警察編 ①
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つんと、吸い込んだ空気が冷たく喉の奥を刺激した。
出勤してからは、いつものように非番の職員からその日の引継ぎを受ける。書類や、時間を跨ぐような連絡事項、事件の概要。常にこの引継ぎは時間が掛かるものだった。しかし、私は引継ぎをする前にピタリと足を止める。出勤してすぐ公休の職員まで署内にいたものだから、何かが可笑しいと制服に着替えながら軽く首を傾げた。
私は香取のもとへ挨拶を済ませると、相変わらず顰め面をした表情に声を潜めて尋ねてみた。彼はううん、と一度唸ってから頭を掻く。顔にはそのまま『参ったな』という表情が表れていて、何か事件があったことは明白だ。
署内を一度見回して、揃った面子を見る。公休の職員、非番の職員、署内ではあまりみない本庁の職員も伺える。私はふと、前日に聞きかじった松田の言葉が頭を過ぎった。
「爆弾――」
ぽつりと呟くと、署内の数名がこちらを振り返る。外の空気を同じように張り詰めた態度が、その言葉を肯定していた。香取も渋ったように頷く。
「新人にはあまり関わらせたくない事案だが……情報だけ伝えておくぞ」
香取が頭を掻きながら言うことには、今まであった爆弾騒ぎと同一犯であろう犯行が、杯戸町内で起こったのだと。しかも、以前のものより規模が格段に上のものらしい。署内にある町内地図を広げて、今防衛線を張っている場所や爆弾の在りかを丁寧に説明された。
仕掛けられたのは二つの高級マンション。要求は十億円、住人が一人でも避難すれば爆弾を爆発させるとのこと。現在、犯人と交渉中――。
まるでドラマの中の台詞のようにつらつらと並べられた概要を、私は妙に現実的に受け止めていた。信じられないという想いよりもドクドクと鳴る不安だけが勝るのは、先に松田から聞いていた言葉のせいだ。
『もっとでっけぇネタの予行練習か』
松田が言っていたことが、そのまま当たったのだ。
彼の言葉に感心するとともに、急に彼らが心配になった。彼は大丈夫とは言っていたけれど。香取はそんな私の表情を見透かすようにため息をつき、「だから教えたくなかった」と言う。
松田と萩原は、配属すぐにエースになったことやその生意気な態度から、知る者ぞ知るちょっとした有名人だったのだ。特に私の代の鬼塚教場はヤンチャの集まりだと言われている世代で、きっと香取も私と彼らが同期だということを知っていた。
香取は改めて私のほうに体を向けると、窪んだ瞳を光らせて、真っ直ぐにこちらを射抜いた。
「……良いか。お前の仕事は同期を案じることじゃあなくて、周りにいる住民に被害が及ばないようにすることだ。犯人の要求が済むまで、刺激しないよう、彼らにいつもどおりの日常を送れるように心がけることだ」
私は肩をしっかりと掴まれて、少しだけ戸惑いながら、しかし頷いた。納得はできなかった。彼らがその大きな問題にぶつかっているなら、私も同じように困難に立ち向かって行きたかった。
僅かに鳴りかけた奥歯を、ぎちっと噛みしめる。違う、私は私にできるやり方で、彼らと共に戦わなくては。
私は震えた手先を伸ばして、額につける。香取もまた、敬礼を静かに返した。
◇
香取の言う通り、私たちにできることは少なかった。
何しろ、都内に仕掛けられた大きな爆弾。加えて住民が人質に取られているのだ。既に本庁が動いていたし、恐らく特殊部隊が爆弾の処理に当たり、捜査一課たちは犯人の特定を急いでいるところだろう。
私たちは、ひたすらに周囲をパトロールし、指示通り『刺激をしないこと』に努めた。たとえば、誰かが犯人に向かって罵声や煽りを飛ばさないか。この機に乗じて他の犯罪をしようとする輩はいないか。不安に思っている近くの住民に、状況を伝えて安心をさせること。
私は野次馬に覗く住民をなるべく遠くへと避難誘導しながら、その高いマンションを振り返る。分からない。まだ、萩原たちがあそこにいるのかも知らない。爆物処理は、いつも同じ人間が行うわけではない。
違うと良い。だなんて、思ってしまうのは、やっぱりエゴなのだろう。
だって、もしそうだったら、彼らが処理に失敗すれば――。上からの報告によれば、ビルが崩れるほどのものではないが、ワンフロアが丸まる吹っ飛ぶくらいの威力があるのだとか。想像しただけで、背筋を嫌な汗が流れた。
「――死ぬなよ、絶対」
大丈夫。大丈夫だと――松田が言っていたのだから。遠くのビルに言い聞かせるように睨みをきかせてから、私はつま先を反対側に向けた。
――時は、正午を周る。
青い空に、太陽が白いガラス片を散らすような日差しを差す。
騒ぎは次第に大きくなり、生中継をするようなテレビ局がちらほらと現場近くに現れはじめた。無線の情報曰く、いよいよ説得することは難しかったらしく、十億円の要求は飲むことに決定したらしい。
内心、ホっとしたのだけど、その安堵だけは漏らさないようにした。取引が成立すれば、彼らが無理に爆物を解体することはない。回収して、処理に努めれば良いのだ。――松田の言う、妙なトラップが入っていなきゃの話だが。
「ったく、警察ってのは役に立たねえなあ」
酒の缶を片手に愚痴る男を、ぶん殴ってやりたかった。アイツらがどんな気持ちで立ち向かっていると思っているのだと、怒鳴ってやりたい。じゃあお前がやれよだなんて、どうしようもない八つ当たりの心が浮かんだ。
――何ものにも捉われず 何ものも恐れず 良心のみに従って、警察職務を遂行していくことを固く誓います。
降谷の凛とした言葉が頭に響く。私は青筋の浮かんだこめかみを、ぐっと落ち着かせた。そうだ、こんなところで馬鹿をやって、彼らの行為を無駄にしてはいけない。思い直し、軽くかぶりを振った。男には、内心で思い切り舌を出しておいた。
「あれ、こっちは今通れないんですか」
困惑を声色に乗せて尋ねてきたのは、上品そうな初老の女性だった。綺麗なグレイヘアーが歳を重ねさせて見えるけれど、顔つきは思いのほか若く見える。
私はそれまで他事ばかり考えていた頭を振り払い、にこりと愛想よく笑った。
「そうですね、今は事件により通行を制限しておりまして――ご案内しますね」
一度地図を指すと、彼女は不可解そうに首を傾げたので、私は苦笑いして重たそうな手荷物を持ち上げる。程よく目じりに寄った皺は、彼女を優し気な印象に見せた。
「ごめんね、地図は弱くて」
「いえいえ。ご協力ありがとうございます」
習い事の先で貰ったのだという土産袋は、ずっしりと重さを持っていた。人望の厚い女性なのだと、それだけでも予想ができる。どうやら外人の血が入っているらしいくすんだブルーアイが、微笑みながらこちらを見据えた。
「若いのに偉いわね。うちの子にも見習わせたいけども」
「そんなことは。何をされてる方なんですか」
外資系の会社をしているという息子の話を聞きながら(――よっぽど、私より立派だと思うが)マンションとは逆方向の住宅街へ荷物を送り届ける。女性はすっかり打ち解けてくれたようで、微笑みながら見送ってくれた。
私もそれに軽く帽子を取って礼をし、元の持ち場に戻ろうと思った。
チリン、という音を、私の靴のつま先が軽く蹴っ飛ばす。石ではない感覚で、その小さく光る何かに目を凝らすと、どうやらピアスのようだった。しかも、恐らくだが小さいカラットのダイヤが吊られているようなものだ。
すぐに先ほどの女性のものではないかと思った。今通ってきた道であったし、見る限り汚れもなく、まだ落として時間が経っていないように思えたからだ。
「――から、爆弾は止まっ…はずで……!」
返そうとしていた踵が、ぴたりと止まった。それは本当に偶然で、電話ボックスの中の人物が、苛立たし気にドアを叩いたせいで僅かにできた隙間から声が漏れたものだった。
できすぎた偶然だ。しかし、そのたった一言が私の動きを止めた。私はそのままブリキ人形のように足を進める。もし彼が犯人だとしたら、こちらの動きを悟られてはいけない。あくまで私はあの女性を送り届けただけ。ゆっくりと歩みを勧めながら、視線をあたりに這わせた。
電話ボックスを囲むように、四人。既に逆探知で位置を突き止めていたのだろう。スーツにつけられた赤ピン、捜査一課だ。大丈夫、任せておけばいい。ここで下手に悟られては、犯人を警戒させてしまう。
――俺は、どうだった。
警察を目の前にして、どういう行動を取ったのだったか。傍らを通りすぎていく厳つい顔の刑事たちに、ごくりと喉が鳴った。
『――良かった』
「っ、駄目だ!!」
私は振り向いて、走り出した。大丈夫、松田と萩原も今命を懸けて戦っているのだから。恐くはない。間違いを恐れるな。
パー、パー、と鼓膜を響かすクラクションの音。聞き覚えのあるタイヤが擦り切れるような摩擦音。冷え切る体をなんとか走らせた。思い出すのは、俺を抱えて笑ったショートヘアの警察官だった。
道路に飛び出たのは、少し小柄な、帽子をかぶった男だ。私はその胴体に体当たりするようにしがみつく。浮遊感、背中を打った衝撃。熱いと、思った。
あの時はあんなに冷たいアスファルトだったのに。今は、冬だと思ったんだけどなあ。