警察編 ②
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「お帰り~……って、なんかお疲れ?」
萩原の言いつけ通りタクシーを乗り継いでマンションまで帰ったは良いが、私はそのままベッドの中に潜りこんだ。すう、と息を吸えば、求めていた爽やかな香りが、やや温もりを持って鼻の奥を擽った。
私は深く深呼吸をしてから、ごろっと寝返りを打つ。そして吐き出すように天井に向かって今の気持ちを叫んだ。
「づかれたー……」
と、それを聞いた萩原は苦笑いしながらベッドサイドに腰を掛けた。
時計は既に、夜中の二時を周ろうとしている。報告、書類づくり、今後の捜査方針。相手が銃を持っていると分かれば、今いる薬物班だけでなく銃器班とも連携を取るべきだ。殆どうつらうつらと会議を聞いていたが、実際見聞きしたのは私なので、話を振られればバっと背筋を伸ばして質問に答えなければならなかった。しょうがない、これも仕事だ。
しかし、それはそれで、これはこれなのだ。
私が今ひたすらに言いたいのは、疲れた。本当に疲れた。
着替えたスーツをもう一度脱ぐことも、鞄の中に突っ込んだワンピースをハンガーに掛けることも、シャワーに入ることも、全部億劫だ。もう止めたい。ぐちゃぐちゃで脂ぎった髪でも構わないから、寝てしまいたい。
「メシは?」
「……お腹は、すいた」
「よしきた」
萩原はニコっと機嫌よく笑うと、キッチンへ向かった。何かをさばくる音、それからブーン、と電子レンジが動く音。しばらくしたら、食欲を誘う香りがベッドまで運ばれてくる。私はそれを嗅いで、もう起き上がれないと思っていた上体をむくりと起こした。
「肉まん!」
「そうそう。今日会った同僚が生まれは大阪でさあ、土産に貰ったの」
「うっわ~、すごい良い匂いする……」
皿の上に乗った肉まんに触れると、柔くて熱い皮が指先にしっとりと吸い付く。ごくっと喉を鳴らし、皮に被りつくと、破れた部分から白く湯気が立った。このあたりの店で食べるより、少しばかり味付けがアッサリとしているだろうか。野菜が多くて、それも胃もたれしそうな今の体には有難かった。
「ありがと~……ありがとうございます……」
「その顔が見れるなら、俺大阪行ってこようかなあ」
「ばか、人にチンしてもらって初めてこの幸せが生まれんの!」
胃袋に暖かく降りていく肉たちに、ああ、お腹が空いていたんだなあと思い知らされた。血糖値が上がったせいか、眠たく沈みそうだった意識が少しずつ返ってくる。差し出された水をごくごくと喉を鳴らして飲みほし、ハー、と長く息をついた。
「おいしかった……。ありがとう萩原の友達」
「えぇ、俺は?」
「萩原もありがと」
皿とコップをダイニングテーブルに下げた大きな背中に、私は勢いよく抱き着いた。彼の体は女と比べると尚更に大きくて、こうして抱き着いているとトトロに抱き着く少女になった気持ちなのだ。いや、それは言い過ぎたかも。
とにかく、落ち着く。その背中や腕が好きだ。食べ終えたあとの口元を拭うように背中にすりすりと擦りつくと、萩原がニヤけながら「こら、やめなさい」と咎めた。
「ニヤけてるくせによー、どの口が生意気言ってんだ?」
「だから言い方が柄悪いんだよなあ……。ほら、おいでおいで」
大きなシルエットが、私の体をひょいっと持ち上げるようにしてベッドに沈んだ。まだシャワー浴びてもないよと言ったら、萩原は目を閉じながら笑う。「今は休むのが先」と。――スーツも脱いでないけど、と言うと、彼は瞼を薄っすらと持ち上げて、こちらを見上げた。
「ふうん」
大きな手が、するっと腿に滑り込んで、ストッキングを剥がす。
私はそれにぎょっとして、慌てて自分の手でストッキングを足から引っこ抜く。今度はジャケットに手が掛かる。わざと撫でるように手を滑らせていく手つきに「おいおい」と心の中で突っ込みながら、ジャケットも脱いだ。腰にあるスカートのファスナーが器用な左手に降ろされる。
「は、萩原」
「そういうお誘いかと」
「違うってば。萩原!」
私が声を上げたら、彼の手がピタリと止まった。暫く、二人で見つめあっていた。彼はらしくなく、ヘラヘラとした態度じゃなくてその垂れた目つきを無表情にし、ジっとこちらを見据えている。
実は、セックス自体は初めてじゃない。そりゃあ、互いに若い男女なわけで、三年も同棲していたのだから。私には殆ど性欲といって良いものはなかったけれど、萩原は違う。正真正銘、女の子が性対象の二十互歳男性である。彼に付き合っている――といえば聞こえは悪いけど、一人で処理させるのも、気が引ける。受け入れると決めたからには最後まで、と腹を括ったヴァージン喪失、今となっては懐かしい思い出だ。
――しかし、できたことにはできたが、得意でもない。
それを、萩原も知っていた。だからセックスをする日は互いに余裕のある日だったり、休日を選んだり、する前にはなるべく気が解れるような映画やゲームをしたり。気遣いのできる男らしく色々気を回してくれていたのだ。
ええい、まどろっこしいことをつらつらと並べたが、何が言いたいかといえば、こんな風にこちらの同意なく行為に及ぶようなことは初めてだったのだ。
その紫がかった暗い瞳が、人形かのようにギギギ、と固く瞬く。
何を考えているのか、私には彼の感情が読めなかった。ただ、いつも笑っている男だから、真顔が少しばかり恐ろしく思えた。まるで怒っているようにも見える。
彼はその強張った表情のまま、唇をそっと重ねた。唇、唇の横、頬、輪郭、顎先、首。――鎖骨にキスをしてから、彼はハっとしたように体を離す。太い眉は申し訳なさそうに八の字を書いて、「ごめん」と一言謝った。
「……今日、百花ちゃんから違う匂いがしたから。ごめんね」
ぽすん、とブラウスの上に、高い鼻筋が押しつけられた。
私はギシリと、胸の奥が軋む音を確かに聞いた。――分かっている、彼が言っているのは、今日クラブに行ったせいだ。違う煙草の匂い、酒の匂い、香水の匂い。そういったことを言っているのは分かっていた。
嫉妬をしたのだ。分かる。好きな人から誰か他の香りがしたら、ぐわっと胸の奥が沸々と煮えくる想いを知っている。別に怒ってはいない。
――後ろめたいことがあるから、心が動揺したのだ。
自分でも、それがよく理解できた。それはどんなに下心を持って見られた視線よりも、諸伏のことを意識してしまったことだ。些細なことだけど、私にとって一番彼への引け目を感じているのはそれだった。
私は、それが急に申し訳なくなった。
こんなに優しい男なのに。私を抱きしめる、右手首をゆっくりなぞった。私との約束のためだと、生きてくれた証だった。それからだって、いつも彼は私の隣にいる。今日も私が帰るのを待っていたのを知っている。佐藤から、書類に印鑑を忘れて帰ったから、明日くれぐれも持たせてくれとメールが入ったのは九時ごろだった。
――私が疲れて帰ってくると、分かっていたから。
『良いか、ライ』
頭から離れない。まるで、ずっと――ずっと、私がその声を求めていたみたいだ。
ピリピリと指先から痺れていく、弱い毒が回る。穏やかな暮らしを引きずりだすように、目の前の優しい男を裏切るように。
『……俺は、優しくない。松田みたいに器用でも、萩原みたいに朗らかでも、伊達みたいに勇ましくもない。全部嘘だ。嘘なんだ』
――嘘じゃない。君が正義を志していたのは、嘘なんかじゃない。
今すぐ彼を探して、抱きしめて、そう言ってあげたい。その衝動を殺すように、私は埋もれた頭をぎゅうと抱きしめる。忘れろ、思い出すな。つむじにキスを落とすと、悔いたような表情が私を見上げた。
「良いよ、しても」
「……無理させたいわけじゃない」
「じゃあ、しよう?」
私はなるべく眉を持ち上げて、明るく笑って見せた。「今ならサービス有りだけど」なんて、冗談めかしながら。萩原も、少しホっとしたように息をつきながら、キスをした。
「ま、お誘いとあらば!」
「ぎゃー、エロ親父~」
「ひでー!」
ぎゃはは、と二人で笑いあいながら、萩原が布団を被るように上に覆いかぶさった。私もその太い首筋に腕を回す。そう、これで良い。これで良いはずなのだ。