学校編
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『安室と言う男は――人殺しだ』
スクリーンに映るのは、眼鏡をかけた頬骨の目立つ男。隣に座る妹は、ハラハラと身を乗り出して展開を見守っていた。直前に買ってやったポップコーンを摘まむ手も止まっている。俺はハっと身を起こした。いけない、眠ってしまっていた。
妹が行きたいというなら大学に行かせてやりたいし、何より十八を過ぎれば施設を出なければならない。一人暮らしも検討にいれるためには、お金の工面が必要だ。あの両親にそんな金銭があるとは思えないし――。
『安室さん』
と、眼鏡の少年が呼ぶ男。金色の髪、褐色の肌、大きく垂れた目つき。何を言っているんだ、彼は降谷だ。違う、これは俺の記憶じゃあない。私の記憶だ。どうして俺の記憶に降谷の顔が出てくる――。
「――!!!」
女が金切り声を上げるような音が耳を劈く。タイヤが大きくスリップした跡が、道路にはくっきりと残っていた。映画を観た帰り道だった。薄く暮れた夕方、つい先ほどまで楽しそうにアムロトオルという男を語った笑顔が、隣にはいなかった。
大きく道を逸れたトラックのことは見えていたのに、夜勤明けの体が上手く動かなかった。小さな体が綺麗に一周引っ繰り返るのを、夕陽がそれを照らすのを、呆然と見ているしかなかった。
何が悪かった。どうして俺じゃなかった。映画なんて観に行かなければよかったのか、俺が動ける体を保てていればよかったのか。「――」彼女の名前を呼んだ。一目で助からないと分かった。
どうしようもない人生の、たった一つの希望だった。
彼女がいなくちゃあ、俺の人生が本当に、どうしようもない物に成り下がってしまう。
愛する人も、愛される人も、俺にはお前しかいなかった。
―――
――
―
「いっだ、あ……」
跳ね起きた拍子に首筋を攣って、薄く涙を滲ませながら嘆いた。嫌な夢を見た。背中がぐっしょりと濡れているし、無意識に力が入っていたせいか足や手も筋が張るように痛む。
卒業旅行から帰寮し、少し経つ。諸伏との一件もあり、旅行での思い出が楽しかったこともあり、ひどく浮かれた矢先だった。卒業が近づくたびに、前世の夢を見る回数がぐんと増えていく。枕元に置いたペットボトルに口をつけた。
まるで何かを思い出せと言わんがばかりに、同じ夢ばかり見る。大抵映画の前にレストランにいるところから、映画を観ているところのどこかを切り取るような夢。うんざりだ。俺が一番思い出したくないことばかり繰り返す。
時計を見ると、もうすぐ起床時間だ。これ以上寝てもしょうがないので、少し早いが先に布団を畳み、制服に着替えた。こうも前世の記憶に振り回されるのは初めてだった。今までは、記憶とは役に立つものでしかなかったからだ。
「ハー……痛いな……」
点呼へ向かう足取りも、鉛が張り付いたように重たく感じた。
◇
「高槻、お前最近怠けてんぞ! しっかり食いしばってやれ!」
「はい!」
久々の朝礼でのしごきだ。入校初期から、殆ど怒鳴られることも減っていたのだけど、つい眠たくて猫背になってしまった。マラソンを終えてから肩を落として朝食に向かっていると、鈴奈が心配そうにこちらを覗きこんでくる。
「大丈夫? 旅行が終わってから元気ないよね」
「ちょっと寝不足でさ……。体調悪いわけじゃないから」
ゆるゆると首を振って笑って見せると、彼女はまだ気がかりそうにしながらも納得してくれた。いくらルームメイトと言えど、人から見ても分かるほどなのは良くない気がする。食欲はあるし、体力が落ちているわけでもないのだが。
朝食を摂っていると、伊達班の面子にも声を掛けられた。
さすが、洞察力に優れた男たちだ。「また二日酔いか」と茶化すような言い方だったけれど、去り際には降谷が快眠の方法をアドバイスしてくれた。ありがとうと笑えば、彼はツンとしたように「ああ」と頷く。
しかし、今日は鑑識の試験日で、それがいけなかった。
数日で眠りが浅くなっていた所為で、静かな室内に耐えられなくて、私は持っていた瓶を思い切り落としてしまったのだ。
教官もさすがに様子が可笑しいと思ったのか、怒鳴ることなくひっそりと新しいものに取り換えてくれたけれど、教場の同期たちの視線はこちらに釘付けだ。純粋に、やってしまったと思った。
「ぐだぐだすぎる……」
試験が終わってから、机に突っ伏す私の肩を、軽い手つきがトントンと叩く。
頭を重たく上げると、諸伏が苦笑いしながら立っていた。キス――をしてから、こうして二人で話をするのは初めてだった。なんとなく、お互い気まずかったから。
彼は私が顔を上げると、少し口の端を引き結んでから気まずそうにこちらに口元を寄せてきた。子どもがするように手で口元を隠して、こそっと囁く。彼の声は低く甘いので、そうされると擽ったい。
「――俺のせい?」
尋ねられた声に、私は声のトーンも落とさず「えっ」と声を上げてしまう。ぱっと諸伏を振り返ると、彼は私と同じように驚いた表情を浮かべていた。
「ち、ちが……くて。諸伏くんのせいじゃないよ、うん」
「あ、そ、そっか……。うわ、何聞いてるんだろうな……」
日本人らしい黄味を帯びた肌色が、薄っすらと赤く色づいた。彼は動揺を隠すように後頭部やら首やらを掻きむしっている。焦っているのが目に見えて、私は寝不足だとか試験の失敗も飛んでいくほど、胸が満ち足りたのが分かる。
私はその日初めて、心から頬を緩めて自然と笑っていた。彼が可愛くて、その優しさが嬉しいと感じたからだ。
「諸伏くんはそうだったりすんの?」
「え!? だから……なあ、揶揄うなよ……」
割と真面目に言ったのだけれど、頬が緩んでいたからだろう。彼はハァと大きくため息をついて、困ったように言った。困らせるつもりはなかったので素直に謝れば、諸伏は隣の席に着きながらもう一度こちらを見つめてきた。
「顔色良くないな、本当に大丈夫?」
「うーん……。ちょっと、夢見が悪いんだ。悪夢ばっか見ちゃって」
子どもみたいで恰好悪いとは思ったけれど、彼に見つめられるとどうにも嘘がつき辛くて、私は軽く肩を鳴らしながら白状した。
しかし、諸伏はその色素が少しだけ薄い瞳を、真剣な色に輝かせてこちらを見つめていた。どこか物憂げな顔つきが「それは、辛いな」と呟いた。
その時に、そういえば私は彼のことをよく知らないと思ったし、彼も私のことをよく知らないのだと改めて思った。
付き合いも浅いので当たり前といえば当たり前なのだけど。たとえば、どうして夢見が悪いという私に自分のことのような苦しい顔をするのか。それは前震えていたあの夜と関係があるのか、とか。
彼も知らないだろう、私の夢見の悪さも、それがまさか記憶をリプレイするようなものなのかも。
――知りたいなあ。
いつか、彼が許してくれるのならば、何がそんなに縛り付けているのかを知りたい。何に怯えているのか、何を悲しんでいるのか、教えてくれたらと思った。
『女ってのはなんで付き合うと――』
松田の言葉を思い出す。これも、もしかしたら独占欲の一つなのだろうか。彼のすべてを知りたいと思ってしまうのは、知る者への嫉妬なのだろうか。
「高槻さん?」
「あ、ううん。なんでもない」
「あんまり眠れなかったら、電話して。できるだけ話相手になるから」
ぽん、と軽く背中を叩いて励ますようにいう諸伏に、私も笑いながら頷いた。不思議と彼のことを思っていると、悪い夢は見なかった。代わりに水族館での夢を見るようになってしまって、違った意味で寝不足ではあったのだけれど。
スクリーンに映るのは、眼鏡をかけた頬骨の目立つ男。隣に座る妹は、ハラハラと身を乗り出して展開を見守っていた。直前に買ってやったポップコーンを摘まむ手も止まっている。俺はハっと身を起こした。いけない、眠ってしまっていた。
妹が行きたいというなら大学に行かせてやりたいし、何より十八を過ぎれば施設を出なければならない。一人暮らしも検討にいれるためには、お金の工面が必要だ。あの両親にそんな金銭があるとは思えないし――。
『安室さん』
と、眼鏡の少年が呼ぶ男。金色の髪、褐色の肌、大きく垂れた目つき。何を言っているんだ、彼は降谷だ。違う、これは俺の記憶じゃあない。私の記憶だ。どうして俺の記憶に降谷の顔が出てくる――。
「――!!!」
女が金切り声を上げるような音が耳を劈く。タイヤが大きくスリップした跡が、道路にはくっきりと残っていた。映画を観た帰り道だった。薄く暮れた夕方、つい先ほどまで楽しそうにアムロトオルという男を語った笑顔が、隣にはいなかった。
大きく道を逸れたトラックのことは見えていたのに、夜勤明けの体が上手く動かなかった。小さな体が綺麗に一周引っ繰り返るのを、夕陽がそれを照らすのを、呆然と見ているしかなかった。
何が悪かった。どうして俺じゃなかった。映画なんて観に行かなければよかったのか、俺が動ける体を保てていればよかったのか。「――」彼女の名前を呼んだ。一目で助からないと分かった。
どうしようもない人生の、たった一つの希望だった。
彼女がいなくちゃあ、俺の人生が本当に、どうしようもない物に成り下がってしまう。
愛する人も、愛される人も、俺にはお前しかいなかった。
―――
――
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「いっだ、あ……」
跳ね起きた拍子に首筋を攣って、薄く涙を滲ませながら嘆いた。嫌な夢を見た。背中がぐっしょりと濡れているし、無意識に力が入っていたせいか足や手も筋が張るように痛む。
卒業旅行から帰寮し、少し経つ。諸伏との一件もあり、旅行での思い出が楽しかったこともあり、ひどく浮かれた矢先だった。卒業が近づくたびに、前世の夢を見る回数がぐんと増えていく。枕元に置いたペットボトルに口をつけた。
まるで何かを思い出せと言わんがばかりに、同じ夢ばかり見る。大抵映画の前にレストランにいるところから、映画を観ているところのどこかを切り取るような夢。うんざりだ。俺が一番思い出したくないことばかり繰り返す。
時計を見ると、もうすぐ起床時間だ。これ以上寝てもしょうがないので、少し早いが先に布団を畳み、制服に着替えた。こうも前世の記憶に振り回されるのは初めてだった。今までは、記憶とは役に立つものでしかなかったからだ。
「ハー……痛いな……」
点呼へ向かう足取りも、鉛が張り付いたように重たく感じた。
◇
「高槻、お前最近怠けてんぞ! しっかり食いしばってやれ!」
「はい!」
久々の朝礼でのしごきだ。入校初期から、殆ど怒鳴られることも減っていたのだけど、つい眠たくて猫背になってしまった。マラソンを終えてから肩を落として朝食に向かっていると、鈴奈が心配そうにこちらを覗きこんでくる。
「大丈夫? 旅行が終わってから元気ないよね」
「ちょっと寝不足でさ……。体調悪いわけじゃないから」
ゆるゆると首を振って笑って見せると、彼女はまだ気がかりそうにしながらも納得してくれた。いくらルームメイトと言えど、人から見ても分かるほどなのは良くない気がする。食欲はあるし、体力が落ちているわけでもないのだが。
朝食を摂っていると、伊達班の面子にも声を掛けられた。
さすが、洞察力に優れた男たちだ。「また二日酔いか」と茶化すような言い方だったけれど、去り際には降谷が快眠の方法をアドバイスしてくれた。ありがとうと笑えば、彼はツンとしたように「ああ」と頷く。
しかし、今日は鑑識の試験日で、それがいけなかった。
数日で眠りが浅くなっていた所為で、静かな室内に耐えられなくて、私は持っていた瓶を思い切り落としてしまったのだ。
教官もさすがに様子が可笑しいと思ったのか、怒鳴ることなくひっそりと新しいものに取り換えてくれたけれど、教場の同期たちの視線はこちらに釘付けだ。純粋に、やってしまったと思った。
「ぐだぐだすぎる……」
試験が終わってから、机に突っ伏す私の肩を、軽い手つきがトントンと叩く。
頭を重たく上げると、諸伏が苦笑いしながら立っていた。キス――をしてから、こうして二人で話をするのは初めてだった。なんとなく、お互い気まずかったから。
彼は私が顔を上げると、少し口の端を引き結んでから気まずそうにこちらに口元を寄せてきた。子どもがするように手で口元を隠して、こそっと囁く。彼の声は低く甘いので、そうされると擽ったい。
「――俺のせい?」
尋ねられた声に、私は声のトーンも落とさず「えっ」と声を上げてしまう。ぱっと諸伏を振り返ると、彼は私と同じように驚いた表情を浮かべていた。
「ち、ちが……くて。諸伏くんのせいじゃないよ、うん」
「あ、そ、そっか……。うわ、何聞いてるんだろうな……」
日本人らしい黄味を帯びた肌色が、薄っすらと赤く色づいた。彼は動揺を隠すように後頭部やら首やらを掻きむしっている。焦っているのが目に見えて、私は寝不足だとか試験の失敗も飛んでいくほど、胸が満ち足りたのが分かる。
私はその日初めて、心から頬を緩めて自然と笑っていた。彼が可愛くて、その優しさが嬉しいと感じたからだ。
「諸伏くんはそうだったりすんの?」
「え!? だから……なあ、揶揄うなよ……」
割と真面目に言ったのだけれど、頬が緩んでいたからだろう。彼はハァと大きくため息をついて、困ったように言った。困らせるつもりはなかったので素直に謝れば、諸伏は隣の席に着きながらもう一度こちらを見つめてきた。
「顔色良くないな、本当に大丈夫?」
「うーん……。ちょっと、夢見が悪いんだ。悪夢ばっか見ちゃって」
子どもみたいで恰好悪いとは思ったけれど、彼に見つめられるとどうにも嘘がつき辛くて、私は軽く肩を鳴らしながら白状した。
しかし、諸伏はその色素が少しだけ薄い瞳を、真剣な色に輝かせてこちらを見つめていた。どこか物憂げな顔つきが「それは、辛いな」と呟いた。
その時に、そういえば私は彼のことをよく知らないと思ったし、彼も私のことをよく知らないのだと改めて思った。
付き合いも浅いので当たり前といえば当たり前なのだけど。たとえば、どうして夢見が悪いという私に自分のことのような苦しい顔をするのか。それは前震えていたあの夜と関係があるのか、とか。
彼も知らないだろう、私の夢見の悪さも、それがまさか記憶をリプレイするようなものなのかも。
――知りたいなあ。
いつか、彼が許してくれるのならば、何がそんなに縛り付けているのかを知りたい。何に怯えているのか、何を悲しんでいるのか、教えてくれたらと思った。
『女ってのはなんで付き合うと――』
松田の言葉を思い出す。これも、もしかしたら独占欲の一つなのだろうか。彼のすべてを知りたいと思ってしまうのは、知る者への嫉妬なのだろうか。
「高槻さん?」
「あ、ううん。なんでもない」
「あんまり眠れなかったら、電話して。できるだけ話相手になるから」
ぽん、と軽く背中を叩いて励ますようにいう諸伏に、私も笑いながら頷いた。不思議と彼のことを思っていると、悪い夢は見なかった。代わりに水族館での夢を見るようになってしまって、違った意味で寝不足ではあったのだけれど。