警察編 ①
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交番の壁に掛けられた時計の分針を、じっと見つめていた。
足が忙しなく貧乏ゆすりをするし、意識が入り口から逸らすことができない。彼――シモンという少年にあって一か月、初めてシモンが交番の入り口から顔を出さなかった。そりゃあ、彼にもいろいろあるだろう。そういう日もあるかもしれない。けれど、私が休日があるように、彼だって一言あっても良いのではと思うのだ。
さすがに心配しすぎだろうか、そうは思うけれど、指が机の上でたたらを踏むのをとめることができなかった。
一日にも思える一時間を経た頃、私はため息をついて一人かぶりを振った。さすがに、私の気にしすぎだ。ポットから急須に湯を注いで、二度ほど使い古した茶葉で薄くなった緑茶を淹れる。
『請け負ったならには最後まで、彼が安心できると思えるまで、君が付き合ってあげるんだ』
普段は優しく凪いだような声が、凛とした強さを持って告げた言葉。湯呑に口をつけて、渋みを飲み込んだ。彼が、シモンが、安心できると思えるまで――。
あのくりっとした大きな瞳が、不安に揺れると胸が痛い。折れてしまいそうな細い指先が、真っ白な肌が、アンバランスに明るい髪色が。もし、あの時のように踏みにじられていたとしたら。
空になった湯呑を軽く流して、鈍く痛んだ頭を押さえた。小さな肢体がトラックに引きずられた光景が頭を過ぎる。声すらでない間に飛んで行ってしまった彼女が、もう生まれ変わったはずの網膜に焼き付いて、瞼を伏せてもついてくる。
「高槻……警らいくか」
私の様子を見かねてか、声を掛けてきたのは香取だった。ぶっきらぼうに書類を眺めながら、さも気にしていない風に告げたのだ。嘘なのはすぐに分かった。その不器用な優しさに甘えながら、私は「はい、行ってきます」と日が落ちかけた街中へ自転車を走らせた。
◇
私は心当たりのある場所を順番に駆け回った。商店街、通学路、よく行くと言っていたコンビニ。ちょうど近くの公園を通りかかった時、彼とよく似た制服を着た少年たちを見かけた。このあたりの中学校には珍しいブレザーで、ネクタイが学年色だったからよく覚えている。
彼らに話しかけると、少し身構えたようだったが、シモンの特徴を話せばすぐ合点がいったようだった。
「フユキのことじゃない? 今日は学校に来てねえけど」
「あー、俺見たよ。なんか柄悪い先輩と一緒で声掛けなかったけど」
「それ、どこ。教えてくれませんか?」
食い下がるように少年に尋ねると、彼は僅かにたじろぎながら「ここから三本先の大通り、古い神社があるへんだよ」と答える。私は彼らに礼を述べると、その神社へとペダルを回した。
このあたりでは有名な心霊スポットになっている、古びた小さな神社だ。朱色が剥げて、くすんだ青銅色の鳥居がやや傾いて建っている。
十段ほどしかない石段を上っていくと、参道のほうから声が聞こえた。どうやら言い争うような声色で、ちょうど私が登り終えた時に遠くに人影が転げるのを見た。細いシルエットを、私は見慣れた飼い猫のように判別できる。シモンだ。
「だから、高槻さんはそんなんじゃない!!」
彼が私の名前を出したことにも、それほどに声を張り上げたことにも驚いた。よく知る彼は、静かで賢い子だった。不愛想に拗ねることはあっても、あんな風に怒るのを見たのは初めてだった。
「どうせ、ただのおとり捜査だろ。お前の弟、やっぱただのガキだぜ」
「じゃなきゃコイツみたいなボロっちいのと一緒にいるわけないじゃん。女を知らねえガキは困るんだよなあ」
「いっそ、筆おろししてもらったら? お前もちょっとはマシになんだろ」
げらげらという耐えきれない笑い声に囲まれて、少年はそこにいた。くりっとした目つきが、殴られたせいで充血している。囲む男たちの手には、透明なパイプが握られている。よく知っていた、吸引用のものだ。
私は一瞬、足を止めてしまった。囲む男たちの側に、きっと間違いなく昔の俺もいた。決してシモンの側ではなかった。こうして、俺も誰かを踏みにじっていた。自分の尊厳を守るためとはいえ、あんなことをしていたのだと、傍から見ても胸糞が悪かった。
「違う、高槻さんは……俺の……」
これ以上、彼を踏みにじらないでくれ。
私はようやく、彼のもとに駆け寄ることができた。男たちを睨みつける。相手は四人、さすがに一人で殴り伏せるのは無理かもしれない。となれば、逃げるのが一番か。
「お、すげ~。ほんとに可愛いじゃん」
「だろ、これだったらまあ気が強い女は地雷だけど」
「おねーさん、チューしようよチュー」
ちらりとシモンの方を覗き見る。ズボンに血が滲んでいた。一緒に走るのは無理だろうか。もし走るならせめて肩を貸さなければ。くだらない話が飛び交う中、頭のなかで逃げる道筋を立てる。
――チカ、チカ。
何かが視界の端をちらちらと遮る。何か明るいものが点滅するような。それを見た瞬間、私の逃げ道は決まっていた。
「……良いよ、しても」
私はフ、と笑いながら襟元のボタンを外す。一番ガタイの良い、先ほどから冷やかしてきた男のほうに近寄った。そしてそのトレーナーを掴むと、背伸びをしてその唇にキスをした。
――何も感じない。こんなもの、同性とのキスにも入らなかった。コカインの、懐かしい味がする。冷めた気持ちのまま、その唇に思い切り噛みついた。
「い、っで」
逆上し、単調になった動きを受け流してから、後ろからその股間を蹴り上げる。
「――行くよ、シモン!」
座り込んだ少年に手を伸ばす。シモンが私の手を取ったのを見て、その肩をぐっと引き寄せ、走って石段のほうまで走った。シモンが僅かに苦しそうな声をしたけれど、申し訳なく思いながら走り続ける。
ちかちかと光が差した方へ。モールス信号だった。警察学校のときに、何度か一緒に覚えたことがあった。
後ろを追った男を、長い脚が蹴り飛ばす。鮮やかな動きだった。やっぱり、彼が私よりも逮捕術で劣るだなんて謙遜だ。もう一人は背中を肘で打ち、そのまま地面にへばりつけるように押さえ込む。
「……十九時三十二分、覚せい剤所持で逮捕だな」
ニ、と口角を上げた諸伏に手錠を渡すと、彼はフウと息をついてその腕に手錠を掛けた。
「助かった、うまいこと分散させてくれたな」
「こっちこそ……シモン、大丈夫?」
彼は震えた唇をきゅっと引き結ぶ。うん、と掠れた声が応えた。
怖かっただろう。大人でも、大人数の男に囲まれれば恐怖する。あんな風に嗤われれば、自分の中の心がすり減る。
「……偉いよ、シモンは。ちゃんと怒れたんだね」
「でも何もできなかった」
「違う。忘れないで、絶対に傷つけるほうが悪いんだ。傷つけられていい理由なんて誰にもないんだから」
そのぱさついた髪に触れて、頭を引き寄せるように抱きしめた。体も、小刻みに震えていた。大丈夫、あんな風に人を想って怒ることができたなら、彼はきっと。抱きしめた頭をゆっくり手放すと、彼は震えながら両手をこちらに差し出した。
大きな目には涙が浮かんでいる。恐いと、その瞳に描かれていた。
「あとの逃げた奴らの名前も家も知ってる。俺を逮捕して、高槻さん」
シモンは静かに、頭を下げた。強い子だ、賢い子だ。俺と重ねるなど、思い上がりにもほどがあった。諸伏が、持っていた手錠をこちらに手渡した。私は揺れる指先を堪えて、彼の手に輪をかける。
「……名前は?」
尋ねると、シモンは――少年はようやく言えると、吹っ切れたように笑った。大人びた彼が、年相応に見えた。
「冬樹。深沢冬樹」
私は一瞬息を呑んだ。隣に立っていた諸伏も、小さな息を漏らす。くりくりとした大きな目つき。その大きな目つきはニコっと人懐こく笑った。「高槻さんに会えて、良かったよ」と笑った。
足が忙しなく貧乏ゆすりをするし、意識が入り口から逸らすことができない。彼――シモンという少年にあって一か月、初めてシモンが交番の入り口から顔を出さなかった。そりゃあ、彼にもいろいろあるだろう。そういう日もあるかもしれない。けれど、私が休日があるように、彼だって一言あっても良いのではと思うのだ。
さすがに心配しすぎだろうか、そうは思うけれど、指が机の上でたたらを踏むのをとめることができなかった。
一日にも思える一時間を経た頃、私はため息をついて一人かぶりを振った。さすがに、私の気にしすぎだ。ポットから急須に湯を注いで、二度ほど使い古した茶葉で薄くなった緑茶を淹れる。
『請け負ったならには最後まで、彼が安心できると思えるまで、君が付き合ってあげるんだ』
普段は優しく凪いだような声が、凛とした強さを持って告げた言葉。湯呑に口をつけて、渋みを飲み込んだ。彼が、シモンが、安心できると思えるまで――。
あのくりっとした大きな瞳が、不安に揺れると胸が痛い。折れてしまいそうな細い指先が、真っ白な肌が、アンバランスに明るい髪色が。もし、あの時のように踏みにじられていたとしたら。
空になった湯呑を軽く流して、鈍く痛んだ頭を押さえた。小さな肢体がトラックに引きずられた光景が頭を過ぎる。声すらでない間に飛んで行ってしまった彼女が、もう生まれ変わったはずの網膜に焼き付いて、瞼を伏せてもついてくる。
「高槻……警らいくか」
私の様子を見かねてか、声を掛けてきたのは香取だった。ぶっきらぼうに書類を眺めながら、さも気にしていない風に告げたのだ。嘘なのはすぐに分かった。その不器用な優しさに甘えながら、私は「はい、行ってきます」と日が落ちかけた街中へ自転車を走らせた。
◇
私は心当たりのある場所を順番に駆け回った。商店街、通学路、よく行くと言っていたコンビニ。ちょうど近くの公園を通りかかった時、彼とよく似た制服を着た少年たちを見かけた。このあたりの中学校には珍しいブレザーで、ネクタイが学年色だったからよく覚えている。
彼らに話しかけると、少し身構えたようだったが、シモンの特徴を話せばすぐ合点がいったようだった。
「フユキのことじゃない? 今日は学校に来てねえけど」
「あー、俺見たよ。なんか柄悪い先輩と一緒で声掛けなかったけど」
「それ、どこ。教えてくれませんか?」
食い下がるように少年に尋ねると、彼は僅かにたじろぎながら「ここから三本先の大通り、古い神社があるへんだよ」と答える。私は彼らに礼を述べると、その神社へとペダルを回した。
このあたりでは有名な心霊スポットになっている、古びた小さな神社だ。朱色が剥げて、くすんだ青銅色の鳥居がやや傾いて建っている。
十段ほどしかない石段を上っていくと、参道のほうから声が聞こえた。どうやら言い争うような声色で、ちょうど私が登り終えた時に遠くに人影が転げるのを見た。細いシルエットを、私は見慣れた飼い猫のように判別できる。シモンだ。
「だから、高槻さんはそんなんじゃない!!」
彼が私の名前を出したことにも、それほどに声を張り上げたことにも驚いた。よく知る彼は、静かで賢い子だった。不愛想に拗ねることはあっても、あんな風に怒るのを見たのは初めてだった。
「どうせ、ただのおとり捜査だろ。お前の弟、やっぱただのガキだぜ」
「じゃなきゃコイツみたいなボロっちいのと一緒にいるわけないじゃん。女を知らねえガキは困るんだよなあ」
「いっそ、筆おろししてもらったら? お前もちょっとはマシになんだろ」
げらげらという耐えきれない笑い声に囲まれて、少年はそこにいた。くりっとした目つきが、殴られたせいで充血している。囲む男たちの手には、透明なパイプが握られている。よく知っていた、吸引用のものだ。
私は一瞬、足を止めてしまった。囲む男たちの側に、きっと間違いなく昔の俺もいた。決してシモンの側ではなかった。こうして、俺も誰かを踏みにじっていた。自分の尊厳を守るためとはいえ、あんなことをしていたのだと、傍から見ても胸糞が悪かった。
「違う、高槻さんは……俺の……」
これ以上、彼を踏みにじらないでくれ。
私はようやく、彼のもとに駆け寄ることができた。男たちを睨みつける。相手は四人、さすがに一人で殴り伏せるのは無理かもしれない。となれば、逃げるのが一番か。
「お、すげ~。ほんとに可愛いじゃん」
「だろ、これだったらまあ気が強い女は地雷だけど」
「おねーさん、チューしようよチュー」
ちらりとシモンの方を覗き見る。ズボンに血が滲んでいた。一緒に走るのは無理だろうか。もし走るならせめて肩を貸さなければ。くだらない話が飛び交う中、頭のなかで逃げる道筋を立てる。
――チカ、チカ。
何かが視界の端をちらちらと遮る。何か明るいものが点滅するような。それを見た瞬間、私の逃げ道は決まっていた。
「……良いよ、しても」
私はフ、と笑いながら襟元のボタンを外す。一番ガタイの良い、先ほどから冷やかしてきた男のほうに近寄った。そしてそのトレーナーを掴むと、背伸びをしてその唇にキスをした。
――何も感じない。こんなもの、同性とのキスにも入らなかった。コカインの、懐かしい味がする。冷めた気持ちのまま、その唇に思い切り噛みついた。
「い、っで」
逆上し、単調になった動きを受け流してから、後ろからその股間を蹴り上げる。
「――行くよ、シモン!」
座り込んだ少年に手を伸ばす。シモンが私の手を取ったのを見て、その肩をぐっと引き寄せ、走って石段のほうまで走った。シモンが僅かに苦しそうな声をしたけれど、申し訳なく思いながら走り続ける。
ちかちかと光が差した方へ。モールス信号だった。警察学校のときに、何度か一緒に覚えたことがあった。
後ろを追った男を、長い脚が蹴り飛ばす。鮮やかな動きだった。やっぱり、彼が私よりも逮捕術で劣るだなんて謙遜だ。もう一人は背中を肘で打ち、そのまま地面にへばりつけるように押さえ込む。
「……十九時三十二分、覚せい剤所持で逮捕だな」
ニ、と口角を上げた諸伏に手錠を渡すと、彼はフウと息をついてその腕に手錠を掛けた。
「助かった、うまいこと分散させてくれたな」
「こっちこそ……シモン、大丈夫?」
彼は震えた唇をきゅっと引き結ぶ。うん、と掠れた声が応えた。
怖かっただろう。大人でも、大人数の男に囲まれれば恐怖する。あんな風に嗤われれば、自分の中の心がすり減る。
「……偉いよ、シモンは。ちゃんと怒れたんだね」
「でも何もできなかった」
「違う。忘れないで、絶対に傷つけるほうが悪いんだ。傷つけられていい理由なんて誰にもないんだから」
そのぱさついた髪に触れて、頭を引き寄せるように抱きしめた。体も、小刻みに震えていた。大丈夫、あんな風に人を想って怒ることができたなら、彼はきっと。抱きしめた頭をゆっくり手放すと、彼は震えながら両手をこちらに差し出した。
大きな目には涙が浮かんでいる。恐いと、その瞳に描かれていた。
「あとの逃げた奴らの名前も家も知ってる。俺を逮捕して、高槻さん」
シモンは静かに、頭を下げた。強い子だ、賢い子だ。俺と重ねるなど、思い上がりにもほどがあった。諸伏が、持っていた手錠をこちらに手渡した。私は揺れる指先を堪えて、彼の手に輪をかける。
「……名前は?」
尋ねると、シモンは――少年はようやく言えると、吹っ切れたように笑った。大人びた彼が、年相応に見えた。
「冬樹。深沢冬樹」
私は一瞬息を呑んだ。隣に立っていた諸伏も、小さな息を漏らす。くりくりとした大きな目つき。その大きな目つきはニコっと人懐こく笑った。「高槻さんに会えて、良かったよ」と笑った。