シンデレラドリーム
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喉が渇く夜だった。
蒸し暑さと、吐き出す場所を失った感情が沸々と燃えて喉の奥を干からびさせた所為だ。縺れる脚を絡まないようにふらつかせて歩く。お酒ではないものが飲みたい。そうしないと喉の奥が詰まって、いつか呼吸もできなくなるんじゃあないか。何か飲めるもの――小さなショルダーを振り回すようにして歩いた。
我ながら嫌な酔い方をしたと思った。特別嫌なことが起こったわけではないが、うんざりとしたことが積み重なった所為だ。近頃ついていないと他愛なく話していたが、ついに運に見放されたような気がした。とどめを刺すように、居酒屋で彼氏と喧嘩をした。サークル内の友人が急に彼のことを好きだと言い、そんな女を庇う彼氏に反吐が出るほど苛立った。「可哀そうだろ」だなんて、ふざけるな。怒ると気性が荒くなるのは昔からだった。
「くそ~、おまえどっちのみかただよ~……」
呂律の回らない舌で、怒った私の表情にやや引き気味だった男へと恨み節をぶつける。むかつく。振り回したバックの留め具が外れて、リップと財布がアスファルトに散らばった。私は前髪をぐしゃっと丸め込んで、四つん這いになってそれを拾った。
そうしていると無性に虚しくて、悔しくて。アスファルトの凹凸が掌に食い込むのが、鈍った感覚でもよく分かった。立ち上がろうとする頭が痛む。
「ほい」
低い声、男だ。目の前に、落としたリップが差し出される。それだけ転がって、少し遠くに行ってしまったのだろう。揺れる視界を持ち上げて、「ありがとう」と受け取った。
「お姉さん、大丈夫? 俺、水買ってこようか」
そう、武骨な手が少し先にある灯りを指さした。暗い路地に、厭味ったらしいほどの明るさは、月のない夜で際立って見える。
乾いた目を凝らして、それが自販機だと分かったので、私は小さく頷いた。やや小走りに自販機に向かう後姿を見て、路地にぺたんと座り込んだ。立つ元気はなかったが、さすがに人前でずっと四つ這いでいるのは恥ずかしかった。
――男かあ、変な奴だったら嫌だな。
マンションへの道は人通りも少なかったし、不安で少しだけ心拍が早く鳴る。いや、でも私があんまりな体勢をしていたから、心配してくれただけかもしれない。しぱしぱと目を瞬かせていると、男が私の前にしゃがみこんだ。
「はいよ。ちょっとだけ隅寄りな、車通るぜ」
「も~いいよ……ひかれてもいいもん……」
「お姉さんは良くても車サンはよくねーの。こっち来て」
車サン、だなんて可笑しな言い方。何に敬称つけてんだよ。酔っぱらった頭はそれだけで笑えて、ケタケタと肩を揺らしながら、厳つめな手に引かれた。電柱の近くに座り込むと、彼はペットボトルの蓋を開けてくれた。溜まっていた何かの捌け口を見つけたような、パキっという小気味良い音だった。
水を受け取って、ごくごくと喉に流し込む。少しだけ喉の奥に抜け道ができた気がした。
「ごめんね、ありがとぉ」
飲んでも飲んでも喉が渇いた気分で、ペットボトルの半分ほどを飲み干してから、ようやく私は口を利いた。電灯はほとんど切れかけで、時折不規則にチカっと光を残すだけだ。「い~え」、間延びした声で男が言った。声は低く落ち着いているが、何故だか若い男だと分かる気がした。
座り込む私の横に、昔の不良のような恰好でしゃがんでいた。特に何か尋ねるわけでもなく、私が黙ってしゃがんでいる間、彼はそうしていた。一本だけ、煙草を吸いながら。
「あ。タバコ一緒」
「お、マジ? よく女っぽいの吸ってるって馬鹿にされんだよなぁ」
「そうかな、私は好きだけど」
白地に緑のパッケージは、私が持っているものよりくしゃっとへこんでいる。私も鞄から同じパッケージを覗かせると、彼は低い声をあげて笑った。
「俺のがボロみてぇじゃんか」
「そうは言ってないよ」
「ふうん」
フィルターを噛んでいた所為で、少し不明瞭になった発音。時折悪者みたいに、クック、と笑うのが印象的だった。
ペットボトルの中身が空になった頃、男は徐に立ち上がった。ジャケットの胸ポケットから携帯灰皿を取り出すと、短くなったフィルターの先を潰す。私だったら、路上にぽい、だ。意外そうにその様子を見つめたら、暗くて顔はよく見えなかったが、彼は肩を揺らして笑った。
「意外~って思ってる」
「……うん」
「さ、行きましょうかねぇ」
手が差し伸べられる。掌はこんなに暑いのに冷たかった。私の手より二回りほどある、大きな手。子どものように、言われるがままに手を引かれる。ぽて、ぽて、と鈍い歩き方に合わせて、ゆったりと靴の踵が鳴った。
家どの辺、と聞かれて、町名を答える。男は「すぐそこじゃん」と笑った。ぼうっとした頭で話しながら、時折肩がぶつかると、揃いの煙草の匂いが鼻を掠めてドキリとした。男がなるべく触れないように歩いてくれているのが分かったが、つい大袈裟によろめいてみたりもした。きっと、それも気づかれているとは思う。
マンションの近くに着いたのは、手を繋いでから十分も掛ったかどうか。私がここ、と指をさすと、男は柔らかいが少しだけ焦った口ぶりで言う。
「おいおい、そんなの男に教えちゃダメだって。変な奴だったらどうするの」
「ヘンナヤツは家じゃなくてホテルにいくもん」
「俺も下心あるかも。分かんねえだろ」
その言葉だけで、彼への心の隔たりが溶けてなくなるようだった。優しい人なのだと思った。その時は本当に、こういう人だったらワンナイトあっても良いな~という、言葉のまま〝良いなあ〟くらいに思っていたのだ。ただ、ぎゅうと掌を軽く握ると、拒むように彼の手が指をパーにするものだから、脈はないかと諦めてもいた。
なんだかんだと言いながら、男はマンションの入り口まで送ってくれた。曰く「このまま放っておくと誰かに襲われちゃいそう」。もうだいぶ酔いも消えていたが、もう少しこの掌を味わっていたかったので甘えることにした。
暗い路地を歩いてきたせいで、エントランスの灯りが目映い。最後にお礼でも言っておこう、私は振り向く。――ワンナイトあったら良いなという、小さな欲望が弾け飛んだ瞬間だった。
――か、かっこいい~~~!!?!
ぽかんと、間抜けに口が開いていることに気づいたのは、男が「大丈夫」と声を掛けてきてからだ。暗い道のりだったし、立ち位置が目の前ではなくて隣にいたせいで、鼻が高いなあとかその程度の感想しかなかった。正面から見ると、堪らないくらいの美形だ。
面長な顔に掛かる、男にしては長い髪は暗く艶めいている。髪の隙間から覗く優し気に垂れた目つきも、挑発的に吊り上がった眉も、整った顔立ちに色気をプラスにさせた。落ち着いた口調や声が良い具合にホストのような軽そうな雰囲気を中和している。
「なに、どうしたの」
軽く首を傾げると、目にかかる前髪がさらりと揺れた。その仕草さえ恰好良くて、私は顔にグングンと熱が集まっていくのを感じる。
これは、もうワンナイトあったら良いなではない。ワンナイトありたい、するしかない。現金な天秤ががたんと傾き、私はそのごつごつとした親指をきゅっと軽く引いた。――恐らく私の態度に察したのだろうか、ニコリと上がった口角がぴたりと固まる。いや、ここでめげてなるものか。こんなことなら化粧直しくらいすれば良かったと思いながら、必死に乾いた目に涙の膜を集める。
「お礼したいから、あがってってよ」
定番の決まり文句を吐くと、男は困ったように後頭部を掻いた。誘われ慣れているのだろうか、きっとそうだろうなと思う。だって、こんなに格好良いのだから。
「あのねぇ」
何か言いたげに、口角がきゅっと引き延ばされる。元から少し口の端が上がっているらしく、困った顔をしてもその所為でほんのり笑っているように見えた。優しそうなその表情に、私は渾身の甘えた声で「だめ」と尋ねる。
男はその口から、一度フゥーっと長い息を吐く。メンソールの効いた煙草の匂いがした。視線を合わせるように腰を屈めて、目の前にそのサラリとした髪が触れた。
「お姉さん、名前は」
「百花……デス」
「ふ、何で敬語?」
クッ、と喉が鳴る。元々吊っている眉の片方がピンっと悪戯っぽく吊り上がった。表情さえ色っぽくて、目の前にあるとくらくらしてしまう。「じゃあ百花ちゃん」――男が私を呼んだ。ドキリと心臓が跳ねる。
「俺と寝たいんだ」
ストレートに、揶揄われるような口調で言われて顔がますます熱くなった。分かりやすく体を固まらせる様子に、男は上がった口角の片方をニヤリと持ち上げた。私の掴んでいない方の手が、私の耳たぶを摘まむ。冷たい指先だ。その指がするりと耳の下、首と耳の境目あたりに降りていく。エロチックな手つきだった。
「耳が赤くなっちゃうタイプ?」
「う、うん。そう……」
「ちなみに――彼氏、いる」
――いる、という言葉が抑揚なく、私は一瞬戸惑った。いる?と尋ねられたのか、いる、と言われたのか判断できなかったからだ。しかし、彼が私のプライベートを知っているわけもなく、すぐに疑問文だと気づく。
「……いない」
へばりついた喉の奥を開くようにして言葉を吐くと、男は満足そうにニコと笑った。首に添えられた手が撫でるように柔く離れていく。
「いるんだろ」
「……いないってばぁ」
「あはは、嘘つき」
声をあげて笑うと、彼の腰がぐっと伸びる。遠ざかった顔が名残惜しく、じっと見つめると、垂れた目つきも私を見下げて、少しだけ細められた。気まぐれそうな笑い方が、私の胸を益々きゅっと締め付けた。
「まあ、俺は嘘つきな女の子好きだけど……浮気は駄目だからさ。真面目でしょ」
ぽん、と大きな手が私の頭を軽く撫でる。小さい子をあやすような手つきに、私は軽く口を尖らせた。――嘘だ。こんなイケメンの前じゃなければ、今すぐ地団太を踏んでエントランスに寝転がり、セックスするまで動かないと豪語してやりたい。
「連絡先とかは」
「えぇー……? めげないね」
笑いながらも、彼は携帯など出す仕草を見せない。悔しく感じながら、でもだとかだってだとか言っていると、男は苦笑いをしながら、何かの単語を告げた。私はそれを聞いて、眉間に浅く皺を寄せた。馬鹿っぽい顔でもしていたのか、「その顔やめて」と言われる。そんな顔をしていた覚えはない。
「俺のよく行く飲み屋さん。はは、深夜にしかいねえけど」
私は、ぱっと明るく顔を上げる。彼は既に踵を返し始めていて、広い背中に向かって私は声を投げた。
「い、行く! ぜったい、行くから」
「フリーになってからなぁ」
間延びした声が返事をしてくれたことが嬉しくて、彼が後ろを向いているのにも関わらず、私はコクコクと大きく頷いた。てっきり私に合わせてくれたのだと思っていたが、彼自身歩みが遅いらしい。コツ、コツ、とゆっくりとしたテンポで靴が鳴る。いつまでも見える背中が、尚更心を引っ張った。
「ね、名前……名前なに!」
彼はその靴の音をぴたっと止めると、顔だけを軽く振り向かせる。ツンとした鼻先が目立って見えた。視線は一度上を見て、考えるような素振りをしてから、私のほうに流れた。揶揄うように、眉毛が吊り上がる。
「――また、今度」
ひらり、と大きな手が振られる。その背中を見送って、私はハァと溜息をつく。暑い夏の空に吹く、温く肌を撫でる風が、正しくその男のようだった。
まだ夢を見ているような心地で、鞄から鍵を取り出そうとして、携帯のライトがメールの受信通知を光らせていた。メールを確認すると、彼氏からだ。『あんなやつとは思わなかった、もう連絡しない』――という文字を、つい明るい気持ちで見てしまうのは最低なのだろうか。いやいや、先に他の女の方を持ったのはあっちだし――。
頭の中で言い訳しながら、私は軽い気持ちでそのメールに『わかった』と一言だけ返す。
そういえば、飲み屋「さん」だなんて――。私は男の姿を思い浮かべて、ふっと頬を緩ませた。既に彼氏のことなど頭の隅に追いやられていて、店に行く予定を立てるために、店名を検索欄に打ち込むのだった。
蒸し暑さと、吐き出す場所を失った感情が沸々と燃えて喉の奥を干からびさせた所為だ。縺れる脚を絡まないようにふらつかせて歩く。お酒ではないものが飲みたい。そうしないと喉の奥が詰まって、いつか呼吸もできなくなるんじゃあないか。何か飲めるもの――小さなショルダーを振り回すようにして歩いた。
我ながら嫌な酔い方をしたと思った。特別嫌なことが起こったわけではないが、うんざりとしたことが積み重なった所為だ。近頃ついていないと他愛なく話していたが、ついに運に見放されたような気がした。とどめを刺すように、居酒屋で彼氏と喧嘩をした。サークル内の友人が急に彼のことを好きだと言い、そんな女を庇う彼氏に反吐が出るほど苛立った。「可哀そうだろ」だなんて、ふざけるな。怒ると気性が荒くなるのは昔からだった。
「くそ~、おまえどっちのみかただよ~……」
呂律の回らない舌で、怒った私の表情にやや引き気味だった男へと恨み節をぶつける。むかつく。振り回したバックの留め具が外れて、リップと財布がアスファルトに散らばった。私は前髪をぐしゃっと丸め込んで、四つん這いになってそれを拾った。
そうしていると無性に虚しくて、悔しくて。アスファルトの凹凸が掌に食い込むのが、鈍った感覚でもよく分かった。立ち上がろうとする頭が痛む。
「ほい」
低い声、男だ。目の前に、落としたリップが差し出される。それだけ転がって、少し遠くに行ってしまったのだろう。揺れる視界を持ち上げて、「ありがとう」と受け取った。
「お姉さん、大丈夫? 俺、水買ってこようか」
そう、武骨な手が少し先にある灯りを指さした。暗い路地に、厭味ったらしいほどの明るさは、月のない夜で際立って見える。
乾いた目を凝らして、それが自販機だと分かったので、私は小さく頷いた。やや小走りに自販機に向かう後姿を見て、路地にぺたんと座り込んだ。立つ元気はなかったが、さすがに人前でずっと四つ這いでいるのは恥ずかしかった。
――男かあ、変な奴だったら嫌だな。
マンションへの道は人通りも少なかったし、不安で少しだけ心拍が早く鳴る。いや、でも私があんまりな体勢をしていたから、心配してくれただけかもしれない。しぱしぱと目を瞬かせていると、男が私の前にしゃがみこんだ。
「はいよ。ちょっとだけ隅寄りな、車通るぜ」
「も~いいよ……ひかれてもいいもん……」
「お姉さんは良くても車サンはよくねーの。こっち来て」
車サン、だなんて可笑しな言い方。何に敬称つけてんだよ。酔っぱらった頭はそれだけで笑えて、ケタケタと肩を揺らしながら、厳つめな手に引かれた。電柱の近くに座り込むと、彼はペットボトルの蓋を開けてくれた。溜まっていた何かの捌け口を見つけたような、パキっという小気味良い音だった。
水を受け取って、ごくごくと喉に流し込む。少しだけ喉の奥に抜け道ができた気がした。
「ごめんね、ありがとぉ」
飲んでも飲んでも喉が渇いた気分で、ペットボトルの半分ほどを飲み干してから、ようやく私は口を利いた。電灯はほとんど切れかけで、時折不規則にチカっと光を残すだけだ。「い~え」、間延びした声で男が言った。声は低く落ち着いているが、何故だか若い男だと分かる気がした。
座り込む私の横に、昔の不良のような恰好でしゃがんでいた。特に何か尋ねるわけでもなく、私が黙ってしゃがんでいる間、彼はそうしていた。一本だけ、煙草を吸いながら。
「あ。タバコ一緒」
「お、マジ? よく女っぽいの吸ってるって馬鹿にされんだよなぁ」
「そうかな、私は好きだけど」
白地に緑のパッケージは、私が持っているものよりくしゃっとへこんでいる。私も鞄から同じパッケージを覗かせると、彼は低い声をあげて笑った。
「俺のがボロみてぇじゃんか」
「そうは言ってないよ」
「ふうん」
フィルターを噛んでいた所為で、少し不明瞭になった発音。時折悪者みたいに、クック、と笑うのが印象的だった。
ペットボトルの中身が空になった頃、男は徐に立ち上がった。ジャケットの胸ポケットから携帯灰皿を取り出すと、短くなったフィルターの先を潰す。私だったら、路上にぽい、だ。意外そうにその様子を見つめたら、暗くて顔はよく見えなかったが、彼は肩を揺らして笑った。
「意外~って思ってる」
「……うん」
「さ、行きましょうかねぇ」
手が差し伸べられる。掌はこんなに暑いのに冷たかった。私の手より二回りほどある、大きな手。子どものように、言われるがままに手を引かれる。ぽて、ぽて、と鈍い歩き方に合わせて、ゆったりと靴の踵が鳴った。
家どの辺、と聞かれて、町名を答える。男は「すぐそこじゃん」と笑った。ぼうっとした頭で話しながら、時折肩がぶつかると、揃いの煙草の匂いが鼻を掠めてドキリとした。男がなるべく触れないように歩いてくれているのが分かったが、つい大袈裟によろめいてみたりもした。きっと、それも気づかれているとは思う。
マンションの近くに着いたのは、手を繋いでから十分も掛ったかどうか。私がここ、と指をさすと、男は柔らかいが少しだけ焦った口ぶりで言う。
「おいおい、そんなの男に教えちゃダメだって。変な奴だったらどうするの」
「ヘンナヤツは家じゃなくてホテルにいくもん」
「俺も下心あるかも。分かんねえだろ」
その言葉だけで、彼への心の隔たりが溶けてなくなるようだった。優しい人なのだと思った。その時は本当に、こういう人だったらワンナイトあっても良いな~という、言葉のまま〝良いなあ〟くらいに思っていたのだ。ただ、ぎゅうと掌を軽く握ると、拒むように彼の手が指をパーにするものだから、脈はないかと諦めてもいた。
なんだかんだと言いながら、男はマンションの入り口まで送ってくれた。曰く「このまま放っておくと誰かに襲われちゃいそう」。もうだいぶ酔いも消えていたが、もう少しこの掌を味わっていたかったので甘えることにした。
暗い路地を歩いてきたせいで、エントランスの灯りが目映い。最後にお礼でも言っておこう、私は振り向く。――ワンナイトあったら良いなという、小さな欲望が弾け飛んだ瞬間だった。
――か、かっこいい~~~!!?!
ぽかんと、間抜けに口が開いていることに気づいたのは、男が「大丈夫」と声を掛けてきてからだ。暗い道のりだったし、立ち位置が目の前ではなくて隣にいたせいで、鼻が高いなあとかその程度の感想しかなかった。正面から見ると、堪らないくらいの美形だ。
面長な顔に掛かる、男にしては長い髪は暗く艶めいている。髪の隙間から覗く優し気に垂れた目つきも、挑発的に吊り上がった眉も、整った顔立ちに色気をプラスにさせた。落ち着いた口調や声が良い具合にホストのような軽そうな雰囲気を中和している。
「なに、どうしたの」
軽く首を傾げると、目にかかる前髪がさらりと揺れた。その仕草さえ恰好良くて、私は顔にグングンと熱が集まっていくのを感じる。
これは、もうワンナイトあったら良いなではない。ワンナイトありたい、するしかない。現金な天秤ががたんと傾き、私はそのごつごつとした親指をきゅっと軽く引いた。――恐らく私の態度に察したのだろうか、ニコリと上がった口角がぴたりと固まる。いや、ここでめげてなるものか。こんなことなら化粧直しくらいすれば良かったと思いながら、必死に乾いた目に涙の膜を集める。
「お礼したいから、あがってってよ」
定番の決まり文句を吐くと、男は困ったように後頭部を掻いた。誘われ慣れているのだろうか、きっとそうだろうなと思う。だって、こんなに格好良いのだから。
「あのねぇ」
何か言いたげに、口角がきゅっと引き延ばされる。元から少し口の端が上がっているらしく、困った顔をしてもその所為でほんのり笑っているように見えた。優しそうなその表情に、私は渾身の甘えた声で「だめ」と尋ねる。
男はその口から、一度フゥーっと長い息を吐く。メンソールの効いた煙草の匂いがした。視線を合わせるように腰を屈めて、目の前にそのサラリとした髪が触れた。
「お姉さん、名前は」
「百花……デス」
「ふ、何で敬語?」
クッ、と喉が鳴る。元々吊っている眉の片方がピンっと悪戯っぽく吊り上がった。表情さえ色っぽくて、目の前にあるとくらくらしてしまう。「じゃあ百花ちゃん」――男が私を呼んだ。ドキリと心臓が跳ねる。
「俺と寝たいんだ」
ストレートに、揶揄われるような口調で言われて顔がますます熱くなった。分かりやすく体を固まらせる様子に、男は上がった口角の片方をニヤリと持ち上げた。私の掴んでいない方の手が、私の耳たぶを摘まむ。冷たい指先だ。その指がするりと耳の下、首と耳の境目あたりに降りていく。エロチックな手つきだった。
「耳が赤くなっちゃうタイプ?」
「う、うん。そう……」
「ちなみに――彼氏、いる」
――いる、という言葉が抑揚なく、私は一瞬戸惑った。いる?と尋ねられたのか、いる、と言われたのか判断できなかったからだ。しかし、彼が私のプライベートを知っているわけもなく、すぐに疑問文だと気づく。
「……いない」
へばりついた喉の奥を開くようにして言葉を吐くと、男は満足そうにニコと笑った。首に添えられた手が撫でるように柔く離れていく。
「いるんだろ」
「……いないってばぁ」
「あはは、嘘つき」
声をあげて笑うと、彼の腰がぐっと伸びる。遠ざかった顔が名残惜しく、じっと見つめると、垂れた目つきも私を見下げて、少しだけ細められた。気まぐれそうな笑い方が、私の胸を益々きゅっと締め付けた。
「まあ、俺は嘘つきな女の子好きだけど……浮気は駄目だからさ。真面目でしょ」
ぽん、と大きな手が私の頭を軽く撫でる。小さい子をあやすような手つきに、私は軽く口を尖らせた。――嘘だ。こんなイケメンの前じゃなければ、今すぐ地団太を踏んでエントランスに寝転がり、セックスするまで動かないと豪語してやりたい。
「連絡先とかは」
「えぇー……? めげないね」
笑いながらも、彼は携帯など出す仕草を見せない。悔しく感じながら、でもだとかだってだとか言っていると、男は苦笑いをしながら、何かの単語を告げた。私はそれを聞いて、眉間に浅く皺を寄せた。馬鹿っぽい顔でもしていたのか、「その顔やめて」と言われる。そんな顔をしていた覚えはない。
「俺のよく行く飲み屋さん。はは、深夜にしかいねえけど」
私は、ぱっと明るく顔を上げる。彼は既に踵を返し始めていて、広い背中に向かって私は声を投げた。
「い、行く! ぜったい、行くから」
「フリーになってからなぁ」
間延びした声が返事をしてくれたことが嬉しくて、彼が後ろを向いているのにも関わらず、私はコクコクと大きく頷いた。てっきり私に合わせてくれたのだと思っていたが、彼自身歩みが遅いらしい。コツ、コツ、とゆっくりとしたテンポで靴が鳴る。いつまでも見える背中が、尚更心を引っ張った。
「ね、名前……名前なに!」
彼はその靴の音をぴたっと止めると、顔だけを軽く振り向かせる。ツンとした鼻先が目立って見えた。視線は一度上を見て、考えるような素振りをしてから、私のほうに流れた。揶揄うように、眉毛が吊り上がる。
「――また、今度」
ひらり、と大きな手が振られる。その背中を見送って、私はハァと溜息をつく。暑い夏の空に吹く、温く肌を撫でる風が、正しくその男のようだった。
まだ夢を見ているような心地で、鞄から鍵を取り出そうとして、携帯のライトがメールの受信通知を光らせていた。メールを確認すると、彼氏からだ。『あんなやつとは思わなかった、もう連絡しない』――という文字を、つい明るい気持ちで見てしまうのは最低なのだろうか。いやいや、先に他の女の方を持ったのはあっちだし――。
頭の中で言い訳しながら、私は軽い気持ちでそのメールに『わかった』と一言だけ返す。
そういえば、飲み屋「さん」だなんて――。私は男の姿を思い浮かべて、ふっと頬を緩ませた。既に彼氏のことなど頭の隅に追いやられていて、店に行く予定を立てるために、店名を検索欄に打ち込むのだった。
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