警察編 ②
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私はひたすらに階段を駆け上がる。このビルの構造は、オフィスで腐るほど頭に叩き込んだ。階段は一つ。業務用エレベーターがあるが、事故防止のランプや音が目立つので、さすがに目立ちたくない男は使わないだろう。――となれば、向かうのは一つ。
――屋上……!
見た目に比べて滑りの良い建付け。錆びたノブをぐっと回した感じが、誰かが幾度も通ったことを思わせる。私は一度ノブを押し開けることを戸惑った。ワンピースの中、背中部分にベルトで括った銃を手に持ち替え、意を決してドアを開ける。
思った以上に屋上は風圧があって、開けたドアが押し戻されそうな風に慌てて踏み入った。括った髪がぶわっと後ろへ攫われていくのが分かる。目を細めながら、その周囲を見渡した。柵に括られている結び目に向かうと、ロープが括りつけられているのが分かる。
「逃げた……?」
ハンカチを飛ばされそうになりながら手で握り、それ越しにロープの結び目をなぞる。下を覗けば、確かに飛び降りることのできそうな貯水タンクがあって、ロープの先は誰かが逃げた後のように風で揺れていた。
――私はロープを見つめる。
もし、あれを〝撃ちぬいた〟犯人なのだとしたら、少なくとも細い口径の銃を持っているはずだ。角度は大分急だった。額から真っ直ぐでなく、首の後ろあたりに突き抜けるような角度。血しぶきもソファに向かって花咲くように広がっていた。上から撃ったはずなのだ。
重たいものを抱えて降りたにしては、そのロープの結び目はずいぶんと緩く感じた。
サイレンサーもついていなかった。誰かに追いかけてほしいとでもいうように。まるで、騒ぎを起こしたがっているみたいだ。事実、一階では一般客や撃たれた男を敬愛する連中が軽い乱闘を起こしており、誘導はしているものの軽いパニック映画だ。
「違う、まだ逃げてない」
私はその結び目を見つめる。
きっと、追跡してきた誰かにそう思わせたかったのだ。あとは、騒ぎになっている中に群れのように紛れ出れば良い。ターゲットの男のように銃を取り出した男を、警察は真っ先に取り押さえに掛かっているのだから。
多分、その人は気づいていた。
前日から警察がこのビルを張り込んでいたことを。それでも決行したのは、目的の男のガードが薄いのはビルの中しかなかったからだ。このクラブの構造を見て、何度か訪れて、スナイプされることのない――窓のない室内では気が緩むことを知っていたからだ。
だから、そのまま騒ぎに乗じて逃げることを選んだ。私は周囲を見渡す。もしかしたら、私がこうしている間に屋上を出てしまったかもしれない。風の音が五月蠅くて、扉の閉まる音くらい隠せてしまいそうだ。
屋上を調べてもらおう。ここまで計画的な犯人にはないだろうが、足跡や指紋を辿れるかもしれない。あのセキュリティの男のことも話しておきたいし。
私は屋上の入り口まわりを一周し、誰も見当たらないことを確認した。それから携帯を取り出す。――ひとまず佐々木に連絡を取ろうと、銃を下ろした時だ。
ひたり
まるで、ホラー映画の演出のように、静かに背中に押しつけられた。
乾いた喉のなかに、僅かな涎が伝っていくのすら、痛いほど伝わった。背中に嫌な汗がふつりと浮かぶ。
同時にひどく後悔した。あれほど佐々木から言われていたのに、何故単独行動など取ったのだろう。気持ちばかりが先行して、愚かなことをしてしまった。私はじわりと涙が浮かぶのを必死に堪えた。これじゃあまるで遺言だ。
ぐ、と固い感触が押し込まれて、私は小さく体を震わせた。とんとんと手に持った銃を叩かれたので、銃と携帯を地面に捨てる。押しつけられるままに、一歩ずつ前に進んだ。まるで死への行進のようで、重苦しい足取り。撃たれるのか、はたまた屋上から落とされるのか。ああ、結局この人生でも、ロクな死に方はしないらしい。
鉛のような足取りに、せめて最後の反抗をしようかとも思った。教官たちが褒めそやしてくれた逮捕術だ。もしかしたら、そのツラの一発くらい殴れるかもしれない。(それはもはや、逮捕術ではないが――)
しかし、どうだ。私のつま先の向こうには、屋上と繋ぐ固い扉がある。
――帰れ、ってこと?
ひとまず、ここは言うことを聞くしかない。てっきりこのまま撃たれるのではと思っていたから、私はそれが意外だった。ドアノブを捻り、手前に引くと、重苦しい音がする。風の強さに、勝手に扉が閉まってしまいそうだ。
催促するようにぐぐぐと背中に当たったものが私を押すから、その隙間に体をねじ込ませるようにして扉の中に入る。
意図的ではなかった。正直、そのまま扉の中に入って、応援を呼んでから戻る気だった。計画を変更しただろう人物は、あのロープを結び直して今度こそ下に降りるかもしれない。そのことを伝えなくてはと思った。
ただ、私の携帯電話を誰かが鳴らした。反射的だった。私はつい、それに振り返ってしまったのだ。風が吹いた。
「諸伏くん……?」
私は振り向いた先の顔を見て、目を大きく見開いた。
同じように大きく見開かれた目つきは、変わらずツンとした猫のような目つきだ。少し、髪が伸びたかも。幼い顔つきを隠すように、輪郭には髭が揃っている。顔を隠していたらしいフードが、彼の背中で揺れた。
どうして、諸伏がそこにいる。そこにいるのは、あの男を撃った犯人であるはずで。
戸惑う気持ちと、同じくらい心の底から痺れるような、ただその頬に触れたいという衝動。一瞬、世界のすべてから音が失われたようだった。私の鼓動の音だけが、頭の中を占めている。
彼はその日本人にしては色素の薄い瞳を翳らせてから、笑った。
ニコリ、と。痛々しくも、苦しそうでもない、明るい笑顔。先ほど人を撃っただなんて思えないような、取り繕った風も見せない穏やかな顔。
ばたん、と勢いよく扉が閉まる。彼の姿を隠してしまうように、閉まる。
私は慌ててそのドアノブを回した。がちゃがちゃと音がするばかりだ。多分、ドアに何かを噛ませたのだ。何度回そうとしても、そのドアノブが回りきることはない。私は、先ほど堪えていた涙がじわじわと視界を揺らすのを感じた。
「もろふしく、もろふしくん、開けて、ねえ!」
――君の正義の味方だという目的は、叶っているのか。その笑顔の下で、また震えてはいない?
ガチャガチャ、ガチャガチャ、と何度も音を鳴らす。扉も殴りつけるように叩いた。
――あんなに、嘘くさい笑顔を浮かべる男ではなかった。彼はいつでも真っ直ぐで、真っ直ぐすぎる幼馴染を誇りにしていて、たぶん、その隣に立とうとしていた。綺麗すぎる星空に震えてしまうような、感情に素直な男だった。嬉しいことがあるとほんのりと頬を染めて、はにかむように、笑う男だったのだ。
あんなにも穏やかで明るい笑顔が、彼の心の叫びにしか見えない。
私は扉を殴り続けた指先が痺れていくのを、ようやく感じる。拳は赤く、擦り切れていた。その扉の前に縋るように崩れ落ちた。地面が、冷たかった。
「君が助けてって言うなら、俺はどこにだって行くのに」
扉を引っ掻くようにして、分厚いその板の向こう側に訴えた。向こう側にいる男が、明るい声色で笑った。まるで外面だけが諸伏で、中身をまるっきり誰かと入れ替えてしまったようだった。男はまるで〝上っ面だけ優しい〟ような声色で、ハハ、と笑って言う。
「俺は大丈夫」
向こうから声が聞こえたのは、それっきりだった。
それからはどれだけ扉を叩いても、訴えても、泣いても、縋っても、彼が応えることはない。
手の側面が錆びで切れて、扉に赤い跡が着く。私の虚しい言葉だけが、その冷たく固い扉に吸い込まれていく。駆け付けた萩原が、私の手を握って止めるまで、私はその扉に向かって彼の名前を呼んだ。
悔しかった。彼がきっと大丈夫だと、タカをくくっていた自分自身。自分の平穏にかこつけて、見て見ぬフリをしていた何かに、あの冷たい銃口は無理やり顔を向けさせたのだと思った。