Second
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安室はニコニコとして、窓を開けこちらに声を掛けてきた。先ほどの表情とは別人のように穏やかなのが、逆に背筋をぞっとさせる。
「こんばんは」
いつもより、少しばかりゆったりと溜めるような口調だった気がする。動揺が隠しきれていない声色が、「こんばんは」と返しながら僅かに揺れてしまった。彼はそんなこと気にも留めないようにあたりを見渡す。
「おひとりですか」
「は、はい。安室さんは……」
「少し、転寝をしてしまって。こんな暗いのに……駅はこちらではないでしょう」
「……知り合いに……。でも、もう帰りますから」
沖矢の家のほうを振り返らないようにして、私はなるべく平常に反応を返した。先ほどの安室が、沖矢の家のほうを見ていた気がして――。もしそうだとしたら、どうしようという想い。それから、もしもの時のために、バラしてはいけないと事実を隠す本能。安室のものが鏡になるようにニコリと表面に張り付けた笑みを、安室は笑顔のまま見つめていた。
「送りましょうか。危ないですよ」
「……い、いえ。走っていこうと思ってたので!」
「そうでしたか、では。また明日」
「はい、おやすみなさい」
私はクルリと踵を返して、今度こそ沖矢の借家から走り離れた。どうしてだろう。いつもと何ら変わらない笑顔なのに、話し方さえ変わらないのに。彼がまるで別人になったかのような――そんな気がした。私は沖矢のことが心配で、少しだけ遠くからその窓を振り返る。カーテン越しに漏れた灯りは、もう消えていた。
◇
翌日、木曜日ではなかったが、どうにも沖矢のことが気になった。昨夜の安室の様子が、気のせいとは思えないほど違和感があったからだ。安室は良い人だ。知っていた。少なくとも、私や梓にはいつだって気を遣い、時には身を案じ――。いつだか手渡してくれた番号を、そっとタップする。まさか――そんな、殺意を持っているようになんて。
それでも、紛れもなく、彼はその憎悪の籠った視線で、この窓を見上げていたと思うのだ。
私はそわそわとしながら、工藤と書かれた表札のインターホンを押す。古めかしい音が鳴り、沖矢は顔を出すと意外そうに目を見開いていた。
「おや、珍しい。どうかしましたか」
そのキョトンとした表情を眺めて、私は上から下までずずいっと視線を這わせた。見た限り、負傷をしたような様子はない。やっぱり、気のせいだろうか。私が難しく眉間に皺を寄せていると、沖矢は首を傾げながらクスっと笑った。
「ひとまず、上がります? 何かお話があるようだ」
外は冷えるでしょう、と彼は言う。確かに、今日は風の冷たい日だった。足元を枯葉が擦り行き、風はニットから飛び出た顔や手を冷やしていく。外で言うような話でもないと思ったので、言葉に甘えて部屋に上がらせてもらう。
思えば、木曜日以外にこうして家に上がるのは今日が初めてかもしれない。沖矢はリビングまで私を通すと、紅茶を淹れてくるからとキッチンへ向かった。私が淹れると名乗り出たが、やんわりと窘められる。
「いえ、今はキッチンが汚れていて」
お恥ずかしい、沖矢が苦笑いしながら後頭部を軽く掻いた。彼が案外ずぼらというか、部屋を汚しがちなのはここ暫くで分かっていたので、私も苦笑いして頷く。客間だというのに、昨夜晩酌に使ったのであろうグラスはそのまま出されているし、すぐ近くに灰皿があるというのにグラスの中に煙草の吸殻が捨てられている。片側のグラスは、妙に綺麗に使われていた。沖矢が使ったであろうものと異なり、最後までしっかり飲み切られており、水滴も拭ったのかテーブルに水の跡がついていない。
誰か他の人と飲んでいたのだろうなあ、と考えながらソファに腰を掛けていると、沖矢がティーセットを乗せて戻ってきた。相変わらず、乱雑な注ぎ方である。バイト先でこんなことをしたら怒られてしまう。なみなみと冷たいカップに紅茶を注ぐと、彼はこちらに差し出してくれる。もはやこれすら、沖矢のらしいと思えて馴染んできてしまった。
「それで、何かあったようですが……」
「あ、はい。それは――……」
向かいのソファに腰掛け、自分の注いだ紅茶に口をつけながら、沖矢は私のほうを見遣る。私もぱっと顔を上げ答えようと――して、言葉に詰まった。一体何といえば良いのだろう。貴方を殺しそうな人がいるから気を付けて。違う。最近恨まれるようなことはありましたか――これも違う気がする。
「えっと……。昨日……」
「――昨日?」
私が曖昧に首を傾げると、沖矢も合わせるように首が傾いていく。二人して首を傾げて、私は悶々と言葉を探した。暫く言葉を探して、あのグレーの瞳を思い出す。憎悪や殺意が籠った視線――きっと、彼と無関係ということはないはずだ。
「わ、私、最近バイト始めたって言ったじゃないですか」
「ああ。言っていましたね、順調ですか」
「はい。おかげさまで……じゃなくて!」
沖矢の優しい相槌が、なんだか私の調子を狂わしていく。私はぶんぶんとかぶりを振り、安室のことを持ち出した。
「バイト先に、安室さんっていう男の店員さんがいて……色黒の、綺麗な顔の人なんですけど」
「はあ……」
「その、知り合いだったりとか……しません……よね」
沖矢は口元に指を置き、暫く間を空けた。私はそのイマイチ理解のできていない表情に次第と自信がなくなってきて、語尾に至ってはほぼ消えかけの言葉だったと思う。沖矢は「知り合い、というほどでは」と答える。
「あ、でも、ご存じでは……」
「知ってますよ。以前何度かお会いしたことがあってね」
彼はニコリ、と人の好い笑顔を浮かべて答えた。見る限り、険悪な関係というわけではないのだろうか。だって、沖矢のことだ。もし自身が恨まれるようなことをしたら、真っ先に気づくような気がするのだ。
「そう、ですか……」
私は一度口を噤んだ。やはり、私なんかが言うのは余計なお世話だろうか。第一、安室のことだって、あんな暗い中で見たから不審に思えただけかもしれない。最近事件三昧だったから、そういったことに過敏になっていたのかも。誤魔化すようにティーカップに口をつけようとして――しかし、やはりカップを下ろした。
駄目だ、ここで黙っては、今までの私と同じだ。
沖矢が背を押してくれたように、一ミリでも誰かを助けられる選択があるならば、そちらを取らなければ。彼を守ると、そう言ったではないか。
「あの、安室さん……昨日、沖矢さんの家の前に車を停めていて……」
私は言葉拙く、懸命に話を続けた。曖昧な、感情の話かもしれない。沖矢は途中で話を中断することなく、手を組んで私の言葉を聞いていた。分かってはいたけれど、彼は特に馬鹿にしたりだとか、笑うことなく最後まで聞いてくれて、それに対して私はどこか安堵していた。
私が一通りの話を終えると、彼はフウ、と長く息をつく。
「なるほど。その彼が僕を殺そうとしていると――……」
沖矢は頬杖をつき、それから――笑った。
そう、笑った。それはもう、心から余裕たっぷりだというように笑う。
話を聞いている時、確かに彼は真剣に聞いてくれていたと思う。馬鹿にしている、という風には見えない。しかし口元には、いつものように柔和な笑みが浮かんでいた。私は困惑して、「だ、だから」と今一度昨晩の解説を繰り返す。しかし、彼の笑みは外れることがなかった。
「百花さんは――それで、どうして僕の味方を?」
沖矢は、まるでチェスの一手を投げかけるように私に問いかける。
「どうして、って……それは、そんなの」
「僕が、本当に殺されるようなことをしたのかもしれないのに」
ちらりと、グリーンアイが私を見上げた。茶化している風ではない。トーンをいつもよりも落とした、固い声だった。
「前にも言いました。僕は、優しくないんですよ」
――どうして、そんなことを言うのだろうか。確かに彼は期待をすると告げたのに。嘘ではないはずなのに。篩にかけるようなことを、わざわざするのは、どうして。余裕ぶったその笑顔の下が、今、私には泣いているようにしか見えないのだ。