学校編
名前の設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
『良いじゃん、観に行こうよお』
俺の夢を見る時には、決まって出だしに大きな耳鳴りがする。
そのあと、耳に水が詰まったようにコポコポと籠った音がして、俺の夢を見る。夢のなのか記憶なのかは定かじゃない。夢にしては鮮明だが、現実にしては曖昧な、誰かの視点だった。
目の前で俺の手を引くのは、年の離れた妹だ。
今年中学生になる。俺が家を出る年に生まれた妹で、すぐに児童養護施設に入所したため、比較的穏やかに育った。明るく何にでも興味を持つ彼女は、最近漫画やアニメに視線を向け始めていた。
『良いって、そんなの。子どものやつだろ』
『でも、かっこいいんだよ、ホラホラ~』
そう、彼女はフライヤーをこちらに押しつける。俺はそういったものに全く興味も知識もなく、しかしあまりに目をキラキラとさせて話をする妹を無下にはできなかった。妹のことは好きだった。こんな俺でも、彼女にとっては唯一の頼れる身内だったからだ。施設に顔を出すと、その幼い頬を綻ばせるのが好きだった。
『お前が好きなのは?』
しょうがなしに頬杖をついて、その紙っぺらを見下ろすと、妹はテーブルに乗り出して真ん中に大きく載った二人のうちの片側を指さす。金色の髪をした色黒の男が、何やら悪そうな顔で笑っている。
『ええ、悪役じゃねーの。コレ』
『違うんだって、かっこいいの! 味方……じゃないかもしれないけど』
ふうん、と口角を上げて頷いた。
別に映画に興味はなかったが、鼻息を荒くする妹の顔が、可愛かった。
『アムロトオル、っていうんだよ!』
俺のどうしようもない人生で、どうしようもない環境で、ほんの僅かに光る記憶だった。
◇
「高槻!!」
飛んできた大声に、背筋がピンっと伸びる。油断すると、すぐに背中が丸まってしまう。慌てて返事をすると、教官は今日も今日とて人格否定ではないかと思えるほどの怒声を連ねる。既にこのボキャブラリーにも慣れつつあったが、それを表に出すとまた説教が長引くので、なるべく真剣な顔を張り付けて相槌を打った。
「分かったら、周回ィ!」
「はい!」
周回は連帯責任なので、教場の皆に心の底から謝りながら、足を進める。勿論誰一人文句などは言わないが、言われても頭を下げて受け止めようと思う。走ってる途中で、とん、と軽く肩がぶつかる。そちら側を見ると、丸っこい黒髪――諸伏だ。どうやらわざとぶつかったようで、私が視線を向けると、軽く口元をニコ、と笑ませた。「気にするな」と、そう言っているように思える。私も走りながら小さく肩を竦めた。
「高槻!!!!」
「~っ、ハイ!!!」
それが目にとまったらしく、遠くから名前を叫ばれる。私は走りながらスピードをアップさせた。諸伏が、顔にありあり「しまった」という色を滲ませている。教官に背中を向けているうちに、「大丈夫」と口パクしてみせた。
その様子を降谷がジトっと睨んでいて、私は内心空笑いしながら目線を逸らす。
――そういえば、あの夢。
今日見た、俺の妹の夢。どこかで見覚えがあると思っていたが、あのチラシの男の特徴が降谷にピッタシと合うのかもしれない。そういえば、映画も観に行ったような気がする。興味がない上にずいぶん前のことなので、曖昧な思い出だが。あの人も、警察だとか……そんな風だった気はする。
ようやく走り終えて、再び整列したころ、私の思考はまた少し遠くへと飛んでいて、危うくもう一周追加されるところだった。
◇
「高槻さん」
朝礼を終え、食堂に向かう途中で諸伏が呼び止めた。恐らくさっきのことだろうな、と思い、先に「大丈夫だよ」と笑うと、諸伏は少し吃驚したように目を瞬かせる。そして、強張った肩を脱力させる。
「本当にごめん」
「もとはと言えば、私がボーっとしてたわけじゃん。むしろ走らせてゴメンって感じ」
「いや、それは全然」
話していた流れで、食堂の長蛇の最後尾にそのまま並ぶ。毎日思うことだが、朝食をとっている時間は短いのに、この混みようは理不尽である。
「これ、座れるかな」
諸伏がふと零した言葉が、心にグサリと刺さった。
鬼塚教場のメンツが遅れているのは、八割がた自分のせいだという自負があったからだ。「マジでごめんね」と前後に並ぶ子たちに声を掛けると、彼らは笑った。気の良い奴らだ。男泣き――違うか、女泣きしそうになる。
「私は高槻さんのメンタルのが心配だけど……」
心配そうに、前に並んでいた女の子が話しかけてきた。さっぱりとしたショートヘアを掻き上げながら、垢抜けない眉を下げてこちらを覗く。
「あー……ほんと、特に気にしてないから。や、気にしなきゃか」
「結構肝太いよね、もっと女の子っぽい子なのかと思っててさ」
「ああ、見た目で」
納得したように頷くと、彼女は「自分で言うな」と声を上げて笑った。くしゃっと笑う顔が可愛らしい子だ。私よりも少しだけ背が低かった。
「確かに、ゼロとも普通に話してたし、強気なほう?」
「――ゼロ?」
尋ねたのは私でなく、前に並んだ彼女のほうだ。
私は以前降谷がそう呼ばれていたのを聞いたが、確かに連想しづらいあだ名だった。彼女が首を傾げたので、諸伏はアっと声を上げて首を振る。
「ごめん、降谷のことだよ。ゼロって描いて、零(レイ)だから、ゼロ」
「あ、降谷くん! なるほど~」
私も彼女と共に頷いた。よっぽど仲が良いのだろうか、降谷もそのあだ名に合わせるように、諸伏を「ヒロ」と呼んでいた覚えがあった。
「アイツ、お前と友達なのか」
話に割り込んできたのは、諸伏の更に後ろに並んでいた男だ。パーマをかけたような癖毛には見覚えがある。入校式のときに、欠伸交じりに返事をしていたくせに、お目溢しされている憎い男だ。私なんて、ちょっと背中が丸まっただけなのに。
諸伏は男を振り向いて、「松田」と呼んだ。そうそう、確かにそういう名前だった。悪ガキがそのまま育ったような、勝ち気な顔つきの男だ。
「ああ、まあ……友達、だな。幼馴染」
「ふーん」
松田は自分から尋ねたくせに、ずいぶん不遜な態度で鼻を鳴らした。口元をちょっぴり歪ませて、〝俺はあいつが気に食わない〟という想いがそのままに見て取れる。諸伏は苦笑して、彼を宥める。
「だから、そう喧嘩売るなって」
「売ってねー。そんな暇じゃねえし、売ってくるのはアッチだろ」
「……お前がサボってるのとか、気になっちまう奴なんだよ」
松田は、フン、と鼻を鳴らした。
「警察になるために生まれたみてえな性格してる。それが気に入らねー」
「松田くん、味噌汁零れるよ」
憎まれ口をたたく割に、その生意気な目つきは先に食堂の端に座っている降谷を見つめていた。斜めになったトレイを指摘すると、ハっと視線がこちらを捉えた。
恐らくだが、そこで初めて〝私〟を認識したのだろう。さっきまでは、殆ど諸伏に話しかけていたようなものだった。
「あ、朝走の戦犯」
降谷に対する愚痴とは打って変わり、ポロっと零れ出てしまったような言葉だった。鼻で笑ったわけでもなく、純粋に心の声が口裏を突いてしまったような。私はググっと喉の奥に言葉を詰まらせる。
「だ、から~……それはごめんって言ってるじゃん……」
図星と罪悪感半分、あとの半分は『なんでお前は怒られないんだよ』という理不尽さへの怒りだ。欠伸してたくせに、声も小さかったくせに――……。と、恨むのは少々子どもすぎると思うので、心の内側に精いっぱい押し込んでおく。
「フ、別に。泣くなよ」
「泣いてねえよ」
「声震えてた?」
「怒りで!!!」
つい上げた声は思ったよりも大きく響いて、同じ教場の男が面白がって「高槻!!」と叫んだ。私は反射的に背筋を伸ばし踵を揃えてしまう。それを見て、諸伏と松田が揃って腹を抱えた。
「ぶ、ふ…………」
「こ、このガキ……」
拳を握ってパシィ、と音を鳴らしながら掌に打ち込むと、諸伏は何かがツボに入ったようで、益々体を震わせていた。「ごめ、高槻さん、待って……」と笑う諸伏に、心がやさぐれた朝だった。