ロストチェリー
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いつもより、瞼に少しだけ多くラメを乗せた。
服は最近の趣味ではないほどシンプルなものにしたし、いつもは巻いている髪も緩くアップにしただけだ。ヒールのないスニーカーは、私の足取りを軽くする。
待ち合わせに指定されたカフェは、駅から十分ほど歩いた先にあった。カントリー風な造りの内装は女の子が好きそうで、実際テーブルを囲むのは八割が若い女の子だ。店員に名前を告げると、テラス席に案内された。
大学時代に付き合っていた彼から連絡があったのは数日前。前ぶれも何もない、突然の電話だった。非通知で掛かってきたので数回は無視をしたのだが、あまりに何度も掛ってくるものだから恐る恐る通話ボタンを押したのだ。押した瞬間の、【良かった】という息と共に漏れる声色が、今も忘れられない。感情を押し殺せない素直さと、落ち着いた柔らかな雰囲気――あの頃と何一つ変わらず、すぐに彼だと分かった。
どうしたのと聞くと、少し会いたくなってと言われた。素直に嬉しいと感じた。別れたときも喧嘩別れではなく、彼が仕事の都合でと別れたので、私としてはまだ未練を引きずっていたからだ。もしかしたら向こうも同じ気持ちなのかも、と淡い期待が胸を焦がした。
「百花?」
低いが、柔らかい声色。彼だ、私はなるべく好みに寄せたメイクや服装に見合うように、にこっと愛想よく笑った。
――そして、笑ったまま固まってしまった。彼は――景光とは、大学一年の時に出会った。絵に描いたような好青年で、ぱっと光が灯るように笑う人だった。案内されたテラス席に座る景光は、好青年より少しだけ荒んだ目つきを猫のように細める。
「やっぱり、百花だ。来てくれてよかった」
「景光、だよね。久しぶり」
私は固まった頬をほぐすようにぎこちなく笑う。うん、と相槌を打つ姿は、やっぱり景光だ。付き合っていたころよりも随分と大人びたような顔つきに、まだドキドキと胸が鳴っていた。昔はTシャツばかり着ていたものだが、今はグレーのハイネックと黒いジャケットを、綺麗に着こなしている。綺麗な輪郭に沿って生えた無精ひげは、彼の印象をガラリと変えた。
向かいに座ると、頬杖をついた景光と目が合う。「腹減ってる?」と尋ねられて、私はどぎまぎしながらメニューを見た。
「景光は?」
「俺は、行きがけにつまんだから。コーヒーで良いよ」
「じゃあ、私もケーキセットで……」
「ちゃんとメシ食べないと、そんなに細いんだから」
こっちにしな、と指さしたのはランチのパスタセットだ。「ケーキセットとカロリー変わんないよ」なんて笑うと、景光も歯を覗かせて子どものように笑った。私はほっと胸を撫でおろす。少し大人っぽくはなったけれど、やっぱり景光だと思った。
「それに、私だけランチ食べるの恥ずかしいじゃん」
「えぇ? 気にしなくて良いのにな……」
「気にするんだってば」
やり取りを二、三繰り返しているうちに、店員がグラスを運んできた。ついでにケーキセットとコーヒーを注文すると、景光はまだ引っ掛かるように「本当に良いのか」と念を押す。私も笑いながら頷くと、ようやく首を傾げながら納得してくれた。
水の入ったグラスに口をつけると、ツンっと上に突っ張った目つきが私を見つめる。
「なんか、大人っぽくなった」
と、満足そうに言う景光に、数分前の私の心境を語ってやりたい。照れ隠しにごくごくと、余分なくらいに水を飲んでしまった。
他愛のない話をしているうちに、ケーキとコーヒーが運ばれてくる。イチゴの乗った白いクリームが、ほんのりと冷気を纏っていた。デザート用のフォークに手をつけて、気になっていたことを切り出す。相変わらず、呑気そうな相槌だった。
「どうしたの、急に……その、会いたいって」
「ん? うーん、なんとなく、だな。機種変えたんだけど、前の携帯のデータ眺めてたらさ」
「だから知らない番号だったんだ」
「そうそう。元気にしてるかな、って。まあ、会ってくれないと思ってたけど」
彼はそう言いながら、カップの縁に唇を添わせた。私は唇が横に引き延ばされるのをなんとか堪え、少しクールぶって「ふうん」と言った。可愛くないとは自覚していたが、さすがにニヤけてしまうのはまずいと思った。
「あ、そういえば、フェスに行った写真って持ってる?」
「フェス? うん、あるよ」
景光は音楽が好きだ。特に邦ロックのフェスには、よく二人で参加した。車の中でリハーサルやチューニングの音を聞きながら、胸を躍らせたのを覚えている。まだ行くの? 尋ねると、彼はあんまり、と言う。
「行きたいんだけど、忙しくて。……俺の携帯で撮ってなかったろ、あの時」
「車の中に忘れてってたもんね」
「ちょっと、見せてくれないか」
私は快く了承すると、鞄から携帯を取り出して手渡した。携帯こそ変わっているが、私は同じシリーズでの乗り換えなのでデータが残っていた。手渡すと、彼は頬を綻ばせて「懐かしい」と写真を眺めた。
「はは、そうそうこれ……。途中で雨降ってきちゃって、カッパ買いに走ったっけ」
「結局最後ずぶぬれになってるけどね」
「べちゃべちゃのままホテル行ったよな」
覚えている――ホテルに行って、ずぶ濡れの肌を寄せ合ったことも。雨は体温に触れても冷たくて、それを埋めるように抱きしめ合ったことも。昨日のことのように色濃く思い返せて、私は目の前の、懐かし気に画像を眺める伏せ目を見つめた。画面をスワイプさせる指先は、相変わらず深爪気味で、少し節々が浮いている。
それを見ていたら、泣きたい気持ちになった。
目の奥がジィンと痺れるように熱い。しっかりとした、固い唇が恋しいと思った。
「……ごめん、ちょっとお手洗い」
その表情も、仕草も、体のパーツの一つ一つも、恋しくて堪らなかった。このままでは目の前で泣き出してしまうかもしれない。景光は優しいのを知っていた。私が泣いたら、きっと背を撫でて頬を拭ってくれるとは分かっている。けれど、それはズルいような気がして――私は慌てて席を離れる。
景光の、優しく素直なところが好きだ。
猫のようにキリっとした目つきが、私に向かって柔く笑む顔が好きだ。
細くしなやかな黒髪を撫でると、ちょっとだけ甘えたように口角を持ち上げるのも。
キスをしたあとに照れ臭そうにはにかみながら、私を見つめてくるのも。
時折、何かに追い詰められたように、生き急ぐような表情を浮かべるのも――。
もしかしたら、なんて軽い気持ちで会ったのは間違いだったかもしれない。思いのほか、私は彼のことを好きだったのだと自覚してしまう。景光は、どうだろう。嫌じゃあ、ないんだろうか。
席に戻ったら、もう一度聞いてみよう。今の気持ちの三分の一でも、彼に伝わるように言葉にしよう。もう一度、あの固い唇の、柔らかなキスをしてもらえたら。ジリジリと焦がれる思いをぐっと飲み込み、私はテラス席へ踵を返した。
「ごめん、景……光……」
白い煙が、視界に被さる。
煙たい香りが、鼻の奥を刺激した。景光は戻ってきた私を見ると、慌てたように灰皿に煙草を押しつけた。
「ごめん。臭かった?」
「う、ううん。煙草、嫌いって言ってたから……」
「あー……。最近、知り合いが吸っててさ」
景光はそういうと苦笑いを浮かべる。その顔には、私でも読み取れるほどの素直さで『そうだっけ』と描かれていた。私は、言おうとしていた言葉をすべて腹の中へ押し込む。駄目だ、彼には私のことなど見えていないのだと分かってしまった。
「……泣きそうだな」
景光は、席の前で立ち尽くす私を見上げて、ぽつりとつぶやいた。独り言なのか、私に問われたのか、判断のいかないほどの小ささで。ごつごつとした手が私の頬に、ほとんど掠めるほどの距離で触れていった。
私は何か言いたくて、でも言葉が見つからなくて、何度か口を開閉させる。景光はそれを見て、何も言わないままだった。いつかのように私の髪を軽く撫でて、優しく落ち着いた声色が、煙草の色を含んで言った。
「泣かせて、ごめんな」
普段は上向きに整った眉が、申し訳なさそうに下げられる。それ以上の言葉はなかった。
「泣いてない」
私はぶっきらぼうに言うと鞄を引っ手繰って、元きた道を走った。スニーカーは走りやすいはずなのに、重たくて、つま先が窮屈に感じた。
――携帯に入っていた彼の写真が、一枚残らず消えていると気づいたのは、ようやく気持ちに整理がついた頃のことだ。景光は、何を伝えたくて会いたいと言ったのか。以前通じた番号には、何度掛けなおしても繋がることがなかったので、分からないままだ。
ただ、最後の言葉が「泣いてない」は――やっぱり、可愛くなかったかなあと、今になって思うのだ。
服は最近の趣味ではないほどシンプルなものにしたし、いつもは巻いている髪も緩くアップにしただけだ。ヒールのないスニーカーは、私の足取りを軽くする。
待ち合わせに指定されたカフェは、駅から十分ほど歩いた先にあった。カントリー風な造りの内装は女の子が好きそうで、実際テーブルを囲むのは八割が若い女の子だ。店員に名前を告げると、テラス席に案内された。
大学時代に付き合っていた彼から連絡があったのは数日前。前ぶれも何もない、突然の電話だった。非通知で掛かってきたので数回は無視をしたのだが、あまりに何度も掛ってくるものだから恐る恐る通話ボタンを押したのだ。押した瞬間の、【良かった】という息と共に漏れる声色が、今も忘れられない。感情を押し殺せない素直さと、落ち着いた柔らかな雰囲気――あの頃と何一つ変わらず、すぐに彼だと分かった。
どうしたのと聞くと、少し会いたくなってと言われた。素直に嬉しいと感じた。別れたときも喧嘩別れではなく、彼が仕事の都合でと別れたので、私としてはまだ未練を引きずっていたからだ。もしかしたら向こうも同じ気持ちなのかも、と淡い期待が胸を焦がした。
「百花?」
低いが、柔らかい声色。彼だ、私はなるべく好みに寄せたメイクや服装に見合うように、にこっと愛想よく笑った。
――そして、笑ったまま固まってしまった。彼は――景光とは、大学一年の時に出会った。絵に描いたような好青年で、ぱっと光が灯るように笑う人だった。案内されたテラス席に座る景光は、好青年より少しだけ荒んだ目つきを猫のように細める。
「やっぱり、百花だ。来てくれてよかった」
「景光、だよね。久しぶり」
私は固まった頬をほぐすようにぎこちなく笑う。うん、と相槌を打つ姿は、やっぱり景光だ。付き合っていたころよりも随分と大人びたような顔つきに、まだドキドキと胸が鳴っていた。昔はTシャツばかり着ていたものだが、今はグレーのハイネックと黒いジャケットを、綺麗に着こなしている。綺麗な輪郭に沿って生えた無精ひげは、彼の印象をガラリと変えた。
向かいに座ると、頬杖をついた景光と目が合う。「腹減ってる?」と尋ねられて、私はどぎまぎしながらメニューを見た。
「景光は?」
「俺は、行きがけにつまんだから。コーヒーで良いよ」
「じゃあ、私もケーキセットで……」
「ちゃんとメシ食べないと、そんなに細いんだから」
こっちにしな、と指さしたのはランチのパスタセットだ。「ケーキセットとカロリー変わんないよ」なんて笑うと、景光も歯を覗かせて子どものように笑った。私はほっと胸を撫でおろす。少し大人っぽくはなったけれど、やっぱり景光だと思った。
「それに、私だけランチ食べるの恥ずかしいじゃん」
「えぇ? 気にしなくて良いのにな……」
「気にするんだってば」
やり取りを二、三繰り返しているうちに、店員がグラスを運んできた。ついでにケーキセットとコーヒーを注文すると、景光はまだ引っ掛かるように「本当に良いのか」と念を押す。私も笑いながら頷くと、ようやく首を傾げながら納得してくれた。
水の入ったグラスに口をつけると、ツンっと上に突っ張った目つきが私を見つめる。
「なんか、大人っぽくなった」
と、満足そうに言う景光に、数分前の私の心境を語ってやりたい。照れ隠しにごくごくと、余分なくらいに水を飲んでしまった。
他愛のない話をしているうちに、ケーキとコーヒーが運ばれてくる。イチゴの乗った白いクリームが、ほんのりと冷気を纏っていた。デザート用のフォークに手をつけて、気になっていたことを切り出す。相変わらず、呑気そうな相槌だった。
「どうしたの、急に……その、会いたいって」
「ん? うーん、なんとなく、だな。機種変えたんだけど、前の携帯のデータ眺めてたらさ」
「だから知らない番号だったんだ」
「そうそう。元気にしてるかな、って。まあ、会ってくれないと思ってたけど」
彼はそう言いながら、カップの縁に唇を添わせた。私は唇が横に引き延ばされるのをなんとか堪え、少しクールぶって「ふうん」と言った。可愛くないとは自覚していたが、さすがにニヤけてしまうのはまずいと思った。
「あ、そういえば、フェスに行った写真って持ってる?」
「フェス? うん、あるよ」
景光は音楽が好きだ。特に邦ロックのフェスには、よく二人で参加した。車の中でリハーサルやチューニングの音を聞きながら、胸を躍らせたのを覚えている。まだ行くの? 尋ねると、彼はあんまり、と言う。
「行きたいんだけど、忙しくて。……俺の携帯で撮ってなかったろ、あの時」
「車の中に忘れてってたもんね」
「ちょっと、見せてくれないか」
私は快く了承すると、鞄から携帯を取り出して手渡した。携帯こそ変わっているが、私は同じシリーズでの乗り換えなのでデータが残っていた。手渡すと、彼は頬を綻ばせて「懐かしい」と写真を眺めた。
「はは、そうそうこれ……。途中で雨降ってきちゃって、カッパ買いに走ったっけ」
「結局最後ずぶぬれになってるけどね」
「べちゃべちゃのままホテル行ったよな」
覚えている――ホテルに行って、ずぶ濡れの肌を寄せ合ったことも。雨は体温に触れても冷たくて、それを埋めるように抱きしめ合ったことも。昨日のことのように色濃く思い返せて、私は目の前の、懐かし気に画像を眺める伏せ目を見つめた。画面をスワイプさせる指先は、相変わらず深爪気味で、少し節々が浮いている。
それを見ていたら、泣きたい気持ちになった。
目の奥がジィンと痺れるように熱い。しっかりとした、固い唇が恋しいと思った。
「……ごめん、ちょっとお手洗い」
その表情も、仕草も、体のパーツの一つ一つも、恋しくて堪らなかった。このままでは目の前で泣き出してしまうかもしれない。景光は優しいのを知っていた。私が泣いたら、きっと背を撫でて頬を拭ってくれるとは分かっている。けれど、それはズルいような気がして――私は慌てて席を離れる。
景光の、優しく素直なところが好きだ。
猫のようにキリっとした目つきが、私に向かって柔く笑む顔が好きだ。
細くしなやかな黒髪を撫でると、ちょっとだけ甘えたように口角を持ち上げるのも。
キスをしたあとに照れ臭そうにはにかみながら、私を見つめてくるのも。
時折、何かに追い詰められたように、生き急ぐような表情を浮かべるのも――。
もしかしたら、なんて軽い気持ちで会ったのは間違いだったかもしれない。思いのほか、私は彼のことを好きだったのだと自覚してしまう。景光は、どうだろう。嫌じゃあ、ないんだろうか。
席に戻ったら、もう一度聞いてみよう。今の気持ちの三分の一でも、彼に伝わるように言葉にしよう。もう一度、あの固い唇の、柔らかなキスをしてもらえたら。ジリジリと焦がれる思いをぐっと飲み込み、私はテラス席へ踵を返した。
「ごめん、景……光……」
白い煙が、視界に被さる。
煙たい香りが、鼻の奥を刺激した。景光は戻ってきた私を見ると、慌てたように灰皿に煙草を押しつけた。
「ごめん。臭かった?」
「う、ううん。煙草、嫌いって言ってたから……」
「あー……。最近、知り合いが吸っててさ」
景光はそういうと苦笑いを浮かべる。その顔には、私でも読み取れるほどの素直さで『そうだっけ』と描かれていた。私は、言おうとしていた言葉をすべて腹の中へ押し込む。駄目だ、彼には私のことなど見えていないのだと分かってしまった。
「……泣きそうだな」
景光は、席の前で立ち尽くす私を見上げて、ぽつりとつぶやいた。独り言なのか、私に問われたのか、判断のいかないほどの小ささで。ごつごつとした手が私の頬に、ほとんど掠めるほどの距離で触れていった。
私は何か言いたくて、でも言葉が見つからなくて、何度か口を開閉させる。景光はそれを見て、何も言わないままだった。いつかのように私の髪を軽く撫でて、優しく落ち着いた声色が、煙草の色を含んで言った。
「泣かせて、ごめんな」
普段は上向きに整った眉が、申し訳なさそうに下げられる。それ以上の言葉はなかった。
「泣いてない」
私はぶっきらぼうに言うと鞄を引っ手繰って、元きた道を走った。スニーカーは走りやすいはずなのに、重たくて、つま先が窮屈に感じた。
――携帯に入っていた彼の写真が、一枚残らず消えていると気づいたのは、ようやく気持ちに整理がついた頃のことだ。景光は、何を伝えたくて会いたいと言ったのか。以前通じた番号には、何度掛けなおしても繋がることがなかったので、分からないままだ。
ただ、最後の言葉が「泣いてない」は――やっぱり、可愛くなかったかなあと、今になって思うのだ。
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