Second
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やっぱり、すき焼きはやめるべきだったか――。
私は目の前に出された高級フレンチを見て、行き場のない手を膝に置いていた。どう見ても一見様お断りの高級レストランの、恐らくVIP個室。目の前には、ブロンドの二人組がフランス語で何やらニコニコと談笑している。発音でフランス語ということこそは分かるが、大学の第二言語も中国語を選択していたので、会話の内容は全く理解できない。
言語こそ分からないが、どう考えても私の服装やらが不相応であることは理解できた。
「ワインは苦手?」
「いえ、苦手というか……。おなかいっぱいで」
「そう、じゃあ軽いものに変えてもらいましょ」
と、彼女が軽く指を鳴らすと、目の前にあった前菜とグラスが下げられて、白ワインと一品が置かれた。皿の上に置かれたレンゲに、ムースと魚の切り身が乗っている。申し訳ないが、私の語彙力ではこれが何かは伝えられない。(だって、フレンチなんて馴染みがないんだもの)
「ミチシロとはね、仲が良かったのよ」
彼女はその美しい輪郭を僅かに膨らませて笑った。美人ということもそうだが、どうにも真っ当な雰囲気がしないのは、どこか浮世離れして見えるからか。リップラインを綺麗に模った唇が弧を描く。
「ユキと、ですか」
「いやねえ、母親よ。良い関係を続けていたと思ったのだけれど」
「良い関係……」
確かに、ユキの実家は地元では有名な富豪だった。大豪邸、大富豪――というほど派手なものではないけれど、一般家庭よりは裕福なのは私も知っている。だが、それほど派手な人でもなかった。ユキによく似て美人だったけれど、目の前の彼女に比べれば清楚で堅実そうな女性だった。
「ところが、上手いこと逃げられちゃってね。寂しかったのよ」
長い前髪が掻き上げられる。冗談なのだろうけど、冗談に聞こえなくて、私はアハハと空笑いをするだけだ。ヒップが見え隠れするくらいのミニドレスなのに、足元がヒールのないブーツなのも気に掛かった。まるでよく動くことを想定したような服装だ。先ほどからサングラスを外さないのにも、何か理由が――あるのだろうか。
彼女には妙な緊張感があって、私はどうにもユキのことをぺらぺらと話す気にはなれなかった。やや口を噤んで、沈黙を誤魔化すようにワインに口をつけた。
「――……マリア、彼女も緊張しているみたいだし」
「ごめんなさい、つい昔話ばっかり。素敵な女性だったからね」
「すみません。こう見えて悪い人じゃあないんですよ、僕の母の知り合いなんです」
安室がニコっと笑ってマリアと呼ばれた女性を一瞥した。
確かに安室の見た目は外人の血が混ざっていることを色濃く匂わせるような風貌をしていて、母親方の国の知り合いということだろうか。それにしてはずいぶん若い気もしたが、日本とはまた友人の文化も異なるかもしれない。
「この間ユキさんのお話を伺った時に、どこかで聞いたことのある名前だとは思っていまして」
「私、苗字までお話しましたっけ」
「それは――すみません。写真立てにあったものを勝手に覗いてしまいました」
確かに、実家の写真立てにはユキと私の名前が印字された記念フレームがあった。ユキに誕生日プレゼントでもらったものだ。全てが怪しく思えてしまうのは、私が安室のことを少し怪しんでいるせいかもしれない。
「ねえ、百花――だったかしら」
流暢な言葉のなかで、私の名前だけが固くたどたどしい口調をしていた。マリアは、印象的な目つきをこちらに向ける。高そうなテーブルに頬杖をつくと、ニコっと笑った。
「そう言わないで。強引に連れてきたのは悪かったわ、久々に彼女の話を聞きたかったの」
「ユキのお母さんなら、また会いにいけば……」
ユキの実家はウチとは違い、元からずっと根付いた家ではない。それでも、私が生まれたときくらいに建った家で、特別新しいわけでもない。旧友だというなら、また会いに行けば良いと、私が食い下がると、マリアはフウと色っぽく息をついて大きな窓を見上げた。バルコニーから、風にざわめく木々が見える。
『嫌われちゃったから、そうもいかないのよ』
今度は英語だった。私にも聞き取れた。マリアは、寂し気に肩を竦める。
――確かに、私の感情が先走っていたかもしれない。泣きそうな表情を眺めて、私は少し自分の態度を反省する。もとはといえば感情や勘だけで決めつけていて、何かされたわけじゃあない。安室だって、沖矢のことを嫌うこととマリアと食事に行くことがイコールになるわけでもない。
私は頭でっかちな所を少し恥じながら、マリアに慌てて首を振った。すると彼女は雪解けのように――ぱっと、花が咲くような笑顔をするので、私も自然と頬を綻ばせた。それから暫く、ユキの母親の話を聞いた。
ユキの母親も、ユキと似て賢く明るく、人を思いやれる人だったということ。少し世間知らずなところが、異性を惹きつけていたという話。どれもこれも、ユキによく似ていて、聞いていて心が和らいだ。ユキの葬式以来、向こうも私の顔を見るとユキを思い出して悲しいのか泣きそうな顔をするものだから、あまり会っていなかったけれど。折角ならこうして思い出話をしておけばなあ、なんて考えた。
「へえ。じゃあ最近は会ってないの」
「そうですね……。その、友人が亡くなってからはあんまり。でも、私の母は変わりなく元気だと言っていました」
「良かった。彼女、マメでね。ことあるごとに日記をつけてたんだけど、一冊私の家に忘れていっちゃって」
「日記――そっか、お母さんもそうなんですね」
マリアは私の言葉を聞いて、「じゃあ娘さんも?」と尋ねた。懐かしい。ユキも日記――というか、ほとんど映画のコラムブックのようなものを、小さな手帳に書き連ねていた。彼女が肌身離さず持っていたもので、証拠品として押収されてからはそれっきりだ。
それを言うのは少し憚られて、「いつも持ってましたから」とあいまいに頷いたら、マリアは私に一冊の手帳を差し出した。
「これ、ミチシロの日記帳。ごめんなさい、渡しておいてもらえないかしら」
「良いですよ。あの、本当にご自身で返さなくても良いんですか?」
「ええ。生きていれば、いつかきっと会う時もあるわ」
私はその手帳を受け取り、表紙をちらりと一瞥してから鞄に仕舞った。さすがに、中身を見るのは不躾だと思った。
時計を見ると、十時半。私の視線に気づくと、マリアも微笑んで「今日は楽しかったわ」と言った。高価そうな食事だったが、会計もせずにレストランを出たので何事かと三度見ほどしてしまう。マリアはクスクスと笑って、だが私の疑問に答えてはくれなかった。
マリアはそのままホテルへ行くと、タクシーに乗り込む。安室が送ってくれるというので、私は安室の車に乗り込んだ。暫く道を進んだところで、安室は僅かにため息をつく。
「どうしてついてきたんです」
「えぇ、それ安室さんが言いますか?」
「まあ、彼女の頼みでね。……君は僕のことを、疑っていましたよね」
彼はどこか緊張が解けたような、年の離れた兄のようにこちらを見る。確認するような口調にも、昼間とは違う呆れたような色が含まれていた。私が怪訝そうに見ている視線も、すべて気づいていたらしい。
「そう、ですけど……」
「沖矢昴を善人だと思うなら、僕は悪人なのでは?」
「違うんです。善人とか……悪人とかじゃなくて……」
彼が悪人だとしても、私は彼のもとに駆け付けたはずだ。沖矢を救いたいと走ったはずだ。もし安室が正しい人なのだとしても、それが私の想いだった。
「ただ、沖矢さんが……大切なので……」
ぽつ、と零した言葉に、安室は大きな目をこちらに向けた。驚いたように見開いた目は、そのうち訝し気に顰められる。にこやかではなかったが、繕ったような表情とも感じられなかった。
「君、そのうち詐欺に騙されてそうだな」
と、呆れた声色がぼやいていた。