警察編 ①
名前の設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
サーっと醒めていったアルコールに、小さく身震いした。
なんで、という疑問と、きっと彼も酔っているに違いない、という推理が頭の中を行き来して、ひとまず席を離れようと思った。幸い同期たちも意識の有無はまばらだが酔っ払っている奴らばかりだったし、一言「ちょっと気持ち悪いから外行ってくる」と断れば止めるような者はいなかった。
引き攣ってしまった私の顔を、萩原がジっと見つめてくることなど、見えなかった。見えなかった――フリをした。本当は頬に穴が開くほど視線が刺していることを知っていた。
『アイツがお前のこと好きって、気づいてるだろ』
松田があんなことを言った所為だ。いつもなら酔っ払っていればセクハラだろ、と流せたことだったかもしれない。キスとはいっても、額にだったし、酒の場だと思えばゲラゲラ笑っていられただろう。
松田があんなことを言うから。萩原が――ハっとした私の様子を見て、見るからに「しまった」という色を顔に浮かべるから。つい、それが好きだからではないか――などという邪推が過ぎってしまったのだ。
店の外に出ると、同じように外の空気を吸いに、と店の外に出た居酒屋の客がちらほらと並んでいた。ほとんどが喫煙者で、更けた空を見上げながら白い煙をゆらゆらと浮かせている。
外にいる客たちは周囲に無関心に煙草をふかしていて、それが落ち着いた。白い煙のカーテンに、姿を隠してしまえそうだった。ああ、煙草、吸いたいなあ。無意識に口元に指が向いた。ぐに、と摘まむように触れる。
「荒れちゃうよ」
すぐ真上から声が落とされた。
私が顔を上げると、萩原が苦笑いをしてこちらを見下ろす。いつものように話すことができなくて、「そうだね」なんて、ほとんど相槌にもなっていない返事をして、店の中に入ろうとした。
待って、と大きな手が、すんなり私の手首を握った。手首を一周しても余りのある、大きな手。
いつもはキュっと上向きの口角が、やや強張っていた。彼は表情通りの硬い声色で、一言ぽつ、と告げる。
「ごめんね」
「良いよ、私も酔ってたしさ。お互い様ってことで」
「そうじゃなくて、松田から聞いてたんだろ」
私は言葉を失った。本当はその後に続けるつもりだった、茶化すような言葉が空気だけの音になってしまった。その言葉を恐れていたような気がする。ジリジリと、勝敗の決まった詰め将棋を打たれている気分だった。萩原は垂れた目つきの奥で、瞳を熱っぽく揺らした。
「本当にごめん」
「……なんで、謝んの」
「友達で――いてほしかっただろ。百花ちゃんは」
決して皮肉っぽくはなく、太い首筋を掻きながら彼は気まずそうに言った。私はゴクンと喉を鳴らす。彼の言葉が、全ての答えな気がした。友達でいてほしかった、というか、友達だと思っていたのだもの。私は僅かに唇が震えるのを押さえて、半分笑いながら尋ねた。
「え、好き、ってわけじゃないでしょ」
殆ど否定交じりの言葉を聞いて、手首を握る力が強くなる。
――怖かったのは、彼の好きという感情ではない。
そんな彼の気持ちを踏みにじるような、私の行動を認めたくなかったのだ。萩原は大切な友達だった。悪い意味ではなく、もちろん掛け替えのない、二つとない意味で。私にとっての友人は、偽っていた高校までの同級生ではなく、どんなに付き合いが短くとも同じ目標をもとに過ごした彼らのことだったからだ。
「好きだよ」
だから、その一言がひどく恐ろしかった。
言ってしまった、と私は茫然と思った。萩原は私のことを見つめて、しかし私がその場に突っ立っているのを見て、眉尻を下げて笑った。いつもと変わらない笑顔が、妙に痛々しく視界に映った。
サインはいくつもあったかもしれない。苦しかったろうと思う。好きだと言う感情を知ってしまった後だからこそ、彼の気持ちが流れ込むように私の心を刺した。
女に生まれなかったら良かったのだろうか。
女にさえならなければ、彼の心をにじるようなことをしなくても済んだのだろうか。どんな気持ちで諸伏の話を聞いていたのかなど、考えなくても良かったのだろうか。
「……そんな顔しないで。友達でいるから」
大丈夫、と萩原は言う。何が大丈夫だと言うんだ。手首を掴む力が、緩んだ。――もう行って良いよと、そう促すような力だった。
「いれるわけないだろ」
私は声を震わせないように、萩原の顔を見上げる。太い眉が、傷ついたように皺を寄せた。居酒屋から漏れる灯りが、そのくっきりとした目鼻立ちに影を落としている。暗闇に溶けるような長髪は、こんな気候の中汗ばんでいるらしい首筋に張り付いていた。
「萩原が、そんな風に傷ついてんのに、友達のままで良いワケない」
「じゃあ、付き合ってくれるの」
諦めたような、無気力な口調だった。
いつもの間延びしている飄々とした雰囲気からは考えられないような、抑揚のない言葉。店から、誰かの笑い声が聞こえる。それが余計に彼の単調な言葉を目立たせた。
「違うなら、友達でいてよ。今まで通りで良いからさ」
「……そんな顔、するのに?」
「――……傍にいさせて」
私が泣きそうになったのを見て、萩原は殆ど口を動かさずに呟いた。――「傍にいて」。
ほとんど喧騒に掻き消えそうな声だった。彼の声が、低く響くようなものでなかったら、きっと取り逃していただろう。
無理だ。
懇願するような声に、そう感じた。彼のことを、友人として好ましく思っている。しかし、好きだと――諸伏と同じような感情を一片と感じたことはなかった。
好きだって、苦しいのだ。知っている。好きな人が誰かといると考えただけで、心臓がぎゅううと絞られるような気持になる。嫌だ、私は彼を苦しませたくはなかった。友達だと、思っているから。
「……やっぱ、無理か」
「――え?」
「正直予想はしてたからなあ。百花ちゃん、感情がストレートだし」
細長い煙草の先に、ライターが灯りをともした。
大きい手の割に、器用な指先が煙草を挟む。すう、と吸い込んだ呼吸が、恐らく胸にいきわたらせる前に吐き出された。吐き出した呼吸は小刻みで、煙も淡くケホケホと夜の空気に消えていく。
煙でぼやけた彼の頬に、小さく雫が伝っていた。煙草を上手く吸えていなかったのも、痛いほどよく伝わってしまった。何も掛ける言葉がなかった。「ごめん」とも「これからも友達でいよう」とも、言えなかった。
ただそのまま、周囲にクリスマスソングが流れていくのを、泣きそうな萩原を眺めながら聞いていた。苦しいし悲しい。私より、萩原のほうがよっぽどそうだ。何を言っても、彼を惨めにさせるだけだった。
「……考えるから」
私は、からからになった喉を開くようにして、萩原の手を掴んだ。長い髪に隠れていた目元が、こちらを向く。燻らせた向こう側に見える、一筋だけの涙を光らせた姿は、まるで映画のようだ。
「嘘はつけないから、好きだなんて言えないけど。でも、ちゃんと考えるから」
本当は、だから泣かないでと言いたい。けれどそれは彼の感情だから。
狡い返答だと、我ながら思った。だけども――狡くとも、私は彼のことが大切だった。いつもにこやかな彼が苦しんでいるのを、放っておくことが、どうしてもできなかった。たとえその原因が自分にあったとしても。
「誤魔化さないで、君のことをしっかりと見る。だから――待ってて」
その答えがなんであろうと、答えを彼に告げられる時まで。萩原が、持っていた煙草を落として、親が子どもを見つけたときのように私の頭を引き寄せた。彼の鼻や口元が、私の髪に触れるのが分かる。僅かに息を漏らした、震えた鼓動に、私は彼が手を離すまでそのまま目を閉じていた。