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講義を終えて、緩慢な足取りで駅へと向かう。今日は午後からバイトが入っているので、この足で米花町に行かなくてはいけない。沖矢に会ってから、三日が経っていた。あの町に行くのも三日ぶりだ。
たかが三日――しかし、その三日間、私の頭は完全に沖矢のことでいっぱいだった。ドキドキとした感情と、不安と、緊張と――どうして彼のことがそんなにも気にかかるのか分からないという疑問と。すべてが混ぜこぜになって、考えれば考えるほど思考が沼に浸かっていた。
彼のことを、本気で好きなわけではない――と思う。突き放されたことに恥ずかしさこそあれどショックではなかったし、私が一方的に少しの好意を持っているだけの話。友達がよく、気になる人が同じ講義に出ているとドキドキすると言っていたのと、同じような感覚じゃあないだろうか。
しかし、どうでもよくはない。現にこんなにも彼のことで頭がいっぱいだ。その全てが好意によるものではないが、どうでも良い人にこんな風にはならない。
そして、こんなにも幾つものことを考えて、吊り橋効果だなんだと言い聞かせても、沖矢本人を目の前にするとあっという間にすべてが霧散してしまうのが問題だ。
「はぁ~……」
息をつくタイミングで、ぽん、と肩を叩かれた。
「百花さん」
沖矢のことを考えていたものだから、大き目の掌の感触にびくっと背筋が伸びる。顔に一気に熱が上がるのが自分でも分かった。
「すみません、驚かせるつもりは」
振り向いた先にいたのは、予想していた人物ではない。褐色の肌に、日に透けた天然のブロンド――安室だった。白いTシャツにデニムというラフな格好だったが、彼の小麦の肌にはよく映えて見える。垂れた目をニコリとさせて、「今からポアロですか」と尋ねた。
「あ、はい……安室さんは、今日はシフト入ってなかったですよね」
「ええ、まあ。昨日アイスクリームが少なくなっていたでしょう。今日は暑いし、木曜日。近くの高校は木曜日は短縮授業なので、きっとアイスやパフェがたくさん出ると思いまして」
彼の腕には業務用のアイスが入ったビニールがあって、それを軽く持ち上げて見せた。休みの日までそんなことを考えているなんて、本当に細かな人だ。感心して、素直に「おお」という声が漏れた。
安室は私の声を聞くと、一瞬キョトンとしてすぐにふっと笑う。沖矢の「フッ」という、ニヒルなものとは異なり、眉を下げたお人好しのような笑顔だった。
「今から行く途中ですし、持って行きますよ」
「結構重いですよ。それに、最近この辺り、少し物騒でね」
送っていきますよと笑う安室に、私は唸った。日はまだまだ高く、小学生が下校する時間帯だ。
「最初からそう思って声を掛けたんです。気にしないで」
安室はサラリと流すように言うと、すぐスニーカーでアスファルトを踏みしめた。ポアロの方向だ。私は後を追うように、やや駆け足になった。歩幅を合わせてくれているらしい、ゆったりとした足取りだ。
「物騒って、何かあったんですか」
先ほどの言葉を思い出してふと尋ねると、安室は相槌を打って話し始めた。
「なんでも、女子どもを狙った誘拐犯だとか。まだ捕まっていないんですよ」
「えぇ……確かにこの辺り、学生とか多いですよね」
「つい先日、一人遺体で見つかったようで。最近警察が躍起になって探しているみたいだ」
ほら、と安室が指さす方向には、パトカーが止まっていた。確かに、そう聞くといつもの道も恐ろしく思えてくる。人を殺そうという――殺意を持った瞳を、私は生涯忘れることはないだろう。慎也も、バールを持った男も、同じ目をしていたから。
少し不安げに指を擦り合わせると、安室がぱっと声色を変えた。彼の顔を見なくても、笑っていると分かる朗らかな声だ。
「まあ、パトカーがああしているうちは安心ですよ。くれぐれも人通りの少ない道を通らないように……本当は誰かに迎えに来てもらえれば良いのだけど」
「あはは……、残念ながら。今日はラストまでなので、梓さんと同じ道を通るようにするね」
「それが良い」
にこっと笑った安室は、「何かあったら電話して」とメッセージアプリでなく電話番号を渡してくれた。正直、今の話を聞いてギクリとしたところがあったので、本当に掛けるかは別として心強い。
安室はポアロのアイスを昔のものと取り換えると、何やら時計を気にするように店を出ていった。
◇
「で、で、それで? どうなったの~!?」
「梓さん、シー」
「あ、ごめんなさい。ついね」
梓がコーヒーを沸かす横で、ケーキの盛り付けをしながら私は苦笑いをした。ユキも、よく声を大きくする子だったから、こうして窘めるのは懐かしい気持ちだ。幸い店にいたカップルは旅行先の話し合いで、こちらのことなど気にも留めていないようだった。
「ていうか、安室さんが優しいだけですよ。梓さんにだってそうでしょ」
「えー……だって、百花ちゃん、私にはまだ敬語なのに安室さんにはちょっとタメ口入るでしょ。私ちゃーんと見てるんだから」
「そうでしたっけ」
「そうなの! たまーにだけどね」
無意識での行動に目を瞬かせると、梓は悪戯っぽく肩を竦める。どうやら、彼女は安室と私に何やらあるのだと勘ぐっているらしい。私はてっきり、梓と安室に何かあると勘ぐっていたので、互いに検討外れというわけだ。
確かに安室は気が遣えるし優しい。基本的にレディファーストで、しかしそれを此方に気にさせないような気さくさがあった。誰かと勘違いされても、仕方がない気がする。
「でも、彼氏いないって言ってなかったっけ」
「いませんけど……それなら梓さんだって同じ条件じゃないですか」
「じゃあ、気になる人がいるとか」
ぼとっ、飾りつけ用のベリーがシンクの上を転がっていく。
私は平然を装いコロコロとした粒を拾い集めたが、隣にいる梓の顔がみるみるうちに笑みに変わるのが、横目でも確認できた。
「なるほど~。それなら、安室さんがいくらイケメンでもしょうがないわね~」
「だから、安室さんは違うんですって。やめてください、女子高生にアンチされるって怯えてたの梓さんじゃないですか!」
「え、同じ大学? どういう人なの?」
きゃいきゃいと梓が目を輝かせたとき、視界の端でカップルの男が手を挙げるのが見えた。私は「はい」と返事をすると、テーブル席へ注文票を手に駆け寄る。
追加の季節のパフェの注文を取りながら、私はぼんやりと梓のことを考えた。
丸っこい目つきに、サラサラのロングヘア。健康的な艶っとした肌と、よく笑う口元。男に好意を寄せられることも多いのではないかと思う。今の気持ちをボヤっと抱えているより、少し話してみようか。梓は沖矢とは面識がない(――多分だけど)はずだし、丁度良いと思った。
出来上がったケーキセットとパフェを運んでから、私はポツリと梓に沖矢のことを話してみることにした。先ほど「どういう人」と聞いていただけあって、彼女は真剣に私の話を聞き、うんうんと頷いてくれる。
事件のあたりはボカしながらだが、沖矢がいつも私の言葉を後押ししてくれたり、危ない時にさりげなく助けてくれたこと。「入れ込まない方が良い」と言うわりに、次会った時には優し気に話してくれたこと。好きかは分からないが、彼を目の前にするとどうしたら良いか分からなくなってしまうこと。
カップルが会計を終え、ドアベルを鳴らす。テーブルを拭き、ようやく一連の話が終わる。
「う~ん。その男、何か隠してるわ。ゼッタイそう」
「な、なにかって」
「分からないけど……。既婚者とか、前科者とか」
「え、ええ……」
私がたじたじとすると、梓は慌てたように「冗談だって」と付け足した。確かに沖矢にはミステリアスと呼ぶにはチープすぎるほど謎な部分がある。否定はできなかった。
「だけど、きっと百花ちゃんと同じ気持ちなんじゃないかな」
「同じ……」
「気になってるってこと。向こうも隠さなきゃって気持ちと、目の前にいる百花ちゃんへの興味と、せめぎ合ってる感じ?」
「そんなに興味ある感じでもないんですよ……」
何と言ったら伝わるのだろう、沖矢の独特な雰囲気を思い出すと、うまく言葉にはできない。
「そうかなあ、行動だけ聞くと、そう思うけど」
人差し指を唇にぴとっとつけて、梓は目を閉じる。
「でも、百花ちゃんが本当に好きで付き合いたいって思うまでは、今のままでも良いんじゃない?」
にこっとアイドル顔負けに頭を傾けて笑う梓に、私は少しだけ目を丸くした。梓は手をグーにして、ボクシングのように構えると、しゅっと腕を前に伸ばす。
「気になっちゃうのはしょうがないし。今は前進ー!」
「梓さん、静かに……」
彼女を苦笑いで窘めたとき、ちょうどドアベルが鳴って、二人揃って接客用のスマイルを張り付けた。「今のままでも良い」という言葉に、三日間の蟠りが少しずつ溶けていくような気がした。
たかが三日――しかし、その三日間、私の頭は完全に沖矢のことでいっぱいだった。ドキドキとした感情と、不安と、緊張と――どうして彼のことがそんなにも気にかかるのか分からないという疑問と。すべてが混ぜこぜになって、考えれば考えるほど思考が沼に浸かっていた。
彼のことを、本気で好きなわけではない――と思う。突き放されたことに恥ずかしさこそあれどショックではなかったし、私が一方的に少しの好意を持っているだけの話。友達がよく、気になる人が同じ講義に出ているとドキドキすると言っていたのと、同じような感覚じゃあないだろうか。
しかし、どうでもよくはない。現にこんなにも彼のことで頭がいっぱいだ。その全てが好意によるものではないが、どうでも良い人にこんな風にはならない。
そして、こんなにも幾つものことを考えて、吊り橋効果だなんだと言い聞かせても、沖矢本人を目の前にするとあっという間にすべてが霧散してしまうのが問題だ。
「はぁ~……」
息をつくタイミングで、ぽん、と肩を叩かれた。
「百花さん」
沖矢のことを考えていたものだから、大き目の掌の感触にびくっと背筋が伸びる。顔に一気に熱が上がるのが自分でも分かった。
「すみません、驚かせるつもりは」
振り向いた先にいたのは、予想していた人物ではない。褐色の肌に、日に透けた天然のブロンド――安室だった。白いTシャツにデニムというラフな格好だったが、彼の小麦の肌にはよく映えて見える。垂れた目をニコリとさせて、「今からポアロですか」と尋ねた。
「あ、はい……安室さんは、今日はシフト入ってなかったですよね」
「ええ、まあ。昨日アイスクリームが少なくなっていたでしょう。今日は暑いし、木曜日。近くの高校は木曜日は短縮授業なので、きっとアイスやパフェがたくさん出ると思いまして」
彼の腕には業務用のアイスが入ったビニールがあって、それを軽く持ち上げて見せた。休みの日までそんなことを考えているなんて、本当に細かな人だ。感心して、素直に「おお」という声が漏れた。
安室は私の声を聞くと、一瞬キョトンとしてすぐにふっと笑う。沖矢の「フッ」という、ニヒルなものとは異なり、眉を下げたお人好しのような笑顔だった。
「今から行く途中ですし、持って行きますよ」
「結構重いですよ。それに、最近この辺り、少し物騒でね」
送っていきますよと笑う安室に、私は唸った。日はまだまだ高く、小学生が下校する時間帯だ。
「最初からそう思って声を掛けたんです。気にしないで」
安室はサラリと流すように言うと、すぐスニーカーでアスファルトを踏みしめた。ポアロの方向だ。私は後を追うように、やや駆け足になった。歩幅を合わせてくれているらしい、ゆったりとした足取りだ。
「物騒って、何かあったんですか」
先ほどの言葉を思い出してふと尋ねると、安室は相槌を打って話し始めた。
「なんでも、女子どもを狙った誘拐犯だとか。まだ捕まっていないんですよ」
「えぇ……確かにこの辺り、学生とか多いですよね」
「つい先日、一人遺体で見つかったようで。最近警察が躍起になって探しているみたいだ」
ほら、と安室が指さす方向には、パトカーが止まっていた。確かに、そう聞くといつもの道も恐ろしく思えてくる。人を殺そうという――殺意を持った瞳を、私は生涯忘れることはないだろう。慎也も、バールを持った男も、同じ目をしていたから。
少し不安げに指を擦り合わせると、安室がぱっと声色を変えた。彼の顔を見なくても、笑っていると分かる朗らかな声だ。
「まあ、パトカーがああしているうちは安心ですよ。くれぐれも人通りの少ない道を通らないように……本当は誰かに迎えに来てもらえれば良いのだけど」
「あはは……、残念ながら。今日はラストまでなので、梓さんと同じ道を通るようにするね」
「それが良い」
にこっと笑った安室は、「何かあったら電話して」とメッセージアプリでなく電話番号を渡してくれた。正直、今の話を聞いてギクリとしたところがあったので、本当に掛けるかは別として心強い。
安室はポアロのアイスを昔のものと取り換えると、何やら時計を気にするように店を出ていった。
◇
「で、で、それで? どうなったの~!?」
「梓さん、シー」
「あ、ごめんなさい。ついね」
梓がコーヒーを沸かす横で、ケーキの盛り付けをしながら私は苦笑いをした。ユキも、よく声を大きくする子だったから、こうして窘めるのは懐かしい気持ちだ。幸い店にいたカップルは旅行先の話し合いで、こちらのことなど気にも留めていないようだった。
「ていうか、安室さんが優しいだけですよ。梓さんにだってそうでしょ」
「えー……だって、百花ちゃん、私にはまだ敬語なのに安室さんにはちょっとタメ口入るでしょ。私ちゃーんと見てるんだから」
「そうでしたっけ」
「そうなの! たまーにだけどね」
無意識での行動に目を瞬かせると、梓は悪戯っぽく肩を竦める。どうやら、彼女は安室と私に何やらあるのだと勘ぐっているらしい。私はてっきり、梓と安室に何かあると勘ぐっていたので、互いに検討外れというわけだ。
確かに安室は気が遣えるし優しい。基本的にレディファーストで、しかしそれを此方に気にさせないような気さくさがあった。誰かと勘違いされても、仕方がない気がする。
「でも、彼氏いないって言ってなかったっけ」
「いませんけど……それなら梓さんだって同じ条件じゃないですか」
「じゃあ、気になる人がいるとか」
ぼとっ、飾りつけ用のベリーがシンクの上を転がっていく。
私は平然を装いコロコロとした粒を拾い集めたが、隣にいる梓の顔がみるみるうちに笑みに変わるのが、横目でも確認できた。
「なるほど~。それなら、安室さんがいくらイケメンでもしょうがないわね~」
「だから、安室さんは違うんですって。やめてください、女子高生にアンチされるって怯えてたの梓さんじゃないですか!」
「え、同じ大学? どういう人なの?」
きゃいきゃいと梓が目を輝かせたとき、視界の端でカップルの男が手を挙げるのが見えた。私は「はい」と返事をすると、テーブル席へ注文票を手に駆け寄る。
追加の季節のパフェの注文を取りながら、私はぼんやりと梓のことを考えた。
丸っこい目つきに、サラサラのロングヘア。健康的な艶っとした肌と、よく笑う口元。男に好意を寄せられることも多いのではないかと思う。今の気持ちをボヤっと抱えているより、少し話してみようか。梓は沖矢とは面識がない(――多分だけど)はずだし、丁度良いと思った。
出来上がったケーキセットとパフェを運んでから、私はポツリと梓に沖矢のことを話してみることにした。先ほど「どういう人」と聞いていただけあって、彼女は真剣に私の話を聞き、うんうんと頷いてくれる。
事件のあたりはボカしながらだが、沖矢がいつも私の言葉を後押ししてくれたり、危ない時にさりげなく助けてくれたこと。「入れ込まない方が良い」と言うわりに、次会った時には優し気に話してくれたこと。好きかは分からないが、彼を目の前にするとどうしたら良いか分からなくなってしまうこと。
カップルが会計を終え、ドアベルを鳴らす。テーブルを拭き、ようやく一連の話が終わる。
「う~ん。その男、何か隠してるわ。ゼッタイそう」
「な、なにかって」
「分からないけど……。既婚者とか、前科者とか」
「え、ええ……」
私がたじたじとすると、梓は慌てたように「冗談だって」と付け足した。確かに沖矢にはミステリアスと呼ぶにはチープすぎるほど謎な部分がある。否定はできなかった。
「だけど、きっと百花ちゃんと同じ気持ちなんじゃないかな」
「同じ……」
「気になってるってこと。向こうも隠さなきゃって気持ちと、目の前にいる百花ちゃんへの興味と、せめぎ合ってる感じ?」
「そんなに興味ある感じでもないんですよ……」
何と言ったら伝わるのだろう、沖矢の独特な雰囲気を思い出すと、うまく言葉にはできない。
「そうかなあ、行動だけ聞くと、そう思うけど」
人差し指を唇にぴとっとつけて、梓は目を閉じる。
「でも、百花ちゃんが本当に好きで付き合いたいって思うまでは、今のままでも良いんじゃない?」
にこっとアイドル顔負けに頭を傾けて笑う梓に、私は少しだけ目を丸くした。梓は手をグーにして、ボクシングのように構えると、しゅっと腕を前に伸ばす。
「気になっちゃうのはしょうがないし。今は前進ー!」
「梓さん、静かに……」
彼女を苦笑いで窘めたとき、ちょうどドアベルが鳴って、二人揃って接客用のスマイルを張り付けた。「今のままでも良い」という言葉に、三日間の蟠りが少しずつ溶けていくような気がした。