First
名前の設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
ユキが言っていたデッキを見回すが、見知った姿はない。考えた末に、喫煙ルームへ足を運んだ。窓を覗く後姿に、やっぱりと確信する。入り口を潜ると、彼は煙を軽く鼻から漏らす。
「ユキに見て来いって言われた?」
「……ううん。スマホが鳴ってたから、届けに来ただけ」
「ああ、ありがとな」
スマホを手渡すと、彼は煙草の灰を落としながらもう片手で画面をスクロールしていく。そのスマートフォンは仕事用ではないことを、知っている。いたたまれなくなってきて、私は素っ気なく「もうすぐ着くよ」とだけ告げた。
「なんだよ、そんなビクビクしなくたっていいだろ」
ニコ、と優し気な顔つきが笑った。
きっと、この世に私だけなのだ。この笑顔を恐ろしいと感じるのは。慎也の笑顔は怖い。セックスをする時も、平気でユキの横に立つ時も、いつもこうして笑っている。つい後ずさると、髪に隠れた私の表情を覗き見るように顔が近づいた。
「そうやってするからさあ、搾取されるんだよ。お前……見てて楽しいもん」
「搾取、なんてされてるつもりない」
「好きなだけヤられて、親友に嘘までついてるくせに。それともそういう趣味だったか」
「そんなわけ……!」
浮かんでいた涙を強く瞬きして引っ込める。表情を保って、慎也を睨みつけると、彼は不機嫌そうに煙草の先を此方へ向けた。
「萎える顔するなよ。ユキにそっくりで嫌気が差す」
「……嫌えば良いじゃん。私も、もう我慢の限界だし」
低い声が、ハァ、と溜息をついた。
「――お前みたいなヤツ、最初からこうすればよかった! 全部、最初から……」
「だからさ、そういう顔するなっつってんの」
煙草の灰が、手首に落とされた。反射的に手を庇おうとすると、その煙草の先が目前にあった。目を瞑り息を呑む。狭い喫煙ルームでは、背中を逃げるように壁へと押しつけるしかなかった。否、それしか判断ができなかった。
「お、っと……」
喫煙ルームの自動ドアを開けたのは、断じて私ではない。その筈なのだが、確かに心地よい空気が肌を撫でる。次に、ぱしゃっと何かが零れる音がした。
確かめるように額に触れる。熱くは、ない。
恐る恐る瞼を持ち上げる。慎也は怒っていなかった。私から見ればまだ少々不機嫌そうだったが、すぐ横の灰皿に煙草の先をグリグリと押しつけている。
「失礼、服を汚してしまいましたね」
「あ、いえ……」
そう、声を掛けられて初めて第三者の存在に気づく。手に持った紙製のカップが、縁からコーヒーを溢れさせていた。Tシャツに数滴飛んだコーヒーを指して、男は申し訳なさそうに謝る。
「あれ、確かさっき、毛利さんたちといた……」
コナンの向かいに座っていた、眼鏡の男だ。センター分けの亜麻色の髪と、黒いハイネック。知的な風貌だと思っていたが、立ち姿はずいぶんガッシリとした印象を受けた。
「沖矢と言います。すみません、クリーニング代はお支払いしますので……」
「大した汚れじゃないですよ! それに……いえ。本当に」
「なら、君が急に目の前に飛び出たことと、50:50――ということで」
目を瞑って背後の壁に後ずさったせいで、周囲を見えていなかったのは確かだ。急に飛び出てきたように見えても可笑しくはない。慎也は、沖矢に向かって申し訳なさそうに眉尻を下げる。
「すみません、少しふざけあっていたせいで。じゃあ、後でな」
そう、軽く私に手を振った。私は、震える手を何とか抑えると、いつものように「うん」と頷く。
悔しかった。情けなかった。
ユキのことが大切で、傷つけたくないと思っていた。結局、私は自分が傷つくことを怖がっているだけなのだ。その事実が、突き付けられた煙草よりも恐ろしかった。ぼろぼろと涙が零れる。すれ違う人が、私の顔を振り返るのが分かる。――殺したい。明確な殺意を覚えたのは、生まれて初めてのことだ。
席に戻ろうにも涙が止まらないもので、私は一つ先のデッキに蹲って泣いた。
「ユキ、ごめんね、ユキ……」
誰に届くでもない謝罪を、ぽつりとぼやき落とす。トンネルに入った音で、きっと誰にも聞こえなかっただろうと思う。
◇
新幹線の機内放送に、ハっとした。もうすぐ目的の駅に着く。時計を見ると、確かに予定時刻の五分ほど前である。いつまでも戻らない私を、優しい彼女はきっと心配していることだろう。ぐずぐずに崩れた化粧を軽く直すと、私は元の号車に踵を返す。ちょうど、喫煙ルームのある、最寄のデッキを通りかかった時だ。
――がた、バタバタンッ
大きな物音がした。何かが倒れた音――。音の方向へ視線を遣ると、トイレの扉が大きく開閉を繰り返していた。まるで勢いよく閉められて、バウンドしているような動きだ。
ゆっくり、つま先をそちらに向ける。大きな音で脈打った心臓が、まだ常より早く鳴っている。恐る恐る歩み寄ろうとすると、反対側の扉が開いた。――見知った姿は、私のことを捉えると不思議そうに目を開いた。
「あれ、ユキさんと一緒じゃなかったんですか」
「ユキ? いいえ、今戻ってきたところで……。今、そこから大きな音がして、それで……」
蘭たちは荷物を持っているので、降りる準備をしていたのだろう。私が控えめにトイレを指すと、小五郎が扉を覗きこみ、「でも空いてんぞ」と。確かに音はしたが、何の音かは確かめられていない。自信なく首を傾げると、さすが名探偵、とでもいうのだろうか。彼は臆することなく、その扉を開ける。
瞬間、蘭や歩美がキャアと息を呑むのが分かった。何があったのか、知りたくないほど彼らの顔つきが真剣味を帯びる。ドクドクと鳴る鼓動が指先まで震わせる。
「ユキさん、ユキさん!!」
「ユ、キ…………?」
「見ちゃダメだ!」
咎めたのは誰の声だっただろう。その声よりも早く、私は扉を覗いていた。
ぐったりとトイレの床に座り込むユキは、普段から白い肌を真っ青に染めている。指先や唇の色まで、真っ青に――。虚ろに焦点の合わない視線が、真っ黒な瞳が、私を見ている。
青く薄い唇が、力なく、僅かに戦慄いた。血の混じった泡が口の端からこぽっと溢れる。
「ユキ、ユキ……ッ!」
名前を呼ぶ。いつものように「なあに」と笑い返してほしかった。変わりに返ってたのは息苦しそうな呼吸音と、それから――……。力なく、その手首が僅かに持ち上がる。最期の意思を伝えるように、くったりとした手は人差し指を立てる。一、の指のような仕草だった。
「……え?」
そして、私に向かって、人差し指の関節をくいっと曲げたのだ。
瞬間的に、周囲の人も私を振り向いた。彼女は暫く、指先を私へと向け――数秒後、力尽きたように手の力が抜けてしまった。彼女の顔も、指先も、二度と動くことはなかった。
◇
「なるほど、それで扉を開けると道城さんが倒れていたと……」
「はい。凶器は同じくトイレに落ちていた注射器、毒物の注入による中毒死かと思われます」
「ふむ、注射痕の位置からも他殺だろうなぁ」
目の前で起こっていることが、まるでドラマのようだった。
ユキの体を囲んだ白い線や、ぱしゃぱしゃと証拠写真を撮る音。それを見下ろし淡々と状況を整理する警察に、ぐすぐすと泣く人たち。すべてがフィクションにしか見えなくて、不思議と涙は出なかった。
代わりといってはなんだが、慎也はボロボロと泣いていた。嘘なのか本当なのかは、分からない。私には、慎也とユキの間にあった感情を測ることはできなかったのだ。
事情聴取を担当したのは、若い警察官だった。グレーのスーツを着た男の警察官だ。彼は軽く手帳を見せると、「本庁の高木です」と名乗る。
「えっと、あなた達が彼女と旅行に来ていたという……」
「はい、荻野慎也です」
「詳しくお話をお聞かせ願えますか。できるだけ、詳細に」
ちらり、と高木が気づかわし気に私を見遣る。私は、呆然とする頭で口を動かした。
「……百花。高槻、百花です」