Second
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今日は木曜日だ。
いつもだったら、木曜日は少し特別な日だった。アホ毛が立たないようにしっかりアイロンしたりだとか、沖矢に教えてもらったことをなるべく復習したりだとか。そういうことすら、少し心が浮足立っていて、木曜日が好きだった。
唇を舐めると、まだ苦い味が残っている気がする。そんなはずもないのに。しかし、ここで一旦引いてしまったら、二度と彼には会えないような――そんな考えも浮かんだ。
私はひとまずいつもの勉強道具一式を持って、午前のバイトに向かう。梓は店のベルと共にこちらを振り向くと、私の顔を見てぎょっと驚いていた。
「きゃあ~! どうしたの、そのクマ! 唇もがさがさじゃない!」
「あ、お、おはようございます……」
彼女はこと恋愛面に関しては目敏くて、私の様子が可笑しいことにはすぐ気づいた。隈がコンシーラーでも隠せないほど酷いのは化粧も落とさずに酒に頼って無理やり眠ったからだし、唇はまるで記憶を反復するようについ自分の指で弄りすぎたのだ。あまりに適切な指摘だったので、私は何も言えずただ笑って誤魔化した。
「もー、今日は木曜日でしょ。ラブな彼とデートなんじゃないの!」
「あはは……まあ、一応、その予定です……」
「しんっじられない。安室さーん、ちょっと来てください!」
安室――という単語にすらギクっとした。どうやら今日はモーニングに入っていたらしい、彼ははいはいとバックヤードから顔をひょこりと覗かせた。いつも通りの、優し気な表情だった。梓は私を無理やりにカウンター席に座らせると、安室を手招いて二人して私の顔を眺め始める。いつからここはコスメカウンターになったのだろう。
「ね、これで好きな人のところはどうかと思いません?」
「だいぶ肌が荒れていますね。お酒のあとはアフターケアをしないと」
安室が、指を曲げた部分で軽く私の頬を撫でた。たぶん、相当乾燥していると思う。彼の肌は毛穴一つなく、皮膚の捲れも見当たらず、なんだか申し訳ない気分になった。
――人に触られても、別にドキドキするわけじゃないのにな。
罪悪感こそあれど、安室の手つきに心臓が壊れそうになることはない。そこだけは、自分の心を信じることが出来て、少し安心した。
「うーん。梓さん、コスメポーチ持ってますか?」
「もっちろん。安室さん、やっちゃってください!」
びし、と人差し指でこちらを指されて、私はハハと抜けたように笑った。というか、施術するのは安室のほうなのか。確かに完璧人間な風はにじみ出てるから、らしいといえばらしいけれど。梓は鞄から大き目のポーチを取り出して、安室に手渡した。
「すごい。こんなに持ち歩くんですね……」
「ポアロもフルで入ることばっかりだからね。なるべくお直しできるようにって」
「なるほど……」
私もポーチくらいは持ち歩いているが、せいぜい梓のポーチの半分もない。彼女の明るい美貌はこうして保たれているのかと感心した。安室は彼女のポーチをかちゃかちゃと探り、一つ瓶のようなものを取り出した。
「まずは肌から、そのままファンデーションを乗せても捲れた皮膚が目立つだけなので、フィックスミストで押さえていきましょう」
しゅっ、と顔に軽く吹きかけられた水分が、肌に馴染んでいく。安室は手慣れた風にコンシーラーを取り、隈や口のくすみを隠していく。もともと手先が器用なのもあるのか、本当にカウンタースタッフのような手つきだ。
その間に梓は注文を受けて、いそいそとテーブル席へと回っていた。自分から申し出たことではないが、なんだかこの席に座っているのは妙な気分だった。
彼は長袖のニットに化粧品がつかないよう、軽く袖を捲って、色付きのリップを手の甲に出すと、小指で唇の上をなぞっていく。決していやらしい手つきではなく、ふわっと撫でるような力加減だ。
「……腕時計の跡」
つい、目についたことをそのまま口走ってしまった。
たまたま、リップを手の甲に出した時に目についただけだ。褐色の肌には分かりづらいが、腕時計の日焼け跡が、確かにクッキリと手首に浮き出ている。安室は手の動きこそ止めないまま、ふっと笑った。
「ああ、夏の間はしてたんですけどね。焼けちゃったかな」
「赤みのある日焼けは、数日間だけ……今は所謂サンバーン。この時期に、時計をして直射日光が当たるような場所に長時間いないと、こうはならないですよね」
「……日焼けは、さすがに女性のほうが詳しいかな」
安室は苦笑いを浮かべて、最後にグロスを軽く私の唇へと乗せた。ニコ、としている表情は何を考えているか分からなかった。それ以上言い訳するわけでもなく、彼は口を閉じている。
「あのっ、安室さんは……」
「沖矢昴はやめておいたほうが良い」
私の言葉を制限するように、安室が声を潜めて告げた。沖矢、という言葉に、心臓が飛び出るかと思うほどドクっと鳴った。バチで、思い切り心臓の膜を叩かれたみたいだ。
「君が思うような男じゃないよ」
「知って、るんですか……。その、沖矢さんのことを」
「知っているって、思ってたんだろう?」
グレーの大きな瞳が、こちらを見据えた。彼はカウンターに両手を凭れさせて、口元はニコニコと笑っている。その笑顔のポーカーフェイスは、沖矢とよく似ていた。私は視線を一度外し、こくりと小さく頷く。安室はもう一度、フ、っと笑った。
「良い人ですね、貴女は。僕のことを疑っているようなのに、耳を傾けている」
「安室さんは、何か……何かあって、沖矢さんを――嫌っているんですよね」
「嫌っている、といえるほどの関係じゃあありません。ほぼ顔見知りのようなものですし……しいて言うなら、勘です」
「……安室さん」
それは、嘘だ。
沖矢と名前を出すだけで、彼の表情は燃えるように殺意を持った。今まで会った〝犯人〟と呼べる人たちと、同じような色をしていた。まさか、沖矢が言っていたように、本当に誰かを殺した――だなんて、考えたくもないけれど。
もし、本当にそうだったら。沖矢の前ではああいったけれど、実際そうだとして、私はもう一度同じことを言えるだろうか。
コスメポーチに使っていたコスメを仕舞って、いつもどおりの仕込みを始めた安室を、私はぼんやりと眺めていた。前にある手鏡を覗くと、全てをカバーしているわけではなかったが、隈や必要な部分はしっかりと直されているし、いつもより健康的な顔色に見える。唇はも、血色よくぷるっとしていた。
「わあ、すごい。かわいい~! さっすが安室さん」
「いえいえ。梓さんのコスメセンスがばっちりでしたからね」
「でしょ~。ポーチは女の武器倉庫です」
戻ってきた梓に、頬やらなにやらを興味深く触られる。会話が途切れてしまったことに、私は少々名残惜しく思いながら、嬉しそうに笑う梓を見て頬を綻ばせた。
朝のゲッソリとした顔色を嘘のように取り繕われた私の顔。沖矢も、安室も、――人間の誰しもが、そうやって表面を偽って生きているのかもしれない。
「安室さん」
私はコーヒーメイカーを掃除しながら、皿を洗う安室を呼んだ。彼は「はい」とにこやかにこちらを振り向く。
「殺しちゃ、ダメです」
それは私のためなのか、沖矢のためなのか。彼は笑顔のまま、こちらを向いて、少しだけ口元が強張っているようにも見えた。
「すみません、その……どうしても。それだけ……」
彼を疑っていないと言えばうそになる。
けれど、安室は優しい人だ。じゃなきゃあの日、大雨のなかで墓参りなんかしない。誰かのために心を痛めることのできる人だ。私の話を聞いて、懐かしむように微笑んだりしない。
「さあ、何のことやら」
ほほ笑んだ彼の瞳は、ゾっとするほどに冷たく細められていた。
いつもだったら、木曜日は少し特別な日だった。アホ毛が立たないようにしっかりアイロンしたりだとか、沖矢に教えてもらったことをなるべく復習したりだとか。そういうことすら、少し心が浮足立っていて、木曜日が好きだった。
唇を舐めると、まだ苦い味が残っている気がする。そんなはずもないのに。しかし、ここで一旦引いてしまったら、二度と彼には会えないような――そんな考えも浮かんだ。
私はひとまずいつもの勉強道具一式を持って、午前のバイトに向かう。梓は店のベルと共にこちらを振り向くと、私の顔を見てぎょっと驚いていた。
「きゃあ~! どうしたの、そのクマ! 唇もがさがさじゃない!」
「あ、お、おはようございます……」
彼女はこと恋愛面に関しては目敏くて、私の様子が可笑しいことにはすぐ気づいた。隈がコンシーラーでも隠せないほど酷いのは化粧も落とさずに酒に頼って無理やり眠ったからだし、唇はまるで記憶を反復するようについ自分の指で弄りすぎたのだ。あまりに適切な指摘だったので、私は何も言えずただ笑って誤魔化した。
「もー、今日は木曜日でしょ。ラブな彼とデートなんじゃないの!」
「あはは……まあ、一応、その予定です……」
「しんっじられない。安室さーん、ちょっと来てください!」
安室――という単語にすらギクっとした。どうやら今日はモーニングに入っていたらしい、彼ははいはいとバックヤードから顔をひょこりと覗かせた。いつも通りの、優し気な表情だった。梓は私を無理やりにカウンター席に座らせると、安室を手招いて二人して私の顔を眺め始める。いつからここはコスメカウンターになったのだろう。
「ね、これで好きな人のところはどうかと思いません?」
「だいぶ肌が荒れていますね。お酒のあとはアフターケアをしないと」
安室が、指を曲げた部分で軽く私の頬を撫でた。たぶん、相当乾燥していると思う。彼の肌は毛穴一つなく、皮膚の捲れも見当たらず、なんだか申し訳ない気分になった。
――人に触られても、別にドキドキするわけじゃないのにな。
罪悪感こそあれど、安室の手つきに心臓が壊れそうになることはない。そこだけは、自分の心を信じることが出来て、少し安心した。
「うーん。梓さん、コスメポーチ持ってますか?」
「もっちろん。安室さん、やっちゃってください!」
びし、と人差し指でこちらを指されて、私はハハと抜けたように笑った。というか、施術するのは安室のほうなのか。確かに完璧人間な風はにじみ出てるから、らしいといえばらしいけれど。梓は鞄から大き目のポーチを取り出して、安室に手渡した。
「すごい。こんなに持ち歩くんですね……」
「ポアロもフルで入ることばっかりだからね。なるべくお直しできるようにって」
「なるほど……」
私もポーチくらいは持ち歩いているが、せいぜい梓のポーチの半分もない。彼女の明るい美貌はこうして保たれているのかと感心した。安室は彼女のポーチをかちゃかちゃと探り、一つ瓶のようなものを取り出した。
「まずは肌から、そのままファンデーションを乗せても捲れた皮膚が目立つだけなので、フィックスミストで押さえていきましょう」
しゅっ、と顔に軽く吹きかけられた水分が、肌に馴染んでいく。安室は手慣れた風にコンシーラーを取り、隈や口のくすみを隠していく。もともと手先が器用なのもあるのか、本当にカウンタースタッフのような手つきだ。
その間に梓は注文を受けて、いそいそとテーブル席へと回っていた。自分から申し出たことではないが、なんだかこの席に座っているのは妙な気分だった。
彼は長袖のニットに化粧品がつかないよう、軽く袖を捲って、色付きのリップを手の甲に出すと、小指で唇の上をなぞっていく。決していやらしい手つきではなく、ふわっと撫でるような力加減だ。
「……腕時計の跡」
つい、目についたことをそのまま口走ってしまった。
たまたま、リップを手の甲に出した時に目についただけだ。褐色の肌には分かりづらいが、腕時計の日焼け跡が、確かにクッキリと手首に浮き出ている。安室は手の動きこそ止めないまま、ふっと笑った。
「ああ、夏の間はしてたんですけどね。焼けちゃったかな」
「赤みのある日焼けは、数日間だけ……今は所謂サンバーン。この時期に、時計をして直射日光が当たるような場所に長時間いないと、こうはならないですよね」
「……日焼けは、さすがに女性のほうが詳しいかな」
安室は苦笑いを浮かべて、最後にグロスを軽く私の唇へと乗せた。ニコ、としている表情は何を考えているか分からなかった。それ以上言い訳するわけでもなく、彼は口を閉じている。
「あのっ、安室さんは……」
「沖矢昴はやめておいたほうが良い」
私の言葉を制限するように、安室が声を潜めて告げた。沖矢、という言葉に、心臓が飛び出るかと思うほどドクっと鳴った。バチで、思い切り心臓の膜を叩かれたみたいだ。
「君が思うような男じゃないよ」
「知って、るんですか……。その、沖矢さんのことを」
「知っているって、思ってたんだろう?」
グレーの大きな瞳が、こちらを見据えた。彼はカウンターに両手を凭れさせて、口元はニコニコと笑っている。その笑顔のポーカーフェイスは、沖矢とよく似ていた。私は視線を一度外し、こくりと小さく頷く。安室はもう一度、フ、っと笑った。
「良い人ですね、貴女は。僕のことを疑っているようなのに、耳を傾けている」
「安室さんは、何か……何かあって、沖矢さんを――嫌っているんですよね」
「嫌っている、といえるほどの関係じゃあありません。ほぼ顔見知りのようなものですし……しいて言うなら、勘です」
「……安室さん」
それは、嘘だ。
沖矢と名前を出すだけで、彼の表情は燃えるように殺意を持った。今まで会った〝犯人〟と呼べる人たちと、同じような色をしていた。まさか、沖矢が言っていたように、本当に誰かを殺した――だなんて、考えたくもないけれど。
もし、本当にそうだったら。沖矢の前ではああいったけれど、実際そうだとして、私はもう一度同じことを言えるだろうか。
コスメポーチに使っていたコスメを仕舞って、いつもどおりの仕込みを始めた安室を、私はぼんやりと眺めていた。前にある手鏡を覗くと、全てをカバーしているわけではなかったが、隈や必要な部分はしっかりと直されているし、いつもより健康的な顔色に見える。唇はも、血色よくぷるっとしていた。
「わあ、すごい。かわいい~! さっすが安室さん」
「いえいえ。梓さんのコスメセンスがばっちりでしたからね」
「でしょ~。ポーチは女の武器倉庫です」
戻ってきた梓に、頬やらなにやらを興味深く触られる。会話が途切れてしまったことに、私は少々名残惜しく思いながら、嬉しそうに笑う梓を見て頬を綻ばせた。
朝のゲッソリとした顔色を嘘のように取り繕われた私の顔。沖矢も、安室も、――人間の誰しもが、そうやって表面を偽って生きているのかもしれない。
「安室さん」
私はコーヒーメイカーを掃除しながら、皿を洗う安室を呼んだ。彼は「はい」とにこやかにこちらを振り向く。
「殺しちゃ、ダメです」
それは私のためなのか、沖矢のためなのか。彼は笑顔のまま、こちらを向いて、少しだけ口元が強張っているようにも見えた。
「すみません、その……どうしても。それだけ……」
彼を疑っていないと言えばうそになる。
けれど、安室は優しい人だ。じゃなきゃあの日、大雨のなかで墓参りなんかしない。誰かのために心を痛めることのできる人だ。私の話を聞いて、懐かしむように微笑んだりしない。
「さあ、何のことやら」
ほほ笑んだ彼の瞳は、ゾっとするほどに冷たく細められていた。