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すい、とスマートフォンの画面に指を滑らせる。求人広告の文字列は、頭に入らず目を滑るだけで、私は重くため息をついた。
男性経験が皆無というわけではないのだが、同い年の子と比べて少ないほうだと思う。きっちり〝恋人〟の関係をもったのは今まで一人しかいないし、元の性格が奥手気味なのもあり、恋愛経験は乏しい。
沖矢は物腰こそ柔らかで知的だが、大人びて色っぽい雰囲気がある。きっと、私が何かと意識し始めたことを察していたのだと思う。
「あ~、もう……なんであんなこと……」
沖矢の広い背中や、少し砕けたときの笑い方に、好意を持っていないといえば嘘になる。現金な奴と自分でも思うのだが、それほど、彼の姿に救われていた。――慎也と口論をしていたときから、そうだ。
沖矢には告げていないが、知っていた。ホットコーヒーのカップだったというのに、たっぷり入ったコーヒーは冷めきっていたこと。緩んだ蓋と、まだ然して飲んでもいないコーヒーを持って、片手が塞がったまま態々喫煙所に入ってきた理由。
彼は、わざと、慎也と話している間に入ってきたのだと、知っていた。
そしてそれは――紛れもなく、人助けという純粋な理由だということも。だからこそ、あの時私の代わりに謎を解いたのは沖矢ではないかと予想を立てたのだ。
少しずつ特別という立ち位置になりつつあった沖矢を、意識してしまうのはきっと時間の問題だったと思う。
私は部屋の片隅に飾ったパンフレットを、転がったソファの上から流し見た。しかし、この時はまだ「まあそういうものか」と思っていた。私が一方的に意識していただけだったし、いくら経験に乏しいといっても、私も大人だ。
自分の感情にある程度の整理がついて、意識が現実に引き戻される。滑らせていただけの求人広告を、ようやくまともに読み始めた。そして、ふと視線が止まる。喫茶店のバイト募集要項だった。住所は――「米花町……」ぽろっと、独り言が漏れる。私の住む場所から米花町は、決して遠くない。地下鉄で二駅。ちょうど、大学から帰る途中の駅だった。
その単語を口にして思い浮かぶのは、やっぱり沖矢の顔だった。少しの煩悩を頭の隅に残しながらホームページを眺める。時給も時間帯も、希望に沿ったものではあった。
「いや、これはバイトだしね……バイト……」
誰が聞くわけでもない言い訳を並べながら、私はひっそりとその応募に指を滑らせるのだった。
◇
バイト先は、沖矢の家とは少し離れた土地にあった。ややさびれた商店の一角、ビルの一階に大きく【喫茶ポアロ】と表示されている。それなりに繁盛しているらしい喫茶店には、レトロな雰囲気には珍しく女性客が賑わっている。裏口が見当たらなかったので、正面扉をおずおずと開けると、ドアベルがカラカラと軽快に鳴った。
「いらっしゃいませ」
にこやかに女性店員が接客をする。ロングヘアの、明るい雰囲気の女性だ。その細腕のどこに――と思うほど、食器をがちゃがちゃと手や腕に乗せている。
「初めまして、面接を予約した高槻ですけど……」
「ああ~! ごめんね。ちょっと座って待ってて」
女性はちゃきちゃきと食器を片し、私の座ったカウンターの前にグラスを置いた。カフェタイムからは外れていると思ったのだが、忙しい時間に来てしまったようだ。なんだか自分だけ水を飲むのも申し訳なくて、ちょこんと椅子に腰かけたまま店内が落ち着くのを待っていた。
暫くして、先ほどの女性がぐったりとカウンターに凭れかかり、水を注ぐと一気に呷った。ぷはーっと息をついてから、私のグラスを見て元より丸い目をますます丸くさせる。
「あれっ、飲んでない。気にしなくて良かったんですよ」
「あ、すみません……なんか、忙しそうだったので……」
「アハハ……。見ての通り、この時間帯人がいないから」
だから募集をかけてもらったんだけどね、と彼女は肩を竦める。カウンターに肘をついて、ニコリと人懐っこく笑いかける表情に、同性ながらドキっとした。
「今、大学生?」
問いかけに頷くと、女性は手慣れた風にコーヒーメイカーを弄り始めた。ぱっと見た雰囲気と、タメ交じりで話す口調から、なんとなく同い年くらいだろうと思う。コーヒーカップを私の前に置くと、彼女はなんの前振りもなく「よろしくね」と笑った。
「え、大丈夫ですか。その、上の人とか……」
「良いの良いの。気に入った子なら良いって了承貰ってるから」
気さくな態度に、緊張を解きながらコーヒーカップを持つ。クセのないすっきりとした味わいに、思わず頬が緩んだ。前のバイト先は居酒屋だったので飲食には慣れているつもりだが、カラカラというドアベルと、ひっそり置かれた扇風機の羽の音が、夜の飲食とは違った顔を覗かせている。
「じゃあ、よろしくお願いします……あ、これ履歴書で……」
「はいはい。へぇ~、百花ちゃんかあ」
女性は長い髪を耳に掛けて、私の手渡した用紙を眺める。そしてぱっと顔をこちらに向けると、「榎本です。榎本梓」と名乗った。
ちょうど、自己紹介が済んだくらいだろうか。カラカラと新しいベルが鳴った。梓がドアの方に顔を上げ、すぐに目を丸くした。少し驚いた風に見えたので、私もつられてドアを振り向く。
「安室さん、今日は早いんですね」
「ちょっと近くで用事がありまして。家に帰るには微妙な時間だったんですよ」
「なるほど~」
大きなビニール袋をキッチンに置いて、彼もまた手慣れた手つきでエプロンを羽織る。ずいぶんと目立つ風貌の男だった。言動がというより、小麦の肌やさらっとしたブロンド、とろりとした色素の薄い瞳――そしてその全てが、明らかに天然のものだと分かるような。店内でカフェオレを飲んでいた女子高生の数名が色めき立つのが分かった。
彼はその大きく垂れた目を私に向けると、軽く首を傾げる。キョトンとした表情が、少しだけ沖矢に似ていると思った。
「こちらの方は」
「百花ちゃん、明日からこの時間に入ってもらおうと思って」
「初めまして、高槻百花です」
従業員だとは分かったので、私はカウンター越しに頭を下げる。男は私の様子を見て、にこりと人当りよく笑った。
「安室です。良かった、梓さん最近大変そうでしたから」
「そうなんですよ~、もう……」
「あまり時間は合わないと思いますが、よろしくお願いします」
安室は漬けてあったグラスをきゅきゅっと磨きあげながら、唇をゆったり笑ませる。やっぱり、少しだけ沖矢に似ている気がしたのは――私の未練なのか、気がかりなのか。安室に笑い返しながら、私は部屋に飾ったパンフレットを思い出して、僅かにもやもやとした気持ちを抱えていた。