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パピヨン


 市瀬響也を一言で表すなら「音楽のサラブレッド」である。
 父は国際コンクールで上位入賞経験がある世界的なピアニスト、母はピアノの構造を知り尽くした調律師――言わばピアノのメンテナンスやチューニングのプロだ。市瀬家には音楽の存在が不可欠と言ってもいい。市瀬家では音楽も家族のような存在である。
 音楽という栄養は、響也が言葉も喋らぬうちからいつも傍を漂っていた。最も「響也」という名前には「音楽を愛する子になってほしい」という父の並々ならぬ願いが込められている。その想い通じて響也は名前の通り音楽を愛する人間に育ったが、命に関わるレベルの完璧主義と繊細な神経を持ち合わせてしまったおかげで毎日苦しいのも事実だった。しかしその痛み苦しみを和らげ己の心を豊かにしてくれるのもまた音楽――とりわけピアノだった。

「はあああ……」
 控室のモニターでどんどん埋まっていく座席を見つめながら、響也は不安の純度百パーセントの大きな溜め息を吐いた。去年の文化祭は小ホールでの演奏だったのでここまでの聴衆はいなかったのだ。何故か今年は連弾や弾き語り含めてピアノは全て大ホールでの演奏になったわけだが、正直文化祭というものをなめていた。ここまで人が集まるなんて。こんなにたくさんの視線に俺は耐えきれるのか?……と、響也は頭の中でぐるぐると考えていた。
 ――しかしピアノは弾きたい。だから頑張ろう、と自分を奮い立たせてソファから立ち上がる。開演三十分前になるのに、聴衆を気にしすぎてまだ身支度が終わっていないのだ。夕べ塗った爪のトップコートが照明の光を受けてキラキラ輝いているのを見て、気持ちの一片が切り替わったような気がした。そのままスーツの上着とネクタイを手に取って形を整える。ドレッサーに映る若きピアニストは、いつしかその顔に努力の末の自信と少しの儚さを湛えていた。
「……うん」
 誰もいない控室で鏡の向こうの自分を見据えて力強く頷く。幻想世界の深い森のような緑色をした瞳の奥には「俺の音楽を奏でるんだ」という確かな強い意志が宿っていた。再びちらとモニターを見ると、ホールはすっかり静まり返って最初の奏者が入場するのを待っている様子で、照明も暗くなり始めていた。とうとう本番だと自覚せずにはいられない。響也の手は無意識のうちにシャツの下のネックレスに伸びていた。これは高校の音楽科の合格祝いで母からプレゼントされたもので、父のほかに尊敬するピアニストのサイン入りCD、一歳の誕生日に父から贈られたトイピアノと並んで響也の宝物である。コンクールや演奏会に赴く時はこのネックレスを欠かさず身に着けて、お守りのようにしているのだ。

 ふぅ、と今度はリラックスした溜め息を吐くと、テーブルに放置していたスマホが震えた。緑のランプが響也に知らせていたのは父からの「着いたよ。楽しんでね」という短いメッセージだった。ありがとう、と一言返信するなり控室のドアが開き、同級生の女子が「市瀬くん、そろそろ出てきて~」と顔を覗かせる。外からは司会の案内が聞こえていた。
「はい、今行きます」
 実はこの演奏会の一番手こそ響也である。これから演奏するのはショパンのポロネーズ第六番――英雄ポロネーズの名称で親しまれている人気の曲で、テレビのコマーシャルなどに使われることもあるからか一般の知名度も高い。響也が英雄を初めて弾いたのは中学生の頃だったが、さらに表現の方法を模索しようと毎日一回は通して弾く曲だ。ラヴェルやドビュッシーたちに対して抱くものとはまた異なった思い入れのある曲を、これからこの大きなホールで演奏する。
「本日はどうぞ、心行くまでお楽しみください」
 反対側の舞台袖に下がっていく司会を見送って、響也は表に出た。大勢の聴衆を前にピアノを奏でた経験は何度もあるが、いざステージに上がるとやはり緊張はする。ぶり返した不安を殺すように腰を折って礼をすると、響也を歓迎する拍手でホールが満たされた。そして今度は軽くなった気持ちで顔を上げれば、偶然視線の先に両親の姿を捉えた。本当に来てくれたんだ、と嬉しい気持ちが湧き上がるのを確かに感じて、いよいよピアノの前に鎮座する。ツヤのある美しいピアノだった。
 指の腹を合わせて数秒じっと鍵盤を見つめるのは昔から変わらない精神統一のための仕草だった。そして再び一息、ペダルに足を、鍵盤に指を乗せて、響也の「英雄」を過不足なく表現した。直接体に当たるライトの強い光も忘れて夢中で奏でた。威張るように闊歩する英雄ではなく、荘厳で品のある英雄を目指している響也は、その志と音楽への愛を華奢な指先から音色に強く込めて演奏した。スタスタと急ぎ足で階段を昇るような半音階の上昇に合わせて響也の気持ちも上へ向かっていく。呼気に混ざって幸せそうな笑みがこぼれた。
 音楽って本当に楽しい――いつしか緊張も完全に忘れて、響也は目の前の音楽をひたすら楽しんでいた。本人は微塵も考えていなかったが、この日英雄は確かに聴衆の心を射止めていた。一等星のように輝き、夜空を彷彿とさせる壮大な演奏だった。

 再び割れんばかりの拍手に包まれて舞台袖に下がった後は、再び控室に戻ってスピーカーから聞こえる同志たちの音色に耳を傾けていた。自分の物とは異なる技巧や表現に注意して聴くことは特にせず、響也の頭はただ「いいな……」という率直な感想で満たされていた。
 プログラムが終わる頃には一足先にホールを出て、響也の足は日当たりの良いラウンジに向かっていた。文化祭ということで普段よりずっと人がくつろいでいたが、四階の大部分を占めるラウンジなのでちらほら空いているソファーが目に入った。とりあえず座るか、と自販機の前のソファーに腰を下ろすと、低反発素材の座面にゆっくりと体が沈んでいくのが心地良くて口元が緩んだ。スーツのまま戻って来たのでカラフルな装飾の中にフォーマルで真っ黒な響也は変に目立ったが気にしない。周りの目を気にするよりも先にやることがあるからだ。
 引っ張って来たスーツケースからタブレットを取り出し、右耳にイヤホンをはめて父から送られてきた先程の演奏の録画を再生する。帰ってからもまたじっくりと振り返るつもりだが、今日の演奏がどのようなものだったのかざっと確認しておきたい響也は賑やかなラウンジで再生ボタンをタップした。丁寧に入場から退場までしっかりと収められていて妙に恥ずかしい。そして曲が始まると、自分の成長を実感しつつも「この部分はもう少し研究したいな」「ここの小指いつもの癖が出てる」「ていうか何で俺こんなニヤニヤしてるの……?」と様々なことを考えた。途中左隣にモデルのように磨きがかったスタイルの見知らぬレディが座ってきたが、響也は彼女が声をかけてくるまでタブレットの中の己を注視していた。

「あの……」
「……えっ? あ、はい」
「市瀬響也さんですよね? さっき大きなホールで一番最初にピアノ弾かれてた……」
 沈みゆく陽の光を受けた月のように黄金色に染まった彼女の瞳が、じっと響也を見据えていた。
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