警察編 ②
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外には雨が、降っていた。
ぼつぼつと、屋根を打ち付けるような雨。灰色の空は、私の気持ちを沈めていく。萩原が出勤なのが、凶か吉か、よく分からない。いや、やっぱり最悪だ。冷えた室内は寒かった、ひたすらに温もりが欲しいと思った。
足元の寒さで目が覚める度に、何故だか思い出すのは諸伏の顔だ。彼も寒くはないか、そのことが気がかりだった。心配する想いと、今までそれに見ぬフリを決め込んでいたことに対する罪悪感が、心を重くするのだ。
もしかしたら、私が彼をああしてしまったのではないか。そういう選択をしてしまったのではないか。
何度でもそう思う。だって、もしかしたら、彼が人の命を――。
それは、私が気安く言ってしまった言葉の所為だろうか。苦しんでいる彼に、そう言ってしまった私が悪かったのだろうか。何度も泥のように眠っては、彼の顔を夢に見て目が覚める。
『俺は大丈夫』
と、笑う男の顔。ニコリ、絵に描いたような微笑み。爽やかな彼そのものであるはずのに、別人のような笑い方。瞼の裏に焼き付いてしまって、二度と離れない。
――もう何度目か、叩いたドアの衝撃にハっと目を開けると、心配そうに垂れた目つきが此方を覗きこんでいた。痛いくらいに打ち付けていた雨粒は、細い銀の糸を、些か弱くしていた。オレンジ色の光が、雲間から窓に差し込んでいる。
萩原の顔を見るとなんだかホっとして、その長い髪が掛かる首筋へ腕を回した。暖かな体温だ。急いで帰ってきたのだろうか、少しだけ首筋は汗ばんでいるように感じた。軽くその首元に顔を埋めて、スリスリと鼻を埋もれさせた。
萩原は呆れたようにフ、と息をつくと、大きな手で後頭部を軽く撫でた。
「ただいま」
「うん……」
「百花ちゃん、ちょっと一回離れて」
「うん……」
私はぎゅうと抱き着いたまま、彼に何を言われても聞く耳を持たなかった。今は、この体温がほしい。匂いがほしい。私を沈める罪悪感から、一ミリでも夢を見させてくれるような、この優しさがほしい。
ただただ「うん」と相槌を打っていると、そのうち隣からゲホゲホという咳き込む音がした。
私は思わずバっと体を離して、その音源を視線で辿る。松田がつまらなそうに耳に小指を突っ込んでいて、伊達は苦笑いしながらこちらを見ていた。私がもう一度萩原に向き直ると、萩原はアハハと、気持ちデレデレとした表情をしていた。
「早く言えよ!」
「うーん、でもくっついてきてくれたの嬉しくて」
――だ、駄目だコイツ。
萩原は優秀で頼れる男であるが、私に関することにはどうにもポンコツな部分があった。羞恥心を腹の中に置き去りにしてしまったのか。それとも右手と共に落としてしまったのだろうか。
やや紅潮した頬を誤魔化すように寝ぐせのついた髪の毛を直しながら、私はベッドから足を下ろした。萩原に至っては未だに伊達たちに対して「いやあ、百花ちゃん意外と甘えん坊なところがあるからなあ」などとほざいていたので、軽く頭をはたく。
まったく、と溜息をついたけれど、その溜息に、自分の体温を感じた。あ、今自分は大丈夫だ、と思えた。一人でいる時は、あんなにも辛くて、寒くて、寂しかったのに。彼らが集まったのは、ほかでもない以前のクラブでの出来事を報告するためだった。
結局のところ、諸伏の姿を見たのは私ただ一人で、私が名前を呼ぶのを聞いて察してはいたかもしれないが、私は順を追ってその時のことを話す。撃たれた男の状況や、ロープの結び目、彼の雰囲気が以前とは違ったこと。
そのことを話していたら、やっぱり目の奥がツンとした。
彼が、もしかしたら誰かを殺したかもしれない。私が、彼と別れる前に言った言葉が重荷になったのではないか。心の許せる彼らに語ったそれは、殆ど懺悔のようだった。彼らは口を挟むこともなく、私が話を終えると、暫く沈黙を返した。
諸伏が姿を消した後に、話を聞いてくれた時と、よく似ていたと思う。もしかしたら、同じことも言ったかもしれない。それでも、彼らは涙目になる私を見つめて、ずっと話を聞いていてくれた。
最初に沈黙を切り出したのは、伊達だった。彼は、毅然とした態度で言い放った。
「そりゃ、思い上がりだ」
あっけらかんとした言い草だった。私は、その言葉に顔を上げる。伊達は大き目のクッションに凭れかかりながら、胡坐をかいた脚を引き寄せる。
「それは、諸伏が選んだモンだ。アイツの選んだ正義だよ」
松田が煙草を咥えるのとよく似た仕草で、彼は楊枝を口の端に噛んだ。私は何も言い出せず、ただ彼を見つめて、僅かに張った涙の膜を揺らした。
「言葉は時に凶器にもなるが、人は言葉に操られる機械じゃねえ。結局、最後に選択をするのはいつだって自分だ――……諸伏だって、そうだったろ」
「……そう、だね」
「ただ、それが間違った正義なら、それをぶん殴ってでも止めるのは俺たちだ。助けを求めるなら、必死に手を伸ばすのが友達だ。諸伏も、――降谷も」
伊達の言葉に、心が晴れていくのが分かる。晴れる――というのは決して悩みが消える、ではなくて、自分のやるべきことが明確に見えてきたからだった。私の、私たちのできること。
伊達は私の目をジ、とその意思の強そうな三白眼で見つめた。胡坐を掻いた膝をパンっと打つと、彼は私に尋ねる。
「諸伏を見たのは、高槻だけだ。罪悪感だとか、そういうのを取っ払って答えてくれ。アイツは、助けを求めているように――まだ迷っているように、見えたか?」
――見えなかった。
あんな笑顔の中に、迷いがあるようには、とてもじゃないが見えない。もしかして、伊達の言うように彼なりの正義があって、彼はその道をただ進んでいるのかもしれない。だから、私たちが伸ばす手は、彼にとっては障害物なのかもしれない。
でも、私は前の諸伏を知っている。
真っ直ぐだけど、どこか脆い様な。強いけれど、儚い様な。そんな彼が、大丈夫だと爽やかに笑えることが――何か、一つのサインに思えて、仕方がなかった。
私は、静かに、小さく、頷いた。
「……分かんない。もしかしたら、ただの妄想かも。でも、私の知る諸伏くんは……少なくとも、進んで人を傷つけるような、それを正義だと喜ぶような人じゃ……ない」
例えば、彼がもし何か理由があって誰かを殺めたのだとしたら。
それはどんなに苦しいことだろう。辛いことだろう。仕事であったとしたって、私には耐えられないことだ。
私は、寒かった。彼も一人、冷たいシーツの中に包まっているのだろうか。
「だから、邪魔になっても良いから、知りたい。何かあっても私たちがいるからって、知ってほしい」
そう告げると、伊達はニっと楊枝を噛みながら笑った。松田も、萩原も、私を見てゆっくりと頷く。
「よし。ならまずはその殺された男を追うぞ」
「ちょーど、ここにソタイ様様がいるからな。捜査内容は入ってくるだろ」
「前に話してたセキュリティの男も気になるかな。俺も見かけたけど、あの見た目なら目撃証言も多そうだ」
口々に意見を述べ始める、その姿を見て、私は驚いた。乗ってきたということは、彼らも同じように諸伏を追う気だということだ。
「一課のほうにも殺人で明日には回ってくるはずだ」
と、萩原と伊達が顔を見合わせる。松田は今一度クラブの見取り図を広げて、私たちが追っていたターゲットの男の情報を照合する。事が動いた――かのように、思えたのだ。この時は。彼らも立派な一捜査官なのだと、しみじみ感じていた。
次の日、佐々木に一言、ある出来事を告げられるまで。――「この捜査は、打ち切りだ」と。
ぼつぼつと、屋根を打ち付けるような雨。灰色の空は、私の気持ちを沈めていく。萩原が出勤なのが、凶か吉か、よく分からない。いや、やっぱり最悪だ。冷えた室内は寒かった、ひたすらに温もりが欲しいと思った。
足元の寒さで目が覚める度に、何故だか思い出すのは諸伏の顔だ。彼も寒くはないか、そのことが気がかりだった。心配する想いと、今までそれに見ぬフリを決め込んでいたことに対する罪悪感が、心を重くするのだ。
もしかしたら、私が彼をああしてしまったのではないか。そういう選択をしてしまったのではないか。
何度でもそう思う。だって、もしかしたら、彼が人の命を――。
それは、私が気安く言ってしまった言葉の所為だろうか。苦しんでいる彼に、そう言ってしまった私が悪かったのだろうか。何度も泥のように眠っては、彼の顔を夢に見て目が覚める。
『俺は大丈夫』
と、笑う男の顔。ニコリ、絵に描いたような微笑み。爽やかな彼そのものであるはずのに、別人のような笑い方。瞼の裏に焼き付いてしまって、二度と離れない。
――もう何度目か、叩いたドアの衝撃にハっと目を開けると、心配そうに垂れた目つきが此方を覗きこんでいた。痛いくらいに打ち付けていた雨粒は、細い銀の糸を、些か弱くしていた。オレンジ色の光が、雲間から窓に差し込んでいる。
萩原の顔を見るとなんだかホっとして、その長い髪が掛かる首筋へ腕を回した。暖かな体温だ。急いで帰ってきたのだろうか、少しだけ首筋は汗ばんでいるように感じた。軽くその首元に顔を埋めて、スリスリと鼻を埋もれさせた。
萩原は呆れたようにフ、と息をつくと、大きな手で後頭部を軽く撫でた。
「ただいま」
「うん……」
「百花ちゃん、ちょっと一回離れて」
「うん……」
私はぎゅうと抱き着いたまま、彼に何を言われても聞く耳を持たなかった。今は、この体温がほしい。匂いがほしい。私を沈める罪悪感から、一ミリでも夢を見させてくれるような、この優しさがほしい。
ただただ「うん」と相槌を打っていると、そのうち隣からゲホゲホという咳き込む音がした。
私は思わずバっと体を離して、その音源を視線で辿る。松田がつまらなそうに耳に小指を突っ込んでいて、伊達は苦笑いしながらこちらを見ていた。私がもう一度萩原に向き直ると、萩原はアハハと、気持ちデレデレとした表情をしていた。
「早く言えよ!」
「うーん、でもくっついてきてくれたの嬉しくて」
――だ、駄目だコイツ。
萩原は優秀で頼れる男であるが、私に関することにはどうにもポンコツな部分があった。羞恥心を腹の中に置き去りにしてしまったのか。それとも右手と共に落としてしまったのだろうか。
やや紅潮した頬を誤魔化すように寝ぐせのついた髪の毛を直しながら、私はベッドから足を下ろした。萩原に至っては未だに伊達たちに対して「いやあ、百花ちゃん意外と甘えん坊なところがあるからなあ」などとほざいていたので、軽く頭をはたく。
まったく、と溜息をついたけれど、その溜息に、自分の体温を感じた。あ、今自分は大丈夫だ、と思えた。一人でいる時は、あんなにも辛くて、寒くて、寂しかったのに。彼らが集まったのは、ほかでもない以前のクラブでの出来事を報告するためだった。
結局のところ、諸伏の姿を見たのは私ただ一人で、私が名前を呼ぶのを聞いて察してはいたかもしれないが、私は順を追ってその時のことを話す。撃たれた男の状況や、ロープの結び目、彼の雰囲気が以前とは違ったこと。
そのことを話していたら、やっぱり目の奥がツンとした。
彼が、もしかしたら誰かを殺したかもしれない。私が、彼と別れる前に言った言葉が重荷になったのではないか。心の許せる彼らに語ったそれは、殆ど懺悔のようだった。彼らは口を挟むこともなく、私が話を終えると、暫く沈黙を返した。
諸伏が姿を消した後に、話を聞いてくれた時と、よく似ていたと思う。もしかしたら、同じことも言ったかもしれない。それでも、彼らは涙目になる私を見つめて、ずっと話を聞いていてくれた。
最初に沈黙を切り出したのは、伊達だった。彼は、毅然とした態度で言い放った。
「そりゃ、思い上がりだ」
あっけらかんとした言い草だった。私は、その言葉に顔を上げる。伊達は大き目のクッションに凭れかかりながら、胡坐をかいた脚を引き寄せる。
「それは、諸伏が選んだモンだ。アイツの選んだ正義だよ」
松田が煙草を咥えるのとよく似た仕草で、彼は楊枝を口の端に噛んだ。私は何も言い出せず、ただ彼を見つめて、僅かに張った涙の膜を揺らした。
「言葉は時に凶器にもなるが、人は言葉に操られる機械じゃねえ。結局、最後に選択をするのはいつだって自分だ――……諸伏だって、そうだったろ」
「……そう、だね」
「ただ、それが間違った正義なら、それをぶん殴ってでも止めるのは俺たちだ。助けを求めるなら、必死に手を伸ばすのが友達だ。諸伏も、――降谷も」
伊達の言葉に、心が晴れていくのが分かる。晴れる――というのは決して悩みが消える、ではなくて、自分のやるべきことが明確に見えてきたからだった。私の、私たちのできること。
伊達は私の目をジ、とその意思の強そうな三白眼で見つめた。胡坐を掻いた膝をパンっと打つと、彼は私に尋ねる。
「諸伏を見たのは、高槻だけだ。罪悪感だとか、そういうのを取っ払って答えてくれ。アイツは、助けを求めているように――まだ迷っているように、見えたか?」
――見えなかった。
あんな笑顔の中に、迷いがあるようには、とてもじゃないが見えない。もしかして、伊達の言うように彼なりの正義があって、彼はその道をただ進んでいるのかもしれない。だから、私たちが伸ばす手は、彼にとっては障害物なのかもしれない。
でも、私は前の諸伏を知っている。
真っ直ぐだけど、どこか脆い様な。強いけれど、儚い様な。そんな彼が、大丈夫だと爽やかに笑えることが――何か、一つのサインに思えて、仕方がなかった。
私は、静かに、小さく、頷いた。
「……分かんない。もしかしたら、ただの妄想かも。でも、私の知る諸伏くんは……少なくとも、進んで人を傷つけるような、それを正義だと喜ぶような人じゃ……ない」
例えば、彼がもし何か理由があって誰かを殺めたのだとしたら。
それはどんなに苦しいことだろう。辛いことだろう。仕事であったとしたって、私には耐えられないことだ。
私は、寒かった。彼も一人、冷たいシーツの中に包まっているのだろうか。
「だから、邪魔になっても良いから、知りたい。何かあっても私たちがいるからって、知ってほしい」
そう告げると、伊達はニっと楊枝を噛みながら笑った。松田も、萩原も、私を見てゆっくりと頷く。
「よし。ならまずはその殺された男を追うぞ」
「ちょーど、ここにソタイ様様がいるからな。捜査内容は入ってくるだろ」
「前に話してたセキュリティの男も気になるかな。俺も見かけたけど、あの見た目なら目撃証言も多そうだ」
口々に意見を述べ始める、その姿を見て、私は驚いた。乗ってきたということは、彼らも同じように諸伏を追う気だということだ。
「一課のほうにも殺人で明日には回ってくるはずだ」
と、萩原と伊達が顔を見合わせる。松田は今一度クラブの見取り図を広げて、私たちが追っていたターゲットの男の情報を照合する。事が動いた――かのように、思えたのだ。この時は。彼らも立派な一捜査官なのだと、しみじみ感じていた。
次の日、佐々木に一言、ある出来事を告げられるまで。――「この捜査は、打ち切りだ」と。