学校編
名前の設定
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自分の名前が嫌いだ。名づけた母も嫌いだ。
蝉の鳴き声が転がる、狭いワンルーム。部屋の隅に放られた弁当の空き箱には、暑さで湧いたコバエが飛び交っていたと言う。そこで産まれたのが、私だ。夏に生まれたから夏乃だなんて、安易な名前をつけられたものだ。
母は一人狭い部屋で私を産み、近くの産婦人科に転がり込んでから、病室を抜け出し行方をくらましてしまった。担当医曰く、赤ん坊を育てられる責任が持てないと、泣きながらぼやいていたらしい。なら産むなよ。と、赤ん坊の私が言えなかったのは一生の悔いだ。
幸い、母方の家族が私を引き取ると名乗り出てくれた。母には両親はすでにおらず、肉親は彼女の兄ただ一人だった。優しい男だった。私が小学校に上がるころまでは、実の娘のように育ててくれた。酷い男だった。
エアコンのよく効いた寝室、いつものように隣で寝る私の小さな胸を、男の手が撫でるように触った。
彼は私に「愛してるよ」「大切だよ」と優しく話しかけてくれた。キスをして、性器を触って、触られて――セックスをして。それでも、「夏乃は家族だ」「いつまでも大切だ」と、優しく言うから、愛されていると思ってしまうではないか。だって、まだ幼い子どもだったのだもの。他に私のことを愛してくれる人を知らなかったのだもの。
児童相談所だと名乗る人が家に来たのは、それから数年が経った頃のことだ。それからは早かった。医者に体中を調べられて、警察に男のことを聞かれて。その時の大人たちの気まずそうな顔を、今でもよく覚えている。
男が警察に連れていかれるときに、彼は言っていた。
「夏乃は俺のものだ、触るな、俺のだ」
それから施設の人も、カウンセラーの人も、「辛かったでしょう」と私に優しくしてくれた。一体何が本物の愛なのかは、誰も教えてくれないまま。ただ、あの男に、都合の良い『物』だと思われていたことに、物心が育つと共に腹が立ってきた。
施設の中で育った私は、当然のことながら大人になっていく。友達もできたし、恋もした。ただ、セックスをすると、この男が私を組みしいているという事実に無性に腹が立った。アイツと同じ、薄っすらと生えた髭や、自分の体とは違う男の匂い、性器の気持ち悪いほどの暖かさ。
子どもの私が汚されたように、セックスをすると私も汚れていく気がした。
汚い、嫌だ。どうしてみんな耐えられるの。
男たちのあの分厚い体に押しつけられて、成すすべを知らないだけ。きっとみんな、本心では嫌がっているんだ。当然だ。あんな物を咥えて、入れられて、喜ぶわけがないんだ。
なら教えてあげないと。あなたは綺麗だと、男に踏みつけられるような可哀そうな人ではないのだと。私が、教えてあげないと。綺麗な体と重なったほうが、ずっとずっと気持ちが良いって。
――私だけが、みんなと違うわけがない。
そうだよ。当たり前だ。私は彼女たちを守るために警察官を志すことにした。
百花と出会ったのは、水難訓練の時が初めてではない。入校式のあと、パイプ椅子を片付ける私の後ろを、たどたどしい手が支えてきたのが初めだった。少し離れがちな、横幅の広い目、小ぶりな鼻と薄い唇。さらさらとした真っ黒なショートボブ。
「ありがと……」
「それ、重いでしょ。持ったげる」
彼女だって、私とさして変わらない体格なのに。少しだけ変わった子だった。他の同期の誰よりも今時な女の子らしい風貌なようで、どこか青年らしい性格の子。別に女の子とベタベタしているところを見るわけでもない。寧ろ、彼女たちの中で気まずそうに、居心地悪そうに見えた。
可愛い子だなあと思って見ていると、座る足が開いていたり、口調が男のようだったり、気になることは多くあったけれど、それも含めて可愛かった。何より彼女は汚くない。髭も、汗も、性器も、あんな風じゃない。そんな彼女と警察を志すこの場で出会えたことは運命のように感じた。
しかし、彼女の姿が少しずつ変わり始める。
少しずつ、少しずつ、彼女の中にある〝青年らしさ〟が消えていくのが分かった。まるで誰かに恋をしているみたいに、ギシリギシリと女への階段を登っていく音がする。彼女も、男に組みしかれる日がくるのだろうか。
耐えられなかった。嫌だった。汚れていかないで、私のことを愛して。
――誰か、あの狭い真夏のワンルームから、私のことを連れ出して。愛するってこういうことなんだって、どうか、感じさせて。
男の体に倒れ込んだ百花を見て、私はひどく虚しい気持ちだった。結局、私だけが夏に置いて行かれているのだ。みんなは、前に進んでいくのに。蒸された体が鈍く軋んだ。