警察編 ①
名前の設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「だぁからね、キミを守るなら情報がないと。分かる?」
「わかんね」
駄々を捏ねる子どもの前に、私は大きくため息をついた。
事件が起きたのは一時間ほど前のことだ。恐らく十代半ばくらいだろうか、彼が交番に助けてと飛び込んできたのが、始まりだった。
◇
「――助けて!!」
黙々と自転車の盗難届についての書類を纏めていた私は、持っていたボールペンをカラカラと落としてしまった。転がり込んできた自分より些か小さな影は、肩を揺らして扉を開けると、私を見て軽く舌を打つ。「女かよ」と、確かにそう聞こえた気がする。
生意気なことを言ったのは置いておき、彼の表情が焦りに満ちていたので、私は警棒を手に入口へと向かった。彼を追うようにして交番に来たのは、二十歳前後の柄の悪そうな男二人組だ。
「ごめんね、おまわりさん」
「弟がお邪魔しました」
にこやかに去ろうとするそのタトゥーが入った手を、ぐっと掴む。
弟であろうとなかろうと、肩を抱えられた少年の表情を見れば、それが同意でないことくらい分かるからだ。手を掴んだ私に、男は態度を一変するようにこちらを一睨みした。
「あのさぁ、弟なの、ウチの。関係ないだろ」
「いいえ。彼の意思がそうでないのなら、親族だろうと保護する必要があります」
放してください、と睨み返すと、機嫌を悪くした男の反対側の手がこちらに降りかかった。大丈夫だ、伊達に比べればよっぽど軽いし遅い。私は勢いよく前に踏み出すと、警棒で彼の顎を突き上げた。怯んだ手を背中に回して、力強く捻りあげる。アデデと声を上げる男に馬乗りになっていると、ハっとしたもう一人が私の胸倉を掴み上げようとした。
「高槻!」
後ろからその男を伸すように押さえ込んだのは、香取だった。警察の中でもガタイの良い男なので、あれでは動けないだろう。さすがにこれでは公務執行妨害とは言えず、大ごとにされれば寧ろこちらに責任が降りかかる場合もある。怯んだ彼らをシッシと追い返いて、呆然と立ちすくんだ少年に事情を聴くことにしたのだ。
◇
したのだけれど、彼ときたら、名前の一つ、年齢の一つも応えようとしない。
分からない、知らないと貫き通すだけで、私は既に一時間を過ぎた時計の短針を見上げた。奥の部屋では香取が上官に先ほどの出来事を報告しており、間違いなくこの後お咎めがあるというのは私にも分かった。
生意気でもこの少年を放っておけないのは、昔の自分に重なるからだ。
恐らく中学くらいだと思うのだが、明るい髪色と耳にいくつも空いた穴――何よりその年齢にしては痩せ細った体格と、血の気の悪い目元。ロクな食事を摂っていないのだろうというのは目に見えて分かる。
しかし、彼と自分の違うことは、こうして真っ直ぐ交番に飛び込んできたことだ。
全て重ねるのもどうかと思ったが、不思議だった。悪いことをしている少年というのは、警察を恐ろしいと思っているものだ。できることなら、近寄りたくない場所なのだ。それほど切羽詰まった状況だったのか――。
「キミはさ、どうして交番に来たの? あの人たちに何かされそうだったんじゃないの?」
考えてもしょうがないので、私はボールペンを指先でくるりと回しながら尋ねてみた。少年は、分からないとは言わなかった。ただ、気まずそうにピアスの穴を弄っている。
「分かった。名前も年齢も言わなくて良いよ、それだけ教えてくれない?」
どうやら、この事については話す気があるようだと察したので、私は話のハードルを下げさせながら、彼に事情を尋ねる。何度か、例えばこうだったのか、こうだったのかと私が話していると、尖った唇がポツ、と静かに話を始めた。
「マジな兄じゃない。俺の母親が再婚して、その家の兄貴」
こちん、と分針が時を刻む。私はボールペンを回すのをピタリと止めて、その逸らされた視線を見つめた。
「いつも言われんだ、あれ取ってこい、これ運んでこい。そしたら、飯くれっから……。でも、友達連れてるとあの人、気が大きくなるから。今日も言われた、タトゥー……彫るかって、ほっそい目打ち持ってさ」
年相応の、大き目な目つきに堪えられない涙の膜が張っていく。
「だから、逃げて、俺……。そしたら、逃げてる途中で、ぶつかった男の人が言ったんだ。ここを曲がると交番がある。高槻って人に、助けてもらえって」
私はキョトンと目を見開いた。間違いなく、この署にいる高槻という警官は私ただ一人しかいない。まさか諸伏たちだろうか、と一瞬思い浮かんだけれど、彼らだったら私が手を出すまでもなく彼を保護しただろう。わざわざこの交番まで逃げさせることはないはずだ。
僅かに疑心を持ちながらも、私は彼の言葉にそうかと頷いた。
彼は、きっと捕まることを恐れているのだ。兄たちにやらされた犯罪の数を、表に出されるのを。
強要されたことであっても、実行したのが彼自身であれば重かれ軽かれ罪には問われることになる。だから、名前も何も言わないのは、彼なりの防衛なのだ。
考えろ。彼がここに来た意味を――。私はボールペンを握りしめて、少年に問いかけた。
「あのさ、ぶつかった男の人って――」
◇
「いい加減にしろ! もっかい学校からやり直して来い!」
「申し訳ございません!」
「指導係である俺の責任でもあります、申し訳ありません!」
その日は非番日だったというのに、散々どやされて報告書もたんまりと書かされ、全てが終わったのはもう日も暮れよう時間だった。私は結局、少年の名前を聞くこともなく、そのまま家に帰したのだ。
保護できるかもしれなかった。捕まえられるかもしれなかった。
けれど、あの少年はきっとそういうことを望んでいるのではないと思った。彼が欲しいのは、きっと――。
何より、彼が言ったのだ。ぶつかった男の人は『外国人のような金髪で、肌が焼けた男』だった。私には、それが彼のメッセージだとしか思えなかった。交番で、少年を救ってやれと言われているのだと思った。
私は遅くまで報告書を作ってくれた香取に頭を下げた。彼は気にするなと笑ってくれたが、彼の指示を仰がなかった私が悪いとは分かっている。次の日は公休ではなく、休日出動になった。
私は交番の椅子に座って、胸を鳴らしながら待った。きっと、あの少年が俺と同じような少年ならば。最初に欲しいのは保護施設じゃなくて、美味しいごはんでもなくて。
「……ちわ」
「うん、こんにちは。今日はちゃんとご飯食べれた?」
コンビニで買っていたおにぎりを彼に差し出して、私はなるべく気取らないように笑った。頬には痛々しい傷が残っている。――彼が最初に欲しいのは、きっと信用できる大人なのだと思ったからだった。