Second
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家に帰ってから携帯を見ると、沖矢からの不在着信が三件ほど重なっていた。
私はそれにぎょっとしながら、しかし彼に何もないのだと分かってホっと胸を撫でおろす。ショートメールで『すみません。明日、お伺いします。良いですか?』とだけ送る。拒絶されたばかりで勇気のある文を送るものだ。自分でも感心した。最近少しポジティブ思考が入ってきたのは、周りに明るい人が多い所為かもしれない。
それでも、彼からの不在着信を見て、きっと縁を切られるわけではないと思った。翌日、携帯に入った『了解』の文字に、ほっと肩の荷が降りたのを覚えている。
しかし、その翌日のことだった。
大学の数少ない履修している科目。レポートの〆切をすっかり忘れていて、しかも一分たりと遅刻すれば受け付けてくれないという時間に厳しいことで有名な教授だった。謝り倒してバイトを休み、必死になって翌々日の朝まで掛かりレポートを仕上げたのだ。
教えてくれた友人にメールでお礼を言って、その日は死んだように眠った。寝る間際に栄養ドリンクの空き缶を蹴り飛ばしたのを感じたけれど、瞼が重くてそれどころではなかった。
◇
「おはよ」
とん、と軽く肩を叩いた友人に、私は情けなく笑って挨拶する。真帆は私とユキの共通の友人で、あまり交友関係を広げないクールな性格の女の子だった。よく似合ったショートヘアを巻き込んだネックウォーマーを外し、真帆は私の隣に座った。
「レポート大丈夫だった?」
「うん。ほんとにありがとう……おかげで単位落とさなくて済みそう」
「なら良かった。あんた最近、大学に来てもボーっとしてるから、心配で」
本当に申し訳なく思う。ユキと仲が良かった真帆は、彼女がいなくなってから頻繁に話しかけてくるわけではなかったけれど、彼女なりに気を遣ってくれたのだろう。今度何か奢るねというと、太く平行に描かれた眉がきゅっと吊り上がった。
「良いよ。そんなの……卒論は平気?」
「うん。そっちは間に合うと思う、色々ごめんね」
「――……なんか、変わった?」
ふと、真帆がそう尋ねる。私はキョトンと目を丸くさせた。髪の毛は切ってないし、メイクを変えたわけでもない。確かに沈むように寝落ちたので、やや顔がむくんだかもしれない。「やっぱ顔やばいかな」頬を軽く押さえて聞き返すと、真帆はゆるく首を振った。
「違う、違う。そうじゃなくて――なんだろう。喋り方とか、雰囲気とか……前はユキ以外には結構きょどってたっていうか……」
「そう、かな……?」
「うん。顔色も明るくなったし、私は今のが好きだけどな」
真帆はニコリと、やや厚めの唇を微笑ませて、私にプリントを何枚か手渡してくれた。私はそれを眺めて、顔を輝かせる。昨日欠席したぶんのレジュメだ。試験の範囲も書かれていた。
「え、良いのコレ」
「また今度ご飯行こう。そのとき奢ってくれれば良いからさ」
ありがとう、と笑うと真帆も満足げにゆったりと頷いた。
確かに、今まではユキと二人でいるときでしか、話していなかったかもしれない。世間話くらいはできたのだけれど、どうにも二人でいると何を話したら良い物やら――気を悪くさせないかとか。感じ悪く見えないかとか――そういう言葉を探して、素で話すことはなかったような気がした。
なんだ、案外他の人をよく見ていなかったのは、私のほうだったのか。
真帆は見た目こそ、スタイルが良く長い前髪を斜めに分けた少し不良そうな女性であったが、観察すればネックウォーマーは違うイニシャルのついたメンズのものだったりとか、部活での思い出なのか筆箱には手作りのフェルトのお守りがついているだとか。
パっと見ただけでは『気が強そう』と思っていたものも、友達想いの子なのかも。兄弟か、物を共有できるような彼氏がいるのかも。様々な予想が立って、その人柄も見えるように思う。
私は、彼女が変わったと言ってくれたことが、少し嬉しく、講義用のファイルを探りながら僅かに口角を持ち上げた。
――そういう風に人と関われるようになったのも、見れるようになったのも、沖矢のおかげだ。
彼があの時、私を助けてくれたから。涙を受け止めてくれたから、背中を押してくれたから、夢を与えてくれたから、救いを求めてくれたから。少しずつかもしれないが、前に進めていれば良いと思う。
「すごい嬉しそう。どうしたの、彼氏?」
「いや、彼氏じゃないんだけど――……?」
やや恥ずかしく髪を弄りながら振り向いた際に、何か違和感を覚えた。
待て、私は何かを忘れてはいないだろうか。沖矢に行きますだなんてショートメールを送ってから何日が経った。まさか、いやいやそんな。
私は慌ててスマホをチェックした。沖矢から了解と返信があったのが三日前のことだ。すぐに謝ろうと思ったのだが、何と打とうと戸惑ってしまった。「三日間忘れてました、ごめんなさい」なんて、幻滅モノではないだろうか。それは嫌だ、沖矢にズボラな女だと幻滅されるのは避けたい。
しかしその日に限って、講義後から締めの時間までバイトがきっちりと詰まっていて、私は返信を考えている間に日は傾いていく。
今日は安室とはシフトが被らなかった。それには、少し安心した。未だに彼の思惑が分からなかったし、私には予想もできなかった。沖矢に向けた憎むような顔も、私とユキの話をした時の懐かしむような顔も、マリアと食事をした時の呆れた笑いも、どれもが彼であるように思えた。まるで、怪盗二十面相だ。一人の中にたくさんの顔があるみたい。
梓と一緒に店の締め作業を終えて、つま先の方向に迷う。
沖矢の家に向かうには時間が遅いだろうか。迷惑かなあ。踏みとどまる私の顔を梓が覗く。何か用事かと聞くので、事実をぼやかしながら、忙しくて沖矢のメールを三日間も無視してしまったのだと懺悔した。
「そんなの行くに決まってるじゃない!! 命短し恋せよ乙女って言うでしょ。ほら、行きましょ!」
と、彼女は背中をグイグイと力強く押した。さすが安室が来るまでは搬入作業から何まで一人でやっていたと言うだけある。その細い二の腕からは想像もできないほどの力だ。梓に後押しされるままに、私は沖矢宅を訪れることになる。
◇
勢いで来てみたは良いのだけれど、窓からは相変わらず灯りが漏れていなくて、やっぱりさすがに迷惑なのではと怖気づいてきた。彼からも連絡がないのだし、忙しいのかもしれない。試しに電話も掛けてみたが反応がなく、ただ虚しくコール音が響くだけだった。
「……沖矢さん」
だとか、二階の窓を見上げてみるけれど、そんな声がロマンス小説のように届くわけもない。電気がついていないと、彼の住む洋館はずいぶんホラーチックな外装に見えた。窓が薄っすら開いているらしく、カーテンが風に波打つ。
その時だった。白いカーテンの向こう側に、人影を見た。長い髪のシルエットだ。一目で沖矢のものではないと分かった。
私はドキリとして、慌ててその門扉を開いた。試しに玄関を押し開けると、鍵は開いている。カチ、カチ、と柱時計が時を刻む音。ヒューヒューと吹き抜ける風が奇妙な声にも聞こえる。
――もしかしたら、彼女かも。でも、彼女がこんな広い洋館で、灯りを一つも点けないで歩き回るなんてある?
この際、違ったら謝ろう。念のため玄関の鍵は閉めて、音のよく響く玄関ホールに上がった。靴は沖矢のものがポツリと置かれているだけだった。
部屋の構造はキッチンとリビングしか知らないが、外装から察するに窓のある部屋くらいは予想がつく。二階の、ちょうど真ん中――道路に面した方角の部屋だったからだ。そうっと足を踏みしめる。カーペットは柔らかく、私の脚を沈めるように浅く飲み込んだ。
時計が鐘を鳴らした。
スマホの灯りで足元を照らし、一つ目の扉を開ける。もぬけの殻と言うのにピッタリなほど、簡易的な家具しかない。人の気配はなかった。
二つ目の部屋――扉を開けて、愕然とした。
頭のなかで嫌な耳鳴りが響いている。薄く開かれた窓にカーテンが躍っていて、先ほど見たのはこの部屋だというのは分かった。
足元に散らばった酒瓶や紙くず。開かれたままのノートパソコン。ベッドの上で横たわる男の影。
「沖矢さんッ――!!」
自分でも我を忘れるほどに声を上げた。
彼の体に駆け寄るまでの時間が、一時間にも二時間にも、引き延ばされて感じた。