警察編 ①
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『大丈夫ですか』
目の前が真っ赤に染まった俺が、最初に聞いた声。呆然とするばかりの肩を、女性にしては強い力で揺すってくれていた。俺は一度声を詰まらせて、心に渦巻いたやるせなさでぼやいた。
『大丈夫に見えんのか』
ほとんど掠れた、独り言にも近い言葉。呟いた瞬間に、隣にいた女性警官は息を呑んだ。しまった、と色濃く態度に滲んでいて、それが尚更腹立たしく思えた。こいつに何が分かるんだと、理不尽な怒りが湧いた。
『すみません』
『……うるさい、黙れ、黙れよ! あの子が、あの子が……』
ぐっと彼女の制服の襟をつかんで、それから崩れ落ちるように俺は泣いていた。もうどうでも良かった。何もかも、人生なんて、どうでも。
『……これ、救急隊員から。妹さんの、ポケットに入っていたって……』
そう、見覚えのある紙ぺらが一枚差し出される。なんだ、こんな紙切れ。そうは思ったけれど、捨てることもできなくて、彼女の手の中からそれをもぎ取った。こんな、紙切れなのに。
◇
翌日の勤務は、いつもよりも短かった。もとから非番の日なので、仮眠から目覚めた後いつものように仕事をしていたのだが、午前のうちには上官から「もう上がっていい」と声を掛けられた。昨夜、冬樹たちの報告書をほとんど眠りこけながら書いた甲斐はあったらしい。
仮眠の最中に記憶を掘り返すような夢は見るし、昨日の今日で呆然としていたので、有難い。私は上官に頭を深く下げて、制服を脱ぎ捨てた。おなかが空いた。諸伏にまだしっかりと礼をしていなかったし、ごはんのついでに誘ってみようか。
そう思って開いたロッカーにうつった自分の顔を見て、一つため息をついた。いくらなんでも顔色が悪い。元の顔立ちが良くても、よほど不摂生に映っていた。さすがにこの顔のまま誘うのもなあと(――もしかして、顔色が悪いから返されたのかも――)、リボンタイのついたブラウスを羽織って、小さくかぶりを振った。
やっぱりやめよう。メールを送って、お礼は後日言えば良い。そう思った。
携帯を開いて、メールを打ち込もうとした時、同じタイミングでメールを受信した。諸伏からだ。あまりにタイミングが良かったので、つい笑顔を零しながらメールを開いた。
『お疲れ様。近くのコンビニで待ってます』
ぎょっとして、メールの受信時間を見る。確かに今さっき――ということは、今彼はいるのか。すぐそばに、来ているということか。慌ててポーチを漁る。せめて隈だけはどうにかしていこうと思ったけれど、こういう日に限ってコンシーラーが入っていなかった。
コンビニは署から二つほど路地を挟んだ場所にあって、雑誌コーナーのラックの向こうに見覚えのある立ち姿を見つけた。私の視線に気づいたのか、読んでいた雑誌から視線を上げた、その瞳と視線が合う。グレーのシャツ、似合うなあ。
諸伏はコンビニの入り口を潜って、私の方に少し小走りで駆け寄った。
「ごめん、急に」
「私もちょうどお礼が言いたかったから、大丈夫」
「おなかすいてない?」
そういって彼が歩き出したので、私も「すいてる」とその足取りを追った。諸伏はほっとしたように笑うと、にこやかに告げる。
「よかった。良い大葉を貰ってさ」
――へえ、大葉かあ。料理はからきしなので、どうやって食べるか見当がつかない。
という、殆ど現実逃避のようなことを考えて、それからバっと振り返った。貰って――家に、ということで合っているはずだ。しかし隣を歩く彼は真剣に献立を考えているので、言い出すことはできなかった。
まあ、家といっても寮と同じようなものだ。同期の寮に遊びにいくと思えば――落ち着けはしないけど、私は胸に言い聞かせておいた。
◇
「お、美味しい~……!」
大葉で包んだ豚肉にかじりついて、私は白米を掻き込んだ。自炊するなんて偉いなあと思っていたけれど、予想以上に彼は料理が上手い。外食と寮母が作ってくれるご飯が頼りな私からしたら、三ツ星レストランも同然だ。
何度も「うまい」「おいしい」と繰り返していたら、彼は苦笑いして食後用の緑茶を出してくれた。
「大げさだよ。焼いただけだし」
「本当に焼くだけでできるなら、皆料理してんだよ~」
充たされた食欲に、私はすっかり部屋にあがる前の緊張など忘れてしまっていて、冷静に彼の部屋を見回した。綺麗に片付けられているが、隅に置かれたベースやラックにあるアウトドアの雑誌が諸伏らしさを彩っている。
料理を机に置いて、クッションを抱えながら緑茶の注がれたマグカップに口をつけた。
「本当にありがとうね。お礼っていうか……立場逆になっちゃったけど」
「いや、力になれたなら良かった」
見つけるのを手伝ってほしいと言った時には、まさか此方の区域にまで来てくれると思っていなかったけれど、結果的に助かった。彼がいなかったら、あの場で一人でも制圧することはほとんど諦めていただろう。
「どうしてあの場所が分かったの?」
「前から、心霊スポットだって噂を流して人を寄せ付けなくしてるんじゃないかって疑惑はあったからかな。さすがに行くまでにいくつか候補は回ったよ」
「……すごいね、やっぱり」
彼の洞察力と、咄嗟のことに対する冷静さには目を見張る。これは学校の授業でも感じていたけれど、やはり優秀な男なのだ。私が感心して言葉を漏らすと、彼は眉を下げて、「すごいのは高槻さんだよ」と言う。私が眉間に皺を寄せていると、彼もまたカップに口をつけた。
「あの子を自分から立ち上がらせたのは、高槻さんでしょ」
「ううん、シモン……冬樹が、自分でそうしただけだ」
「高槻さんのことが、好きだからだよ。寄り添って向き合ってくれる大人がいることが、どんなに……。少し彼がうらやましいくらいだ」
笑う顔が、少し寂し気に翳った。諸伏には珍しく、自嘲するような言い草だ。彼は溜息をつくと、視線を落としてテーブルあたりをじっと見つめる。口元はいつものようにニコリと弧を描いていたが、親指がテーブルの下で何度もすり合わせるように組まれていた。
「すごいよ。本当に――ちゃんと、言ったことを実現するんだから」
固く冷たい声色だ。らしくなかった。どこか、焦っているようにも聞こえた。
そんなふうに言わないでほしかった。諸伏はじゅうぶん立派な警察官だったし、それは周知されている事実だ。優しく、正義感に溢れた男だ。何をそんなに卑屈に思うことがあるのだろう。
「……何か、あった?」
らしくない言葉に、ぽつりと尋ねる。諸伏はハっと顔を上げて、それから視線を再び泳がせた。
「俺は――」
上目遣いに、こちらに視線が向けられる。何かを迷うような瞳だ。頬に触れると、あの時とは違って少し湿っていた。暑いからだ。秋口とはいえ、日が高いと部屋の中に熱が籠った。
長い腕をカーペットについて、重ねた唇は少し違った味がした。互いを慰めあうような、唇を撫でるようなキスだった。以前の触れ合うだけとは違う、触れた場所からじわじわと熱が侵食していく。
私は、冬樹のことを。彼は――私の知らない、何か別のことを。大丈夫だよと言うように何度か唇を撫でていく。心地よかった。
唇を合わせるだけで、短い睫毛からのぞく薄っすらと開いた瞳を見つめるだけで、舌の生ぬるさを感じるだけで。もう二度と離れたくないような気持ちになる。やっぱり、彼とのキスは他の人とは違う。あんな、囮だけのキスとは比べ物にならないくらい、鼻のさきが頬を掠めるだけで胸がドキドキと鳴る。
唇を離すと、その猫のような目つきが私を見据えていた。ごつごつとした指先が、私の肩を軽く押さえる。小さい吐息を漏らした。
「……気づいてないと思っただろ」
私の目前にある唇が、囁く。私もつい同じトーンで「何が」と聞くと、寂しそうに笑っていた顔はやや勝ち気さを取り戻した。
「俺が、家に呼んだの。わざとじゃないって思った?」
それから、もう一度唇が合わさる。
違う、彼が今考えているのは、私じゃなくて――。何かを、考えていることを取り払うように唇を食んだ諸伏に、それでも私は応えたかった。彼が私に正しいと言ってくれたように、私も間違っていないと、大丈夫だと知らせてあげたい。
「もろふしく、ん」
呼んだ名前は、最後を潰されるように塞がれる。セックスはしなかった。かわりに、日が暮れるまで、ひたすら抱きしめ合って、ただただキスをした。互いの服が汗ばんで、髪が首筋や額に張り付くのを、時折長い爪が器用に取り払ってくれた。