First
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私は住宅街を抜け、周囲を見渡す。この近くの地理には自信がない。だが、車の通れる道で人目につかない――しかも、パトカーを掻い潜っていけるような場所は限られているはずだ。
黒いワゴンを見つけたのは、目星をつけて回った二つ目の空き家だ。もうずいぶん使われていないのだろう、雑草が生い茂り窓も閉め切られているが、ボロボロの植木鉢の傍には日焼けの跡があった。
「誰か、動かしたんだ……」
ごくりと生唾を飲み込んで、ドアノブを捻る。意外にも鍵は開いていた。それが不気味で、背筋にはゾワゾワと鳥肌が立っているのが見えなくとも分かった。
恐る恐ると廊下に踏み出すと、手入れされていないフローリングが鈍く軋んだ。足音が立つのはよくない気がして、スニーカーを脱ぎなるべく足を滑らせる。埃が足跡をつけた。私のものだけではなく、もう一つの足跡も。しかし、足跡は一方向にしか向いていなかった。
〝誰か〟がまだ家にいるのだ。
その誰かが、誰なのかくらいは、私にも予想ができた。ドクドク、脈が五月蠅く打った。目が乾燥して、気づくと涎を飲み込むのを忘れてしまう。ごくっと喉を鳴らし、足跡の続く先へと擦り足を進めていく。
客間の前まで来た時に、中からくぐもった声がした。
まるで口をふさがれている誰かが、必死に声を出しているような――。そんな風に聞こえる。
「静かにしろ」
そう言ったのは、誰か、だった。ヘリウムガスで声が変えられていて、テレビのモザイクのような声しかしない。男なのか女なのかも分からなかった。くぐもった声は、次第にスンスンと啜り泣く声に変わる。
「う、うち、おうちかえりたい」
うにアクセントのついた関西の発音。すぐに分かった、この部屋の向こうにマリアがいる。誰か――と、一緒に。がしゃんっとランドセルが揺れる音。ワンテンポ遅れて、ワーンとマリアが大きく泣き叫ぶ声がした。もう一度、ランドセルが揺れる音がする。
「静かにしないと、もう一回だ」
「ヒック、う、する、するからあ」
理解するまで時間が掛かった。
この扉の向こうで、マリアは何をされているのだろうか。もう一回って、何。どうして押し殺したように泣いた声を押さえるの。
ユキの死体を、私は一生忘れることはない。
変色した肌と、固くなった体。葬式で見るものとは違う、冷たく半ばに伏せられた瞼。苦しかっただろう、痛かっただろう。
歩美と見た、車窓から見えた冷たい脚だって。
血の気を失った、白い脚。彼女がどんな気持ちなのかなんて、想像するだけでも奥歯を噛みしめてしまう。
どうしてそんなことができるの。なんで、人を傷つけようと思うの。
さっきまで繋いでいた暖かく小さな手が、冷たく固く、地面にブランと垂れさがるのを思い浮かべた。ジンジンと目の奥が痛い。泣きそうな感情をぐっと噛みしめて、私はその扉を大きく開いていた。
助けられる算段があったわけではない。
ただ、このままマリアが傷つけられるのを想像したら、それだけで死んだような心地だったのだ。
マリアは部屋のソファに転がっていた。私を振り向くその頬が、目が、赤く腫れている。向かい側に立っていたのは、身長こそ高いが女だ。ぼさぼさの短い髪。手に握っているのは、家にあるような料理用の包丁だった。
だらんとして、動こうとしない腕。数秒その姿を見て固まってしまったが、私はすぐマリアの小さな体を抱える。ランドセルをマリアを抱えた腕とは反対側に抱え出口へ踵を返すと、ランドセルに鈍い衝撃があった。ドスっと、何かがぶつかる音だ。
女の顔が間近にあった。包丁が、ランドセルに刺さったのだと分かった。
私はヒっと息を呑み、ランドセルを押し返し、そのまま捨てる。家の外だ、とにかく外にいかなければ! 女がランドセルから包丁を引き抜く時間に、少しでも距離を稼がなければ。滑るフローリングを必死に走る。これでもかというほど足を広げて、千切れるくらいに足を動かした。
たった数メートル。部屋から玄関までの廊下が、何キロにも感じられる。あと少し、もう玄関が見える。ただ、後ろから同じように走る女の足音も聞こえた。向こうの方が背も高いし、何よりマリアを抱えていない分身軽だ。
怖い、怖い、怖い! 抱えているマリアの体も震えていた。私より、怖い筈だ。痛いこともされて、あんな部屋に一人でいたのだ。私が、せめて彼女のヒーローにならなければ。
「ッ、あとちょっと!」
玄関に手を伸ばす。入ってくるときは手前に引いたはずだから、このまま押せば扉は開くはずだ。ぐっとドアノブを捻って、奥に押す。扉が開いた。やった、と思った。
その一瞬のことだった、靴下が玄関の石で滑り、体が前のめりに倒れてしまう。
「百花おねーさん!!」
倒れた拍子にマリアを道路のほうへ放ってしまう。玄関の外で擦り傷こそできたようだが、彼女はすぐにこちらを振り向いた。大した傷ではないようだ。良かった。
同時に、後ろの影が私へ振りかぶるのが分かった。もう立ち上がっても遅いだろう。その瞬間は周りのものがスローモーションに見えて、マリアがぎゅうっと目を覆うのも鮮明に捉えることが出来た。
「百花さん――!」
私の頭より高いところで、焦りを含んだ声がしたのも、ずいぶんとゆっくりに聞こえた。
その声に振り向くと、勢いよく太い膝が、女の横顔にめり込む。衝撃に耐えきれなかったのだろう、女はそのまま横に飛んだ。――これは言葉のあやでなく、本当に飛んだのだ。横が玄関の枠組だったので、そこに叩きつけられる形になった。
私がポカンと口を開けていると、着地したスラリとした足が私のほうへつま先を向けた。――沖矢だった。真っ黒なシャツとパンツは、なんだか彼らしくないとも感じる。あんなに派手に人を蹴りつけたというのに、彼は息をほんの僅かにだけ乱して、すぐフウと呼吸を落ち着けた。
どうして、彼がここにいるのだろう。分からないが、その姿に、堪えていた涙がじわじわと浮かんでくる。「沖矢さん」と名前を呼ぼうとした。私の「おき」くらいのタイミングで、被せるように沖矢が怒鳴った。
「どういうつもりだ!」
初めて聞いた声だった。暫く沖矢の声だとは思えなかったほどに、怒りが滲んでいる。今までも、歩美を助けたとき、一人で歩いていた時に険しい声をすることはあったが、比にならないほどだ。低い声がその場の空気をビリビリと振動させた。
「どうして、あの子と一緒に警察に連絡しなかった。どうして、犯人のいる場所へわざわざ足を踏み入れた。君は、――」
沖矢は言葉にし辛そうに、「君は」ともう一度ぼやいた。それから二度ほど口を噤んで、少しだけ落ち着いた言葉を吐き出す。
「――死ぬ気なのか」
すっと、彼の膝が私の傍についた。いつもよりもやつれたような表情が、ぐっと鼻と目の間に皺を寄せていた。先ほどから堪えていた涙が、その振動に耐えかねたようにポロっと目から零れ落ちる。
「わたし、でも、わたし……」
「……その行動を貶しているわけじゃないんですよ。ただ、人の命は――あまりに脆いことを、君は知っているはずでしょう」
涙がボロボロと零れて止まらない。もう一生分、彼の車の中で泣き果たしたと思ったのに、まだこんなにも零れる涙があるとは思わなかった。
「泣かないでください、どうして良いか分かりません」
非情な言葉だと思った。その表情は困惑というには感情を殺している。分かっている、彼は泣いて背を撫でてくれもしないし、抱きしめてもくれない。そういう人ではない。分かっているが、涙は止まらない。
「人には人の守り方がある。君が派手なヒーローになる必要はないんです」
「分かってる。分かってるんです――……でも、なりたいよぉ」
誰かが悲しんでいるのを見過ごさない人に。誰かが傷ついているのを救える手に。
泣いている私を、決して放ってはいかない、今のあなたのように、なりたいと思うのだ。警察が来るまで、沖矢は私の傍に膝をついて、ただ泣いている姿を見守っていた。最後に苦しそうに「泣くな」とだけ、言葉を紡いで。