one of the our Summers【3】
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モノが多い部屋だな、と思った。
監督生は、辺りをきょろきょろと迷子の子供のように見渡している。
六角形の洒落た棚が備え付けられた机には、色とりどりの背表紙を持つ本が所狭しと詰め込まれていた。
まず目に入ったのは、魔導エネルギー工学基礎という文字列。何事にも基礎は大切だ。そして、魔導エネルギー工学とその応用。応用こそ、工学の真髄である。役を果たすところである。
この二冊の発行年数は相当古いもののようで、背表紙は手垢で茶色く汚れ、擦り切れ、掠れ、ところどころが破れてさえいる。イデア(オルトだろうか? いや、きっとイデアだろう)(……何故?)の努力と愛着と執念の片鱗みたいなものを感じてしまう。
そして理論物理学、宇宙物理学、航空物理学、量子物理学、古典物理学、数理物理学、計算物理学……とにかく、物理学にいたく興味があるようだ。
玄人臭すぎて、ニッチすぎて、これらを系統的・専門的に学べる大学となると、相当進路が狭まり、険しい道のりになるだろうと監督生は勝手に心配をしてしまった。想像をしてしまった。なぜならば、監督生自身もこれらの学問に興味があり、将来の進路としたいと朧げながらに考えているからだった。この世界における大学の立ち位置というものは、よく知らないものの。イデアが進学を考えているかどうかも、よく知らないものの。
あとは化学、生物学、生命倫理学、天文学、数学、哲学、歴史……と科学に関する本を中心に、雑多に本棚へ詰め込まれていた。
どれもこれも深く読み込まれているようで、ハードカバーの背表紙はたわんだり、湿気を吸って膨らんでいたり、ソフトカバーは破れていたり無かったりするものもあった。背表紙の箔押しが消えてしまって、なにに関する本なのかわからない本もある。少し、暗くて黒くて、怖くなった。きっと幼い頃から、繰り返し頭に叩き込んできたのだろう。膨大な知識を。それくらい年季の入っている重たげな空気感が漂っていた。
六角形の本棚にある学問書の数々は、おおよそが縦に並んでいるが、上部のわずかな隙間に横にして差し込まれている本も多い。加えて部屋の床にも、小難しそうな論文誌だとか実用書だとかの山がいくつも積み上がっている。
きっとイデアには、知りたいことが、知らなければならないことが、ひとりの高校生にしては多すぎるのだろうと思う。重すぎるのだろうと思う。弟であるオルトを「作った」と言うくらいならば。唯一の救いといえば、世俗的な漫画雑誌もいくつか床に転がっていることくらいだろうか。監督生にとって面白くないことに、いわゆる「男性向け雑誌」は見つからなかった。
そしてデスクの上には、この時代にしては珍しいデスクトップ型のパソコンが置かれていて、静かな部屋の中でファンをうんうん唸らせて考え事をしていた。
そのパソコンは、青い空中投影ディスプレイを幾重にも展開しているようだ。無機質なプログラミング言語が黒く綴られているディスプレイ。仮想現実世界にプレイヤーがひとりぼっちで立ち尽くしているディスプレイ。難しそうな単語が検索窓に入力されたまま、放置されているディスプレイ。マルチタスクに忙しそうだが、どこか寂しげな一台のマシンだ。
机に備え付けられたラックには、他にもサーバーが二台ほど押し込まれていた。用途は不明。彼らもなにかを考え、狭い空間の中で懸命に排熱を続けている。
そこに一瞥をくれたあと、監督生はぶるぶると身震いをした。夏の太陽に照らされて、腕まくりをしていたままだったワイシャツをいそいそと元に戻す。そもそも腕まくりをすること自体、あまり好きではないのだ。特に明確な理由は、無いと、思う。アイロンをかけたばかりだったワイシャツの上腕部には、すでに深い皺が散らかっていた。腕にはプツプツと毛穴が浮いていて、部屋の冷房は効きすぎているくらいだった。
「オルト、どう?」
「魔力反応はありません」
「これは?」
「魔力反応を検知しました」
部屋の主とその弟が、メンテナンスと微調整を続ける声が聞こえる。
監督生はとっ散らかった机周辺を眺めていた視線を、夏の匂いのした兄弟へと滑らせた。
雑然とした部屋の中、一番に存在感を放っている大きな装置。
天井に直に取り付けられている灰色の機械部分には迷路のように配管が錯綜し、何本もの配線が無秩序にだらりと垂れ下がっている。金属部分はピカピカに磨かれていて、歪に部屋の風景を反射していた。その中には、表情が塗り潰された監督生の顔も佇んでいる。床にも台座のようなものが設置されており、黒いコードが血管のように這い出してどこかに繋がれていた。
妙に生々しいその装置は、まるで人間の心臓を模しているかのようだ。
突貫工事で寮の部屋に括り付けられたように見えるその命は、人工的な強くて青い光を垂直下に放っていた。それは、舞台照明のように。少し離れた場所にいても、眩しいくらいの光だった。
その光に包まれるようにして、主役は……オルトは浮かんでいる。
ピ、ピ、ピ、と規則的な電子音。
装置の隣に備え付けられた制御盤が浮かび上がらせている空中投影ディスプレイに対して、ブラインドでタッチを続けながら、イデアはオルトからのアウトプットを何度も確認している。何度も、何度も、繰り返し。その背中は、不具合はひとつも見逃さないと無言で謳っていた。
「魔力反応を検知しました」
「魔力反応はありません」
夏空の下では太陽に咲く向日葵のようだったオルトのイエローアンバーは、濃い霧がかかったように暗く沈んでいて、その口が紡ぐ音は合成音声そのもの。先ほどまで快活に言葉を交わしていたオルトと同じ「オルト」だとは思えなくて、怖くなった監督生は目を逸らした。
幸いイデアの部屋には、観察すべき対象が他にもたくさんある。
硬いベッドのマットレスの側面に背を預けて、膝を抱えて、監督生は周囲を見渡す。ベッドからはあまりいい匂いはしなかった。お日様の匂いではなく、どちらかといえば雨の匂い。そういえば、この世界に梅雨というものは存在するのだろうか。
丸眼鏡のレンズに青い光が反射して、眩しくてなにも見えなかったから首の角度を変えてみる。もしかすると、もう見たくなかったのかもしれない。
部屋の床中を這う黒いコードは、埃に塗れたタコ足配線にぶっ刺されている。危険だと、監督生は目を細める。年中この室温に保たれているならば問題ないのかもしれないが、可能性は限りなくゼロに近いのかもしれないが、ふとしたきっかけで発火しかねない。シュラウド兄弟の髪は冷たい陽炎のように燃えているし。オルトのための装置も、複数台のサーバも負荷が高そうだし。
心配になった監督生がふっと息を吹きかけると、
「ゲホ、ゲホッ」
表面の埃だけが雪のようにパッと舞って広がった。
灰色の雪だ。
ねっとりとこびりついた黒い埃だけが、テーブルタップの表面に残っている。喉の奥がガサガサ痒くなって、ゲホゲホゲホと乾いた咳が出てしまった。空気は動き続ける空調の所為で粉っぽく乾燥していて、換気の類はどうなっているのか気になった監督生は、黒い髪を揺らして後ろを振り返る。
ブラインド。
部屋に唯一存在する窓は、外の世界は、灰色のブラインドカーテンによって固く仕切られていた。眼鏡のレンズ越しに目を細めて見ると、ブラインドの一枚一枚にも厚い埃が積もっている。人差し指を翳してみる。五ミリくらい積もっていると思う。
どれだけの間、この部屋は外界から隔絶されてきたのだろうか。どれだけの間、あの兄弟は外の世界から隔絶されて、隔絶して、ふたりぼっちで生きてきたのだろうか。もしかすると、「ひとりぼっち」なのかもしれないが。あまり深く詮索するのも良くないだろう。あのふたりが現状を良しとしているならば、それで良いのだ。外野がとやかく言うことでは無い。
なんだか心が空っぽになった心地になって、空っぽに満たされて溢れ返ってしまった気がした監督生は、若干無理矢理に捻っていた首を元の位置に戻した。
座る監督生の左隣に積んである書籍の山。なんだか精神衛生に良くない気がして、監督生は意図的に求知心をブラインドカーテンからそれに移した。
一番上に積んであるもの。表紙の赤い、そこそこ厚い読み物だった。「3FD 数理物理学会 春季大会」と飾り気の無い文字が並ぶ。学問の名に心を奪われた監督生は、明朝体で書かれたその黒い文字を人差し指でツツとなぞってみた。文字には印刷の凹凸があって、実体を、存在を確かめられて、冷たい空気の中で心の温度が少しだけ上昇する。空っぽを少し埋められるような気がした。
「数理物理……」
監督生の唇が思わず紡いだのは、理論物理と哲学が交錯したような、高度な科学的・論理的思考を求められる難しい学問の名前。どうも突つきにくさがあって、流石の監督生も本格的に学んでみたことはまだ、無い。まだ高校生相当だというのに、イデアはこの学会に参加するくらいに詳しいのだろうか。そんな学問を追求する研究者たちが集う学会誌だというのだから、さぞかし難解で、非常に興味深いものだろう。ぼんやりとした憧れが心に浮かんでいた。
ぺらり、
赤い表紙をめくってみる。
「なに、それに興味あるの?」
「あ、え、っと……」
突然声を掛けられて、背骨がぴりりと伸びた。
制御盤の前に立ったままのイデアが、首だけでこちらを振り返っていた。
青い光の中に浮かんだオルトは、イエローアンバーの瞳に綺麗な光彩を取り戻してにこにこと太陽のように笑っている。青い光の……、造られた青空の下。鮮やかに黄色くて大きな向日葵が咲いている。あの夏空の下で出逢った彼と、この灰色に曇った部屋でやっと再会できたような気がして、監督生は冷房の風に背中を押されるような心地で冷めた溜息を吐いた。それでも手のひらにそっと触れた溜息は体温と同じくらいに温かくて、凝り固まっていた心がほぐれて、皮膚に浮いた毛穴が収縮していくのを感じていた。
「調整が終わったよ。監督生さんさえ良ければ、最終テストに付き合ってくれるかな?」
それは無機質な合成音声ではなく、伸びやかで影のない声。
「あ、うん。大丈夫、です」
オルトの大きく潤む瞳を見て、その次にイデアの冴えた月のような三白眼を見て、監督生は目を逸らしながら頷く。どこまでも人を突き放すような目だな、と思った。それでいて有無を言わせない目だな、とも思った。イデアは口を結んだまま、視線をゆっくりと制御盤に戻して、その細くて長い指でモニターをタッチしていく。ピ、ピ、ピ、ピ……、その電子音の間隔は、オルトの微調整を続けていた頃とまるで変わらなかった。
オルトはにこにこと笑っているだけで、イデアはなにも言わないままだ。
「あ、あの。私は、どうしたら……?」
ピ、ピピ。
規則的だった電子音が乱れる。
青い水面の真ん中でぷかぷかと揺らめいていた視線を、片手で雑に掬い上げられた気がした。監督生は無意識のうちに、掬われた方へと顔を向けてしまう。まず、夜色をした草臥れた生地。三角模様。白い首筋、歪に隆起した喉仏、水色のリップペンシルで薄く描いたような唇、五徹くらいしていそうな暗い目元。そして、黒を一滴溢して濁ったイエローアンバーが在った。曇り空のヴェールがかかった瞳は監督生の様子を窺ったあと、長い睫毛で長い瞬きをして、制御盤へと視線を戻す。目立つ喉仏が下がったのが見えた。
「オルトの前に立って。心を落ち着かせて。あとはなにもしなくていいから」
そんなこともわからないのか。
とでも言いたげに、イデアは溜息混じりに言葉を吐いた。
言ってくれないとわかりませんから。
監督生は言葉を飲み込む。乾燥した唇を噛むと、べろ、と白い皮が捲れた。イデアは決して直接的な表現を用いたわけでも、開けっ広げな態度を示したわけでもない。きっと自分の勝手な思い込みだと、監督生は捲れた唇の皮と一緒に唾を飲み込んだ。味はしなかった。
心臓を模した機械から放たれる青い光に近づくように、灰色をした靴下の裏でそろそろと歩みを進める。部屋の床面積は断じて広いものではない。おまけに背の高いイデアと、やたらと場所をとっている謎の機械と、床をうねうねと這うコードと積まれた本、エトセトラ、エトセトラ。その圧迫感に気圧されそうになりながら、まるで綱渡りをするように、慎重に選んだ場所に足先を置いていく。
冷房の風に髪が揺れる。耳が冷たい。イデアの髪は風を無視するように凪いでいた。
紺色をした床から顔を上げると、黄色い花弁も緩やかに凪いでいた。
「オ、オルトくん。お願いします?」
「精密スキャンを開始します」
向日葵に霧がかかると同時に、その白く洗練されたボディから小さな手のひらが伸びてくる。監督生が困惑の声を上げる前に、手のひらは優しく胸の真ん中に添えられた。
立派な年頃の少女だというのに、監督生の中に「恥ずかしい」「怖い」といった類の感情は沸き起こらなかった。黒くて小さな手のひら。摩訶不思議なことに、むしろ安らかで、平穏な心地になっていた。温度のない無機質な手のひらから伝わるのは、それこそが温もりのような気がした。ヴヴヴ、と機械音が響いている。曰く魔力をスキャンされている最中らしいが、被対象者は決まってこのような心理状態に至るものなのだろうか。魔力を持たない(はずの)監督生には、なにもわからなかった。それでも悪い気はしなかったから、自然と黙って動かないでいた。
いつの間にか、心は凪いでいた。
「——精密スキャンを終了します」
「あ……」
いとも呆気なく、離れていく手のひら。
先ほどの困惑の声は間に合わなかったというのに、名残を惜しむ声は喉から漏れてしまった。それは自分でも切なくなるような声で、恋に落ちた少女からの溜息のようで、今更恥ずかしくなって手で口元を覆う。けほ、けほ。はぐらかすように、わざと空咳をしてみる。
宙に浮かんでいる所為で監督生の顔よりも高くなっている位置から、もう聞き慣れてしまった合成された音声が降ってくる。
「魔力反応を検知しました」
次に左隣の高い位置から、ふうん、と感心するような声が落とされた。監督生がその声の主を見上げると、彼は左手を顎に添えて、唇を尖らせて深く考え込む仕草をしている。兄弟揃って美しい顔をしているな、と他に考えられることもなかった監督生は、ぼんやりと思考を青に浮かべていた。凪いだ思考をしていた。
兄は「ウーーーーン」と呻きながら、白くて透き通って亡霊みたいな肌を掻き毟りだしてしまった。綺麗な肌が傷ついていく様子を見ていたくなかった監督生は、青い光に包まれたままのオルトに視線を戻す。思考に耽ると感覚が鈍るヒトなのだろう。本物の天才とは、いつも決まってそういうモノだ。最後にちらと見えた頬には、赤い血が滲んでいた。
そして、振り返って見えたオルトの向日葵色をした瞳は晴れ渡り、青い人工光のもとできらきらと「生」を感じさせる宝石に様変わりをしていた。
「監督生さんの魂は、やっぱり魔力を帯びているよ。……でもね、」
「「でも?」」
食い気味に身体を乗り出す監督生とイデアを交互に見て、オルトは花が散るようにくすくすと笑った。
「監督生さん自身の魂が魔力を宿しているというよりは……、どこか外部から魔力を供給されているみたいなんだ。魂が魔力に包まれている、といった表現が正しいかな。これは監督生さんの身体に触れて、精密スキャンを実行したから初めてわかったことなんだけど」
目を細めて小難しいことを並べ立てるオルトの様子は、兄であるイデアによく似ているなと思った。外見の特徴こそ共通点が多いものの、夏空の下で監督生が感じた印象は真逆だったはずなのに。首を傾げて目を閉じて、ウンウン唸っているふたりは間違いなく血を分けた兄弟だった。誰がなんと言おうと。
ああ。ところで、監督生には魔法というものがよくわからない。
いくら授業を受けたところで、よくわからないままだ。
兄弟が悩んでいる理由がまるでわからない監督生は、不安げな表情でイデアとオルトの姿を見守ることしかできない。眼鏡に映る青い光が、ゆらゆらと揺れていた。
反対に、イデアの髪は身体に沿ってするすると収束していく。部屋に帰ってきてからずっと、雷で故障しているかもしれないオルトを心配していたのだろう。先ほどまでのイデアの青い髪は弟を守るように、彼の周囲ばかりをうねうねと忙しそうに蠢いていた。凪いだ太平洋のように広く。今となっては、落ち着いたものだ。髪は口よりものを言うらしい。
そして青い光の中から、するりと音も無く抜け出してきていたオルト。彼はふわりと浮遊して、また音も無く監督生の目の前に躍り出てくる。その動きは狭い空間を無駄なく、かといって持て余すこともなく、監督生の視線を縫い付けるに十分だった。
街頭ひとつ無い田舎の夜空の色をした監督生の真っ暗な瞳と、真夏の向日葵の色をしたオルトのイエローアンバーの瞳が交わる。
眼鏡のレンズに映るのは、ド田舎の真夏の夜だった。
「果たして誰が、なにが、監督生さんの魂に魔力を与えているんだろう? なんの利益があって、そんな行為に——
「マ! オルトの魔力センサに異常が無いことが確認できたことですし。君にはご足労をおかけしましたな。今日のところは、さっさと帰ってもらって……フヒ」
疑問を呈するオルトの声を遮るように、兄の声。
監督生とオルトの空間を割くように、兄の手のひら。
その手のひらは節々に白い粉をふき、ところどころヒビ割れ、爪と肉の間にはささくれが目立っていた。涼しげな顔に似合わず苦労人の手をしている、と監督生は思った。少しの暇さえあれば、その指は最新の学会誌を捲っているのだろう。朝から晩まで、「弟」の細やかなメンテナンスに没頭しているのだろう。肌がカサつくのも、荒れるのも構わずに。なにが彼を駆り立てているのか、この世界にやってきたばかりの監督生はなにも知らない。
オルトによる精密スキャンの結果に関して、ふたりに教えて欲しいことやふたりと議論したいことは頭の中に積み上がっているのだが、イデアの大きな手のひらを見てしまった監督生の口はなにも言えなくなっていた。この部屋で呼吸をしていることすら申し訳なく思えてきて、右足はじり、と後退りをする。血管のように張り巡らされたコードの丸い断面を、足裏が転がす。飲み込んだ唾は、相変わらず味がしなかった。
——ごめんね、監督生さん
細長い指の間から、オルトが困ったように笑った。
音にもならず、口元の動きもマスクによって隠されているというのに、その大きな瞳と表情だけでオルトは監督生に言葉を伝えた。と、思う。イデアの指の一本一本が、横縞状に小さな身体を寸断しているからだろうか。苦し紛れの笑顔から、オルト自身の真意は掴めない。視線を上下させて、目に見える範囲を変化させてみても同じことだった。まるでバグったテレビ放送のようで、気味が悪いと心を掠める。視野は監督生に追い討ちをかける。
部屋の床にこのまま突っ立っていても、いい加減に呼吸が苦しいだけだ。
きっと、居心地が悪いだけだ。
監督生も引き攣った笑いを消極的に溢して、兄弟から目を逸らしながら軽く会釈をした。
別れの意味を込めて。
しかし、床に積まれた数理物理学会の学会誌、赤い表紙が視界を過ぎる。小さな黄色い付箋が挟まれていることに気がついて、今からこの部屋を去ることを決めたというのに興味が湧いてくる。オルトを「作った」というくらいだから、イデアは理論より工学寄りの人間のはずだ。そんなイデアが印をつけた数理物理の研究内容とは? 思わず唇を舐めると、ほのかに甘いリップの味がして脳味噌がピリピリと震えた。赤い表紙に、黄色い付箋がよく映えていた。
視線は左下に固定したまま、監督生は顔を上げる。
胸は苦しいままで、くすぐったくもなっていた。
「あ、あの。少し、学会誌のことで——
「子分!! オイ、子分!! そこにいるのはわかってるんだゾ!! 朝からオレ様を置いて行きやがって……やい、開けるんだゾ!!」
次に言葉を遮られるのは、監督生の番だった。
部屋の外から聞こえてきたのは、間違いない。我が相棒の声だ。
肉球で扉を叩いているであろう音も聞こえる。
ペチ、ペチペチ。ちょっとだけ、可愛い。
驚いた表情を浮かべるイデアとオルトが目に入って、監督生はまた引き攣った笑いを溢すしかなかった。イデアは驚いている、というよりは絵に描いたように怯えている。オルトの大きな瞳は、パチパチと花火を散らすように煌めいていた。空気を読んでくれない相棒の登場のおかげだろうか、部屋の中にいても心なしか呼吸がしやすくなっていた。
にへら、と浮かべた笑顔は受け入れてもらえるかわからない。それでも監督生は現状の説明をすべく、相棒の失礼を詫びるべく、そして未来を自分にとって都合の良い方向へ導こうというちょっとの下心を添えて、言葉を繋いだ。
「あ、すみません……グリムが外にいるみたいで。私たち、ふたりで一生徒なんです。この際、ぜひ紹介したいんですけど、中に入れてやってくれませんかね? え、へへ」
監督生は自分のことながら、実に下手くそな作り笑いだと思った。
「…………」
それに呼応した部屋の主、イデアは両手を胸の前に丸めたまま、三白眼をカメラのシャッターのようにパシャパシャと何度も切る。返事は寄越してくれない。写真には、ぎこちない笑顔とも言えない笑顔を浮かべた監督生が切り取られていることだろう。
ああこれは見事に失敗したな、と空気感から読み取った監督生。
首を突き出すようにしてもう一度会釈をして、学会誌の黄色い付箋に後ろ髪を引かれる思いながら、右足の爪先を軸にしてくるりと兄弟に背を向ける。「3FD 数理物理学会 春季大会」と、タイトルは脳味噌に書き込んである。図書館を探せば見つかるかもしれない。インターネットの海に潜れば見つかるかもしれない。イデアが興味を示した研究はわからないとしても。
そして監督生の意識は、相棒にどう言い訳をしたものかという内容へと次第に移っていく。
一歩進むごとに、青色から灰色へと塗り替わる。
扉の向こう側からは、「子分!! こーぶーんッ!!」と相変わらずの痺れを切らした大きな声。この世界においても知的好奇心というものは大切に生きていきたいものだが、なにはともあれ目先の面倒ごとを片付けないことにはなかなかに難しい。異世界における生活とは基本的に、その日暮らしと言っていい。
障害物レースのように床に配置されたモノ、モノ、モノを避けて、青い扉の前へ。
先ほどの言葉通り、イデアがさっさと帰してくれるのを待った。
「……?」
しかし、一向に扉は開かない。
痺れを切らした監督生が振り返ると、
「グググググリム氏って、あの。もしかして、式典で暴れてた猫みたいな魔物です……?」
上擦る心を全く隠せていないイデアが、身を乗り出していた。
監督生をこの部屋に招き入れた瞬間からずっと、張り付いて離れなかった制御盤の前のスペース。監督生に対しては背中か横顔しか見せず、ずっとオルトばかりを見つめていた亡霊のように真っ白な顔。そんな男が初めて監督生の目の前に迫り、高価な桐箱入りの桃みたいな色に頬を紅潮させ、舌を不器用に絡れさせていた。はあ、はあ、と荒い息遣いさえ聞こえてくる。
ああ、しかしこの男。認識はしていたものの、やっぱり背が高い。
決して、恐怖を感じるほどの身長ではない。元の世界でもクラスにひとりはいたくらいの身長だし、恐らく多国籍(?)であろうナイトレイブンカレッジでは珍しくもない身長だ。そして監督生自身も百六十五センチ、と十六歳女子としては背の高い部類に入る。
それでもここまで間近に、覆い被さるように見下げられては、二十センチ近い身長差を嫌でも認めさせられてしまう。
「あ、あの。イデア、先輩」
近すぎるのだ、単純に。
そう、距離の問題。数値の異常。
もやしみたいなヒョロヒョロの身体を見上げて背が高いな、と感じるのも、栄養状態が悪そうな蒼白な肌を見つめて綺麗だな、と感じるのも。
そもそも監督生は、他人をパーソナルスペースに入れることが好きではない。現状は、異常だった。思考に異常が生じるのも無理からぬことだ。
状態異常は早めに解除しておくに限る。原因と、対策が判明しているならば尚更。善は急げ。監督生はずり、と後退りをしてイデアとの距離をとった。背中に感じるのは、空調によって冷やされた扉の心地よい温度。また唇を舐めて、口を開く。現状打開だ。舌の上には、桃の味が乗っていた気がする。
「……グリムは、そうですね。大きな猫みたいな見た目をしています。黙って大人しくしていれば、ですが」
常に口角が下がり気味だったイデアの口が、カブトムシのオスを見つけたときの少年のように大きく開かれる。口元をお行儀良く覆う指の間から、肉食動物(ホモ・サピエンスとは本来雑食性である)のように鋭く尖った歯が並んでいるのが見えて不思議に思った。青い髪はぶわりと無秩序に広がって、毛先が薄紅色に染まっていた。
鉄棒にぶら下がって見えた、遠い子供時代。
夏休みの夕暮れみたいだな、と思った。
どちらかといえば凶悪な、悪役人外面であるはずだった。
それでも黄色い瞳は向日葵に、青くて広い髪は空に、染まった薄紅色は夕焼けに見えた。監督生の瞳に映る、逆さまになった夏景色。裏っ返しに見ているだけで、やっぱりシュラウド兄弟は同じド田舎の、少年時代の夏休みを体現する存在なのかもしれない。ミンミンミンミン……と、蝉の声が鼓膜に響いてクラクラした。
「——わっ!!」
そして、一転。暗転。
バシュッ、と勢いのある音が鳴って、監督生の背中を支えていた扉が姿を消した。それはつまり、監督生の身体がイグニハイド寮の暗い廊下に投げ出されたということに等しい。青い空が視界を覆っていたから、天井の色はわからなかった。「ふ、ふなッ」と、グリムの声が頭上に響く。まだ夏休みの青空を見ていたかったが、流石に危ないと思って両腕で頭を抱え、ダンゴムシのように丸くなってやる。目を瞑って歯を食いしばって、衝撃に備えた。
「いだッ、」
ぐわん、と揺れ。監督生の視力を担当する眼鏡が、闇の中に消えていった。
「はわ……グ、グリム氏……モフモフ……」
「オマエ、誰だ? な、なんなんだゾ、その手は……」
イデア少年にとってのカブトムシは、グリムだったらしい。
大きな身体が、監督生の身体を無遠慮に跨いでいく気配。
もういいだろうと目を開けると、まだ頭上に夏の夕焼け空が広がっていて少し嬉しくなる。廊下はイデアの部屋よりも、少し暑くて蒸し蒸ししている。温度差がもわっと身体と鼻腔を包んでいった。
夏休みのイデア少年は、グリムを捕まえようとしてじりじりと距離を詰めている最中。虫取り網の代わりに大きな手のひらがふたつ翳されていて、そいつは今にもグリムに飛び掛からんとしている。
眼球をごろりと上転させると、若干腰が引け気味になりながらも、水色の瞳にチラチラ波面を立たせながらも、果敢にイデア少年を睨みつける相棒グリムがいた。
「こ、子分!! コイツ、やばいんだゾ……早く立って逃げるんだゾ!!」
グルル……と唸りながら、小さなファイティングポーズをとるグリム。
監督生は横向きに寝転がったまま、焦点の合わせきれない視界の中でくすくすと笑う。グリムが不満そうな表情をチラと見せたような気がしたが、それでも監督生はくすくすと笑うのを堪えきれなかった。ごめんね、グリム。監督生は心の中で謝った。
片方のほっぺたが冷たいリノリウムの床に触れて、光沢のあるそれにぼんやり少年とカブトムシが反射している。流れる川の浅瀬に身体半分を浸して、眩しくて、太陽に煌めく水面に夏を見ているようで。夏はザクザクと不規則に分割されて、水面に反射して、すぐにその場を流れていく。冷えた水流と、ぬるい空気と、薄紅に染まる青空と、向日葵と、少年とカブトムシ。これを夏と言わずして、なにをもって夏を定義できようか。
薄暗い廊下に転がっているというのにそんなことを考える自分がおかしくなって、監督生は身体を丸めて、またくすくすと花火が開くように笑っていた。
「グリム氏……おいで……怖くないよ……」
虫取り網が、きっと振り下ろされる。
夏の日は、意外とあっという間に暮れてしまうから。
「子分、たすけ……って、ギャーーーーーー!!」
監督生がごろりと寝返りを打つと、兄の帰りを待つ弟と目が合った。にこ、と地平線に沈みゆく太陽のように一際美しく笑った彼は、つくづく賢くて意地の悪い子だと思う。
▼
「ぬぬ……オマエ、なかなか上手いな」
「グリム氏こそ、初めてにしては悪くないですぞ」
場所は元に戻って、イデアの部屋。イデア少年ことイデア先輩と、カブトムシこと相棒グリムは、仲良くテレビゲームに興じていた。
グリムを膝に乗せて、そのモフモフの頭に顎を乗せて、器用にコントローラを操るイデアの顔は綻び、実に満足げである。ゲーム内のプライヤーの動きに引き摺られるように、時たまグリムの小さくて大きな身体が傾くのに合わせて、イデアの大きな身体も左右に揺れる。胡座をかいたイデアの貧相な尻が、やじろべえのようにゆらゆら揺れる。オルトもふたりの後ろにふよふよと浮かんで、「グリムさん、今だよ! 今!」と劣勢にあるらしいグリムを楽しそうに応援していた。
気難しい少年と血気盛んなカブトムシは、すっかり友達になってしまったようだ。
「……ふふ」
目線を上げて、監督生も静かに笑う。
不自由なことの方が多い、オンボロ寮での学園生活。
グリムが楽しそうでなによりだ、と。
ちなみに彼女はこれ幸いと機に乗じて、ずっと興味を惹かれていた学会誌を手に取っていた。わいわいと騒ぐ三人と距離をとるようにベッドのマットレスに背を預けて、目を伏せて、ザラついた紙質の頁を捲っていく。この頁じゃない、この頁じゃないと。早る気持ち。黄色い付箋を親指と人差し指で掴んで、一気に目的の発表内容へ時間と意識を飛ばそうとする。剥がれそうになる付箋に一瞬手を止めて、そっと、掬い上げるように頁を捲った。
弱いな、と思ったから。頁と付箋の粘着部分を強く抑えた。
タイトルを読み上げるべく、口を開く。
「通行可能な、ワームホール」
まず、特徴的な三次元概念図が目に入った。
それは虫に食い破られ、穴が貫通したりんごを裏っ返しに見たような。
だから、「ワームホール」。真球だと仮定したりんごの表面のある一点から裏側に到達するには、円周の半分の距離を移動する必要がある。しかし、虫が真っ直ぐにりんごを食い破れば、最短の距離の移動で済む。それが、「ワームホール」だ。一般相対性理論の方程式の数学的解のひとつ。時空間のある一点から他の一点まで、光よりも速く移動することができる。つまるところ、「ワープ」である。他の解としては、時間的閉曲線(Closed timelike curve: CTC)やディプラーの円筒などが挙げられている。
有名な話だ。数理物理に精通していない監督生でも、それくらいは知っている。
しかし、
「先輩は、なぜ。ワームホールなんかを」
監督生は、騒いでいる三人に気づかれないように小さく呟いた。
通行可能なワームホール、とは研究者の道楽と言っていい。「地球外生命体と接触するにはどうすれば良いか」という命題ありきで作り上げられた、大変不安定な理論。SF作家にとって都合の良いように、理論だけが先行している。
数学的には成立し得るのだが、現在の科学技術では制御が困難なほどの高密度(中性子星の中心部ほど)の負のエネルギーの存在を前提としている。しかも出口がどこになるかはわからないし、通行方法も確立されていない。正の質量を持つ粒子が通過すると、加速度的にワームホールは潰れてブラックホールに変質してしまうとも言われている。
現段階では、SFに使われるだけのただの仮説。
サイエンス・フィクションの域を出ない。
やたらと主張している三次元概念図を睨みつけて、監督生は再び顔を上げる。
ゲームに釣られて良いようにモフられているグリムと、いたく幸せそうなイデアと。そして、ふたりのゲームの邪魔にならないよう、器用に浮遊しながら盛り上げ役を買っているオルトがいる。グリムの悲しげな叫び声と、シュラウド兄弟の楽しげな笑い声。変わりなく、それは温もりのある光景であった。空間であった。
「…………」
誰かにとっての、都合の良い概念と言えるだろう。
オルトの存在や蔵書から想像する限り、イデアは間違いなく工学寄りの人間。理論にも興味はあるようだが、とてもSF作家様には見えない。そんな人間が、なぜ。監督生が首を傾げると、三人の集まる光景もぐるりと回転した。首を元の位置に戻すと、三人も元の位置に戻る。ふと、実に不安定だと思ってしまった。
「あ、」
考えに耽ると、身体に力が入る癖がある。
舌に鉄の味が染み付いていた。また唇の皮を捲ってしまったようだが、それは今、どうでもよかった。それよりもなによりも、他人の持ち物であるところの学会誌に、親指の爪の形に沿って凹みができてしまっていた。急いで指の腹で撫でつけてはみたが、紙に弾性は無いものだ。元には戻らなかった。
イデアの持ち物に傷をつけてしまったこともそうだが、この頁を覗いていたことがいつかバレてしまいそうで、一気に居心地が悪くなる。イデアの脳味噌の中身を、想いの中身を、断りなく覗いてしまったような気がする。ならばいっそのこと、全ての頁に爪痕を残してやろうかと画策した。木を隠すなら森の中。
しかし、そんな無駄なことに時間と労力をかける気にもなれなくて、紙の凹みをもう一度撫で付けるだけで終わりということにしておいた。それでもずっと、頭の中に残ってしまいそうな手触りだった。
雑誌を閉じて、溜息を吐く。
相変わらず、冷房は効きすぎているくらいだった。
——うして、グリムさんは監督生さんがここにいるってわかったの?
頭を抱え込んで、顔を膝の間に埋めて。またダンゴムシのようにうずくまっていた監督生の耳に、頭の中を真っ白にリセットしようとしていた監督生の耳に、オルトの澄んだ声がふわりと届いた。穏やかで優しい声だった。
「……?」
しかしその真っ直ぐな質問に、何故かドッドッドッドッ……と監督生の意思とは無関係に心拍が上昇していく。なんだか聞いてはいけないことを聞いていてしまう予感がした。
迷走神経が過緊張に陥る。
訳がわからなかった。
ジワジワと手汗の滲んできた手のひらで、制服のスラックスをぐしゃりと固く握りしめる。ハーツラビュル寮で借りたズボンプレッサーで、センターラインの折り目をきっちりつけたばかりであることも忘れて。汗と圧力で、乱雑な皺が刻まれていくことも構わずに。
耳を塞いでしまえば良いことだというのに、手のひらはスラックスを握ったまま動かすことができなかった。脳味噌のどこかでは、知りたいのだ。格好が悪い。こめかみに脂汗が滲んで、喉元でしか呼吸ができなくなっていく。吸って、吸って、吐く。吸って、吸って、吐いて、吸って。二酸化炭素が過多だ。眼鏡がズレる。深い紺色をしていた膝の間の空間が、真っ黒に真っ黒に落ちていく。これは知りたがりの弊害だった。
セカイにはきっと、ヒミツがあった。ひとりの人間が知ってはいけないこと。心がどんどん乱れていくようだった。
膝をぎゅっと抱えていないと、その場に崩れてしまいそうだ。
「……リム……たえ、ないで……」
呟いた小さな声は、真っ暗な膝の間に落ちて消えた。
「ん? 子分の居場所はなんとなく、いつもわかるんだゾ」
グリムは、なんてことのないように軽く答えた。
カラン、とジュースの氷が溶ける。
夢々しい音だった。
監督生はその後のことを、あまり覚えていない。
モノが多い部屋だな、と思った。
監督生は、辺りをきょろきょろと迷子の子供のように見渡している。
六角形の洒落た棚が備え付けられた机には、色とりどりの背表紙を持つ本が所狭しと詰め込まれていた。
まず目に入ったのは、魔導エネルギー工学基礎という文字列。何事にも基礎は大切だ。そして、魔導エネルギー工学とその応用。応用こそ、工学の真髄である。役を果たすところである。
この二冊の発行年数は相当古いもののようで、背表紙は手垢で茶色く汚れ、擦り切れ、掠れ、ところどころが破れてさえいる。イデア(オルトだろうか? いや、きっとイデアだろう)(……何故?)の努力と愛着と執念の片鱗みたいなものを感じてしまう。
そして理論物理学、宇宙物理学、航空物理学、量子物理学、古典物理学、数理物理学、計算物理学……とにかく、物理学にいたく興味があるようだ。
玄人臭すぎて、ニッチすぎて、これらを系統的・専門的に学べる大学となると、相当進路が狭まり、険しい道のりになるだろうと監督生は勝手に心配をしてしまった。想像をしてしまった。なぜならば、監督生自身もこれらの学問に興味があり、将来の進路としたいと朧げながらに考えているからだった。この世界における大学の立ち位置というものは、よく知らないものの。イデアが進学を考えているかどうかも、よく知らないものの。
あとは化学、生物学、生命倫理学、天文学、数学、哲学、歴史……と科学に関する本を中心に、雑多に本棚へ詰め込まれていた。
どれもこれも深く読み込まれているようで、ハードカバーの背表紙はたわんだり、湿気を吸って膨らんでいたり、ソフトカバーは破れていたり無かったりするものもあった。背表紙の箔押しが消えてしまって、なにに関する本なのかわからない本もある。少し、暗くて黒くて、怖くなった。きっと幼い頃から、繰り返し頭に叩き込んできたのだろう。膨大な知識を。それくらい年季の入っている重たげな空気感が漂っていた。
六角形の本棚にある学問書の数々は、おおよそが縦に並んでいるが、上部のわずかな隙間に横にして差し込まれている本も多い。加えて部屋の床にも、小難しそうな論文誌だとか実用書だとかの山がいくつも積み上がっている。
きっとイデアには、知りたいことが、知らなければならないことが、ひとりの高校生にしては多すぎるのだろうと思う。重すぎるのだろうと思う。弟であるオルトを「作った」と言うくらいならば。唯一の救いといえば、世俗的な漫画雑誌もいくつか床に転がっていることくらいだろうか。監督生にとって面白くないことに、いわゆる「男性向け雑誌」は見つからなかった。
そしてデスクの上には、この時代にしては珍しいデスクトップ型のパソコンが置かれていて、静かな部屋の中でファンをうんうん唸らせて考え事をしていた。
そのパソコンは、青い空中投影ディスプレイを幾重にも展開しているようだ。無機質なプログラミング言語が黒く綴られているディスプレイ。仮想現実世界にプレイヤーがひとりぼっちで立ち尽くしているディスプレイ。難しそうな単語が検索窓に入力されたまま、放置されているディスプレイ。マルチタスクに忙しそうだが、どこか寂しげな一台のマシンだ。
机に備え付けられたラックには、他にもサーバーが二台ほど押し込まれていた。用途は不明。彼らもなにかを考え、狭い空間の中で懸命に排熱を続けている。
そこに一瞥をくれたあと、監督生はぶるぶると身震いをした。夏の太陽に照らされて、腕まくりをしていたままだったワイシャツをいそいそと元に戻す。そもそも腕まくりをすること自体、あまり好きではないのだ。特に明確な理由は、無いと、思う。アイロンをかけたばかりだったワイシャツの上腕部には、すでに深い皺が散らかっていた。腕にはプツプツと毛穴が浮いていて、部屋の冷房は効きすぎているくらいだった。
「オルト、どう?」
「魔力反応はありません」
「これは?」
「魔力反応を検知しました」
部屋の主とその弟が、メンテナンスと微調整を続ける声が聞こえる。
監督生はとっ散らかった机周辺を眺めていた視線を、夏の匂いのした兄弟へと滑らせた。
雑然とした部屋の中、一番に存在感を放っている大きな装置。
天井に直に取り付けられている灰色の機械部分には迷路のように配管が錯綜し、何本もの配線が無秩序にだらりと垂れ下がっている。金属部分はピカピカに磨かれていて、歪に部屋の風景を反射していた。その中には、表情が塗り潰された監督生の顔も佇んでいる。床にも台座のようなものが設置されており、黒いコードが血管のように這い出してどこかに繋がれていた。
妙に生々しいその装置は、まるで人間の心臓を模しているかのようだ。
突貫工事で寮の部屋に括り付けられたように見えるその命は、人工的な強くて青い光を垂直下に放っていた。それは、舞台照明のように。少し離れた場所にいても、眩しいくらいの光だった。
その光に包まれるようにして、主役は……オルトは浮かんでいる。
ピ、ピ、ピ、と規則的な電子音。
装置の隣に備え付けられた制御盤が浮かび上がらせている空中投影ディスプレイに対して、ブラインドでタッチを続けながら、イデアはオルトからのアウトプットを何度も確認している。何度も、何度も、繰り返し。その背中は、不具合はひとつも見逃さないと無言で謳っていた。
「魔力反応を検知しました」
「魔力反応はありません」
夏空の下では太陽に咲く向日葵のようだったオルトのイエローアンバーは、濃い霧がかかったように暗く沈んでいて、その口が紡ぐ音は合成音声そのもの。先ほどまで快活に言葉を交わしていたオルトと同じ「オルト」だとは思えなくて、怖くなった監督生は目を逸らした。
幸いイデアの部屋には、観察すべき対象が他にもたくさんある。
硬いベッドのマットレスの側面に背を預けて、膝を抱えて、監督生は周囲を見渡す。ベッドからはあまりいい匂いはしなかった。お日様の匂いではなく、どちらかといえば雨の匂い。そういえば、この世界に梅雨というものは存在するのだろうか。
丸眼鏡のレンズに青い光が反射して、眩しくてなにも見えなかったから首の角度を変えてみる。もしかすると、もう見たくなかったのかもしれない。
部屋の床中を這う黒いコードは、埃に塗れたタコ足配線にぶっ刺されている。危険だと、監督生は目を細める。年中この室温に保たれているならば問題ないのかもしれないが、可能性は限りなくゼロに近いのかもしれないが、ふとしたきっかけで発火しかねない。シュラウド兄弟の髪は冷たい陽炎のように燃えているし。オルトのための装置も、複数台のサーバも負荷が高そうだし。
心配になった監督生がふっと息を吹きかけると、
「ゲホ、ゲホッ」
表面の埃だけが雪のようにパッと舞って広がった。
灰色の雪だ。
ねっとりとこびりついた黒い埃だけが、テーブルタップの表面に残っている。喉の奥がガサガサ痒くなって、ゲホゲホゲホと乾いた咳が出てしまった。空気は動き続ける空調の所為で粉っぽく乾燥していて、換気の類はどうなっているのか気になった監督生は、黒い髪を揺らして後ろを振り返る。
ブラインド。
部屋に唯一存在する窓は、外の世界は、灰色のブラインドカーテンによって固く仕切られていた。眼鏡のレンズ越しに目を細めて見ると、ブラインドの一枚一枚にも厚い埃が積もっている。人差し指を翳してみる。五ミリくらい積もっていると思う。
どれだけの間、この部屋は外界から隔絶されてきたのだろうか。どれだけの間、あの兄弟は外の世界から隔絶されて、隔絶して、ふたりぼっちで生きてきたのだろうか。もしかすると、「ひとりぼっち」なのかもしれないが。あまり深く詮索するのも良くないだろう。あのふたりが現状を良しとしているならば、それで良いのだ。外野がとやかく言うことでは無い。
なんだか心が空っぽになった心地になって、空っぽに満たされて溢れ返ってしまった気がした監督生は、若干無理矢理に捻っていた首を元の位置に戻した。
座る監督生の左隣に積んである書籍の山。なんだか精神衛生に良くない気がして、監督生は意図的に求知心をブラインドカーテンからそれに移した。
一番上に積んであるもの。表紙の赤い、そこそこ厚い読み物だった。「3FD 数理物理学会 春季大会」と飾り気の無い文字が並ぶ。学問の名に心を奪われた監督生は、明朝体で書かれたその黒い文字を人差し指でツツとなぞってみた。文字には印刷の凹凸があって、実体を、存在を確かめられて、冷たい空気の中で心の温度が少しだけ上昇する。空っぽを少し埋められるような気がした。
「数理物理……」
監督生の唇が思わず紡いだのは、理論物理と哲学が交錯したような、高度な科学的・論理的思考を求められる難しい学問の名前。どうも突つきにくさがあって、流石の監督生も本格的に学んでみたことはまだ、無い。まだ高校生相当だというのに、イデアはこの学会に参加するくらいに詳しいのだろうか。そんな学問を追求する研究者たちが集う学会誌だというのだから、さぞかし難解で、非常に興味深いものだろう。ぼんやりとした憧れが心に浮かんでいた。
ぺらり、
赤い表紙をめくってみる。
「なに、それに興味あるの?」
「あ、え、っと……」
突然声を掛けられて、背骨がぴりりと伸びた。
制御盤の前に立ったままのイデアが、首だけでこちらを振り返っていた。
青い光の中に浮かんだオルトは、イエローアンバーの瞳に綺麗な光彩を取り戻してにこにこと太陽のように笑っている。青い光の……、造られた青空の下。鮮やかに黄色くて大きな向日葵が咲いている。あの夏空の下で出逢った彼と、この灰色に曇った部屋でやっと再会できたような気がして、監督生は冷房の風に背中を押されるような心地で冷めた溜息を吐いた。それでも手のひらにそっと触れた溜息は体温と同じくらいに温かくて、凝り固まっていた心がほぐれて、皮膚に浮いた毛穴が収縮していくのを感じていた。
「調整が終わったよ。監督生さんさえ良ければ、最終テストに付き合ってくれるかな?」
それは無機質な合成音声ではなく、伸びやかで影のない声。
「あ、うん。大丈夫、です」
オルトの大きく潤む瞳を見て、その次にイデアの冴えた月のような三白眼を見て、監督生は目を逸らしながら頷く。どこまでも人を突き放すような目だな、と思った。それでいて有無を言わせない目だな、とも思った。イデアは口を結んだまま、視線をゆっくりと制御盤に戻して、その細くて長い指でモニターをタッチしていく。ピ、ピ、ピ、ピ……、その電子音の間隔は、オルトの微調整を続けていた頃とまるで変わらなかった。
オルトはにこにこと笑っているだけで、イデアはなにも言わないままだ。
「あ、あの。私は、どうしたら……?」
ピ、ピピ。
規則的だった電子音が乱れる。
青い水面の真ん中でぷかぷかと揺らめいていた視線を、片手で雑に掬い上げられた気がした。監督生は無意識のうちに、掬われた方へと顔を向けてしまう。まず、夜色をした草臥れた生地。三角模様。白い首筋、歪に隆起した喉仏、水色のリップペンシルで薄く描いたような唇、五徹くらいしていそうな暗い目元。そして、黒を一滴溢して濁ったイエローアンバーが在った。曇り空のヴェールがかかった瞳は監督生の様子を窺ったあと、長い睫毛で長い瞬きをして、制御盤へと視線を戻す。目立つ喉仏が下がったのが見えた。
「オルトの前に立って。心を落ち着かせて。あとはなにもしなくていいから」
そんなこともわからないのか。
とでも言いたげに、イデアは溜息混じりに言葉を吐いた。
言ってくれないとわかりませんから。
監督生は言葉を飲み込む。乾燥した唇を噛むと、べろ、と白い皮が捲れた。イデアは決して直接的な表現を用いたわけでも、開けっ広げな態度を示したわけでもない。きっと自分の勝手な思い込みだと、監督生は捲れた唇の皮と一緒に唾を飲み込んだ。味はしなかった。
心臓を模した機械から放たれる青い光に近づくように、灰色をした靴下の裏でそろそろと歩みを進める。部屋の床面積は断じて広いものではない。おまけに背の高いイデアと、やたらと場所をとっている謎の機械と、床をうねうねと這うコードと積まれた本、エトセトラ、エトセトラ。その圧迫感に気圧されそうになりながら、まるで綱渡りをするように、慎重に選んだ場所に足先を置いていく。
冷房の風に髪が揺れる。耳が冷たい。イデアの髪は風を無視するように凪いでいた。
紺色をした床から顔を上げると、黄色い花弁も緩やかに凪いでいた。
「オ、オルトくん。お願いします?」
「精密スキャンを開始します」
向日葵に霧がかかると同時に、その白く洗練されたボディから小さな手のひらが伸びてくる。監督生が困惑の声を上げる前に、手のひらは優しく胸の真ん中に添えられた。
立派な年頃の少女だというのに、監督生の中に「恥ずかしい」「怖い」といった類の感情は沸き起こらなかった。黒くて小さな手のひら。摩訶不思議なことに、むしろ安らかで、平穏な心地になっていた。温度のない無機質な手のひらから伝わるのは、それこそが温もりのような気がした。ヴヴヴ、と機械音が響いている。曰く魔力をスキャンされている最中らしいが、被対象者は決まってこのような心理状態に至るものなのだろうか。魔力を持たない(はずの)監督生には、なにもわからなかった。それでも悪い気はしなかったから、自然と黙って動かないでいた。
いつの間にか、心は凪いでいた。
「——精密スキャンを終了します」
「あ……」
いとも呆気なく、離れていく手のひら。
先ほどの困惑の声は間に合わなかったというのに、名残を惜しむ声は喉から漏れてしまった。それは自分でも切なくなるような声で、恋に落ちた少女からの溜息のようで、今更恥ずかしくなって手で口元を覆う。けほ、けほ。はぐらかすように、わざと空咳をしてみる。
宙に浮かんでいる所為で監督生の顔よりも高くなっている位置から、もう聞き慣れてしまった合成された音声が降ってくる。
「魔力反応を検知しました」
次に左隣の高い位置から、ふうん、と感心するような声が落とされた。監督生がその声の主を見上げると、彼は左手を顎に添えて、唇を尖らせて深く考え込む仕草をしている。兄弟揃って美しい顔をしているな、と他に考えられることもなかった監督生は、ぼんやりと思考を青に浮かべていた。凪いだ思考をしていた。
兄は「ウーーーーン」と呻きながら、白くて透き通って亡霊みたいな肌を掻き毟りだしてしまった。綺麗な肌が傷ついていく様子を見ていたくなかった監督生は、青い光に包まれたままのオルトに視線を戻す。思考に耽ると感覚が鈍るヒトなのだろう。本物の天才とは、いつも決まってそういうモノだ。最後にちらと見えた頬には、赤い血が滲んでいた。
そして、振り返って見えたオルトの向日葵色をした瞳は晴れ渡り、青い人工光のもとできらきらと「生」を感じさせる宝石に様変わりをしていた。
「監督生さんの魂は、やっぱり魔力を帯びているよ。……でもね、」
「「でも?」」
食い気味に身体を乗り出す監督生とイデアを交互に見て、オルトは花が散るようにくすくすと笑った。
「監督生さん自身の魂が魔力を宿しているというよりは……、どこか外部から魔力を供給されているみたいなんだ。魂が魔力に包まれている、といった表現が正しいかな。これは監督生さんの身体に触れて、精密スキャンを実行したから初めてわかったことなんだけど」
目を細めて小難しいことを並べ立てるオルトの様子は、兄であるイデアによく似ているなと思った。外見の特徴こそ共通点が多いものの、夏空の下で監督生が感じた印象は真逆だったはずなのに。首を傾げて目を閉じて、ウンウン唸っているふたりは間違いなく血を分けた兄弟だった。誰がなんと言おうと。
ああ。ところで、監督生には魔法というものがよくわからない。
いくら授業を受けたところで、よくわからないままだ。
兄弟が悩んでいる理由がまるでわからない監督生は、不安げな表情でイデアとオルトの姿を見守ることしかできない。眼鏡に映る青い光が、ゆらゆらと揺れていた。
反対に、イデアの髪は身体に沿ってするすると収束していく。部屋に帰ってきてからずっと、雷で故障しているかもしれないオルトを心配していたのだろう。先ほどまでのイデアの青い髪は弟を守るように、彼の周囲ばかりをうねうねと忙しそうに蠢いていた。凪いだ太平洋のように広く。今となっては、落ち着いたものだ。髪は口よりものを言うらしい。
そして青い光の中から、するりと音も無く抜け出してきていたオルト。彼はふわりと浮遊して、また音も無く監督生の目の前に躍り出てくる。その動きは狭い空間を無駄なく、かといって持て余すこともなく、監督生の視線を縫い付けるに十分だった。
街頭ひとつ無い田舎の夜空の色をした監督生の真っ暗な瞳と、真夏の向日葵の色をしたオルトのイエローアンバーの瞳が交わる。
眼鏡のレンズに映るのは、ド田舎の真夏の夜だった。
「果たして誰が、なにが、監督生さんの魂に魔力を与えているんだろう? なんの利益があって、そんな行為に——
「マ! オルトの魔力センサに異常が無いことが確認できたことですし。君にはご足労をおかけしましたな。今日のところは、さっさと帰ってもらって……フヒ」
疑問を呈するオルトの声を遮るように、兄の声。
監督生とオルトの空間を割くように、兄の手のひら。
その手のひらは節々に白い粉をふき、ところどころヒビ割れ、爪と肉の間にはささくれが目立っていた。涼しげな顔に似合わず苦労人の手をしている、と監督生は思った。少しの暇さえあれば、その指は最新の学会誌を捲っているのだろう。朝から晩まで、「弟」の細やかなメンテナンスに没頭しているのだろう。肌がカサつくのも、荒れるのも構わずに。なにが彼を駆り立てているのか、この世界にやってきたばかりの監督生はなにも知らない。
オルトによる精密スキャンの結果に関して、ふたりに教えて欲しいことやふたりと議論したいことは頭の中に積み上がっているのだが、イデアの大きな手のひらを見てしまった監督生の口はなにも言えなくなっていた。この部屋で呼吸をしていることすら申し訳なく思えてきて、右足はじり、と後退りをする。血管のように張り巡らされたコードの丸い断面を、足裏が転がす。飲み込んだ唾は、相変わらず味がしなかった。
——ごめんね、監督生さん
細長い指の間から、オルトが困ったように笑った。
音にもならず、口元の動きもマスクによって隠されているというのに、その大きな瞳と表情だけでオルトは監督生に言葉を伝えた。と、思う。イデアの指の一本一本が、横縞状に小さな身体を寸断しているからだろうか。苦し紛れの笑顔から、オルト自身の真意は掴めない。視線を上下させて、目に見える範囲を変化させてみても同じことだった。まるでバグったテレビ放送のようで、気味が悪いと心を掠める。視野は監督生に追い討ちをかける。
部屋の床にこのまま突っ立っていても、いい加減に呼吸が苦しいだけだ。
きっと、居心地が悪いだけだ。
監督生も引き攣った笑いを消極的に溢して、兄弟から目を逸らしながら軽く会釈をした。
別れの意味を込めて。
しかし、床に積まれた数理物理学会の学会誌、赤い表紙が視界を過ぎる。小さな黄色い付箋が挟まれていることに気がついて、今からこの部屋を去ることを決めたというのに興味が湧いてくる。オルトを「作った」というくらいだから、イデアは理論より工学寄りの人間のはずだ。そんなイデアが印をつけた数理物理の研究内容とは? 思わず唇を舐めると、ほのかに甘いリップの味がして脳味噌がピリピリと震えた。赤い表紙に、黄色い付箋がよく映えていた。
視線は左下に固定したまま、監督生は顔を上げる。
胸は苦しいままで、くすぐったくもなっていた。
「あ、あの。少し、学会誌のことで——
「子分!! オイ、子分!! そこにいるのはわかってるんだゾ!! 朝からオレ様を置いて行きやがって……やい、開けるんだゾ!!」
次に言葉を遮られるのは、監督生の番だった。
部屋の外から聞こえてきたのは、間違いない。我が相棒の声だ。
肉球で扉を叩いているであろう音も聞こえる。
ペチ、ペチペチ。ちょっとだけ、可愛い。
驚いた表情を浮かべるイデアとオルトが目に入って、監督生はまた引き攣った笑いを溢すしかなかった。イデアは驚いている、というよりは絵に描いたように怯えている。オルトの大きな瞳は、パチパチと花火を散らすように煌めいていた。空気を読んでくれない相棒の登場のおかげだろうか、部屋の中にいても心なしか呼吸がしやすくなっていた。
にへら、と浮かべた笑顔は受け入れてもらえるかわからない。それでも監督生は現状の説明をすべく、相棒の失礼を詫びるべく、そして未来を自分にとって都合の良い方向へ導こうというちょっとの下心を添えて、言葉を繋いだ。
「あ、すみません……グリムが外にいるみたいで。私たち、ふたりで一生徒なんです。この際、ぜひ紹介したいんですけど、中に入れてやってくれませんかね? え、へへ」
監督生は自分のことながら、実に下手くそな作り笑いだと思った。
「…………」
それに呼応した部屋の主、イデアは両手を胸の前に丸めたまま、三白眼をカメラのシャッターのようにパシャパシャと何度も切る。返事は寄越してくれない。写真には、ぎこちない笑顔とも言えない笑顔を浮かべた監督生が切り取られていることだろう。
ああこれは見事に失敗したな、と空気感から読み取った監督生。
首を突き出すようにしてもう一度会釈をして、学会誌の黄色い付箋に後ろ髪を引かれる思いながら、右足の爪先を軸にしてくるりと兄弟に背を向ける。「3FD 数理物理学会 春季大会」と、タイトルは脳味噌に書き込んである。図書館を探せば見つかるかもしれない。インターネットの海に潜れば見つかるかもしれない。イデアが興味を示した研究はわからないとしても。
そして監督生の意識は、相棒にどう言い訳をしたものかという内容へと次第に移っていく。
一歩進むごとに、青色から灰色へと塗り替わる。
扉の向こう側からは、「子分!! こーぶーんッ!!」と相変わらずの痺れを切らした大きな声。この世界においても知的好奇心というものは大切に生きていきたいものだが、なにはともあれ目先の面倒ごとを片付けないことにはなかなかに難しい。異世界における生活とは基本的に、その日暮らしと言っていい。
障害物レースのように床に配置されたモノ、モノ、モノを避けて、青い扉の前へ。
先ほどの言葉通り、イデアがさっさと帰してくれるのを待った。
「……?」
しかし、一向に扉は開かない。
痺れを切らした監督生が振り返ると、
「グググググリム氏って、あの。もしかして、式典で暴れてた猫みたいな魔物です……?」
上擦る心を全く隠せていないイデアが、身を乗り出していた。
監督生をこの部屋に招き入れた瞬間からずっと、張り付いて離れなかった制御盤の前のスペース。監督生に対しては背中か横顔しか見せず、ずっとオルトばかりを見つめていた亡霊のように真っ白な顔。そんな男が初めて監督生の目の前に迫り、高価な桐箱入りの桃みたいな色に頬を紅潮させ、舌を不器用に絡れさせていた。はあ、はあ、と荒い息遣いさえ聞こえてくる。
ああ、しかしこの男。認識はしていたものの、やっぱり背が高い。
決して、恐怖を感じるほどの身長ではない。元の世界でもクラスにひとりはいたくらいの身長だし、恐らく多国籍(?)であろうナイトレイブンカレッジでは珍しくもない身長だ。そして監督生自身も百六十五センチ、と十六歳女子としては背の高い部類に入る。
それでもここまで間近に、覆い被さるように見下げられては、二十センチ近い身長差を嫌でも認めさせられてしまう。
「あ、あの。イデア、先輩」
近すぎるのだ、単純に。
そう、距離の問題。数値の異常。
もやしみたいなヒョロヒョロの身体を見上げて背が高いな、と感じるのも、栄養状態が悪そうな蒼白な肌を見つめて綺麗だな、と感じるのも。
そもそも監督生は、他人をパーソナルスペースに入れることが好きではない。現状は、異常だった。思考に異常が生じるのも無理からぬことだ。
状態異常は早めに解除しておくに限る。原因と、対策が判明しているならば尚更。善は急げ。監督生はずり、と後退りをしてイデアとの距離をとった。背中に感じるのは、空調によって冷やされた扉の心地よい温度。また唇を舐めて、口を開く。現状打開だ。舌の上には、桃の味が乗っていた気がする。
「……グリムは、そうですね。大きな猫みたいな見た目をしています。黙って大人しくしていれば、ですが」
常に口角が下がり気味だったイデアの口が、カブトムシのオスを見つけたときの少年のように大きく開かれる。口元をお行儀良く覆う指の間から、肉食動物(ホモ・サピエンスとは本来雑食性である)のように鋭く尖った歯が並んでいるのが見えて不思議に思った。青い髪はぶわりと無秩序に広がって、毛先が薄紅色に染まっていた。
鉄棒にぶら下がって見えた、遠い子供時代。
夏休みの夕暮れみたいだな、と思った。
どちらかといえば凶悪な、悪役人外面であるはずだった。
それでも黄色い瞳は向日葵に、青くて広い髪は空に、染まった薄紅色は夕焼けに見えた。監督生の瞳に映る、逆さまになった夏景色。裏っ返しに見ているだけで、やっぱりシュラウド兄弟は同じド田舎の、少年時代の夏休みを体現する存在なのかもしれない。ミンミンミンミン……と、蝉の声が鼓膜に響いてクラクラした。
「——わっ!!」
そして、一転。暗転。
バシュッ、と勢いのある音が鳴って、監督生の背中を支えていた扉が姿を消した。それはつまり、監督生の身体がイグニハイド寮の暗い廊下に投げ出されたということに等しい。青い空が視界を覆っていたから、天井の色はわからなかった。「ふ、ふなッ」と、グリムの声が頭上に響く。まだ夏休みの青空を見ていたかったが、流石に危ないと思って両腕で頭を抱え、ダンゴムシのように丸くなってやる。目を瞑って歯を食いしばって、衝撃に備えた。
「いだッ、」
ぐわん、と揺れ。監督生の視力を担当する眼鏡が、闇の中に消えていった。
「はわ……グ、グリム氏……モフモフ……」
「オマエ、誰だ? な、なんなんだゾ、その手は……」
イデア少年にとってのカブトムシは、グリムだったらしい。
大きな身体が、監督生の身体を無遠慮に跨いでいく気配。
もういいだろうと目を開けると、まだ頭上に夏の夕焼け空が広がっていて少し嬉しくなる。廊下はイデアの部屋よりも、少し暑くて蒸し蒸ししている。温度差がもわっと身体と鼻腔を包んでいった。
夏休みのイデア少年は、グリムを捕まえようとしてじりじりと距離を詰めている最中。虫取り網の代わりに大きな手のひらがふたつ翳されていて、そいつは今にもグリムに飛び掛からんとしている。
眼球をごろりと上転させると、若干腰が引け気味になりながらも、水色の瞳にチラチラ波面を立たせながらも、果敢にイデア少年を睨みつける相棒グリムがいた。
「こ、子分!! コイツ、やばいんだゾ……早く立って逃げるんだゾ!!」
グルル……と唸りながら、小さなファイティングポーズをとるグリム。
監督生は横向きに寝転がったまま、焦点の合わせきれない視界の中でくすくすと笑う。グリムが不満そうな表情をチラと見せたような気がしたが、それでも監督生はくすくすと笑うのを堪えきれなかった。ごめんね、グリム。監督生は心の中で謝った。
片方のほっぺたが冷たいリノリウムの床に触れて、光沢のあるそれにぼんやり少年とカブトムシが反射している。流れる川の浅瀬に身体半分を浸して、眩しくて、太陽に煌めく水面に夏を見ているようで。夏はザクザクと不規則に分割されて、水面に反射して、すぐにその場を流れていく。冷えた水流と、ぬるい空気と、薄紅に染まる青空と、向日葵と、少年とカブトムシ。これを夏と言わずして、なにをもって夏を定義できようか。
薄暗い廊下に転がっているというのにそんなことを考える自分がおかしくなって、監督生は身体を丸めて、またくすくすと花火が開くように笑っていた。
「グリム氏……おいで……怖くないよ……」
虫取り網が、きっと振り下ろされる。
夏の日は、意外とあっという間に暮れてしまうから。
「子分、たすけ……って、ギャーーーーーー!!」
監督生がごろりと寝返りを打つと、兄の帰りを待つ弟と目が合った。にこ、と地平線に沈みゆく太陽のように一際美しく笑った彼は、つくづく賢くて意地の悪い子だと思う。
▼
「ぬぬ……オマエ、なかなか上手いな」
「グリム氏こそ、初めてにしては悪くないですぞ」
場所は元に戻って、イデアの部屋。イデア少年ことイデア先輩と、カブトムシこと相棒グリムは、仲良くテレビゲームに興じていた。
グリムを膝に乗せて、そのモフモフの頭に顎を乗せて、器用にコントローラを操るイデアの顔は綻び、実に満足げである。ゲーム内のプライヤーの動きに引き摺られるように、時たまグリムの小さくて大きな身体が傾くのに合わせて、イデアの大きな身体も左右に揺れる。胡座をかいたイデアの貧相な尻が、やじろべえのようにゆらゆら揺れる。オルトもふたりの後ろにふよふよと浮かんで、「グリムさん、今だよ! 今!」と劣勢にあるらしいグリムを楽しそうに応援していた。
気難しい少年と血気盛んなカブトムシは、すっかり友達になってしまったようだ。
「……ふふ」
目線を上げて、監督生も静かに笑う。
不自由なことの方が多い、オンボロ寮での学園生活。
グリムが楽しそうでなによりだ、と。
ちなみに彼女はこれ幸いと機に乗じて、ずっと興味を惹かれていた学会誌を手に取っていた。わいわいと騒ぐ三人と距離をとるようにベッドのマットレスに背を預けて、目を伏せて、ザラついた紙質の頁を捲っていく。この頁じゃない、この頁じゃないと。早る気持ち。黄色い付箋を親指と人差し指で掴んで、一気に目的の発表内容へ時間と意識を飛ばそうとする。剥がれそうになる付箋に一瞬手を止めて、そっと、掬い上げるように頁を捲った。
弱いな、と思ったから。頁と付箋の粘着部分を強く抑えた。
タイトルを読み上げるべく、口を開く。
「通行可能な、ワームホール」
まず、特徴的な三次元概念図が目に入った。
それは虫に食い破られ、穴が貫通したりんごを裏っ返しに見たような。
だから、「ワームホール」。真球だと仮定したりんごの表面のある一点から裏側に到達するには、円周の半分の距離を移動する必要がある。しかし、虫が真っ直ぐにりんごを食い破れば、最短の距離の移動で済む。それが、「ワームホール」だ。一般相対性理論の方程式の数学的解のひとつ。時空間のある一点から他の一点まで、光よりも速く移動することができる。つまるところ、「ワープ」である。他の解としては、時間的閉曲線(Closed timelike curve: CTC)やディプラーの円筒などが挙げられている。
有名な話だ。数理物理に精通していない監督生でも、それくらいは知っている。
しかし、
「先輩は、なぜ。ワームホールなんかを」
監督生は、騒いでいる三人に気づかれないように小さく呟いた。
通行可能なワームホール、とは研究者の道楽と言っていい。「地球外生命体と接触するにはどうすれば良いか」という命題ありきで作り上げられた、大変不安定な理論。SF作家にとって都合の良いように、理論だけが先行している。
数学的には成立し得るのだが、現在の科学技術では制御が困難なほどの高密度(中性子星の中心部ほど)の負のエネルギーの存在を前提としている。しかも出口がどこになるかはわからないし、通行方法も確立されていない。正の質量を持つ粒子が通過すると、加速度的にワームホールは潰れてブラックホールに変質してしまうとも言われている。
現段階では、SFに使われるだけのただの仮説。
サイエンス・フィクションの域を出ない。
やたらと主張している三次元概念図を睨みつけて、監督生は再び顔を上げる。
ゲームに釣られて良いようにモフられているグリムと、いたく幸せそうなイデアと。そして、ふたりのゲームの邪魔にならないよう、器用に浮遊しながら盛り上げ役を買っているオルトがいる。グリムの悲しげな叫び声と、シュラウド兄弟の楽しげな笑い声。変わりなく、それは温もりのある光景であった。空間であった。
「…………」
誰かにとっての、都合の良い概念と言えるだろう。
オルトの存在や蔵書から想像する限り、イデアは間違いなく工学寄りの人間。理論にも興味はあるようだが、とてもSF作家様には見えない。そんな人間が、なぜ。監督生が首を傾げると、三人の集まる光景もぐるりと回転した。首を元の位置に戻すと、三人も元の位置に戻る。ふと、実に不安定だと思ってしまった。
「あ、」
考えに耽ると、身体に力が入る癖がある。
舌に鉄の味が染み付いていた。また唇の皮を捲ってしまったようだが、それは今、どうでもよかった。それよりもなによりも、他人の持ち物であるところの学会誌に、親指の爪の形に沿って凹みができてしまっていた。急いで指の腹で撫でつけてはみたが、紙に弾性は無いものだ。元には戻らなかった。
イデアの持ち物に傷をつけてしまったこともそうだが、この頁を覗いていたことがいつかバレてしまいそうで、一気に居心地が悪くなる。イデアの脳味噌の中身を、想いの中身を、断りなく覗いてしまったような気がする。ならばいっそのこと、全ての頁に爪痕を残してやろうかと画策した。木を隠すなら森の中。
しかし、そんな無駄なことに時間と労力をかける気にもなれなくて、紙の凹みをもう一度撫で付けるだけで終わりということにしておいた。それでもずっと、頭の中に残ってしまいそうな手触りだった。
雑誌を閉じて、溜息を吐く。
相変わらず、冷房は効きすぎているくらいだった。
——うして、グリムさんは監督生さんがここにいるってわかったの?
頭を抱え込んで、顔を膝の間に埋めて。またダンゴムシのようにうずくまっていた監督生の耳に、頭の中を真っ白にリセットしようとしていた監督生の耳に、オルトの澄んだ声がふわりと届いた。穏やかで優しい声だった。
「……?」
しかしその真っ直ぐな質問に、何故かドッドッドッドッ……と監督生の意思とは無関係に心拍が上昇していく。なんだか聞いてはいけないことを聞いていてしまう予感がした。
迷走神経が過緊張に陥る。
訳がわからなかった。
ジワジワと手汗の滲んできた手のひらで、制服のスラックスをぐしゃりと固く握りしめる。ハーツラビュル寮で借りたズボンプレッサーで、センターラインの折り目をきっちりつけたばかりであることも忘れて。汗と圧力で、乱雑な皺が刻まれていくことも構わずに。
耳を塞いでしまえば良いことだというのに、手のひらはスラックスを握ったまま動かすことができなかった。脳味噌のどこかでは、知りたいのだ。格好が悪い。こめかみに脂汗が滲んで、喉元でしか呼吸ができなくなっていく。吸って、吸って、吐く。吸って、吸って、吐いて、吸って。二酸化炭素が過多だ。眼鏡がズレる。深い紺色をしていた膝の間の空間が、真っ黒に真っ黒に落ちていく。これは知りたがりの弊害だった。
セカイにはきっと、ヒミツがあった。ひとりの人間が知ってはいけないこと。心がどんどん乱れていくようだった。
膝をぎゅっと抱えていないと、その場に崩れてしまいそうだ。
「……リム……たえ、ないで……」
呟いた小さな声は、真っ暗な膝の間に落ちて消えた。
「ん? 子分の居場所はなんとなく、いつもわかるんだゾ」
グリムは、なんてことのないように軽く答えた。
カラン、とジュースの氷が溶ける。
夢々しい音だった。
監督生はその後のことを、あまり覚えていない。