やる。
そして眉を下げて困ったように口角を上げ、また軽く溜息を吐いた。

「理Ⅲは面接がなあ……本当はお前らばっかり勉強してたいけど。僕、話すの上手くないから……」

指先で愛しむように撫でたのは、物理の難関校用参考書。
その下には化学の、さらにその下には数学の使い込まれた参考書が。

名残を惜しむように愛用の参考書を見つめたあと、男は冷蔵庫にマグネットで貼り付けられた皺だらけのプリントに目をやる。第一志望、東京大学理科一類。黒いボールペンで書かれた文字には雑な二重線が引かれて、その下に「東京大学 理科Ⅲ類」と油性のマジックペンで目立つように訂正されている。男の決意が滲み出ている文字だった。男は少しだけなにかを考えたあと、ずっと猫背気味だった背筋をしゃんと伸ばして、真っ直ぐ前を向いて。書き連ねたノートの内容をチラリと横目で見てから、誰もいないキッチンに向かって違和感のあるくらい爽やかな声で話し始める。



「僕は当初、エンジニアを目指していました。しかし、妹が精神の病に侵されてしまい、彼女のような人々を助けたいと思うようになり、精神科医を目指し——」

 虚空に向かって話す男の瞳は真っ直ぐで力強くて、今にも泣き出しそうなほどに弱かった。







「子分、なにボーっとしてるんだゾ! 早く走るんだゾ!」
「いきなり無動無言になるのやめてもらえます?」

頭の中に響く男の声が遠くなり、グリムとイデアの声が次第にはっきりと聞こえてくる。

数分にわたる白昼夢を見ていた気がするが、過ぎ去った時間は一瞬だったらしい。グリムとイデアは焦って苛々している様子。視界には潰れた雨粒がいっぱいに広がっていて、まだ頭がうまく働かないでいた。

魔法を使える彼らの皮膚は濡れてはいないが、監督生の顔と眼鏡は雨でずぶ濡れ。グリムは監督生のジャケットを引っ張りながらギャアギャアと喚いていて、イデアはポケットに手を突っ込んで、少し離れた場所から不審がるような目で監督生を見ていた。


皮膚を冷やす感覚にやっと我に帰った監督生は、グリムに引っ張られるがままに鏡舎に向かって走り出す。脚がもつれて転びそうになるも、懸命な相棒の姿を見ているうちに、水浸しになった靴裏がやっとツイステッドワンダーランドの地面を掴んだ気がした。

監督生は今、ツイステッドワンダーランドに、ナイトレイブンカレッジに、朧げながらも確かに存在している。


[newpage]

監督生は、乾燥した空気をゆったりと胸に吸い込む。
モノが多い部屋だと、思うことにも慣れてしまった。


足の踏み場をなくしている本や書類、段ボールなどを部屋の隅に追いやり、黒いコードが何本も伸びるテーブルタップの位置を調整して、監督生はいつも通りベッド前に居場所を作っていた。そんなルーチンにもいつしか慣れてしまった。手には、もちろん一冊の本が。いつまで経っても梅雨の匂いがするマットレスに背を預けていると、丁度、本を読みやすい体勢になれてここは都合が良いのだ。もっと欲を言えるならば、居心地の良さそうなイデアの椅子に座らせて欲しいのだが、仮にも招かれている身としてそんな真似は出来なかった。

チラ、と左を向く。
現時点で、その椅子には部屋の主が着席していた。

右手元で本をパラパラと捲りながら、同時に左手で熱心にキーボードを叩いている。カタカタカタカタ……青色をした空中投影ディスプレイの表示内容が、一瞬のうちに書き変わっていく。目がチカチカした。思考速度と処理速度、どちらも速い人だなとつくづく思う。監督生が座る位置から見えることはなかったが、イデアの瞳は右へ左へと情報を求めて機敏に動き回っていることだろう。現に、その髪はうねうねと思考をするように蠢き続けている。

「これだと処理速度が……でも信頼性を担保するには……」

ブツブツと呟きながら手を動かす彼は、学生ながらにきっと生粋のエンジニアだった。

それこそ白昼夢の中で見た男が、心の底では諦めきれていないはずの将来像だった。誰だかわからない、誰かだったが。



いつまでも夢のことを考えていても仕方が無い。
夢は、夢だ。監督生は左に傾けていた視線を、今度は真っ直ぐ前に向ける。

「にゃっはー! 運ゲーとなるとオルトに無双はさせないんだゾ」

グリムとオルトはいつも通り、というべきか。本日もゲームに勤しんでいた。

コントローラを握った手を天に向かって突き上げるグリムは、悲しくも運ゲー「では」オルトに対して優勢にあるらしい。大きなモニターに映るグリムの分身と思しきプレイヤーが、彼と全くと言っていいほど同じポーズで勝利を決めている。モノの溢れた部屋の中、とびきりの嬉しさに飛び跳ねるグリムの姿。

監督生は、浮かれた彼がシュラウド兄弟にとっての大切なモノを壊してしまいそうでヒヤリとした。部屋はモノで溢れている。

「む、僕だってその気になれば筐体のプログラムを解析して……」

一方のオルトは、コントローラを両手で握りしめて、モニターを睨んだまま動かない。

その手元からはミシミシ、と電子機器を今にも破壊する音が聞こえてきそうだ。いつもは優しそうなカーブを描く眉は吊り上がって、大きな向日葵のような瞳は納得いかないとでも言うように細められている。プリプリと怒る悔しそうな表情は年相応(オルトにとって年齢とは、という疑問は置いておく)に可愛らしくて、勝ち誇るグリムに対する嫌に現実的な台詞とのギャップが奇妙で面白かった。

存在しない(はずの)弟ふたりを眺めているようで、いつの間にかあったかくて幸せな気持ちになっていた監督生。思わず頬を緩めていると、「もー! グリムさん、僕は怒ったからね!」とオルトが小さな癇癪を起こしてコントローラを放り投げる。宙を舞って、ガシャと落下音が響く。側に積まれていた本の山がバラバラと崩れていく音が続く。聞こえているはずなのに、兄であるイデアは机に齧り付いたまま離れない。いや、まさかとは思うが聞こえていないのか。さすがにまずい。喧嘩だ、と監督生は読んでいた本を閉じて、マットレスに手をついて立ち上がろうと——



「電子演算モードに移行します」



結局、杞憂に過ぎなかったようである。

オルトは手のひらを優しく黒い筐体に当てて、合成音声を発したあと、静かに目を閉じる。ブゥゥゥンとファンを急激に唸らせ始めたかと思うと、ぴくりとも動かなくなってしまった。「電子演算モード」とやらに移行して、本当にゲームの解析を始めてしまったと思われる。

てっきりキャットファイトが始まると思い込んでいた監督生とグリムは、それぞれ中途半端な姿勢で目を丸くして固まってしまっていた。パチパチと何度も瞬きを繰り返すが、オルトは完全に静止したままで見える景色は変わらない。グリムもいつかに見たファイティングポーズをとったまま、訝しげに首を傾げていた。ぶわりと逆立って身体を大きく見せていた体毛が、拍子抜けしたように毛並みに沿って倒れていく様子は、まさに猫た〜ん(出典:イデア)だった。

「っあ〜……、オルト。もしかして解析始めちゃったの? もうそろそろ時間なんだけどな」

しん……と静まり返ってしまった部屋の中、ぼりぼりと頭を掻きながら振り返ったイデアの言葉。

彼は椅子の背に右手を回し、顎を高く上げて、首を半分ひっくり返した奇妙奇天烈な格好でオルトを観察している。ちなみにこれは、監督生がいた世界で「シャ■ト角度」と呼ばれている。青くて長い髪が滝のように流れて床に着地する。重力に従って長めの前髪も垂れ下がり、作りの良い顔がよく見えて、それはまるで夏の川床から見えた清流のようだった。蛍光灯という太陽を反射して、青い髪がさらさらと流れて行く。イデア自身の言葉や態度はかっ怠そうなだけで、涼しさや清らかさなど一欠片も存在しないのだが。


しかし「時間」とは。


まだ午前1時半である。もう午前1時半とも言えるだろうが、イデアの体内時計はとっくにぶっ壊れていて朝方、酷いときには一周回って昼前に寝るような男であることを監督生は知っていた。明日は土曜日で講義も無いことだし、仮に明日が平日だったとしても、気を遣って早く帰るよう促してくれる男でもないことも確かだった。

サラサラ流れる天の川のような髪に捕らえられたまま、監督生は素直に疑問を口にする。

「先輩、時間って?」
「あー……」

イデアは相変わらず面倒臭そうに首を起こし、横目で監督生をチラと見て、すぐに視線を逸らして作業に戻ってしまった。監督生の質問には適当な間投詞ではぐらかし、カタカタカタ……、とキーボードを打って調べ物を始めた様子。

わざと視線を逸らされる意味がわからなかった監督生は、椅子に座るイデアの作業風景を覗き込めるように、中途半端になっていた姿勢から立ち上がった。しかし青い空中投影モニターに白い文字というものは、コントラストが弱くて監督生の視力では内容が読み取れない。もっと近づいて覗き込んでも良かったのだが、イデアの髪がそれを阻止するようにぶわりと広がっていて気が引けてしまう。毛先は薄紅色に染まってチリチリ、と線香花火のような音を立てていて、苛々しているようにも思えてしまったことも要因のひとつ。

「…………」

沈黙が痛い。
カタカタ、とキーボードを打つ音だけ。
ブゥゥゥゥン、と少し遠くでファンが唸る音だけ。

このまま大人しく引き下がり、我がオンボロ寮に帰るしかないのかと監督生が諦めかけたその瞬間だった。


「電子演算モードを終了します」


小さな小さな電子の海を駆けて、オルトが先に帰投したようだ。

ふと彼の方を見やると、嬉しそうに、誇らしげに、グリムの周囲を飛び回ってにこにこと挑発的な笑顔を振りまいていた。グリムはというと、そんなオルトを右へ左へ悔しそうに睨みつけて、今にも壊さんばかりにコントローラを握り締めている。この短時間で本当にゲームソフトを解析し、もしかしたら都合の良いように改竄までしてしまったのかもしれない。ならば、それはもう、グリムにとってどうこうしようが無いことだ。

オルトは床に落ちていたコントローラを拾って、唸るグリムの隣に着地した。

「僕の本気を見せてあげるよ! グリムさ、」
「オルト」

珍しく冷たい声で、弟の言葉を遮ったのはイデア。いつもは愛しむような声で話しかけているというのに、よほど余裕が無いのだろうか。

再びピリピリとした緊張感が漂い始めたことを察知して、監督生はこくりと息を呑む。赤い表紙をした本を手汗ごと握りしめて、イデアの手元付近とオルトの肩口付近の間を彷徨うように視線を泳がせた。ふたりの感情をこれ以上読み取ってはいけない気がして、それでもこのまま黙って去る勇気もなくて。目を合わせたら最後、叱られてしまうような。怒ると怖い幼稚園の先生の前に、ひとり立っているような心地がしていた。流石のグリムも空気を読んで黙っている。

「考えもなくセカンダリレベルに潜るのはやめて。一時的に無防備になるオルトのメンタルモデルを、兄ちゃんはフォローしなきゃいけないんだから。それに今日は——」

飛び交う専門用語に思考を右往左往させていると、イデアは次第に言い澱んで口を閉ざした。

まだイデアの顔を見るのは怖かったから、監督生はそっとオルトの表情を覗いてみる。彼は悲しそうに眉を下げて、コントローラを持つ今は弱々しい腕をだらりと下げて、わかりやすく項垂れていた。その姿から「ごめんなさい」と絞り出すような声が聞こえた気がするが、気のせいだったろうか。いいや、少なくともオルトは、その小さな身体をいっぱいに使って謝罪の言葉を伝えているに違いなかった。やっぱり弟というものは、怒る兄が怖いようだ。


 
しかし、オルトは人一倍素直な性格をしていた。
その分だけ、立ち直るのも早いものだ。

暗い色に沈んでいたイエローアンバーは、すぐにきゅるきゅると音を立てるように輝き出して、顔を上げてイデアの淀んだ瞳を見つめる。期待感を滲ませた瞳に見つめられて戸惑ったのか、イデアの髪の薄紅色はボッと弾けて範囲を広げた。やっぱり兄というものは、嬉しそうな弟に弱いようだ。

「本日の月没時間、午前二時五分。薄明開始時間、午前四時二十四分。確かにそろそろ部屋を出ないと、間に合わなくなるね、兄さん」

まるで弦楽器を弾くような繊細で可憐な声で、オルトはすっかりにこにこ笑いながらイデアに話しかけた。全てを手に取り受け入れるような、既に寛大さや壮大さを内包している微笑みだった。反省時間はとっくに終わってしまったようだ。

一方。月没時間、薄明開始時間……、監督生はその単語が意味するところを考え込んでいた。残念なことに、天文学には詳しくない。顎に右手を添えて、左手で赤い表紙をぎゅっと掴んだまま、眉間に皺を寄せて目を細める。月の出入り、日の出入りを指すあまり聞き慣れない言葉だ。そして、月没時間と薄明開始時間の間にしか出来ない行為。オルトは遠足に行く前の男児のように、細くなった監督生の視界の中でにこにこきらきら笑っている。笑顔の印象がころころと変幻自在な不思議な子だな、と頭の片隅で考えていた。

遠足。月、太陽。天文学。
監督生は、閃いてしまった。

「あ! もしかして天体観、」
「ああもうそうだよ悪い? 僕みたいなのがそんなロマンチックなことをするなんてお笑い種にしかならないとでも思ったんだろ。五月蝿いなわかってるんだよそんな目で僕を見るな。だから言いたくなかったんだよ……」

導き出した答えを最後まで言い終わる前に、イデアがブツブツと胸の内を絞り出すように声を重ねてきた。

つらつらと淀みなく長口舌を振るうイデアを監督生は初めて見たし、その原動力となっている感情の仄暗さみたいなものに圧倒されて、思わず途中で口を閉ざしてしまった。イデアの捲し立てる自虐的な思いなど、監督生は抱いていないというのに。否定の言葉さえ、否定されてしまうような気がした。


イデアは髪をくしゃくしゃに掻き乱しながら、呻き、机上に突っ伏した。大きな身体は小刻みに震えていて、足元は不規則に地団駄を踏んでいて、なんだかいつもより「先輩」が小さく弱い子供に見えた。恥ずかしいのだろうか、寂しいのだろうか、いや。毛先は薄紅色から紅に変わっていて、羞恥や悲哀というよりも苛立ちや怒りを表現しているように見える。

監督生の爪先同士を結ぶ白線を、たった今イデアと監督生が描いてしまった。壁ではなく、恐らくだが、ただの一次元の直線。実体のない白線。この白線を踏み越えてまでシュラウド兄弟と関わり続けるべきかどうか、監督生は足元をじっと見つめて思い悩んだ。

あくまで対照的で、それでも似すぎている夏の兄弟。「監督生」という存在に答えを与えてくれるのではないか、と一度は願って、祈ってしまった兄弟。喉元になにかがつっかえてしまって、言葉は出てこない。助けを求めるようにグリムに視線を投げれば、彼もきっと監督生と同じ表情をしていた。

「あの、先輩」

足元にある見えない白線を意識しながら、監督生は震える声でイデアに語りかける。部屋から叩き出されても構わない覚悟で、二度と会えなくなるのも覚悟のうちで、語りかけることにした。イデアは顔を上げない。グリムの全身の毛は盛大に逆立って、尻尾は自信なさげに床に項垂れていた。まだ怖いのだろうか、グリムは……私は、それでも。

「確かに『天体観測』という言葉の響きはロマンチックかもしれません。でもあの、私の思考が飛躍しているだけかもしれませんが……宇宙に、なにか科学に即した可能性を感じているのではないですか? ほら、これ」

監督生はイデアの部屋に来るとき、ほぼ毎回のように読ませてもらっている赤い表紙の本を差し出す。「3FD 数理物理学会 春季大会」。イデアの手垢と、監督生の手垢も既に染み付いているその学会誌。初めて目にしたときからずっと、何故か気にかかって、繰り返し読んできた学会誌。白線を踏み越えてやろうと思った。

顔面を突っ伏している机上からわずかに首を横に傾げて、イデアはやっと横目でその本をじっと見つめてくれた。まだその瞳には、鈍い刃物が放つような暗い光が宿っている。監督生は慌てて頁を捲り、黄色い付箋が貼られている投稿論文を探す。「通行可能なワームホール」の頁。大袈裟に両手を突っ張ってイデアの目の前で広げてみせて、監督生は赤い表紙側を祈るように目に焼き付けていた。腕に力が入る。広げた頁は他と比べてもずっと黄色く変色して、表面はシワシワになっている。

イデアは澱んでいた瞳を、少しの期待感だろうか。降り注ぐ蛍光灯の光を吸い込んで、一瞬だけ、かすかにゆらゆらきらきらと揺らした。敵意がふと弛んだのを感じて、監督生は一気に畳み掛けていく。

「『通行可能なワームホール』。先輩は、果てしない宇宙でなにかを探しているんですか? 私も興味があります、その天体観測。馬鹿馬鹿しいなんて思っていません」


今言えることは、言い切った。

監督生はプルプルと震え出した両腕を差し出したまま、下を向いて目を閉じる。はあ……、と自然に漏れ出した呼吸は羞恥か、焦燥な安堵か。例えるならば、素人の漫画家が大御所の仕事場にいきなり押し掛けて、「私の作品を、私の考えを見てください!」とでも宣うのと変わらない行為をしてしまって、目も当てられない状況にあるのはわかっていた。いちばんに馬鹿馬鹿しいのは、監督生なのかもしれない。イデアも、オルトもグリムも、なにも言葉を発さないのがなによりの証拠だ。監督生はイデアのような才能も無ければ、シュラウド兄弟の祈りや願いもひとつだって知らないというのに。

後悔は波のように、永遠のように襲ってくる。

遂には重力に耐えきれなくなった両腕をがくりと落とし、広げていた学会誌を閉じた。積まれた本の山の一番上にそれを大切に置いて、ベッド前にぽっかりと開いた空間を見る。いつこの部屋を訪ねたって、そこはモノで溢れ返っていた。片付けても片付けても、次に来たときには空間を埋めるようにモノが置かれていた。そこに居場所を作りたかったのは、監督生だけだったのだと悟る。


グリムに視線を送る。
彼はぴょん、とゲームの筐体を飛び越えて、監督生の足元にやってくる。ふたりきりのオンボロ寮生は、もうふたりぼっちの居場所に帰るしかないのだ。壁のタッチパネルに触れれば、部屋の扉が開くことを監督生はもう知っている。迷うことなく、手を伸ばした。




「ま、待って」

蚊の鳴く声の方が、まだ大きかったと思う。

イデアはそれくらいにか細い声で、親に駄々を捏ねて置き去りにされそうになった子供のような弱々しい声で、監督生とグリムを引き止めにかかった。椅子から立ち上がる音は、聞こえない。青い髪が海のように空のように靡いて、振り返る音だけが聞こえた。

監督生の人差し指は既に、タッチパネルに触れていた。目の前には、暗くて冷たいイグニハイド寮の廊下が伸びている。イデアの部屋の床と、廊下の床は色も素材も異なっている。その繋ぎ目は、真っ直ぐ。今度は監督生自身が、シュラウド兄弟とオンボロ寮生を隔てる白線を引いてしまったようだ。越えるも掻き消すも、監督生とグリム次第。


とんだ自作自演だ。
監督生は張り詰めた空気の中、似つかわしくない戯けた笑みを溢しそうになる。
それくらいに、決まりきった答えだった。

「……なんでしょうか。イデア先輩?」

タッチパネルにもう一度触れると、バシュッと音がして廊下が消える。
ザッザッ、と足で白線を掻き消すとそれは見えなくなった。

グリムと目を合わせて、一緒に振り返る。我ながら、意地悪な返しだと思った。視線の先には、目を細めて柔らかい笑みを湛えたオルトがふわふわと浮かんでいて。もともとの困り眉をさらに困らせて、唇を噛んで、今にも泣き出しそうな顔をしたイデアが椅子の背に隠れるように振り返っていた。


「きっ、君がそんなに理解ある人だと思わ、なくて」
「はい」

赤子をあやすように相槌を打つ。

吃りながら話し始めたイデアは椅子の背を両手で強く握り締めていて、もともと白い指先がさらに真っ白く変色しているほどだった。あかぎれやささくれ、荒れた肌が、よく目立つ。視線は決して合わせてくれず、浮遊するオルトの足元ばかりを縋るように見つめている。長くて青い髪は椅子に纏わりつくように縮こまっていて、毛先の紅は薄紅に変わって、その領土を拡大していた。本当に、髪は口よりモノを言うらしい。イデアの視線の先にいるオルトは、「兄さん、頑張って!」とでも言うようにガッツポーズをとっていた。


イデアはポツリポツリ、と話を続ける。

「気持ち悪いロマンチストだって言われると、思った。まだ机上の空論みたいなことを持ち出して、夢を見てるだけだって、笑われると思った。『魔法』至上主義のこの世界で、この学園で、科学の話をしてもまともに取り合ってくれる人の方が少ないし……だから、その……」
「はい?」

イデアの言葉尻は次第に小さくなっていって、夏の陽炎のように消えてしまって。まっさらなおでこがゴツンと椅子の背にぶつかったら、大きな身体が二度と動かなくなってしまった。首を傾げた監督生は、雑多な部屋の中に開拓した己のためのスペースへと歩みを進める。覗き込んだイデアの身体。かろうじて呼吸を繰り返すように上下するだけで、やっぱり再起動する気配は無い。自分でおっ始めた喧嘩は自分で始末をつけて欲しいのだが……、と監督生が片頬に空気を入れて膨らませていると。


ふわり、

「わ、なにオルト、ちょっと」

感情を吐露する兄を少し遠くから見守っていたオルトが飛んできて、椅子をくるりと華麗に反転させる。簡単によろめくイデアの細い体躯。絵に描いたように驚いた顔。遠心力に振り回されて風に靡くサファイアブルーの髪は、流星群の如く。一緒になって宙をくるりと一回転してみせたオルトは、きらきらと瞳から星屑を溢して悪戯が成功した子供のように笑っている。

その機械の身体はふわり、とイデアの目の前に。

「ちゃんと監督生さんとグリムさんの目を見て、話さなきゃダメだよ」

未だ怯えて椅子の背にしがみついて離れない瞳を捉えて、イデアの両頬に小さな両手を添えてそっと包み込む。イデアの目尻からは今にも涙が滲み出しそうだ。監督生に背を向けているからわからなかったが、オルトの目は熱を帯びて輝いているのだろう。イエローアンバーの星と星がぶつかって、弾けて、消える。サファイアブルーの炎と炎が混ざり合って、イデアの薄紅色が澄んだサファイアブルーに戻っていく。


兄さん大丈夫だよ、と繰り返し言い聞かせているみたいだった。

まるで兄弟関係が逆転しているように思えて、おかしくなって、ふたりが愛おしくなって、遂に監督生はクツクツと静かに笑い出してしまう。肩が揺れてしまう。まだ話にはケリがついていないのだが、腹の底から湧き出てくる感情はどうこうしようもなくて……

「ふっ、ふ……」
「にゃっはははははは!!」

部屋に思い切り響いたのは、人を食ったようなグリムの笑い声だった。
図らずも同じタイミングで笑い出したふたりの声は、グリムの方がひとまわりもふたまわりも大きかった。ヒーヒー言いながら狭い床を転げ回っているグリムが目に入って、監督生もつい腹を抱えて笑いの壺に一層はまっていく。中途半端に我慢をしようとした結果、「ふぐ、ぐふ、ふふふふふふ」と気持ちの悪い笑みが漏れてしまう。監督生の笑い声を聞いたグリムが、呼応するようにまた大きく笑う。申し訳ないという気持ちは一応あるのだけれど、と監督生は心の中では釈明をしていたが、止まらないものは止まらないのだ。


シュラウド兄弟は、まんまる月のような目でそんなふたりを見ていた。無理もない。


暴れるグリムの所為で積まれていた本がバサバサと舞って、イデアの服や下着までも宙を舞い始める。床を這う黒いコードが、小さな手足に絡みつく。最後に心臓みたいな装置(と、監督生は呼んでいる)の台座に頭をぶつけて、「ぎゃっ!!」と悲鳴を上げたグリムはようやく静かになった。気絶した。備え付けられた制御盤がガタガタと揺れて、空中投影されていたディスプレイが不規則な点滅を繰り返したあとに消えた。



そして監督生の笑い声もヒュッ、と消えた。

手足を投げ出してうずくまるグリムと、光の灯っていない制御盤を交互に見て、血の気が引いていく監督生の顔面。タフなグリムはどうせすぐに目を覚ますだろうが。心臓みたいな装置はオルトにとって、兄弟にとって大切なモノであるはずだ。オルトのメンテナンスができなくなる? 給電ができなくなる? もしかすると装置はメインフレームみたいな役割を果たしていて、「オルト」の全機能は停止してしまう? モノ、モノ、とにかくモノを掻き分けて歩みを進めながら、監督生はまとまらない思考を巡らせていた。

制御盤の前に立って、揺れる瞳でそれを見る。やっぱり光は灯っていない。ごくりと生温い唾を飲み込んで、意を決した監督生は兄弟を振り返る。グリムが兄弟にとって大切なモノを壊してしまっていたら、自分たちが取り返しのつかないことをしてしまっていたら。オルトが玩具のように倒れていて、イデアが烈火の如く怒っていたらどうすればいいと言うのだろう。脂汗が目に入って滲んだ世界は慣性の法則に従って、スローモーションでターンを決めて、監督生の不安をよそにシュラウド兄弟を映してしまった。


サファイアブルーが灯る。ぶくぶくと光の飛沫が飛び交う視界の中で、兄弟は生き生きとした瞳に意地悪な笑みを浮かべていた。オルトは変わらずイデアの隣に寄り添うように、ふわふわと浮いている。
ああまた、監督生の心配は杞憂に終わってくれたようだ。


「グリム氏、気絶しちゃったみたいですな」

イデアは白いギザ歯を見せて目を細め、わざとらしく肩をすくめている。

「バイタルに異常は見られないから、きっと放っておいても目を覚ますよ」

オルトは上品に手を口元に当てて、親切なのか親切じゃないのかわからない言葉を吐く。


椅子からゆったりと立ち上がる大きな身体は、すっかり平静を取り戻しているようだ。瞬きを多めに繰り返しながら、監督生はその行方を追う。大きな歩幅を刻む長い脚は、進路上にある障害物を悠々と跨いでいく。小さな紙屑くらいなら行儀悪く足先でひょい、と蹴って退ける。なんとなしに空気を読んだ監督生が制御盤の前から退くと、イデアは物理キーボードをぽちぽちぽち……と手慣れた様子で弄り始めた。

「振動が原因かな……」

タンッ、とイデアが最後のキーを叩くと、もう見慣れた青い空中投影ディスプレイが一瞬のうちに現れる。パッと瞼の裏が照らされて、心臓みたいな装置からは青い光が降りてきた。その辺に転がっているグリムは、まだ白目を剥いて気絶したままだというのに。その手際の良さに監督生が思わず「ほお……」と感嘆詞を漏らすと、特徴的な笑い声が頭上から降ってきた。

それはもう聞き慣れた声のはずなのに、初めて監督生の心に届けられた気がしてならなくて、我が耳を疑った彼女はイデアを見上げる。

「あの程度の衝撃で壊れるようなもの、僕がオルトのために作ると思うかい?」
「お、思わないです」

返事代わりにニヤリと笑った表情は得意げで、どこか小馬鹿にしたように監督生を見下ろしていて、もし兄がいたらこんな意地悪な人なんだろうな、と根拠もないことながら頭の隅で考えていた。実際、イデアにもオルトという「弟」がいることだし、想像は容易い。しかし、顔の造りはきっと別人なんだろうなと思う。鏡に映る監督生の顔とイデアの顔は似ても似つかないし、彼の顔は現実離れして整い過ぎている。この顔が兄だと言われたって、監督生は信じやしないだろう。



……しかし、兄。

監督生は自身の家族構成すら、覚えていなかった。「兄がいたら」なんて今考えることはただの空想に過ぎない、無駄なことだった。父や母がいたかどうかも思い出せないし、どこに住んでいたかも、友達と呼べる人間がいたかどうかも思い出せない。覚えているのは、これまで学んできたこと、年齢が十六で、性別が女子であることくらいだ。

シュラウド兄弟が「監督生」という存在に答えを与えてくれるのではないか、と祈って、願ってみたはいいが、自己像があまりにも曖昧過ぎることに気づいてしまった。正しく答え合わせをする自信が無かった。何気なく、広げた右手のひらを見つめる。親指の付け根を囲うようにカーブした生命線は途切れ途切れに刻まれていて、監督生は自分が生きていると言えるのかどうか、これは本当に自分の身体なのかどうか、わからなくなった。身体と心が分離しそうな感覚がして、気分が悪くなった。



「なに突っ立ってんの。天体観測、興味あるんでしょ。早く行くよ」

ポケットに手を突っ込んだ猫背のイデアは、既に扉の前に立っていた。

「監督生さんとグリムさん、一緒に夜空を見上げるの楽しみだな♪」

小さな木箱を乗せた台車のハンドルを掴んで、オルトも兄と並んでいる。



わざと空気を飲み込んで、(汚いとは思ったが)小さくゲップを吐き出すと気持ちの悪さも少し落ち着いた。「……品性を疑うよ」と眉間に皺を寄せたイデアが呟くのが聞こえたが、気にしたら負けだと自分に言い聞かせる。



気絶したままのグリムを引っ掴んで、夜空に向かう兄弟を追って監督生は走り出した。
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