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one of the our Summers【1】



轍に鴉の羽をヒラヒラ漂わせながら、仮面を被った背の高い男は歩いていた。

灯りひとつ無い廊下は視線が吸い込まれていくような真っ暗闇であったが、夜目が利くのだろうか、男は迷いのひとつも見せずにカツカツと音を立てながら歩みを進めていく。音までが吸い込まれて消える。世界はヒヤリと冷たい色をしていた。また男の身体から抜け落ちるように舞う羽根は、闇よりも暗くて、冷たくて、絹のようにしなやかで。毛並みの美しい黒く濡れた羽根は無限に生まれ、無限に消えていく。

社会的に立場のある男にとって、毎夜の散策は
責務であり、
趣味であり、
日課だった。

「…………?」

カン、と杖を鳴らして男は立ち止まる。

廊下を反響して次第に消えていく音の行方を、仮面の下に潜んだ瞳が辿るように見つめる。杖を持つ手とは反対の手指で顎をしっとりとなぞり、闇を照らさない金色の瞳が訝しむように細められる。男は闇の中から違和感の正体を手繰り寄せるように呼吸を止めた。

有形、無形を問わず、探し物は男の得意分野だった。


 
はて、視線の先には何も無いはずだが。
はて、何者も居てはいけないはずだが。
 
しかし、男が張り巡らせた五感の空間的意味での延長線上には、今までは居なかった「ナニカ」が存在していた。災厄。絶望。喪失。と、いったところだろうか。反対に時間的意味での延長線上には、在ったはずのものが「無くなっていた」。断絶。消失。破滅。と、いったところだ。

繰り返すことになるが、男は本当に探し物が得意なのだ。

間違えることなど有り得なかった。

「これはこれは、また困ったことになりましたね」

口角を下げて溜息を吐き、床に突き立てた杖を軸にして男はぐるりと百八十度身体を反転させる。ヒラヒラと数枚、男の背中に鴉の羽が舞っては落ちていく。闇に背を向けた男が杖で床を強く叩くと、カツンと乾いた音が響くと同時に、二羽の艶のある鴉が暗闇の中へ真っ直ぐに飛び込んでいった。鴉は羽ばたく音を立てずに滑らかに飛んでいく。

男は目を閉じる。
また、探し物をしていた。

二手に別れた鴉は目標物のもとへと一瞬のうちに辿り着き、男の右目と左目にそれぞれを映し出す。両の瞳がフワと熱を帯びて、真っ暗な世界に光が灯る。

そこには命が在った。

目を瞑ったまま、使い魔であり自身の分身である鴉たちの視界を覗いたまま、男は大袈裟にギギギと重い首を傾げた。ムム……、と絞り出したわざとらしくて勿体ぶった声の輪郭が闇の中にぼやけていく。

「随分と傲慢な魔物のようですねえ。くわばらくわばら。こちらは……おや、可哀想に。しかし都合が良いとも言える。まあ、この世界の存続のためには全て仕方の無いことでしょう」

どこか他人事に言及するような、芝居がかった声。響く言葉の重みに反して、無責任で軽はずみな声色だった。喉の奥からは、クツクツと笑いを堪える音さえ聞こえている。

男は床に突き立てていた杖を、鍵のような形をしたそれを宙に掲げ、なにやらブツブツと唇を動かし始めた。目は瞑ったまま、まだ動かない生命を凝視して。だんだんと口角が持ち上がり、薄い月のような形をとる。恐らく自身も含めて、世界が危機的状況に瀕していることを理解しているというのに、男はこの瞬間を楽しんでさえいた。


鴉は長寿だ。街で死体を見ることはまず無い。
死体を見たことが無いというのは、死なないということに等しいのだろうか。


男は、目を開ける。
男は、杖を下ろす。

「とりあえず! ま、延命治療としてはこんなところでしょうか」

主人のもとに帰ってきた二羽の鴉は黒いマントの中に溶けるように消え、代わりにまたハラハラと羽根が舞う。男はマントを翻して、来た道を戻っていく。カツカツと革靴の底が鳴らす音は、その背後に広がる漆黒の中を反響し続け、行方知れず。

目前の消失は免れたものの、未来はいまだ不確定だった。

「ああ、私って。なんて優しいのでしょう!」

廊下には、燃えるような色をした朝日が差し込み始めている。








——夢を見ていた


空っぽのPTP包装シート。いくつもの鈍い銀色が蛍光灯の光を無造作に反射している。

締め切られた遮光カーテン。時計は無い。

ガーガー、と古ぼけたクーラーが唸り声を上げている。五月蝿い。


青いラベルが中途半端に破かれた空の五百mLペットボトル。最低限一日に一本は飲めと言いつけられているから、少女は仕方無くやる気の無い喉で嚥下していた。身体がやたらめったらに重くて、喉も上手く動かせないのに。コク、グ、と不規則に細くて白い喉が上下する。それは甘ったるくて酷く不味い。しかし飲まなければ、「イリョウホゴニュウイン」とかいう制度により、少女の同意なく閉鎖病棟にぶち込まれかねないのだ。頭がおかしい人間には人権すら無いのだろうか。透明な空間に閉じ込められた透明な液体の最後の一滴を口内に流し込むと、緩くなった口の端からそれは溢れてパジャマを濡らした。

力尽きるようにペットボトルから手を離すと、カラン。安っぽい音を立てて、同じく空っぽのペットボトルの群衆の中にそれは紛れていった。

「…………」

それは、毎日のことだった。

少女が甘いと感じる液体に何度も濡らされている前開きのパジャマは、すっかり果物が腐ったみたいな匂いを放っている。臭い。しかし身体は石のように重くて、それでいて自分のものでは無いような感覚になっていて、着替えることすら面倒だった。

知育玩具の小さなブロックみたいに転がったPTP包装シートの山と、乾き切った空っぽのペットボトルの群れと、手をつけていないゼリー飲料が入った段ボール。バリバリに乾いた血がべっとりと染み付いたガード無しの剃刀、赤褐色に変色した包帯。取り憑かれたように繰り返していた儀式めいた行為にも、いつの間にか飽きてしまったなと思い出す。

現在の少女の心持ちとしては、とにかく、なるべくなら重い身体をぴくりとも動かさずに居たいのだ。「なにもしたくない」。感情はそれくらいしか残っていなかった。生きることには疲れたが、死ぬことすら億劫だった。それは、いつからだったろうか。何時間、何日、何週間、何ヶ月、何年前から? そもそも「今」は、「いつ」だ?


とっくに思考を放棄した少女が考えることは無かった。

重い瞼の奥にある真っ暗な瞳に部屋の風景を映しながら、定位置と化している部屋の隅で膝を抱え直して、少女は顔を埋めた。




「——■■。ねえ、お願いだから返事をしてよ、■■」

悲痛な声。
ありふれた一般家庭の木製ドアの向こうから、少女がうずくまる部屋の中へと注ぎ込まれた。若い男の声。少女を怖がらせないようにと、刺激しないようにと、男は控えめなノックを続けながら何度も名前を呼んでいる。悲痛な声で呼び続けている。

しかし、少女からの反応は無かった。

ここ一ヶ月ほど、男は少女の姿を見ていないし、声も聞いていない。

男はドアに両の手のひらと額を擦り付けて体重を預け、フローリングを見つめたまま眉間に皺を寄せる。焦っていた男は、短く切り揃えた爪で無意識のうちにカリカリとドアを掻きむしっていた。その音が少女を刺激してしまってはいけない、と慌てたようにドアから離れる。ふらり、と足取りはおぼつかなかった。脳裏をよぎったのは、何本も静脈を切断し、血溜まりの中に真っ黒い髪を沈めて横たわっていた過去の少女の姿。散らばっていた剃刀。フラッシュバックを起こして、男は恐怖を感じていた。身体がシバリングを始める。今日はもう、駄目だろう。



陽の入らない暗い廊下を引き返し、男は重い足取りで玄関へと向かう。

素足がフローリングに張り付いて、ベタベタとした生活音が響いている。「今日も」駄目だった。男は落胆していた。「駄目」だったのは少女か、自分か。だんだん歩幅が狭くなっていって、最後は半ば引き摺るようにして足を動かしていた。廊下は暗くて蒸し暑い。カーテンを閉め切った少女の部屋も、こんな風に息苦しいのだろうか。自分には、少女を救えないのだろうか。酷い無力感の所為で身体が重かった。


草臥れたスポーツサンダルに足を入れると、男は家の鍵を手に取り、ひんやりしたドアノブを捻って、逃れるようにして外界に身を晒した。


一瞬、なにも見えなくなった。

抜けるように高い真っ青な空。成長途上にある背の低い入道雲。その中に一筋走った飛行機雲の行方を眺めて、男は白飛びした視界の眩しさに目を細める。

「うわ、暑いな……」

郊外の住宅地。平均して二、三階建ての家屋が整然と並び、送電線が何重にも張り巡らされた空。それも丁度逆光に位置した太陽に照らされて、白く塗り潰され、歪んで、ぼやけて、全て空の一部になっているように思えた。男は左手を太陽に翳す。腕にじわりと汗が滲んでいる。残暑の厳しい九月のこと。家の中にいた頃の男の感覚よりも空はずっと青くて、広くて、心地良いものだった。

しかし、一ヶ月ほど前から部屋に閉じ籠っている少女は、突然に心を閉ざしてしまった少女は、どこまでも青い今年の夏を知らないのだろう。あの日は夕立が酷かった。男が唇を噛むと、細められていた目が自然と開いてぼやけていた視界が晴れ、真っ白い入道雲の中に黒い電線が幾筋も浮かび上がる。それはイタズラに空を分断しているようにも見える、青と白と黒のコントラスト。住宅地の夏の風景。

やっぱり、なんてことないのかもしれない。
それでも男は、少女に夏の続きを知ってほしいような気がした。
 

——チリン、チリン、

青と白と黒をぼんやりと眺めたまま考え事をし始めていた男の視界を、生活感のある格好をしたご婦人が自転車に乗って軽やかに横切っていった。派手なピンク色をしたエプロンが目に留まって、男は苦笑を漏らしてしまった。

「……本屋にでも、行くかな」

そういえば空に翳していたままだった左手を恥ずかしそうに下ろし、誰に向けることもなく呟く。アスファルトに濃い影を落としながら、男はサンダルの底をズルズルと引き摺って歩き出す。緩いウェーブのかかった髪を輪ゴムでまとめると、頸に汗が滲んでいた。





監督生は、そんな夢を見ていた。


夢に出てくる少女の顔も、男の顔も、ああ、ご婦人の顔も思い出せない。けれど、毎日のように同じ彼らの夢を見ていた。顔も覚えていないのに、どうして「同じ」彼らだと言えようか。おかしな話だ。年季の入ったベッドの上で伸びをすると、ギシギシとそれは簡単に音を立てる。スル、とタオルケットが身体から滑り落ちる。隣でスヤスヤと寝息を立てている灰色の相棒、グリムの姿を確認して、安心した監督生は穏やかな溜息を吐いた。

ナイトテーブル代わりに置いてある、カビの生えた木製スツール。

その上に置いてあるのは監督生の丸眼鏡と、昨晩読み終えたばかりの魔導エネルギー工学の本。工学の話なら自分にも理解ができるかと思い、手に取ったのだったが……まあ、理論は理解ができた。自分で言うのもなんだが、頭は良い方だ。しかし肝心の「魔法を導く」ことが絶対的にできないのだから、ものづくりや技術開発を主眼に置く「工学」として自分の役に立てることはできない。それが悲しくも昨晩に下した結論だった。

「ふあ……、もう八時か」

眼鏡を手に取り、耳にかけると視界がパッと冴えてきて、壁掛け時計の針の示す意味が頭に入ってくる。どうやら長いこと眠っていたらしい。ナイトレイブンカレッジの始業時間は午前八時四十五分。そろそろ行動を始めないと間に合わなくなる、と監督生はグリムを起こさないようにするりとベッドから抜け出した。



食堂で使っていたお古を頂戴したトースターから、こんがり焼けた食パンの匂いがキッチンに漂っていた。インスタントコーヒーにお湯を注いでいる最中、ガシャ、と背後で軋むような音が鳴ってトーストが飛び出す。振り返った監督生は二枚の皿にトーストを一枚ずつ載せて、片方にはピーナッツバターをたっぷりと、もう片方にはツナマヨをたっぷりと、丁寧に塗っていった。すんすん、と鼻が鳴る。

トーストとインスタントコーヒーの匂いの組み合わせというのは、どうしてこんなにも心が幸せになれるのだろうか?

ピーナッツバタートーストが乗った皿と、湯気を立てるマグカップを身体の前に引き寄せて、監督生はキッチンに立ったままいそいそと朝食を採り始めた。サクサクとした食感のトーストを頬張り、それを熱々のコーヒーで胃に流し込む。コーヒーは安物だが、香ばしくて苦い空気が鼻を抜けていって、思わず身体から力が抜けてほっと呼吸が漏れる。自然と細くなった視界でキッチンの小さな窓の外を見やると、水色のペンキをいっぱいに溢したような濃い色の空とわたあめみたいな入道雲が高く高く背を伸ばしていた。曇った銀色のシンクに光が注いで、キラキラと白を反射していた。夏は続いている。トーストとコーヒーを代わる代わる、急いで腹の中に収めていくと、首筋にぬるい汗が伝うのを感じた。


空になった皿とマグカップをシンクの中に置いて、蛇口をひねって水を張ると、またキラキラと夏の太陽が泳いでいた。



「グリム、ねえ。グリム、授業始まるよ」

割れたままの曇った鏡を覗き込み、眉毛と、睫毛と唇の化粧を念入りに確認する監督生。八時三十分。もうオンボロ寮を出発しなければ授業に間に合わなくなるのだが、灰色をした相棒は相変わらずスヤスヤと心地良さそうに寝息を立てている。

監督生とグリムはふたりで一生徒。今はまだ遠い卒業の日を思うと、引っ叩いてでもグリムを起こして、引き摺ってでも授業に連れていった方が良いことはわかっていたが、どうもそんな気分にはなれなかった。監督生は鏡越しに、眠るグリムを見つめている。

彼は少々、気性が荒いのだ。

引っ叩いて起こしたり、引き摺って授業に出席させれば、たちまちに癇癪を起こすことが目に見えていた。青い炎を吹いて暴れ出したり、怒りの矛先を学園の関係者に向けられては堪ったものじゃない。監督生とグリムはふたりで一生徒。グリムが引き起こした事件の始末にと、一緒になって反省文を書かされたり、雑用を言いつけられたりしたことが何度もあった。最近はグリムのコントロールにも慣れてきて、すっかり頻度は減ってはいたものの。

厄介な事件を引き起こされる可能性と、授業を遅刻扱い(グリムが欠席した場合、そのような措置が取られている)にされる確実な未来を天秤にかけて、監督生はグリムをこのまま眠らせておくことを選んだ。そもそも監督生は、このツイステッドワンダーランドの住人ですら無いのだから。四年も先、卒業のことなど今はまだ考えなくて良いだろう。四年もあれば、きっと元の世界に帰ることができると信じている。

「私は先に行くよ、グリム。ツナトースト、キッチンにあるから食べて」

眠るグリムに意味の無い言葉をかけて、彼が握り締めたまま寝落ちたスマートフォンをひょいと取り上げてスラックスのポケットに放り込む。監督生は登校用の重いリュックを背負って、軽い足取りでオンボロ寮の玄関へと向かった。


蝶番が錆びかけている玄関をギギギと開けてくぐると、抜けるような真っ青な空が頭上に広がっていた。もこもこと成長した入道雲が縦横無尽に広がる。監督生が眩しげに空を見上げていると、箒に乗った誰かが軽やかに視界を横切っていった。ふと、飛行機雲が見たくなった。

「まだまだ、夏だなあ」

遮るものがほとんど無いナイトレイブンカレッジの空は広い。オンボロ寮の玄関を出て右手にあるお城みたいな校舎だけだった、監督生の空を覆い隠しているのは。元の世界のことは朧げにしか覚えていなくって、自分の家の玄関を潜ったらどんな空が広がっていたのか、監督生は思い出せなかった。頬を撫でる夏風は少しだけ湿っていて、蝉時雨と雨の予感がした。振り返った監督生はもう一度玄関の扉をくぐって、靴箱の上に置いてあった折り畳み傘を手に取る。前に雨が降ったのは、いつの日だっただろうか。折り畳み傘は少し湿っていて、ちょっぴり生乾きの嫌な匂いがしたから、やっぱり玄関に置いておくことにした。

左腕にはめた緑色の腕時計を見る。

八時三十六分。早歩きをしないと授業に間に合わなくなるな、と監督生は真っ青な空の下、黒いスニーカーを履いた足を一歩踏み出した。彼女は青も、緑も大好きだった。




図書館の脇道を通り抜けて、学園のメインストリートに合流する。

左手には、グレートセブンの石像。ふと、足が止まる。魔法士の卵たちの憧れを集め、太古の昔からツイステッドワンダーランドにおいて尊敬され、畏怖される伝説。と、なんとなく学園で一緒に行動することが多い生意気で器用な同級生、エース・トラッポラから監督生は聞かされていた。そういえば、彼と初めて出会ったのはあの時だったっけ。

正直なところ、監督生にはその偉大さがいまいちピンときていなかった。そもそも異世界人であり、魔法などとは縁もなく十六年間生きてきたのだから仕方の無いことだ、と思う。魔法を操る人は皆、同じに見えた。魔法が使えるか、使えないか。監督生にとって、違いと言えばそれくらいだった。皆、監督生とは違う。それだけ。鏡舎を潜り、同じ寮で集まって楽しそうに話しながらメインストリートを歩く生徒たちに一瞥をくれて、監督生は校舎に向かって歩き出す。

『——ピピ』
「……」

振動したポケットの中身。

気怠そうに眠い脚を引き摺り、空に向かって大きな欠伸を漏らしながら、監督生はゴソゴソとポケットの中を弄る。周囲を歩いている生徒たちのうち何人かが、全く同じタイミングでスマートフォンを取り出したことに気づいて、監督生は少し気味が悪くなって眉間に皺を寄せた。だんだんと通知内容を確認したであろう生徒が増えて、ざわざわと周囲に波風が立ち始めていることを肌で感じていた。

取り出したスマートフォンの右上には、新しい通知を示す緑のランプが光る。親指でスワイプすると、不機嫌そうな顔をした自分が映り込む真っ黒な背景に、ずらりと昨晩からの通知群が表示される。女の癖に可愛くないなと思ったから、少しだけ口角を上げて無理矢理笑顔を作ってみるが、それもなんだか気持ち悪かったからすぐにやめた。通知。グリムが勝手に上げたマジカメの投稿への反応。同級生デュース・スペードからグリムへのメッセージ。「ツナ缶大セール!」という謎の通販サイトからのお知らせ。昨日、スマートフォンを見ていた時間の合計。それらの一番上に、ポケットを震わせた正体がいた。

『八時三十九分 受信』
『教養化学 休講のお知らせ』

通知を目をにした監督生は、がくりとわかりやすく肩を落とした。まだ寝ていたかったけれど、鋼の意志で起床し、いつも通り朝食を摂り、メイクまで完璧にこなしてオンボロ寮を出てきたというのに。頭をボリボリと掻く。ああ、髪はボサボサのままだったな……

騒めいていた生徒たちが「俺、寮帰って寝るわ」「図書館行こうぜ」「朝メシ食おー」などと言い交わしながら、監督生の周囲を行ったり来たりしている中、彼女の黒いスニーカーはその場に固く留まったままだった。


優柔不断で思慮深い監督生は、行く当てが咄嗟に思いつかなかったのだ。

図書館へ行こうか。
いや、きっと行き場を無くした生徒たちで窮屈なことだろう。
植物館はどうか。
いや、わざわざ校舎から離れるのは面倒臭い。
グリムを起こしに行くというのも……ああ、なんだか気が乗らない。


操作をしないまま時間が経過して、真っ黒になったスマートフォンの画面。

唇を尖らせて溜息を吐き、監督生は諦めたように空を見上げた。


どこまでも行けそうな広くて青い空の下、行く当てのなくなった監督生。シンプルでフォーマルなストレートチップ、プレーントゥ、カジュアルでお洒落なウイングチップ、モンクストラップ、可愛らしいローファー、高機能なスニーカー、楽ちんなサンダル。多くの靴が校舎の反対方向へと歩き出しているメインストリート。そのど真ん中に立ち尽くしていた汚れた黒いスニーカーは、人波を裂き乱すようにして足取り重く歩き始めた。



ツイステッドワンダーランドの空を覆い隠す校舎へと向かって。






——場所は、中庭

結局、監督生は中庭のリンゴの木に背中を預けて本を読んでいた。

さきほど休講が宣言された「教養化学」の教科書。湿った夏風にペラペラと頁をめくられては視線が滑り、冴えない脳味噌でふわふわした欠伸を溢す。今年の四月に入学していた高校の化学の教科書と、然程代わり映えのしない内容だった。「魔法」という特別な概念以外、ツイステッドワンダーランドの科学水準は、元の世界と大きく変わらないようである。監督生は有機化学、無機化学、物理化学、分析化学……といった基本的な内容を、元の世界に居た頃に学士レベルくらいまでは理解してしまっていた。進みの遅い学校の授業は死ぬほど暇だったし、少し考えればわかることを馬鹿みたいに繰り返す教師への対応は面倒臭かったし、ただ、その先を知りたかったから。簡単すぎる化学反応式に、単純な空間充填率の計算、決まりきった金属イオンの特定方法、エトセトラ。また夏風が頁をめくって、見たことがあるような内容が瞳に映る。


監督生の行為といったら、それは「本を読む」というよりは「本を弄る」に近かった。


空いっぱいに枝を伸ばした青々とした葉からは、木漏れ日が透けている。淡い黄色みのある教科書の頁に光と影を交互に落とし、既に散漫になっている監督生の意識をさらに細かくバラバラと分解していく。影は葉っぱの形をしていた。紙の上に並んだ文字列が、文節ごとに浮き上がって視界の中を頼りなくふわふわと漂う錯覚。

「っあー……、だめだな。眠い」

監督生はふにゃふにゃになった声でそう溢し、スラックスを履いた尻をズルズルと滑らせて木漏れ日の中で仰向けに寝転がった。

眩しくって、綺麗だった。

まだ青々としている葉が落とす影。隙間から差し込む白い光。一、二、三、四、……と細めた目で数えたのは、十六本くらいに分かれて広がる向日葵のような光芒。そういえば、毎年青空にすっくと背を伸ばすあの黄色の花は、いつの間にかもう消えてしまっていた。夏は終わりに近づいている。疎らな白い光と黒い影で構成された美しい模様が監督生の身体に落ちてきて、視野を曖昧に溶かしていく。眩しくって、真っ白でなにも見えなくなって、やっぱり綺麗だった。

季節に乗り遅れたツクツクボウシが遠く、哀しく、盛夏を懐かしむようにしっとりと鳴いている。チッチッチッ……と特徴的な抑揚の無い鳴き声はチッチゼミだろう。少しだけ、初秋の匂い。その高く透き通った声には掴みどころがなくって、青空に広がる真っ白い入道雲から真っ直ぐに落っこちてきているみたいだ。
 

監督生はその目を瞑る。メインストリートの真ん中でスマートフォンの画面を見ていたときに感じた、胸騒ぎみたいなものはすっかり消えてなくなっていた。

 




——た画像を顔認証エンジンに照会中。照合結果、一件。最新情報。所属、オンボロ寮。名前……ユ、ウ? 通称、監督生』……ユ、えっと、監督生さん、起きて! 雨が降ってきているよ! 早く防水魔法を使わなきゃ、濡れ鼠になっちゃう!」

夢の中に響いたのは声変わりをしていない少年の、あるいは少女の声だった。

まるで冷房が効いているみたいに涼しい木陰で、腹の上に教科書を乗せて静かに呼吸をしていた監督生は、キラキラと輝く木漏れ日のような……いや、どちらかといえばチラチラと規則的に点滅する真っ白い蛍光灯の光のような音に触れた。そしてミストのように冷んやりと頬を濡らしていく心地の良い音、音声、こえ? 「ん、まだねむいです……」。欲望に忠実な監督生の唇がそう溢すと、

——ふわり、

「わ、え!? ちょ、なな、なに!?」

浮遊感。

突然の感覚に動転した監督生は顔からずり落ちそうになる眼鏡のツルを咄嗟に掴んで、腹の上に置いたまま微睡んでいた教科書を左手で抑える。香り立つ、湿った緑と土。すうっと頬を撫でていく風。青々とした柔らかい草の絨毯に横たわっていた身体が、なにやら人間にしては硬すぎる腕に抱かれて宙を移動しているようだった。心拍数が上昇する。身体が木陰を抜けていく。

驚きのあまり焦点が合わないで彷徨っていた瞳が、やっと、空を映した。

瞳に飛び込んでくる光景。

オンボロ寮の玄関をくぐった頃の、木陰で見上げていた頃の、真っ青でどこまでも抜けるような空はすっかり姿を消していた。雑巾を絞った後の汚水みたいな色のインクが染み付いた、暗い入道雲。その隙間から覗く真っ青だったはずの空は、黒いインクを一滴落としたみたいに翳っている。鋭い光芒を生み出していた太陽は、境界がぼんやりと歪みきった柔らかい光だけを放っていた。

「あ、雨……? 冷たっ、」

——ボタッ、ボタ……

そんな朝雨の空から落ちてくるのは、身体を突き刺してくるような大きな雨粒だった。顔面にいくつも重い雨粒が落ちてきて、痛くなって、監督生は再びその目をぎゅっと瞑る。

監督生はよくわからない硬い腕に抱かれたまま、すうっと心地よい速度で痛いほどの朝雨の中を移動させられた。どこに行くというのか? 人間が歩く際に生じる上下方向の振動みたいなものは一切感じず、真っ直ぐ、優しく、腕の主はただ水平に監督生を運んでいく。目を瞑ったままの監督生は、元の世界で何度か乗ったことのある新幹線の乗り心地を思い出していた。

ナイトレイブンカレッジの中庭は、然程広くはない。

ご親切なことに、目的地は屋根のある外廊下だったようだ。身体を打つ痛いほどの雨は、ようやく消えて無くなった。監督生は眼鏡を外し、ビショ濡れになった顔を右腕で拭って、目を開ける。白いワイシャツに真っ黒いマスカラ液が掠めてしまったのを視認して、「うわ……最悪」と思わず呻き声を漏らした。

「あっ……ごめんね、監督生さん。僕が勝手に運んじゃったからだね」

乗り心地があまりにも良いものだから、すっかり忘れていた。

無機質な腕が一本、ゆっくりと地面に向けて下がっていって、監督生の黒いスニーカーをまた優しく接地させてくれた。同時に申し訳なさそうな、悲しそうな、心をぎゅうっと締め付けるような淡い声が謝罪を降らせる。ああ、あなたは悪くないのに。きっと繊細な子なんだ。頭を支配する気まずさに監督生が口をつぐんでいると、もう一本の無機質な腕が背を押して、自分の脚で立つようにそっと促した。

マスカラ液で汚れた白いワイシャツを顔の前から避けると、まずは群青色の天井が瞳に映った。身体をゆっくりと起こして自分の脚で地面に立ちながら、次に、雨の中で身体を預かってくれていた心優しい人物を瞳に映そうと顔を左に傾ける。今朝に見た色と似た青が視界をよぎった。


その色は焦がれた夏の匂いがした。


「監督生さん?」


夏空が揺らぐ陽炎のようなその青に心が夢中になっていると、視界の端で快活な印象を受ける大きなイエローアンバーの宝石がぱちくりと瞬きをした。

既に自分の脚で体重を支えていた監督生は、その宝石の行方を振り返った。

「あ、の。あなたは、」
 


……なんなの?
 
失礼にも程がある。
しかし、監督生はそんな言葉を零しそうになった。

言葉と一緒に唾を飲み込むと、動揺が伝わってしまいそうで気が気でなかった。


 
フライング・ヒューマノイド。
監督生を土砂降りの雨から救い出してくれたヒーロー。ああ、決してUMA(未確認飛行物体)を指しているのではない。視線の先にはイエローアンバーの大きな宝石を潤ませて、心配そうに眉を下げてこちらを覗いている「少年」が、いた。

ついさっき視界をよぎった雨に滲む青空は、少年の髪だったようだ。下ろせば監督生と同じくらいの長さになりそうな少年の髪は、青空は、雨空に向かってゆらゆら嫋やかに燃えていた。それは、サファイアブルー? それとも、スカイブルー? とにかく、十六年間生きてきた監督生がこれまでに見たことのある青空よりも、ずっと、ずっと青い色をしていた。雨が降っているというのに、肌を焦す夏の透き通った匂いがした。

夏色をした少年。その綺麗で愛らしい顔こそ人間のそれと同じであったが、首から下は白を基調としたパワードスーツのようなものに全身覆われていた。肋骨の一本一本に食い込み、浮き立たせ、ぴたりと腰のくびれから臀部にかけて密着する意匠。口元を覆い隠す黒いマスク。耳を飾るヘッドフォン。宙に浮くボディ。胸には髪の青と同じ炎が灯っている。


……なんなの?

そんな言葉は飲み込んで正解だったようだ。少年が人間だろうと、なかろうと、監督生は手放しで知ったことではないと思うように心が様変わりしていた。美しいのだ。この少年は、「そう」在るべきで、それ以外には有り得ないのだ。監督生は芸術に詳しい方ではないのだが、少年の造形は完成されていると一方的に悟った。よくわからないまま、それでも脳味噌は決定を下していた。監督生が呆けた顔をしていたのか、少年は悪戯っ子のように目を細めて、肩でくすくすと笑い出す。どこか懐かしい匂いがした。

「僕は、オルト・シュラウドだよ」

オルト・シュラウド。

オルト・シュラウド。

どこかで知った名前だと、直感が訴えていた。

「オ、オルト・シュラウドさん……? あの、私は。えっと」

妙な第六感に戸惑って、まだ上手く言葉が紡げないでいる監督生。

対してオルト・シュラウドは、太陽に向かってどこまでも背を伸ばす向日葵のように眩しく、健やかに一層キラキラと笑った。生身の人間とほとんど変わらない、少年らしい小さな手をお行儀良く口元に当てて。マスクに隠されて口元は見えないはずなのに、小さな口をいっぱいに開けて、綺麗な歯並びを見せて笑っているような気がした。ああ、いや、もちろん口元は隠されていて然るべきなのだが、言葉の綾としてそんな風に思えたというだけ。

ほんの数秒間、心から楽しそうに笑ったオルト・シュラウド。

監督生には、そんな蜃気楼が一夏の思い出のように感じられた。

向日葵は、まだここに咲いていた。

オルト・シュラウドはぱっちりと大きな瞳を開けて、少し背の高い監督生の真っ暗な瞳を覗き込む。丸い眼鏡に青い炎が反射して、そこにだけは青空が広がっていた。

「私は、ユ」
「監督生さん、だよね! 僕のことはオルトって呼んでね」

自己紹介をしようとする監督生の言葉を半ば無理矢理に遮って、オルト・シュラウドはまた向日葵のような笑顔で朗らかな声を被せていった。朝雨がより一層酷くなって、ゴロゴロと雷が鳴り始めている。

「オ、オルトさん……」
「オルト!」
「……オルト、くん」
「んもう、監督生さんったら。はあ、その呼び方でいいや」

傍から見れば、少年少女の微笑ましい言葉の応酬。

中庭に光る雷に一瞥をくれ、諦めたように目を瞑り、肩をすくめて、オルトは少し残念そうな声で監督生からの「オルトくん」呼びを認めてくれた。若干だが髪の炎が弱まっているように見えるのは、監督生の気のせいだろうか。オルトはもう一度、心配そうに暗雲立ち込める空を見上げる。雷が曲線美を照らして、濡れたボディが愛玩動物のように小さく震えた。雨に濡れた眼鏡のレンズが見せた嘘だったのかもしれないが、オルトは雷を怖がっているような気がした。

「オルトくん。雷、すごいから早く寮に帰った方がいいよ」

空を見上げながら監督生がそう呟くと、オルトのイエローアンバーが迷うように揺らぐ。雷雨は、怖い。僕の外装は、僕のコアパーツは十分過ぎるほどに耐久試験を重ねているのに。オルトの思考回路は反復していた。たとえ雷が直撃したって、大容量のヒューズを備えているから一時的にシャットダウンするだけで済むはずなのに。雨に濡れた女の子を早く寮に送り届けて、温かいシャワーを浴びて、温かいココアを飲んで心を落ち着かせてほしいのに。僕にはそれができる機能が備わっているはずなのに。

何も言えないまま俯くオルトを、今度は監督生が心配そうに見守っていた。

「雷、怖いの?」

監督生は物理工学に特別詳しいわけではないからよくわからなかったが……いや、そもそもとして、オルトが精密電子機器で作り上げられたヒューマノイドなのかどうかもわからない。知る必要すらないと思っている。しかし、仮に、オルトがヒューマノイドであるならば恐らく雷は天敵だ。監督生の問い掛けに、オルトはなにも返さない。雷は、きっと、多分、致命傷だった。

「どこか教室の中で、一緒に雨が止むまで待っていようか」
「えっと、僕は、大丈夫! でも、その……監督生さんだけでも先に帰ってて」

両腕をブンブンと振って平静さを繕うその笑顔は、つい先ほどに見た大輪の向日葵ではなく、小ぶりなシモツケの花のようにポツポツ咲いていた。どこかに雷が落ちる轟音。隠そうとすれば隠すことのできる感情であろうに、排除できる感情であろうに、オルトはやっぱり恐れていた。「怖い」という感情を持ってしまうことそれ自体を恐れていた。


——僕の兄さんは完璧のはずなのに


「…………深度演算モードに移行します」

意図しない結果を弾き出し続ける擬似感情モジュールを酷使して、オルトは演算の試行回数を重ねていた。すぐに排熱が追いつかなくなって、コアパーツが異常な熱を発し始める。

ファンが唸る。
また雷が鳴る。

なにやら機械的な音声を発した後、瞳のハイライトが翳り、微動だにしなくなったオルト。特に雷が怖いわけでもない監督生は、首を傾げてオルトを覗き込み、ウンウン唸るファンの音を聞いていた。「深度演算モード」とやらに移行したそうだが、この状態で話しかけても平気なのだろうか。果たして反応はあるのだろうか。早く、安全な屋内に避難した方が良いのではないだろうか。

ボディに触れようと伸びた手がぴたりと静止して、躊躇って、引っ込んでいった。

「あの、オルトくん? 私、傘持ってないし。皆みたいに防水の魔法使えないから、一緒に……」

土砂降りの雨音に負けないように。
集中してしまったオルトにも聞こえるように。

監督生は普段あまり使わない筋肉を使って、声を張り上げる。強制終了には至らないものの、ログに吐き出され続ける軽微な警告を掻き分けるようにして、INFORMATION を張り上げた。


ぱちり。
監督生の懸命なデバッグ作業に気づいたのか、オルトの瞳がシャッターを切った。
深度演算モードを終了します。


「監督生さん。魔法、使えないの?」
「え、そうだよ」
「でも、監督生さんの魂は魔力を帯びているよ?」



酷い雷雨。
オンボロ寮ではグリムが目を覚ましていた。


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