警察編 ②
名前の設定
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頭を揺さぶられる感覚に、億劫な瞼が持ち上がる。見覚えのある、萩原と買った室内の寝室用の照明が私の視界を柔く刺した。私は室内の家具には拘りがなく、すべて萩原のチョイスしたものだ。相変わらず女子が好きそうなセンスをしているなあ、と欠伸を零しながら思う。
「おーい、起きてる?」
「んー、起きてる……」
どうやら、私を揺すっていたのはその大きな掌だ。枕元に置かれたレトロな目覚まし時計を一瞥したが、まだ慌てるような時間ではない。ここから今配属されている交番までは自転車でニ十分も掛らないのだ。
寝ぼけ半分の声で返すと、呆れたような声色が私の名前を何度も呼ぶ。
確かに彼は公休だったと記憶しているが、私はまだあと少し寝たいのだ。声を振り払うように布団を自らの体にロールすると、そのロールした布団に圧し掛かるように大きな図体が凭れかかった。
「なあって。今日から本庁に行くんじゃねえの」
「ほんちょ~……?」
私は何度か本庁、本庁――と言葉をかみ砕くようにぼやき、五度目に漸く頭が覚醒した。
そうだった、三月の昇進試験に受かって、今日から配属が変わるのだった!私は巻き付いていた布団を振り払う。萩原が「うお」と驚いたような声を零すが、関係ない。自宅から警視庁までは、電車を乗り継いで約四十五分。
「忘れてた!! もっと早く言ってよ!」
「スーツ、そこに掛けてあっから」
「ありがとう! 好き!」
まだ寝転がっている萩原に、軽くハグをして離れると、彼は面食らったように一度目を見開いて、それからニヤニヤと枕に顔を埋めた。グレーのくたびれたスウェットからは、メンソールの煙草の香りがする。素直な反応をされるのは嫌いじゃない。彼は機嫌よく布団を抱いてゴロンと寝返りを打つ。
私はパジャマを脱ぎ捨てて、ハンガーに丁寧に掛けられたスーツとブラウスに着替える。歯磨き、洗顔、本当は丁寧に化粧もしたかったけれど、そんな時間はないので最低限のベースメイクと、眉とマスカラだけ。リップは鞄の中に入っているので、あとで塗ってしまおう。
日焼け止めを塗っていると、のそのそと布団から起き上がった萩原がソファの後ろから髪の毛を整え始めた。化粧が終わるころには、伸びた髪はワックスをつけられ、ハーフアップされていた。
通勤用の鞄を引っ手繰って、私は慌ただしくパンプスに踵を押し込む。彼はマイペースなようでよく周りを見て計算する男なので、私が家を出ようとする頃に、家にあった菓子パンと水筒をランチバッグに入れて渡してくれた。
「朝ごはん。ちゃんと食べて」
「マジでありがと……。超助かる……」
「お礼はこちらで」
と、体を屈めて見せる萩原に、私はふ、と笑みを零した。
頬をトントンと人差し指で突くのが幼い子どものようで、私は笑いながら頬に一つキスを落とした。彼もぐっと綺麗に整えられた後頭部を引き寄せて、反対側の私の頬に唇を柔く押しつける。
満足そうにニコニコと頭を抱える様子を、私は「遅刻する」と引き剥がそうとした。
「や~、離したくなくなっちゃうね」
「良いよ。萩原上官の所為って言いふらすから」
私は得意げにニヤリと片方の頬を吊り上げる。本庁では彼の方が先輩であり、ちょっとした有名人なのを知っている。あの日の爆弾処理が美談のように語られているのもあるが、何よりモテるからだ。萩原を呼べば佐藤も来る――だなんて、マドンナと並べられる諺が勝手に造語としてつくられるくらいだった。(ちなみに、同じタイミングで参加したのはまったくの偶然である)
「それ、色々語弊招くでしょうよ」
「招くために言ってんだろ。さ、行ってくるね」
私はとんとん、と目の前にある肩を叩く。離して、の合図に、先ほどまでの悪戯な表情は何処へやら、すんなりと開放された。玄関で、まだ長髪に少し寝ぐせを残した男に手を振り、私はマンションを出た。
マンションのすぐ下には、桜並木が花を咲かせている。ちょうど蕾が膨らみ始めたのを見上げた覚えがあるが、早いものだ。少し暖かくなった気候に、私は少し早足でアスファルトを踏みしめていく。
次の電車に乗り遅れなければ、そこそこ余裕を持って着くはずだ。腕時計をちらちらと見遣りながら、焦りが歩幅を大きくする。多分、伊達あたりが見かけたら「パンツ履けよ」とあきれたように言うだろう。でもスカートの方が可愛い。
せっかくなので萩原が渡してくれた菓子パンにも手をつけたい。この調子でいけば大丈夫だと人気の少ない道を歩いていたので、つい周りが見えていなかった。
目の前に電話ボックスの扉が表れたときには、ぎょっとして、それから勢いよく額をぶつけた。先ほどまで閉まっていたはずの扉が急に開いたことに、咄嗟に対応しきれなかったのだ。
電話ボックスを開けたらしい人物も、まさか急にぶつかるとは思わなかったのか、目の前で固まったような気配を覚える。――「悪い」と、一言掛けられた声は男のものだった。なんともクセのある、ハードボイルドな声色だ。少し年配の男を想像しながら顔を上げると、予想よりもよほど若い姿に驚いた。
「まさか人がいるとは思わなくてな、悪かったよ」
「いえ、私も……ちょっと急いでたんで」
「なら、フィフティー・フィフティーだ」
ふぃふ――、私は一瞬文字が変換できず、男の顔をマジマジと眺めてしまった。
腰まで着くような長い黒髪と、白人のようなグリーンアイ。彫りの深さが、その男を混血だと物語っている。まるで映画に出てくるような華やかな男で、こんなにも派手な男、人生で二人と出会うとは思わなかった。
降谷に負けず劣らず、一度見たら忘れられないようなくっきりとした顔立ちをしていた。見上げた背丈は、萩原と同じくらいあるだろうか。
その姿を眺めながらオウム返しのように彼の言葉を呟き、ようやく50という数字が頭を過ぎった。なるほど、50:50――、お互い様ということか。妙な言い回しをする男だ。
「……どこかで、会いましたっけ」
自分でも、ワケの分からないことを言っている自覚はある。
つい先ほど、一度見たら忘れられない、と自分でも思ったばかりだ。現に、こんな男、以前に会っていれば必ず覚えているだろう。
男は日本人ではありえないような新緑色の色彩をぱちんと瞬かせて、小さく首を傾げた。「いや」と、悩んだような声色が告げる。
そりゃあ、そうだ。会ったことはないのだから――。
なら、どこかで。どこかで、見かけたことこそあるような。ニット帽から流れるように揺れる黒髪は、春風に大きく波打っていた。
「でも、どっかで……」
「――良いのか? 急いでいたみたいだが」
「うわ、本当だ! ぶつかってすみませんでした!」
「……フ。あんま走るなよ。コケちまうぜ」
ニヒルに笑った口元に、彼は煙草を噛んで火を点けながら歩いていく。松田や萩原のものなど比べ物にならないほど、煙が重たくクセのある匂いを運んでくる。
「歩きタバコ、最近の条例で違反になりましたからね! 気を付けて!」
朝の空気には見合わない煙をふかす男の背中に、私はそう言い放つ。彼は真っ黒なシルエットから手を軽く覗かせて、ひらりと振った。交番勤務だったら間違いなく罰金請求してやったけど、今は自分の遅刻に免じて許してやった。
結局、初日の遅刻は免れたものの、本庁についたのは出勤時間ギリギリで、私は軽く肩で息をする。ふう、と萩原の整えてくれた髪を撫でつけて、スーツの襟を正してから、私はその扉を開く。今日からの配属で希望は通らなかったものの、今は自分のできる範囲の仕事をしていかなければ。
私は学校時代を思い出すように背筋を伸ばし、その室内に向けて敬礼をした。
「おはようございます。本日より配属されました、組織犯罪対策第五課、高槻百花巡査部長であります」
と、踏み出した先には、警察とは思えないようなスキンヘッドの強面な男が仁王立ちしていた。本当に、生粋の女の子だったら泣いてるぞ、という気持ちは胸に仕舞いこんでおくことにした。