学校編
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七月の末、夏休みも直前だ。もうすぐ実家に帰るということもあり、今日最後の訓練は棟内の掃除になっていた。単に棟の中といっても、講義室だけでなく訓練場や資料室、学習室、PC室等――。様々な設備があるぶん掃除も一苦労で、廊下のモップを掛けながら肩を鳴らした。窓の少ない術科棟の廊下は、そこに立っているだけでも背中や膝裏に汗が伝っていく。
「あっつーい……」
こんなに真面目に掃除をしたのは、小学生の頃以来ではないだろうか。しかし少しでも汚れを残してもう一度磨き直し――など、そんなことになったら目も当てられない。せめて自分の担当区だけでも言いがかりすらつけられないほど磨き上げておこう。
「高槻さん、そっち終わった?」
「うん、もう終わる……けど、さすがに水汚すぎるかな」
「あー……。ワックス掛ける前に変えておこうか」
モップを洗った水の汚さに顔を歪める。真っ黒に染まってしまった水で磨いても、恐らく埃が床に張りつくばかりな気がした。濡れているうちはワックスは掛けられないので、もう終わった反対側からワックスを掛けておいてもらう。私は、その間にバケツを持って水を汲みに行く。掃除に使って良いと言われている排水溝は一階の野外にしかなく、仕方なしにバケツを持って階段を下ることにした。
「百花ちゃん!」
たたっと小さく軽い足音がする。近頃聞き覚えのある声に振り向くと、私と同じように重たそうなバケツを持った夏乃がいた。彼女の名前を呼ぶと、嬉しそうにその瞳がニコっとする。照れ臭そうに「おそろいだね」とバケツを軽く持ち上げた。
「ふ、バケツがお揃いって……」
夏乃がまるで鞄につけたキーホルダーのように言うのが面白くて、つい噴き出してしまった。彼女が「え」と目をきょとんとさせるものだから、笑ってはまずかったかと思って手の甲で口元を押さえながら笑いを堪えた。
「ふ、ふふ、ごめんね」
「う、ううん……」
夏乃は目を丸くして、それから恥ずかしそうに頬を僅かに赤くした。松田はあんなことを言っていたけれど、こんなに可愛い子が人懐こくしていれば、カップルの一つや二つや三つ、破綻してしまうような気がする。
外の草むしりは鬼塚教場の男たちが担当していた。この炎天下だというのに振り当てられたのは、間違いなく教官の推薦だろう。可哀そうに思いながら、外の水道に淀んだバケツの中身を流す。まだバケツの縁には汚れが張り付いていて、私は重たくため息をつきながら中を洗い流した。
水をいれなおすと、ガラスの破片が散りばめられたかのように、水面がきらきらと光を跳ね返す。眩しくて目を細めた。夏乃が洗い終わったのを横目に見て、さて上まで運ぼうとした時、近くの花壇で完全にダウンした丸っこい頭が見えた。堪えられないまま、口角が持ち上がってしまう。
「ごめん、お待たせ」
「良いよ。行こう」
明らかに口の形が「あっちぃ」と言っていたのが、私の場所からでも見て取れた。棟内に戻る直前に目が合ったので口をぱくぱくとさせて「がんばれ」と伝えておいた。
バケツの水があると、当たり前だが進みが遅くなる。特にのぼり階段だったので、零さないようにしていると行きよりもゆっくりとした歩調だった。一階の渡りに差し掛かった時、夏乃がふと口を開いた。
「百花ちゃんはさ……諸伏くんのこと、好き?」
突然の『諸伏』という単語に、私はあからさまなほどに動揺を隠しきれず、裏返りかけの声で「好きではないよ」と答えた。嘘ではなかったが、まあ、これだけを聞いて何もないと思う奴は警察に向いていない気がする。
夏乃はやっぱり、興味があるのかないのか分からない声で「ふうん」と相槌を打つ。
「じゃ、私好きになっちゃっても良い?」
急に、その声色が『女らしく』なるのが分かった。分かる。例えば、飲み会の帰り、例えば、彼女との泊まり。女が良いよと言う時と同じ声色であった。その色を含んだ声が、この間の私と同じような気持ちを持っているのだと思い知らされる。
私が止める筋合いなどないので、固い声で「うん」と頷くと、夏乃は嬉しそうに笑った。
夏乃は、ニコニコと笑いながらバケツをその場に置く。彼女の冷たい手が私の腕を掴んだ。ぐい、と細い手のどこにそんな力があるのか――そう思うほど、彼女の手は力強かった。
「な、夏乃……?」
どうしたの、と尋ねるが、彼女は良いからとしか答えない。手を引かれるままに行く先には、講義室がある。彼女は開いている扉の中に入ると、内鍵を閉めてこちらに詰め寄った。
「内緒の話、したいの」
大きくクリっとした目が、私のほうをじっと見つめる。色素が薄く、茶色気の強い瞳は、昼の日差しを浴びると益々透けるように見えた。向日葵の中心のような、不思議な瞳だ。
細く白い指先が、むにっと私の唇を押した。まるでスクイーズでも楽しむように、何度かむにむにと押して戻して。それからツツ、と下って、制服の中心をまっすぐと通っていく。
直感だ。直感だが――嫌な予感がした。後ずさろうとしたときに、足を引っかけられて勢いよく長机に倒れ込んでしまった。その小さい体躯が、私が困惑しているうちに胴体の上に圧し掛かる。小さい体の割にふくよかな胸が、私の胸に重なった。
「かっこいい、本当に王子様みたい……」
ニコッ、夏乃はあの笑顔で笑う。
間近で見ると、こんな笑顔をしていたっけか、と思う。こんなに、ウットリとした笑顔だっただろうか。
「百花ちゃんってさ、処女でしょ」
その言葉に、ギクっとする。確かに、処女だ。女になってから性行為も自慰行為もしたことはない。なるべく顔に出さないようにしたけれど、彼女は嬉しそうに「やっぱりね」と言った。
「処女のままで良いの。綺麗なまま、私のことを抱いてほしいんだ……」
細い指が、自身の制服のボタンを外していく。運動をするためなのか、レースこそついているがノンワイヤーの下着が制服の狭間からチラついた。驚くほどに白い肌に、じわりと汗の粒が滲んでいる。
色っぽい、とは思った。女らしい、しなやかでいやらしい手つきと視線。あの人とは違う。
同時に、嫌だった。ただただ、嫌だと思った。その手つきが、恐ろしかった。
私は少し遅れて、その小さく細い体を押しのけようと肩を掴む。彼女はニコっと笑って、体重を掛けるように更にこちらに圧し掛かった。「怖くないよ」と、囁いた声が、どうしてかひどく気持ち悪いと思えてしまう。
「やめ、退け、退けって!!」
「あはは、なんでそんな男の子みたいな言葉なの。本当かっこいいよ」
なんだ、何でこんなことになっている。
彼女の考えが全く分からなかった。私の脚に、すりっと股を摺り寄せる行為。湿っぽい体。いやだ、どいて、どいてよ。
「ど、けってぇ!」
唯一自由に動く足を振りかざして、その横腹を蹴った。女の子だからとか遠慮するほど、私の精神に余裕がない。バランスを崩してよろめいた体を、一気に押しのける。私は制服のボタンがよれていることも何も気にせず、とにかく走った。体力なら、彼女より優れている自信があった。
扉の内鍵を解除する指先が震えて、かちゃかちゃと小さく音を立てる。がちゃん、と鍵を開けて外に飛び出ようとした。私が廊下にばっと駆け出した瞬間、大きな影とぶつかった。足が震えていたので、その拍子に倒れ込む。立とうとしたけど、うまく立てなかった。
「高槻さん……」
驚いたように前に立っていたのは、諸伏だった。
――私は、驚くほど心が落ち着くのを感じた。しゃがんでくれた、その肩に触れる。暖かい。汗で少し湿っている。嫌じゃない。縋るようにもう片手も彼の腕に触れると、止まっていた呼吸がようやく再開できるような気がする。
「手、冷た……どうしたの、何かあった?」
気遣うように私を見る。自分でも分からないが、ひたすらにその体に触れた。彼も、私を宥めるように背中に大きな掌を置いてくれた。なんで、嫌じゃないのだろう。夏乃に触れられるのと、諸伏に触れられるのの、一体何が違うのか。けれど、今はその体温が恋しい。思い切り抱きしめて、離してほしくないほどに、彼のことを欲していた。
「――結局、百花ちゃんも男が好きかあ」
制服の前のボタンが外れたまま、彼女はつまらなそうに私を見下ろした。それから軽蔑した視線で、諸伏のことを睨む。
「きったな」
彼女の抑揚のない、興味のなさそうな声が、私たち以外誰もいない廊下に響いた。