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事情聴取を終えると、部屋の前では沖矢が待っていた。
車の中でも一緒だったが、彼は珍しく気まずそうで、今もにこやかな表情を浮かべているようだが、明らかな強張りがあった。私も、彼とバッチリ視線を合わせてから、その目線をずらす。
「……沖矢さんは、今からですか?」
「僕はもう。帰り道、危ないでしょう」
相変わらず、優しいのだかそうでないのだか。距離を置きたいのだか、そうでないのだか――。いまいちつかめない距離感に、私は気まずく礼を言う。その長い脚が歩き出したのを、追うようにして歩いた。
ちょうど入り口を抜けたところで、「百花さん」と声を掛けられる。沖矢ではない。女の人の声だ。立っていたのは、色素の薄い髪と、やや垂れ目がちの瞳をした女性だった。気の大人しそうな雰囲気。ぺこりと頭を下げた上品そうな女性は、「東尾です」と名乗った。すぐ、マリアの母親だと分かった。
「マリアに聞きました。百花お姉さんが、抱きしめて走ってくれた、怖かったけど大丈夫だったって」
マリアにそっくりの、関西なまりのアクセントだ。声は、少し揺れていた。
「ありがとう、ありがとうございます」
彼女は目にいっぱいの涙を溜めて何度も私に頭を下げた。私は「いいえ」と首を振ることしかできなかった。なんとか、絞り出した声で「マリアちゃんが無事で良かった」と、ありきたりなことを言った。ニュースの証言みたいだなあと、他人事のように考えながら。
母が涙ながらに車に乗り込む様子を見送ると、沖矢は再び黙ったまま歩き出す。
しばらくの間、二人で並んで歩くだけだった。彼の亜麻色の髪に、黒いシャツはアダルドすぎて、やはりミスマッチな気がする。暗くなった夜の空に溶け込んでしまいそうな立ち姿は、街灯の下を歩く時にフウと息をついた。煙草の匂いがする。
先に切り出したのは、沖矢のほうだった。
「……さっきは、怒鳴ってすみません」
と、なんとも下手な台詞だったが、明らかにその声は『すみません』だなんて思っていないような、少しだけ高慢そうな声をしていた。可笑しくて、笑いそうになった表情を誤魔化すように「いいえ」と返す。
「沖矢さんの言うことも、もっともだと思います。カっとなって、犯人がいる部屋に飛び込んだのは、今でも賢いとは思えませんし……」
事実、沖矢がいなければどうなっていたか分からないのが現状だ。彼の言うことが正しいことも、分かっていた。
「でも、あの時は……そうしようとしか」
「分かりますよ。それも」
「ええ……? 嘘だあ、沖矢さん、あんなに強いのに」
「まさか、マグレですよ」
肩を竦める男に、私はクスクスと笑った。いつもより晴れた気持ちで話せるのは、泣いてスッキリしているのと、梓に今のままで良いのではと言われたのが大きい。どうせバレているのなら、バレているなりに話そうと思うのだ。それに対して沖矢がどう思うかは、彼の自由だ。
「前、歩美ちゃんと一緒にいる時――あれも、沖矢さんがやったんでしょう」
「……もう、分かっているならしょうがないな」
「ガッシリしてるとは思ってましたけど」
見るんじゃなく、観察しましたから――自分の目を人差し指で示しながら言うと、沖矢は面食らったように言葉を止めて、それからクツクツと笑った。眼鏡を外して、シャツの裾で拭っている仕草を見ると、意外と目元がやつれていることだとか、鼻頭がしっかりとしていることに気づく。
「強さで、助けたい人をすべて助けられたら、良いんでしょうね」
伏せがちの目が、街灯の白んだ光を反射して、キラキラっと光った。まるで彼も涙を零したような錯覚を覚える。その表情が悲し気に見えるのは、私の心情の問題なのだろうか。
「それは、違う?」
「違うでしょう。でなければ戦争が正当化されてしまいます」
「……たしかに」
真っ当に頷くと、沖矢はやはり可笑しそうに喉を鳴らした。眼鏡をはめる仕草も色っぽくて、レンズの奥の瞳に、視線が奪われてしまう。薄いグリーンは、白い光を浴びるとグレーにも見えた。
「あの少女から見て、君はヒーローのようだったでしょう。それだけは、確かです」
「沖矢さんから見ると?」
「カミカゼを、英雄と取るか愚かと取るかということですよ」
いつのまにか、彼の口調はだいぶいつも通りの穏やかさを取り戻していた。歩幅は広い。安室のようにゆったりと歩くこともない足取りを、私は時折駆け足になって追いかけた。間が空いて、詰める。また空いて、前に進む。それが、案外嫌ではなかったのが驚きだ。
「沖矢さんは、無謀なことは嫌いですか?」
「はい、愚かなことだと思います。どうしてそんなことをするのか、理解に苦しむ」
ぎゅっと一瞬だけ眉間に皺が寄る。すぐに表情は元に戻ったものの、歩き方がやや粗雑になった。
「そうは思うのですが」
彼は一度、言い籠った。それから空を見上げ、気のせいか、チラリとこちらも一瞥したような気がする。都会の空だ、星はあまり見えないが、時折人工衛星が瞬いた。
「そういう人を嫌いになれないのは――性なのかもしれません」
ぴたりと、足が止まる。薄い唇が綺麗に持ち上がった。どこか自嘲するような、はたまた懐かしむような笑み。つられて立ち止まった私のほうに、くるりとつま先を向ける。
「正直な話、思わせぶりにしてから突き放したら、すぐに離れていくと思っていたんです」
「……え、私ですか!?」
「あはは、他にいないでしょう。嫌いと言っているんじゃないですよ、ずるずると引きずるのも良くないと思ったので」
私は思わずぎょっとして、思い直した。やっぱり、彼が自分のことを優しくない男だというのは本当なのかもしれない。まさか、前の〝お礼〟にそんな意図があるとは夢にも思わないだろう、誰だってそうだ。
そして、同時に目の前にいる男が――1枚の皮を脱いでくれたような気がして、純粋に嬉しく思ってしまった。ポケットに軽く親指を掛けて、沖矢は片方の眉を吊り上げ笑う。
「気の毒な人だと思っていたのに……たった数か月で、どうしてこうも逞しくなるのだか」
沖矢が、今思い出していることが、私のも分かる気がする。
きっと、私をはじめて車に乗せた日のことだ。私が車の中で、ユキを失ったことにボロボロと泣いた時。彼が何も言わずに、夜の街を走ってくれた日。あれから、ずいぶんと経ったような気がするし、ついこの間のような気もした。
自分の無力さを知った。見て見ぬふりを貫いた愚かさを知った。
「……ユキみたいに、なりたいと思ったから」
私がポツリとこぼすと、沖矢は口角をきゅっと引き結んだ。私はその表情を見つめながら、言葉を続ける。
「ユキみたいに、高木さんみたいに、歩美ちゃんみたいに――沖矢さんみたいに、なりたいんです。ビクビクして、隠れて逃げるだけじゃない。人を助けることに、理由を探したりしたくない」
言葉にすると、次第にその想いが体を熱くした。そうか、私はそうだったのかと、自分でも驚くほどに。私は胸に浮かんだ言葉を、そのまま吐き出す。何故だか、沖矢に、言いたかった。
「私、警察官に、なりたいんです」
目の前にいる男の瞳が、やはり泣きそうにキラキラと光っているように見えた。笑ったりはしなかった。彼は真っ直ぐに私のほうを見て、夜風に乱れた私の髪を軽く撫でつける。不思議と、男らしさはなかった。親が子の髪を直すような、優し気な手つきだった。
「僕が止めても、そう言うんでしょうね」
そう呟いた沖矢の眼差しは、何故だか悲しそうだ。
「では、警察官志望の百花さん。改めてよろしく」
大きな手が目の前に差し出される。私が僅かに首を傾げると、沖矢は「握手ですよ」と笑った。握った手は、私よりはるかに大きく、冷たく、しっかりとしていた。ドキリと、胸が僅かに鳴った。
―First-