one of the our Summers【2】
▼
誰もいない朝の教室。
しとしと尾を引くように、弱く降り続ける雨。
ゴロゴロと遠くで鳴る雷。
大きな窓の外側を心配そうに見上げるオルト・シュラウドの姿を、少し離れた長机に足を組んで腰を掛けた監督生はなにも言わずに眺めていた。足をぶらぶらと揺らすと、スニーカーの爪先やスラックスの裾から、音も立てずに透明な雨水が飛んでいく。オルトの身体からも、雨水がぽたぽたと滴り落ちていた。雨空と繋がっていないはずの教室の床は、ふたりが連れてきた雨粒に濡れて、黒いしみが滲んで大きくなっていく。じめじめと纏わりつく湿度とふたりの心音だけが、そこにはあった。
窓を柔く打つ雨の音。
湿った木材の匂い。
雨の匂いは依然として残り続けているものの、雷はずいぶん遠くへ行ってしまったようだ。
呆れるほどに高い、教室の天井近くまでを占める一枚のガラス。防火用と、装飾を兼ねているのだろう。菱形が規則正しく並ぶように、ガラスの中に張り巡らされた黒い金網。それは窓越しにやっと見え隠れし始めた朝の青空をいたずらに細かく寸断してはいるが、ぼんやりと眺めていると、青と白をさらに際立たせる役目を買っているようにも思えてくる。ものは考えようなのである。できる限りポジティブに生きていきたいと、そう生きられる感性を育てていきたいと、どちらかといえばネガティブに傾きがちな監督生は心に留めていた。
備え付けの空調の除湿機能が働いていないのか、空っぽの教室を満たしている湿度感。まだ弱く雨が降っているから、湿度計が指す数値は百を超えているだろう。監督生は肌に纏わりついてくるワイシャツの袖を、クルクルと丁寧に捲り上げていった。汗だか雨だか、わからない水分が滲んでいた。パリッとしたアイロンがけの香り。少しだけ、ふわっとお日様の香り。面倒な洗濯と苦手なアイロンがけをこなしておいて良かったな、と思う。
目の前でふわふわと浮わついているパワードスーツの少年を除けば、どこかで見覚えのある情景と、身に覚えのある雰囲気だった。どこか、はまだ知らない。
漂白されていく雲。
翳りの薄れていく空。
夏の代名詞とも言える積乱雲。
監督生は、今朝に見たあの雄大な姿を思い出す。成長期、成熟期、衰弱期から成るその一生は、意外にも、三十分から長くとも一時間程度と非常に短命であることはあまり知られていない。あの夏の風物詩のような風景は、気象が作り出す儚い命の一欠片なのだ。一夏に何度でも見られると思っているならば、それは大間違いだ。考えを改めた方が良い。
まず、成長期には強い上昇機流を伴って、モクモクと上空へ背を伸ばしていく。雲の中では、わずかに雨粒が生成されるものの、強い上昇気流の所為で地上に雨が落ちてくることは無い。青空に並んだ大きなソフトクリームのような、よく写真映えする真夏の光景を生み出すのが、この成長過程にある積乱雲だ。
そして成熟期には、成長した雨粒や氷の粒子が上昇気流に打ち勝って落下を始める。これらの粒子は周囲の空気を引き摺り下ろして、下降気流を発生させる。上昇気流と下降気流が共存する状態。また、このとき氷晶や霰の摩擦によって、積乱雲の内部がプラスとマイナスに帯電する。そうやって縦方向に巨大な積乱雲の中で電位差が発生することにより、雲放電、果ては絶縁体である空気を通って落雷が発生するというわけだ。
衰弱期には下降気流が優勢となり、弱い雨だけをしとしと降らせる。そして上部に層状性の雲だけを残し、やがて消えていく。現時点で窓の外に浮かんでいる末期の積乱雲は、丁度この状態に該当するだろう。
身近なものであるけれど、天気とは奥が深いものなのかもしれない。
昔々にそんなことを思って読んでみた気象予報士試験対策の参考書の内容を思い返しながら、監督生は黒い網に分断された空を、刻々と移りゆく空をオルトの背中越しに観察していた。
そんな風に長い間、ぼんやりととりとめのない考え事をしていたらしい。汚い雑巾を絞った水に浸けた色をしていた雲は、今や真っ白に漂白されて、可愛らしい綿飴のような巻雲となってぷかぷかと、点々と浮かんでいる。黒いインクを一滴落とした色をしていた空は、真っ青なペンキで塗り替えられていた。子供向けの絵本の表紙みたいな、お手本みたいな空だ。雨は止んでいた。雷鳴はすっかり聞こえなくなっていた。
オルトの燃える青い髪が、その勢いを取り戻していた。
嬉しいのだろうか。そんなことを考えていた。
窓の外をじっと見ていたオルトは、そわそわとあたりを浮遊して、振り返る。
「監督生さんっ! 雨が止ん、」
『オルト! 大丈夫だった!? 兄ちゃん、二度寝してて……本当にごめん。今どこ? あ、位置情報……教室か。よかった。すぐに迎えに行くから、そこで待ってて』
焦りに焦った男の声。
静かな空気を割くような金切声が、わんわんと響いていった。発言の内容からしてどうやら、オルトの「兄」にあたる人物からの通信だったようだ。恐らくオルトに搭載されたスピーカーから鳴ったのだろうが、オルト自身もイエローアンバーの瞳を大きく見開いて、言葉を失って驚いていた。監督生も空気を吸い込んだまま呼吸を止めて、一息で、早口で話す男の声が鳴り止むまで固まっていた。お互いの顔を見合わせたふたりは、ぱちぱちと少し大袈裟な瞬きを重ねて、驚きの意を伝え合うアイコンタクトを取った。
ドタドタ、となにやら不器用に駆ける音がスピーカーから聞こえてきて、通信は一方的にブツリと切れた。
困ったように眉を下げて苦笑を浮かべていたオルトは、監督生に向かってまた真夏の向日葵のような笑顔を作ってみせて、くるりとバレエダンサーのように綺麗に回って晴れた窓の外を見上げる。監督生の視線も、オルトを追うように大きな窓の外に滑っていった。
「監督生さん。雨が、止んだね。僕の兄さんが迎えにきてくれるから、外で待っていようよ」
監督生も笑って、頷いた。
雨の跡が幾筋も残った窓ガラスの外側は、カラリと晴れ渡って強い日差しが注いでいる。一枚の絵画みたいに窓枠の中に描かれているのは、青空と、緑の葉が作る濃い影と、木漏れ日にしては明るすぎる太陽の光と。キャンバス上で乱反射する光の所為で視界が白く飛んでしまって、規則正しく配置された黒い金網はほとんど見えなかった。
窓の外には空がずっと、続いているような気がしていた。
▼
小一時間ほど前まで、監督生がうとうと寝転がっていた中庭。
突然の朝雨に降られた名も無い草花の上に、雨粒がぽつりぽつりと乗っかっている。そんなごくごく小さな雨粒のひとつひとつは、魚眼レンズのように植物の緑を、空の青を、雲の白を、そして談笑する監督生とオルトを閉じ込めて陽の光に煌めいている。それは、夏の宝石だった。
しゃがんで、覗き込む監督生。すんすん、と青くさい匂い。歪んだ自分の真っ黒い目玉が水滴に映り込んで、それは吐息に震えて地面へと滑って落ちていった。
まだ無数に存在する水滴も、雨の後の強い日差しに当てられて、次第に蒸発しては空気に溶けてしまうことだろう。あるいは夏風に揺れた葉脈の上を滑って、緑をしならせると同時に地面へ溶け込んでしまうことか。とある水滴の行方を見届けた監督生が立ち上がると、またいくつかの仲間が地面への軌道に乗った。宝石は、儚いビードロみたいだった。
パシャ、と水が跳ねる音。
オルトを追って歩き出した監督生の黒いスニーカーが、行く手にあった透明な水溜まりに触れたのだった。足を引っ込める。同心円状に波が広がって、すぐに消える。
「わ、ごめんオルトくん。水が、」
監督生の先を進んでいたオルトが足元に視線を落として、監督生を振り返る。
「これくらい平気だよ。僕の兄さんが施した防水加工は完璧なんだ。シーリングは一滴の水の侵入も許さないよ。あ、それより、監督生さん。ほら、」
さきほど監督生のスニーカーが突っ込んだ水溜まりを指差して、オルトは水面に反射した陽光を瞳いっぱいに閉じ込めてキラキラと笑った。イエローアンバーの大きな瞳に揺らめく光の模様が映し込まれて、うるうるとして、笑顔は同時に泣いているようにも見えた。綺麗すぎるそれは、まるで偽物みたいだった。
オルトの瞳に魅入られて少しもの悲しくなった監督生が、彼の小さな手が指差す方向に目をやると、
「わあ……、きれい」
——虹
今度は監督生の瞳が濡れた七色を映して、キラキラと笑い、紛い物で本物よりも美しいドールアイのように偏光する番だった。
雨上がりの青空はひとつだけではなかった。
青空は目下にも広がっていたのだ。空をそっくりそのまま、鏡のように真似をしている青い水溜まり。控えめに空を覆う、林檎の木の葉っぱの緑が落とす影。真っ白い羊のような巻雲が、小さな世界の中を泳ぐ。空は、海だった。笑顔を浮かべた監督生と、オルトもその中に楽しそうに佇んでいた。
現実世界をミラーリングしたそんなもうひとつの世界には、七色をした虹が一筋走っていた。
再びしゃがみ込んだ監督生。
少し長いスラックスの裾が、雨露に濡れる。
足元は宙に浮いたまま、オルトも隣にしゃがみ込んだことが気配でわかった。パチパチと髪が、胸の炎が、燃える音が近くに聞こえたから。ふたりは一度、顔を見合わせる。弾けるようなその音に心が温かくなって、優しくなって、監督生は水溜まりの中の虹に手を伸ばした。
「ふふ。虹に触れるなんて、不思議だね」
監督生の指先に掻き回された虹は、もうひとつの世界は、ぐるぐる回っては歪んで、すぐに静かになって元の形を取り戻す。同じ形をしているのに、もう一度見えた世界は違うもののような気がした。それは、監督生とオルトの表情が刻々と移りゆくからだろうか。掻き回される前の世界を、一度でも見てしまったからだろうか。知ってしまっているからだろうか。バシャバシャ、とまた子供のように掻き回す。オルトが隣でくすくすと笑う声が聞こえて、監督生は幸せになれた。乱された小さな世界が、元の形に似たものへ戻っていく。
監督生は幼かった頃を思い返すように少しだけ寂しい気持ちで、そんな水溜まりの様子を見ていた。隣で見ているオルトは、なにを想っているのだろうか。
「今の僕なら、本物の虹まで監督生さんを連れて行けるよ」
ぐるぐると回り続ける虹を見つめたまま、オルトは呟いた。
次にくすくすと笑うのは、監督生の番だった。
それから隣にしゃがみ込むオルトの瞳に焦点を当てると、相変わらずイエローアンバーに水面を靡かせて、真剣で、少し寂しそうな顔をしていた。小雨が降るように控えめに散っていた監督生の笑い声が、ふと、呼吸を飲み込むように止まる。「今の僕なら、」という言葉はどういう意味を含んでいるのだろうか。昔の彼とは、一体なにか違うのだろうか。幼かった頃の彼は? 敢えて触れないでいたが、パワードスーツに包まれた体表の下はどうなっているのだろうか。
監督生には、なにもわからなかった。
わかるのは、言えるのは、虹が見える仕組みだけだった。
「虹は、光学的な現象だよ? プリズムの役目を果たしている水滴のところまで辿り着く前に、空気が薄くなって私は死んじゃう」
「あはは! そうだね、ごめんね。監督生さんの言う通りだった。僕ってば、たまに……もう忘れちゃうんだ」
オルトの言葉に込められた真意がわからなかった監督生が、虹が輝く理論をもとに魅力的な誘いに断りを入れると、彼はそれにやや被せるようにして快活に笑って、優しく謝罪の言葉を添えた。オルトくんは謝らなければならないことを言ったわけじゃ無いのに。と、監督生が謝罪をされたことに対しての謝罪の言葉を探していると、すぐに見つからずに黙り込んでいると、オルトの身体が隣でブルブルと機械的に震えた。なにかを知らせるような動作だと思った。スマートフォンのそれに似ていた。パチパチ、と髪が燃える音が大きくなっていく。
「……あ、」
オルトが、ふわりと振り返る。
まだ雨に湿ったままの風がふたりの隙間を縫って、ふっと抜けていく。
彼に誘われた監督生も、同じく後ろを振り返った。
白く照りつける日差しの中から走り出してきたのは、
——また夏を体現したもうひとりの青年
「オ、オルト! はあっ、は、平気? 怖かったよね。ひとりでお遣い頼んじゃってごめん。クロウリーの奴め、くそ……オェ、兄ちゃん起きたらもう雷が鳴ってて……気付くのが遅れちゃったんだ。ふ、不具合はない? 今すぐ帰ってメンテを……」
ふたりが兄弟なのだとしたら、よくも揃って夏に囚われたものだと感心する。
オルトと同じ青空色をした燃える涼しげな髪は、膝のあたりまで伸びて、湿った風を抱いて雲のように多靡いている。酷暑だというのに、長袖のパーカーを羽織っている身体。冷房の効いた室内から急いで飛び出してきたのだろうか。
真夏に太陽へと背を伸ばす向日葵のようだったオルトのそれとは違い、切長のイエローアンバーは冷房の効きすぎた室内の気怠さや、息苦しさみたいなものを感じさせた。人工的な夏。オルトが牧歌的な田舎の夏休みを表現する少年だとすれば、青年は都会的な大学生の夏休みを表現する存在と称するのが相応しい。都会の夏は精錬されすぎて、最適化されすぎて、立ち入る隙も無い。そんな青だった。
監督生の隣に座って水面を観察していたオルトは、いつの間にか「兄」を迎えるように立ち上がっていた。ほどほどの長身の部類に入る青年は腰をかがめ、いまだ隣にしゃがみ込んでいる監督生には目もくれず、「弟」の身体をペタペタと忙しなく触っては「異常無し、異常無し……」と確かめるように呟いていく。またぐるぐると虹を掻き回してみた。気付かれていないようだった。心配のあまり目を血走らせた形相の「兄」の様子を眺めて、オルトはくすぐったそうに、嬉しそうに、無邪気に笑っていた。
「大丈夫だよ、兄さん。監督生さんと教室に避難していたからね」
「異常無し、ヨシ! 異常……へ? カントクセイサン?」
監督生は初めて、ギラギラした夏色の「兄」と目が合った。
鋭いイエローアンバーが眩しくて、少しだけ目を細めた。
カントクセイサン、とアクセントの位置がおかしい妙なカタコトを発した後に、固まってしまったオルトの「兄さん」こと見目麗しい青年。近くでよく見てみると、目の下は青隈が酷く、唇は薄ら青くて体調が悪そうだ。頬もげっそりとこけている。夏バテだろうか。そしてたった今、初めて監督生の姿を瞳に映したかのようにイエローアンバーが不安げに揺れて、その正体は冷たく透き通った陽炎みたいに感じた。ツツ、と彼の首筋に汗が何本も伝っているのが見えた。
また、新たに汗が生まれて首を伝う。
冷たい、拒絶。
透明な、無関心。
ふとそんな感情を受け取ってしまった監督生は、思わず言葉に詰まった。
拒絶や無関心を向ける側になることはあっても、向けられる側になることは、十六年間生きてきてそうそう無かったことだった。監督生は、自分で言うのもなんだが、ほっそりと背も高いし、顔の造形だって悪くはないし、声は凛と澄んでいるし、頭だって良い方だ。大人や後輩にはウケが良い……ああいや、同級生の、特に女子にはウケが少々悪いと思う。群れて戯れあうのは苦手だ。しかしそれでも、あいつらは悪い意味での関心を向けてくるから。はっきりとした拒絶の意思や無関心を示されるのは、生まれて初めてのことかもしれなかった。感情の置き所がわからなかった。
イエローアンバーがゆらゆら揺れている。
瞬きを忘れた真っ暗な瞳は、キラキラと濡れ始めていた。
「ああ、君が噂の……」
「どうも」
視線は外さないまま、監督生が軽く会釈をすると、白い陽光を反射する長くて透明なサファイアブルーの睫毛がパチパチと瞬きをした。居心地の悪そうなそれに甘えて、監督生もいい加減瞬きをさせてもらうことにした。パチパチパチ。白く飛んだり青く煌めいたりする視界は、夏の海面が光る様子に似ている。
互いに寄るべなく瞬きをしあうだけになったふたりを見つめる、少年がひとり。
オルト・シュラウド。
彼は可愛らしい小さな手を口元に当てて、無表情でほとんど牽制をし合うふたりへ、おろおろと交互に視線を投げ掛ける。決して環境が良いとは言えない炎天下、CPUが唸って、ガーガーと激しく排熱を繰り返しながら最善最適のルートを探る。最高峰の擬似感情モジュールの能力を駆使して、場の雰囲気を持ち直させるために。「ああ、君が噂の……」「どうも」。ふたりの会話を反芻して、オルトはほんの一秒にも満たない間にひとつのフレーズに行き着いた。
「監督生さん、この人は僕の兄さん。イグニハイド寮の三年生で寮長、イデア・シュラウドだよ。こう見えて、僕を作ってくれたとってもすごい人なんだ! 少し無愛想なところがあるけれど、誤解をしないであげて欲しいな」
その答えは、唯一無二、自慢の兄を紹介するフレーズだった。
脳を刺してくるような暑さと、関心が一切合切窺えない視線に、真っ暗な瞳からハイライトまで失いかけていた監督生のこめかみがピクリと動いた。伝う汗。イグニハイド寮といえば、工学、とりわけ昨晩に読み進めていた「魔導エネルギー工学」や情報技術に優れた寮だと聞く。しかも、寮長。夏風にそよぐように真っ暗な水面が揺れた。目の前の青年に対して、初めて良い意味での関心を覚えた。
——監督生さんの魂は、魔力を帯びているよ?
意味深なオルトの言葉を思い返して、監督生の瞳はぼんやりと青を映したまま。
ぬかるんだ風に多靡く。ふっ、と吹けば消えてしまいそうな。
雨の教室、青空の下、ずっと心に引っかかっていた。
闇の鏡でも見抜けなかった、監督生の魂に宿った魔力。
異世界から突如現れた「監督生」という存在。
関係が無いと言い切ってしまうのは、少々強引が過ぎるだろう。
そしてオルトは、「イデアが」「僕を作った」と言った。
自分に無関心を貫く眉目秀麗な青年を頼れば、自身に隠されている謎が解けるかもしれない。少なくとも、手助けにはなるかもしれない。可能性を秘めた長い髪は相変わらず、身勝手に夏に揺れている。イエローアンバーの瞳はどんよりとして、あくまでも監督生に対して無関心を着込んで重武装しているようだ。失礼なことを申すようだが……とてもじゃないが、イデアは積極的に他人へ救いの手を差し伸べる人間のようにも思えなかった。しかし、知りたいけれど、きっと自分だけでは手が届かないもの。無駄だと悟ってしまって、言い出せないことだった。
はてどうするべきか……と監督生は考える。自然と逃した視線の先には、もうひとりの青、小さい方の青が居た。
「……? 監督生さん?」
湿度の残る空気、潤んだ大きな瞳が瞬きを繰り返す。
小さな夏の少年を見て、監督生は彼を利用することを頭の隅で考えてしまっていた。大きな夏の青年は、どうやらこの「弟」であるオルトに酷くご執心の様子。オルトから話を切り出してもらえれば、イデアも少しは自分の謎に興味を持ってくれるのではないか、と邪なひらめきを抱いていた。
太陽に咲いた向日葵をじっと見つめる。
約束をしていたわけじゃないし、ましてや少年に祈っているわけでもない。
ただ胸の中にある想いが、少年にも伝わってくれればいいなと思った。少年も私に込められた謎について、心に留めておいてくれたならいいなと思った。少し背の高い監督生の落とす夏の濃い影が、オルトの瞳を黒く暗く染め上げていく。キョトンとした大きな向日葵が、夏の夜の色に染まる。限りなく人間に近いであろうこのヒューマノイドが、科学の力を結集したであろうこのヒューマノイドが、魔法みたいに監督生の心を読み解いてくれることを想うだけだった。
そんな奇跡にも似た出来事でも起こらなければ、自身の謎を解き、果てには元の世界に帰るなど不可能に決まっている。これは、賭けだ。夢オチ、などと適当に説明されようものなら納得ができない。欲しいのは、根拠。己の貪欲さに目が眩んで、監督生は目を瞑った。せせら笑う。瞼の向こうで、夜の向日葵が咲いていた。
「あ、そうだ兄さん!」
少年の声に、目を開ける。眩しいけれど想いは届いたんだ、きっと。
「監督生さんの魂がね、魔力を帯びているんだ。確かに魔法は使えないらしいんだけど……おかしいと思わない? 僕のセンサが誤作動してるのかな?」
オルトは小難しそうな、困り果てたような可愛らしい顔を監督生に向けて、それでも彼女が伝えたかった小さな想いを受け取って、兄へと完全完璧な言葉でバトンを繋いでくれた。
監督生は、思わず綻びそうになる口元を覆う。
弾みだした吐息の温度は高く、湿っていて、照りつける夏の日差しに翳しているときよりもずっと手のひらが暑くなっていた。真夏の、記録。真夏の、秘密。今年の分が、監督生の記憶から欠けている。このナイトレイブンカレッジで目を覚ました九月直前の記憶は、薄ら白い靄がかかったように曖昧になっていて、いくら手を伸ばしても掴めなくなっていた。その記録の、秘密の謎を解くことができれば、納得ができれば、別に元の世界に帰れなくても諦めがつくと思っている。理解さえできればいいのだ。今からでも夏に追いつけるかもしれないと希望を見出し、心の臓も弾み始めたのを感じていた。
オルトの視線は移る。
床の上で埃を被って、ぐちゃぐちゃに絡まって、放置されている配線を傍観するような表情で、イデアは白い眉間に皺を寄せていた。オルトの頭の先から爪先までを調べ上げるように視線が走査して、次に監督生の腹のあたりをふらふらと泳ぐ。思考を巡らすイデアの脳味噌の中身を体現するように、サファイアブルーの髪がうねうねと蠢いている。決して夏風には従わず、自由に空を描いていた。
暑くなっている心の温度を悟られないように、監督生はできるかぎり胸で浅い呼吸をしていた。そしてイデアはぼそぼそと、自分に言い聞かせるように話し始める。ジリジリジリジリ、と次第に大きくなる蝉の声に消えてしまいそうな声だった。
「ま、とりあえずはメンテかな。雷が直撃したわけでもあるまいし、正直言って僕のオルトが故障したとは思ってないんだけど……だから、その、そこの君」
「っえ、はい」
喉の奥から、おかしな音が出てしまった。
蠢く髪の毛をじっと観察していた監督生は、急に声をかけられたことに泡を食った。返事の準備をしていなかった乾いた喉からは、裏返った高い声が吐き出されてしまった。それは妙に女子らしい声で、酷く恥ずかしくなって上下の歯をギリ、と噛み合わせる。口元に当てていた手のひらを胸の前でぎゅっと握った。
イデアの視線は監督生の腹のあたりから、ネクタイをかっちりと締めた暑苦しい首元あたりに移っている。冷たく透き通った陽炎ではなく、実体が、ひとりの人間がそこには現れていた。
「重ねて言うけど、これからオルトのメンテをする。どうせ僕が作ったセンサは正常に動作をしているはずだから……だから、メンテ後のテストのために一緒に来て。念のために。無理にとは言わないけど、別に」
相変わらず蝉の声に掻き消されてしまいそうな小さくて低い声で、イデアは監督生の目を見ないままに事務的な声色で言葉を紡いだ。シナプスが繋がっていくようにぶわりと広がっていった青い髪は、その声色と同調するかの如くしなしな……と縮こまっていって、イデアの細すぎる身体に纏わりついて比較的コンパクトに収まっていた。細いな、と思った。
オルトはそんな兄を見て、監督生の目を見てにっこり笑って、「だって、監督生さん! 僕と兄さんのためにも、一緒に来てくれると嬉しいな」と監督生にとって恵みの雨のような言葉を贈ってくれた。
舌の根から無理くりに唾を吐き出して、乾いた喉を鳴らして飲み込む。もう変な声が出てしまわないように一度咳払いをして、監督生は夏の温い空気を吸い込んだ。
「あ、はい。わかりました。でも、二限から講義があって……その、できれば、」
監督生の声もまた、夏の終わりを惜しむような、蝉の声を前に褪せてしまうような響きだった。徐々に小さくなって、消えていく声。胸の前で握っていた手指を遊ばせる。本当は二限以降の講義など、どうでも良いと思っている。ワクワクする絶好の機会を逃すまいと、心の中では必死になっている様を悟られまいと、下手くそに取り繕うとしているだけだ。
そんなうじうじして煮え切らない監督生の態度を見たオルトとイデアは、よく似ているけれども違う色をした顔を見合わせる。そして、得意げに監督生を見る。
「さっきの雷が校舎のどこかに落ちたみたいでさ、」
イデアが言った。
「校内設備の故障で、今日の講義は全部中止になったよ!」
オルトが続けた。
——ピピ
タイミングを図ったように、ポケットの中身が震える。
監督生は急いで手を突っ込んで、スマートフォンを取り出した。
『九時五十九分 受信』
『九月二十四日 臨時休校のお知らせ』
真っ黒い背景に映っていたのは、口角を上げて頬を紅潮させた自分の顔。
今朝とは、まるで違う表情が同じガラスに映っていた。
人間とはこうも単純でわかりやすいものか。と、諦める。眉を下げて困ったように笑った監督生は、スマートフォンをポケットにしまって、既に先を歩き始めていたシュラウド兄弟の背中を追って駆け出した。遅れて姿を現わした優しい笑顔が黒い画面に反射することはなかったが……、一瞬。誰の目も気づくことがなかった足元の水溜まりだけが、楽しそうな彼女を見返していた。
黒いスニーカーが水面を踏む。
涼しげな七色の虹と笑顔が空に弾けて、青い空に広がって消えていった。
幻じゃないけれど蜃気楼のように揺らめくふたりのサファイアブルーの頭上をスッと見上げて、監督生の視界が雨上がりの青空を切り取る。今日の収穫は、雨上がりの虹が綺麗なんだと気づけたことと、科学に強いイグニハイドのふたりと出会えたこと。一限の休講とニアミスをして出掛けてしまったことは、無駄にはならなかった。空の一番上にぷかぷかと浮く真っ白い巻雲を捉えて、監督生は眩しそうに目を細めてまた微笑む。
「待ってくださいよ! オルトくん、イデア先輩!」
彼女の夏は、まだ続いていた。
誰もいない朝の教室。
しとしと尾を引くように、弱く降り続ける雨。
ゴロゴロと遠くで鳴る雷。
大きな窓の外側を心配そうに見上げるオルト・シュラウドの姿を、少し離れた長机に足を組んで腰を掛けた監督生はなにも言わずに眺めていた。足をぶらぶらと揺らすと、スニーカーの爪先やスラックスの裾から、音も立てずに透明な雨水が飛んでいく。オルトの身体からも、雨水がぽたぽたと滴り落ちていた。雨空と繋がっていないはずの教室の床は、ふたりが連れてきた雨粒に濡れて、黒いしみが滲んで大きくなっていく。じめじめと纏わりつく湿度とふたりの心音だけが、そこにはあった。
窓を柔く打つ雨の音。
湿った木材の匂い。
雨の匂いは依然として残り続けているものの、雷はずいぶん遠くへ行ってしまったようだ。
呆れるほどに高い、教室の天井近くまでを占める一枚のガラス。防火用と、装飾を兼ねているのだろう。菱形が規則正しく並ぶように、ガラスの中に張り巡らされた黒い金網。それは窓越しにやっと見え隠れし始めた朝の青空をいたずらに細かく寸断してはいるが、ぼんやりと眺めていると、青と白をさらに際立たせる役目を買っているようにも思えてくる。ものは考えようなのである。できる限りポジティブに生きていきたいと、そう生きられる感性を育てていきたいと、どちらかといえばネガティブに傾きがちな監督生は心に留めていた。
備え付けの空調の除湿機能が働いていないのか、空っぽの教室を満たしている湿度感。まだ弱く雨が降っているから、湿度計が指す数値は百を超えているだろう。監督生は肌に纏わりついてくるワイシャツの袖を、クルクルと丁寧に捲り上げていった。汗だか雨だか、わからない水分が滲んでいた。パリッとしたアイロンがけの香り。少しだけ、ふわっとお日様の香り。面倒な洗濯と苦手なアイロンがけをこなしておいて良かったな、と思う。
目の前でふわふわと浮わついているパワードスーツの少年を除けば、どこかで見覚えのある情景と、身に覚えのある雰囲気だった。どこか、はまだ知らない。
漂白されていく雲。
翳りの薄れていく空。
夏の代名詞とも言える積乱雲。
監督生は、今朝に見たあの雄大な姿を思い出す。成長期、成熟期、衰弱期から成るその一生は、意外にも、三十分から長くとも一時間程度と非常に短命であることはあまり知られていない。あの夏の風物詩のような風景は、気象が作り出す儚い命の一欠片なのだ。一夏に何度でも見られると思っているならば、それは大間違いだ。考えを改めた方が良い。
まず、成長期には強い上昇機流を伴って、モクモクと上空へ背を伸ばしていく。雲の中では、わずかに雨粒が生成されるものの、強い上昇気流の所為で地上に雨が落ちてくることは無い。青空に並んだ大きなソフトクリームのような、よく写真映えする真夏の光景を生み出すのが、この成長過程にある積乱雲だ。
そして成熟期には、成長した雨粒や氷の粒子が上昇気流に打ち勝って落下を始める。これらの粒子は周囲の空気を引き摺り下ろして、下降気流を発生させる。上昇気流と下降気流が共存する状態。また、このとき氷晶や霰の摩擦によって、積乱雲の内部がプラスとマイナスに帯電する。そうやって縦方向に巨大な積乱雲の中で電位差が発生することにより、雲放電、果ては絶縁体である空気を通って落雷が発生するというわけだ。
衰弱期には下降気流が優勢となり、弱い雨だけをしとしと降らせる。そして上部に層状性の雲だけを残し、やがて消えていく。現時点で窓の外に浮かんでいる末期の積乱雲は、丁度この状態に該当するだろう。
身近なものであるけれど、天気とは奥が深いものなのかもしれない。
昔々にそんなことを思って読んでみた気象予報士試験対策の参考書の内容を思い返しながら、監督生は黒い網に分断された空を、刻々と移りゆく空をオルトの背中越しに観察していた。
そんな風に長い間、ぼんやりととりとめのない考え事をしていたらしい。汚い雑巾を絞った水に浸けた色をしていた雲は、今や真っ白に漂白されて、可愛らしい綿飴のような巻雲となってぷかぷかと、点々と浮かんでいる。黒いインクを一滴落とした色をしていた空は、真っ青なペンキで塗り替えられていた。子供向けの絵本の表紙みたいな、お手本みたいな空だ。雨は止んでいた。雷鳴はすっかり聞こえなくなっていた。
オルトの燃える青い髪が、その勢いを取り戻していた。
嬉しいのだろうか。そんなことを考えていた。
窓の外をじっと見ていたオルトは、そわそわとあたりを浮遊して、振り返る。
「監督生さんっ! 雨が止ん、」
『オルト! 大丈夫だった!? 兄ちゃん、二度寝してて……本当にごめん。今どこ? あ、位置情報……教室か。よかった。すぐに迎えに行くから、そこで待ってて』
焦りに焦った男の声。
静かな空気を割くような金切声が、わんわんと響いていった。発言の内容からしてどうやら、オルトの「兄」にあたる人物からの通信だったようだ。恐らくオルトに搭載されたスピーカーから鳴ったのだろうが、オルト自身もイエローアンバーの瞳を大きく見開いて、言葉を失って驚いていた。監督生も空気を吸い込んだまま呼吸を止めて、一息で、早口で話す男の声が鳴り止むまで固まっていた。お互いの顔を見合わせたふたりは、ぱちぱちと少し大袈裟な瞬きを重ねて、驚きの意を伝え合うアイコンタクトを取った。
ドタドタ、となにやら不器用に駆ける音がスピーカーから聞こえてきて、通信は一方的にブツリと切れた。
困ったように眉を下げて苦笑を浮かべていたオルトは、監督生に向かってまた真夏の向日葵のような笑顔を作ってみせて、くるりとバレエダンサーのように綺麗に回って晴れた窓の外を見上げる。監督生の視線も、オルトを追うように大きな窓の外に滑っていった。
「監督生さん。雨が、止んだね。僕の兄さんが迎えにきてくれるから、外で待っていようよ」
監督生も笑って、頷いた。
雨の跡が幾筋も残った窓ガラスの外側は、カラリと晴れ渡って強い日差しが注いでいる。一枚の絵画みたいに窓枠の中に描かれているのは、青空と、緑の葉が作る濃い影と、木漏れ日にしては明るすぎる太陽の光と。キャンバス上で乱反射する光の所為で視界が白く飛んでしまって、規則正しく配置された黒い金網はほとんど見えなかった。
窓の外には空がずっと、続いているような気がしていた。
▼
小一時間ほど前まで、監督生がうとうと寝転がっていた中庭。
突然の朝雨に降られた名も無い草花の上に、雨粒がぽつりぽつりと乗っかっている。そんなごくごく小さな雨粒のひとつひとつは、魚眼レンズのように植物の緑を、空の青を、雲の白を、そして談笑する監督生とオルトを閉じ込めて陽の光に煌めいている。それは、夏の宝石だった。
しゃがんで、覗き込む監督生。すんすん、と青くさい匂い。歪んだ自分の真っ黒い目玉が水滴に映り込んで、それは吐息に震えて地面へと滑って落ちていった。
まだ無数に存在する水滴も、雨の後の強い日差しに当てられて、次第に蒸発しては空気に溶けてしまうことだろう。あるいは夏風に揺れた葉脈の上を滑って、緑をしならせると同時に地面へ溶け込んでしまうことか。とある水滴の行方を見届けた監督生が立ち上がると、またいくつかの仲間が地面への軌道に乗った。宝石は、儚いビードロみたいだった。
パシャ、と水が跳ねる音。
オルトを追って歩き出した監督生の黒いスニーカーが、行く手にあった透明な水溜まりに触れたのだった。足を引っ込める。同心円状に波が広がって、すぐに消える。
「わ、ごめんオルトくん。水が、」
監督生の先を進んでいたオルトが足元に視線を落として、監督生を振り返る。
「これくらい平気だよ。僕の兄さんが施した防水加工は完璧なんだ。シーリングは一滴の水の侵入も許さないよ。あ、それより、監督生さん。ほら、」
さきほど監督生のスニーカーが突っ込んだ水溜まりを指差して、オルトは水面に反射した陽光を瞳いっぱいに閉じ込めてキラキラと笑った。イエローアンバーの大きな瞳に揺らめく光の模様が映し込まれて、うるうるとして、笑顔は同時に泣いているようにも見えた。綺麗すぎるそれは、まるで偽物みたいだった。
オルトの瞳に魅入られて少しもの悲しくなった監督生が、彼の小さな手が指差す方向に目をやると、
「わあ……、きれい」
——虹
今度は監督生の瞳が濡れた七色を映して、キラキラと笑い、紛い物で本物よりも美しいドールアイのように偏光する番だった。
雨上がりの青空はひとつだけではなかった。
青空は目下にも広がっていたのだ。空をそっくりそのまま、鏡のように真似をしている青い水溜まり。控えめに空を覆う、林檎の木の葉っぱの緑が落とす影。真っ白い羊のような巻雲が、小さな世界の中を泳ぐ。空は、海だった。笑顔を浮かべた監督生と、オルトもその中に楽しそうに佇んでいた。
現実世界をミラーリングしたそんなもうひとつの世界には、七色をした虹が一筋走っていた。
再びしゃがみ込んだ監督生。
少し長いスラックスの裾が、雨露に濡れる。
足元は宙に浮いたまま、オルトも隣にしゃがみ込んだことが気配でわかった。パチパチと髪が、胸の炎が、燃える音が近くに聞こえたから。ふたりは一度、顔を見合わせる。弾けるようなその音に心が温かくなって、優しくなって、監督生は水溜まりの中の虹に手を伸ばした。
「ふふ。虹に触れるなんて、不思議だね」
監督生の指先に掻き回された虹は、もうひとつの世界は、ぐるぐる回っては歪んで、すぐに静かになって元の形を取り戻す。同じ形をしているのに、もう一度見えた世界は違うもののような気がした。それは、監督生とオルトの表情が刻々と移りゆくからだろうか。掻き回される前の世界を、一度でも見てしまったからだろうか。知ってしまっているからだろうか。バシャバシャ、とまた子供のように掻き回す。オルトが隣でくすくすと笑う声が聞こえて、監督生は幸せになれた。乱された小さな世界が、元の形に似たものへ戻っていく。
監督生は幼かった頃を思い返すように少しだけ寂しい気持ちで、そんな水溜まりの様子を見ていた。隣で見ているオルトは、なにを想っているのだろうか。
「今の僕なら、本物の虹まで監督生さんを連れて行けるよ」
ぐるぐると回り続ける虹を見つめたまま、オルトは呟いた。
次にくすくすと笑うのは、監督生の番だった。
それから隣にしゃがみ込むオルトの瞳に焦点を当てると、相変わらずイエローアンバーに水面を靡かせて、真剣で、少し寂しそうな顔をしていた。小雨が降るように控えめに散っていた監督生の笑い声が、ふと、呼吸を飲み込むように止まる。「今の僕なら、」という言葉はどういう意味を含んでいるのだろうか。昔の彼とは、一体なにか違うのだろうか。幼かった頃の彼は? 敢えて触れないでいたが、パワードスーツに包まれた体表の下はどうなっているのだろうか。
監督生には、なにもわからなかった。
わかるのは、言えるのは、虹が見える仕組みだけだった。
「虹は、光学的な現象だよ? プリズムの役目を果たしている水滴のところまで辿り着く前に、空気が薄くなって私は死んじゃう」
「あはは! そうだね、ごめんね。監督生さんの言う通りだった。僕ってば、たまに……もう忘れちゃうんだ」
オルトの言葉に込められた真意がわからなかった監督生が、虹が輝く理論をもとに魅力的な誘いに断りを入れると、彼はそれにやや被せるようにして快活に笑って、優しく謝罪の言葉を添えた。オルトくんは謝らなければならないことを言ったわけじゃ無いのに。と、監督生が謝罪をされたことに対しての謝罪の言葉を探していると、すぐに見つからずに黙り込んでいると、オルトの身体が隣でブルブルと機械的に震えた。なにかを知らせるような動作だと思った。スマートフォンのそれに似ていた。パチパチ、と髪が燃える音が大きくなっていく。
「……あ、」
オルトが、ふわりと振り返る。
まだ雨に湿ったままの風がふたりの隙間を縫って、ふっと抜けていく。
彼に誘われた監督生も、同じく後ろを振り返った。
白く照りつける日差しの中から走り出してきたのは、
——また夏を体現したもうひとりの青年
「オ、オルト! はあっ、は、平気? 怖かったよね。ひとりでお遣い頼んじゃってごめん。クロウリーの奴め、くそ……オェ、兄ちゃん起きたらもう雷が鳴ってて……気付くのが遅れちゃったんだ。ふ、不具合はない? 今すぐ帰ってメンテを……」
ふたりが兄弟なのだとしたら、よくも揃って夏に囚われたものだと感心する。
オルトと同じ青空色をした燃える涼しげな髪は、膝のあたりまで伸びて、湿った風を抱いて雲のように多靡いている。酷暑だというのに、長袖のパーカーを羽織っている身体。冷房の効いた室内から急いで飛び出してきたのだろうか。
真夏に太陽へと背を伸ばす向日葵のようだったオルトのそれとは違い、切長のイエローアンバーは冷房の効きすぎた室内の気怠さや、息苦しさみたいなものを感じさせた。人工的な夏。オルトが牧歌的な田舎の夏休みを表現する少年だとすれば、青年は都会的な大学生の夏休みを表現する存在と称するのが相応しい。都会の夏は精錬されすぎて、最適化されすぎて、立ち入る隙も無い。そんな青だった。
監督生の隣に座って水面を観察していたオルトは、いつの間にか「兄」を迎えるように立ち上がっていた。ほどほどの長身の部類に入る青年は腰をかがめ、いまだ隣にしゃがみ込んでいる監督生には目もくれず、「弟」の身体をペタペタと忙しなく触っては「異常無し、異常無し……」と確かめるように呟いていく。またぐるぐると虹を掻き回してみた。気付かれていないようだった。心配のあまり目を血走らせた形相の「兄」の様子を眺めて、オルトはくすぐったそうに、嬉しそうに、無邪気に笑っていた。
「大丈夫だよ、兄さん。監督生さんと教室に避難していたからね」
「異常無し、ヨシ! 異常……へ? カントクセイサン?」
監督生は初めて、ギラギラした夏色の「兄」と目が合った。
鋭いイエローアンバーが眩しくて、少しだけ目を細めた。
カントクセイサン、とアクセントの位置がおかしい妙なカタコトを発した後に、固まってしまったオルトの「兄さん」こと見目麗しい青年。近くでよく見てみると、目の下は青隈が酷く、唇は薄ら青くて体調が悪そうだ。頬もげっそりとこけている。夏バテだろうか。そしてたった今、初めて監督生の姿を瞳に映したかのようにイエローアンバーが不安げに揺れて、その正体は冷たく透き通った陽炎みたいに感じた。ツツ、と彼の首筋に汗が何本も伝っているのが見えた。
また、新たに汗が生まれて首を伝う。
冷たい、拒絶。
透明な、無関心。
ふとそんな感情を受け取ってしまった監督生は、思わず言葉に詰まった。
拒絶や無関心を向ける側になることはあっても、向けられる側になることは、十六年間生きてきてそうそう無かったことだった。監督生は、自分で言うのもなんだが、ほっそりと背も高いし、顔の造形だって悪くはないし、声は凛と澄んでいるし、頭だって良い方だ。大人や後輩にはウケが良い……ああいや、同級生の、特に女子にはウケが少々悪いと思う。群れて戯れあうのは苦手だ。しかしそれでも、あいつらは悪い意味での関心を向けてくるから。はっきりとした拒絶の意思や無関心を示されるのは、生まれて初めてのことかもしれなかった。感情の置き所がわからなかった。
イエローアンバーがゆらゆら揺れている。
瞬きを忘れた真っ暗な瞳は、キラキラと濡れ始めていた。
「ああ、君が噂の……」
「どうも」
視線は外さないまま、監督生が軽く会釈をすると、白い陽光を反射する長くて透明なサファイアブルーの睫毛がパチパチと瞬きをした。居心地の悪そうなそれに甘えて、監督生もいい加減瞬きをさせてもらうことにした。パチパチパチ。白く飛んだり青く煌めいたりする視界は、夏の海面が光る様子に似ている。
互いに寄るべなく瞬きをしあうだけになったふたりを見つめる、少年がひとり。
オルト・シュラウド。
彼は可愛らしい小さな手を口元に当てて、無表情でほとんど牽制をし合うふたりへ、おろおろと交互に視線を投げ掛ける。決して環境が良いとは言えない炎天下、CPUが唸って、ガーガーと激しく排熱を繰り返しながら最善最適のルートを探る。最高峰の擬似感情モジュールの能力を駆使して、場の雰囲気を持ち直させるために。「ああ、君が噂の……」「どうも」。ふたりの会話を反芻して、オルトはほんの一秒にも満たない間にひとつのフレーズに行き着いた。
「監督生さん、この人は僕の兄さん。イグニハイド寮の三年生で寮長、イデア・シュラウドだよ。こう見えて、僕を作ってくれたとってもすごい人なんだ! 少し無愛想なところがあるけれど、誤解をしないであげて欲しいな」
その答えは、唯一無二、自慢の兄を紹介するフレーズだった。
脳を刺してくるような暑さと、関心が一切合切窺えない視線に、真っ暗な瞳からハイライトまで失いかけていた監督生のこめかみがピクリと動いた。伝う汗。イグニハイド寮といえば、工学、とりわけ昨晩に読み進めていた「魔導エネルギー工学」や情報技術に優れた寮だと聞く。しかも、寮長。夏風にそよぐように真っ暗な水面が揺れた。目の前の青年に対して、初めて良い意味での関心を覚えた。
——監督生さんの魂は、魔力を帯びているよ?
意味深なオルトの言葉を思い返して、監督生の瞳はぼんやりと青を映したまま。
ぬかるんだ風に多靡く。ふっ、と吹けば消えてしまいそうな。
雨の教室、青空の下、ずっと心に引っかかっていた。
闇の鏡でも見抜けなかった、監督生の魂に宿った魔力。
異世界から突如現れた「監督生」という存在。
関係が無いと言い切ってしまうのは、少々強引が過ぎるだろう。
そしてオルトは、「イデアが」「僕を作った」と言った。
自分に無関心を貫く眉目秀麗な青年を頼れば、自身に隠されている謎が解けるかもしれない。少なくとも、手助けにはなるかもしれない。可能性を秘めた長い髪は相変わらず、身勝手に夏に揺れている。イエローアンバーの瞳はどんよりとして、あくまでも監督生に対して無関心を着込んで重武装しているようだ。失礼なことを申すようだが……とてもじゃないが、イデアは積極的に他人へ救いの手を差し伸べる人間のようにも思えなかった。しかし、知りたいけれど、きっと自分だけでは手が届かないもの。無駄だと悟ってしまって、言い出せないことだった。
はてどうするべきか……と監督生は考える。自然と逃した視線の先には、もうひとりの青、小さい方の青が居た。
「……? 監督生さん?」
湿度の残る空気、潤んだ大きな瞳が瞬きを繰り返す。
小さな夏の少年を見て、監督生は彼を利用することを頭の隅で考えてしまっていた。大きな夏の青年は、どうやらこの「弟」であるオルトに酷くご執心の様子。オルトから話を切り出してもらえれば、イデアも少しは自分の謎に興味を持ってくれるのではないか、と邪なひらめきを抱いていた。
太陽に咲いた向日葵をじっと見つめる。
約束をしていたわけじゃないし、ましてや少年に祈っているわけでもない。
ただ胸の中にある想いが、少年にも伝わってくれればいいなと思った。少年も私に込められた謎について、心に留めておいてくれたならいいなと思った。少し背の高い監督生の落とす夏の濃い影が、オルトの瞳を黒く暗く染め上げていく。キョトンとした大きな向日葵が、夏の夜の色に染まる。限りなく人間に近いであろうこのヒューマノイドが、科学の力を結集したであろうこのヒューマノイドが、魔法みたいに監督生の心を読み解いてくれることを想うだけだった。
そんな奇跡にも似た出来事でも起こらなければ、自身の謎を解き、果てには元の世界に帰るなど不可能に決まっている。これは、賭けだ。夢オチ、などと適当に説明されようものなら納得ができない。欲しいのは、根拠。己の貪欲さに目が眩んで、監督生は目を瞑った。せせら笑う。瞼の向こうで、夜の向日葵が咲いていた。
「あ、そうだ兄さん!」
少年の声に、目を開ける。眩しいけれど想いは届いたんだ、きっと。
「監督生さんの魂がね、魔力を帯びているんだ。確かに魔法は使えないらしいんだけど……おかしいと思わない? 僕のセンサが誤作動してるのかな?」
オルトは小難しそうな、困り果てたような可愛らしい顔を監督生に向けて、それでも彼女が伝えたかった小さな想いを受け取って、兄へと完全完璧な言葉でバトンを繋いでくれた。
監督生は、思わず綻びそうになる口元を覆う。
弾みだした吐息の温度は高く、湿っていて、照りつける夏の日差しに翳しているときよりもずっと手のひらが暑くなっていた。真夏の、記録。真夏の、秘密。今年の分が、監督生の記憶から欠けている。このナイトレイブンカレッジで目を覚ました九月直前の記憶は、薄ら白い靄がかかったように曖昧になっていて、いくら手を伸ばしても掴めなくなっていた。その記録の、秘密の謎を解くことができれば、納得ができれば、別に元の世界に帰れなくても諦めがつくと思っている。理解さえできればいいのだ。今からでも夏に追いつけるかもしれないと希望を見出し、心の臓も弾み始めたのを感じていた。
オルトの視線は移る。
床の上で埃を被って、ぐちゃぐちゃに絡まって、放置されている配線を傍観するような表情で、イデアは白い眉間に皺を寄せていた。オルトの頭の先から爪先までを調べ上げるように視線が走査して、次に監督生の腹のあたりをふらふらと泳ぐ。思考を巡らすイデアの脳味噌の中身を体現するように、サファイアブルーの髪がうねうねと蠢いている。決して夏風には従わず、自由に空を描いていた。
暑くなっている心の温度を悟られないように、監督生はできるかぎり胸で浅い呼吸をしていた。そしてイデアはぼそぼそと、自分に言い聞かせるように話し始める。ジリジリジリジリ、と次第に大きくなる蝉の声に消えてしまいそうな声だった。
「ま、とりあえずはメンテかな。雷が直撃したわけでもあるまいし、正直言って僕のオルトが故障したとは思ってないんだけど……だから、その、そこの君」
「っえ、はい」
喉の奥から、おかしな音が出てしまった。
蠢く髪の毛をじっと観察していた監督生は、急に声をかけられたことに泡を食った。返事の準備をしていなかった乾いた喉からは、裏返った高い声が吐き出されてしまった。それは妙に女子らしい声で、酷く恥ずかしくなって上下の歯をギリ、と噛み合わせる。口元に当てていた手のひらを胸の前でぎゅっと握った。
イデアの視線は監督生の腹のあたりから、ネクタイをかっちりと締めた暑苦しい首元あたりに移っている。冷たく透き通った陽炎ではなく、実体が、ひとりの人間がそこには現れていた。
「重ねて言うけど、これからオルトのメンテをする。どうせ僕が作ったセンサは正常に動作をしているはずだから……だから、メンテ後のテストのために一緒に来て。念のために。無理にとは言わないけど、別に」
相変わらず蝉の声に掻き消されてしまいそうな小さくて低い声で、イデアは監督生の目を見ないままに事務的な声色で言葉を紡いだ。シナプスが繋がっていくようにぶわりと広がっていった青い髪は、その声色と同調するかの如くしなしな……と縮こまっていって、イデアの細すぎる身体に纏わりついて比較的コンパクトに収まっていた。細いな、と思った。
オルトはそんな兄を見て、監督生の目を見てにっこり笑って、「だって、監督生さん! 僕と兄さんのためにも、一緒に来てくれると嬉しいな」と監督生にとって恵みの雨のような言葉を贈ってくれた。
舌の根から無理くりに唾を吐き出して、乾いた喉を鳴らして飲み込む。もう変な声が出てしまわないように一度咳払いをして、監督生は夏の温い空気を吸い込んだ。
「あ、はい。わかりました。でも、二限から講義があって……その、できれば、」
監督生の声もまた、夏の終わりを惜しむような、蝉の声を前に褪せてしまうような響きだった。徐々に小さくなって、消えていく声。胸の前で握っていた手指を遊ばせる。本当は二限以降の講義など、どうでも良いと思っている。ワクワクする絶好の機会を逃すまいと、心の中では必死になっている様を悟られまいと、下手くそに取り繕うとしているだけだ。
そんなうじうじして煮え切らない監督生の態度を見たオルトとイデアは、よく似ているけれども違う色をした顔を見合わせる。そして、得意げに監督生を見る。
「さっきの雷が校舎のどこかに落ちたみたいでさ、」
イデアが言った。
「校内設備の故障で、今日の講義は全部中止になったよ!」
オルトが続けた。
——ピピ
タイミングを図ったように、ポケットの中身が震える。
監督生は急いで手を突っ込んで、スマートフォンを取り出した。
『九時五十九分 受信』
『九月二十四日 臨時休校のお知らせ』
真っ黒い背景に映っていたのは、口角を上げて頬を紅潮させた自分の顔。
今朝とは、まるで違う表情が同じガラスに映っていた。
人間とはこうも単純でわかりやすいものか。と、諦める。眉を下げて困ったように笑った監督生は、スマートフォンをポケットにしまって、既に先を歩き始めていたシュラウド兄弟の背中を追って駆け出した。遅れて姿を現わした優しい笑顔が黒い画面に反射することはなかったが……、一瞬。誰の目も気づくことがなかった足元の水溜まりだけが、楽しそうな彼女を見返していた。
黒いスニーカーが水面を踏む。
涼しげな七色の虹と笑顔が空に弾けて、青い空に広がって消えていった。
幻じゃないけれど蜃気楼のように揺らめくふたりのサファイアブルーの頭上をスッと見上げて、監督生の視界が雨上がりの青空を切り取る。今日の収穫は、雨上がりの虹が綺麗なんだと気づけたことと、科学に強いイグニハイドのふたりと出会えたこと。一限の休講とニアミスをして出掛けてしまったことは、無駄にはならなかった。空の一番上にぷかぷかと浮く真っ白い巻雲を捉えて、監督生は眩しそうに目を細めてまた微笑む。
「待ってくださいよ! オルトくん、イデア先輩!」
彼女の夏は、まだ続いていた。