警察編 ②
名前の設定
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「う、打ち切りって、なんでですか?」
「さあな。他の課が受け継ぐだなんだと言われたが……詳しくは分からん」
彼は苛立たし気にスキンヘッドをがしがしと掻きながら、椅子に凭れる。折角、諸伏のことを探そうと決心がついたのに、これではどうしようもない。セキュリティの男は偶然出会っただけの男で、今の行方は分からないし、彼の僅かな影を追うには被害者の情報が必要なのだ。
私は心に生まれた焦りを堪えることができず、「でも」とその言葉に食い下がった。その厳つい顔が、私のほうを睨みつける。もとより迫力のある顔は、どこか悔しさを含んで私の名前を呼んだ。
彼も一警官だ。みすみす自分の持った案件で殺しが出て、それを追えないことに、何か感じないわけがない。私は姿勢を正して、しかし滲む歯がゆさを隠すこともできないまま「出すぎたことを言いました」と頭を下げた。
◇
「ウチもだ」
その日の帰り、再度マンションに集まった面々は、揃って肩を落とした。捜査が打ち切られたのは一課も同じらしく、やはり表向きではない男だったことが伺える。(まあ、そうでもないと、人生そうそうライフルで狙われることなどないが)
松田は自分の管轄外であることを悔しそうに、客人用のグラスに入った烏龍茶を呷った。それにしたって、暴力団に対する捜査班のはずのソタイが、いくら五課とはいえ情報すら与えられない捜査とはいったい何だ。伊達に関してもそうだ。個人の怨みそねみではないことは確かだ。
「考えられるなら?」
「暴力団、マフィア、政治団体、宗教団体、テロ組織……」
「そんなの全部調べてたらキリがないよ」
伊達の上げた候補に、私は苦言を漏らす。
この世にはそういった人物が何万人といるのだ。世間の裏側、とだけの情報では、探り用もない。
「お前が追ってたあの男は」
「……確かに、被害者のことを慕ってたみたいだけど。それ以上の情報は下りてこなかったんだよね」
「ハー……正真正銘の隠ぺい工作だな」
松田の言う通り、情報は意図的に隠されているのだ。あれ以来捜査資料すら見かけることはない。三人で頭を突き合わせ、数十分の時が過ぎた頃だった。
扉の開く音に、パっと三人同時に玄関のほうを向いた。この部屋の鍵を持っているのは私ともう一人しかいないのだから、人物はもう分かっている。そうでなかったら、通報物だ。
萩原はジャケットを脱ぎかけのままリビングに入ると、私たちの様子を見てぎょっと目を見開いた。口元は、やはりいつもどおり少し笑みを描いている。
「うわっ、こんな暗い部屋で何してんの」
「……作戦会議。行き詰ったけど」
「あー、捜査打ち切りってやつね」
彼は買ってきた酒を片手に松田の横に座ると、機嫌良さそうに口角を持ち上げていた。そして、ジャケットをソファに掛けると、肘をつきニヤリと得意げに笑って見せる。私はその顔を見て、まさかと呟く。驚いた表情は、恐らく三人共通だったのだろう、萩原の口元は益々笑みを深くしていった。
「研二くんを舐めんなよ~。人の口に戸は立てられぬ、ってなあ」
萩原は、安物のウィスキーを、松田から横取りしたグラスに注ぎながら笑う。三人の声が一斉に「萩原ー!」と叫んだ瞬間だ。
――萩原は昔から人の懐に入り込むのが上手い男ではあった。
聞き上手だし、向こうのする話もセンスが良い。厭味たらしくなく、かといって自虐気味なこともない。根は優しく頼れる男であったし、決して口が軽いわけでもないが、つい此方の口を軽くするような、不思議な雰囲気のある男なのだ。
萩原は、先ほどまでの態度を一変させ、常よりも固い声色で淡々と語った。
――被害者の名前はキリヌマ。ヤクザではないが、ずいぶんと裏商売を占める男であったこと。中でも薬物に関しては殊更だったようで、改造麻薬や違法毒物を研究させ売りさばいているような男だったこと。恐らくターゲットであった男も、その男の使い走りのような役割ではないか――ということ。
「ま、あの時クラブにいた子に聞いたことだから、尾びれはついてるだろうけどね」
「ってなると、狙われた理由は大方金か薬だな」
私は、益々信じられなかった。
それに、諸伏が加担していたかもしれないという事実だ。どうして彼はそんなことをしたのだろうか。もしかして、潜入捜査とか――。いや、ただの潜入捜査なら、被害者を出すようなことはしないはずだ。
「ねえ、もし……もしだけどさ」
頭の隅で浮かんだ一つの危惧を、私はへばりつく喉を開きながら言葉にした。
「諸伏くんが、そういう団体とかに潜入捜査してたとしたら、私たちが探ることって、邪魔にはならない?」
「……なら、このまま放っとくのかよ」
「そうじゃないけど! 違うけど……」
気だるげな視線が私を射抜く。分かっている。事実を知ることができない以上、私たちもどうしたら良いか分からないのだ。彼が願って向こう側にいるのか、違うのかすら、判断ができない。
松田だって、伊達だって、萩原だって、そんなことは分かっているだろう。優秀な警察官たちだ。
〝もしも〟潜入捜査ならば、彼の身に危険が及ばないだろうか。――だが、放っておいて、彼がどこかで命を落とせば、間違いなく重たい後悔が圧し掛かる。私たちはまさに、それを天秤に掛けていた。
萩原が、グラスを呷る。瓶から注がれていく、透き通った小麦色を、私はぼうっと眺めた。涼やかな液体は小さくなった氷を揺らしながら、波紋を広げていく。こめかみがチクリと痛んだ。
『バーボン』
『スコッチ』
『ライ』
――今のは、誰の声だろう。妹のものではない気がする。俺の――?確かに酒は好きだったけれども。どうして今、そんなことを思い出したのだろう。三年間、一度も聞くことのなかった声なのに。なんで、今。大体、彼が今飲んでいるのはモルトウィスキーで、バーボンもスコッチもライも、何ら関係はない。
「コードネーム……?」
独り言に近いほど、ぽそっと小さなつぶやきだった。
ただ、静まり返ったその空間には、あまりに大きく響いてしまった。殆ど頭の中にぽんっと単語が浮かんだだけで、何かを言いたかったわけじゃない。しかし、彼らはその単語を聞き取り、視線を揃って私のほうへ向けた。
「あ、いや……その、ライって名前珍しいから」
「まあ、確かに本名じゃないだろうな。外人でもあだ名じゃないと珍しい」
そうだよね、と私は伊達の言葉に頷いた。
なんだか、心を嫌な風が撫でていくような心地がした。あの時と同じだ。――諸伏と、最後に別れる前、ざわざわと胸を過ぎった何かと同じ。一言でいえば〝嫌な感じ〟がした。が、心はそれでは表せないくらいに、複雑な心地悪さが渦巻いている。
「私、ちょっと外歩いてくる」
「――……ついてこうか」
その優しさに甘えそうになったけれど、私は小さく首を振った。
今は、諸伏のことで頭が埋まっていた。それに対して、少し後ろめたさが顔を出したのは嘘じゃない。大丈夫、私は萩原のことが大切だ。そう言い聞かせたいという気持ちもあった。
陽の沈んだ住宅街は、気を晴らすには丁度良い。アスファルトは湿っていて、葉桜になった枝の先からは雫がぽたぽたと滴っている。頭は、まだ痛んだ。先ほどまでチクチクとした痛みだったのが、全体を締め付けるような、警鐘のような痛みに変わっている。
空にはまだ雲も多く、月あかりを遮るように灰色の霞みが掛かっていた。鏡のように木を反射する水たまりを見つめながら、ゆっくりと深呼吸する。どうやったって、不快さが心から拭えない。早く、切り替えたいのに。
――駄目だ、いつからこんなに弱気になったのだろう。
警察学校までは、自分で言うのも何だが男勝りなほうで(――というか、まあ、男も同然で)、こんな風にうじうじと悩むことなどなかった。言いたいことは言う方だし、やりたいことはやる方だ。それこそ、極端に言えば松田の性格に近かったかもしれない。
「はあ。うん、よし、やるっていったらやろう、もう」
あのタイミングで前世のことを思い出したのも、きっと何か意味があるのだ。こうなったら、もう悔いのないようにいこう。伊達たちだって協力してくれているのだし、きっと見つかるはずだ。
浅い水たまりを踏んでしまって、靴下にじわっと水が染みた。露骨に顔を顰めたら、心綺楼のような声が笑った。――私にとっては。
私がその声のするほうを振り向くと、彼は相変わらず嘘くさく笑って、そこにいた。ポケットに手を突っ込んで、フードを被り翳った顔から、口元だけが覗いている。私が彼を呼ぼうとすると、彼は人差し指を立て、「シィ」と息を漏らす。
「久しぶり」
まるで、本当に昔の同窓生にあっただけ。そういった声色と態度で、諸伏は穏やかに笑った。
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