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ぐぐ、と背筋を伸ばす。梓に沖矢のことを相談した翌日だ。
今のままで良いと言われると、感情にアレコレと言い訳をしなくても気楽な気持ちでいられた。ようやく、講義にも身が入り、梓様様である。単純なことだが、元の性格もあり自分一人ではなかなか漕ぎつけなかっただろう。
今日も安室と入れ違いで、私はシフトを終える。愛想良く「お疲れ様です」と頭を下げた男に笑い返した。安室は私よりも大きいのでは――と疑いたくなる、大きなグレーの瞳でジっとこちらを見つめた。私がん?と首を傾げてみせると、形の良い頬が持ち上がった。
「良かった。昨日は元気がなさそうだったから」
「あー……すみません、やっぱ気づいてたんですね」
「あんなに大きなため息、中々つけませんよ」
記憶に覚えがあったので、私は気恥ずかしく頬を擦る。元より優しい人だが、昨日はあの距離を送ってくれたりとやけに気を遣うと思っていた。どうやら、彼は触れないなりにも心配してくれていたようだ。
「悩みの種はなくなりましたか」
コーヒーフィルターを補充しながら、安室が尋ねる。私はエプロンを畳みながら、まあ、と曖昧に返した。
「なくなったワケじゃないんですが……。梓さんが、そのままで良いんじゃないかと言うので」
「へえ。梓さんが……ってことは、恋の悩みだ」
「ヘッ」
声が裏返った。私のすっとぼけた声色に、安室はフフと得意そうに笑っている。当たったでしょう、とでも言いたげだった。自ら図星を掘ってしまったので、弁明のしようもなく小さく、本当に僅かに頷く。
「ま、まあ……そういうような、ちがうような……」
「早く、その人に送ってもらえると良いですね」
「安室さん、面白がってますよね」
「とんでもない。……帰り道、お気をつけて。何かあったら連絡してくださいね」
荷物を纏め終えた私に、安室はいつものようにニコっと笑った。少しだけ、気づかわし気な色が透けている。私は彼を安心させるように、なるべく明るく答えた。
「なるべく人通りの多い道、ですよね。分かってます」
まだ日は高い。私よりも小さな子たちすら、店の前を走っていくのを見かけている。人気のない道さえ避けるようにすれば、それほど気にすることもないだろう。トートバックを肩に背負うと、私は軽い足取りでドアベルを鳴らした。
◇
「百花おねえさーん!」
聞き覚えのある声に呼び止められたのは、ポアロから五分ほど歩いた場所だった。そうか、沖矢が米花町に住んでいるのなら、彼女たちもこの辺りに住んでいておかしくはない。振り向くと、予想通りの小さな影が、私の腰元へ飛びついてきた。背負っていたランドセルが、がちゃっと無機質に鳴った。
「歩美ちゃん、こんにちは」
「なんでなんでー! 会えると思ってなかったから、歩美うれしいよ!」
「あはは、私もだよ」
細い肩をぎゅうと抱きしめ返すと、歩美は嬉しそうにぴょんぴょんと跳ねる。後ろからポテポテと走ってきたのは、見覚えのある少年たちとは違っていた。明るい髪をツインテールにひっ詰めた、少し気の弱そうな少女だ。
「まってぇ、歩美ちゃん」
「ご、ごめんね、マリアちゃん」
はぁはぁと息を切らすと、かわいらしい垂れた目が私を見上げる。人見知りなのだろうか、私を見るとポポっと頬を赤くして声を小さくしてしまった。
「マリアちゃん? 歩美ちゃんのお友達なんだよね。百花です」
「は、はいっ。ウチ、マリア……東尾マリア」
うち、という一人称の〝う〟にアクセントがついている。関西の訛りが入った口調だった。歩美が、「転校生なんだよ」と説明してくれたので、納得して頷いた。
「二人は、どこかへ行くところなの?」
「ううん。さっきまで博士のお家で遊んでて、今から一緒に帰る所なの」
「そっか……じゃあ、家まで送ってくよ。最近、このあたり危ないっていうし」
思い返すのは、安室の言葉だ。確かにまだ日は高いが、小さい女の子が二人だけだなんて、危ないと思った。こういう思考は良くないのかもしれないが、二人とも子役かと見まがうほどに少女らしく、可愛い風貌をしていたので尚更だ。
私は二人の家の場所を尋ねると、ここから近いらしいマリアの家から寄っていくことにした。
「ありがとう、お姉さん。ウチ、ほんまは少し怖かったん」
にこにこと笑うマリアにほっと胸を撫でおろし、二人と手を繋いで道を歩く。都会といえど、道路を少し離れるとトンボが飛び回っていて、歩美が小さい人指し指で空をさしながら笑っていた。
マリアの家は住宅街の中にあって、さすがにその道に入り込むと人気は少ない。右だよ、左だよ~という歩美の案内を聞きながら歩いていたときだ。
ふっと、手をつないでいた片側の温もりがなくなった。突然のことすぎて、私は数秒掌を見つめてしまう。すぐ傍に止めてあった黒のワゴンのエンジンが掛かったことに、血の気が引いたのはその時だ。慌ててもう片手を確認すると、歩美が私と同じように驚愕の表情を浮かべ、すぐにぐずっと涙を浮かべた。
「ま、マリアちゃん!」
――どうする。
見過ごすという選択肢はない。しかし、ここに歩美を置いて行ってはいけない。彼女一人では危険だ。ドクドクと急に鳴り出した心臓に、体中の血が熱くなった。一旦警察に行って、相談する――? いや、駄目だ。今すぐ追わなければ。あの小さな手が冷たく息絶える姿を、見たくない。
私は歩美に携帯を渡す。ぐずぐずと鼻を啜る少女に言い聞かせるように腕を掴んだ。
「歩美ちゃんは、マリアちゃんのお家知ってるんだよね」
「う、うん! すぐそこだもん」
「じゃあ、マリアちゃんのお家に行って。警察に連絡してもらうんだよ」
「お姉さんはどうするの」
ふと、コナンの声が頭に響いた。ヒーローみたいだね――。
かつての私のヒーローはユキだった。ユキは賢く、強く、優しかった。隣に立っていたと思っていたのは私だけで、いつだって彼女は私の前に立っていた。
〝失敗を悟りて、挽回できる者が偉大なのだ――。〟
そう言ったのは沖矢だ。ユキを失ったことが私の失敗だというのなら、二度同じことをしてはいけない。守ってくれるヒーローがいないのだったら、自分がなるしかない。
「――……私、ちょっと行くね」
歩美の背をトンっと押すと、私は足を踏み出した。考えろ。〝見るのではなく、観察しろ〟。
いくらなんでも、爆走する黒ワゴンなんて怪しい車が人目につかないわけがない。犯人もそれは避けたいはずだ。何たって、町にはパトカーが巡回しているのだから。住宅街を、そこまで早いスピードで走行できるわけもないのだから、まだ近くにいるはずだ。
そして、できるだけ早く人目のつかない場所に入りたいはず。彼らが最も恐れるのは、実行しているところを第三者に見られること――証拠を掴まれること。
私は二つ隣の家で郵便を配達している原付を見かけて、局員に目いっぱいの声で叫んだ。
「すみません!! 絶対、後で返しますから!!」
――握り込んだアクセルは、思いのほか軽く感じた。