駅に併設されている喫茶店で紅茶を飲みながらサンドイッチを咀嚼していた納緒子は、テーブルの上に放置していた携帯が震えて這いずり回るのをしばらく見つめてから、ようやく電源ボタンを押してその画面を注視した。通販や大学からのメール以外で個人的な通知など一人を除いて滅多に来ないので、納緒子は少し緊張していた。
「なおちゃん! 今日はお暇ですか?」
 メッセージを開くと、その文面で可憐な少女が喋っていた。彼女が満面の笑みで首を傾げてこちらの返事を待つ姿が容易に想像できる。――紫乃はいつも笑顔だから、むしろ笑顔でないときの表情を想像する方が難しい。
 納緒子はただ一言「暇」とだけ打って素早く返事をした。今日は金曜日、授業は午前中ですべて終わり、明日からは卒論に打ち込む夏休み。いつもなら「課題が忙しい」「調べ物をする予定があるから無理」などと理由をつけて紫乃の誘いを断るが、今は本当に暇なので正直に答えた。そして納緒子がティーカップに口付けようとしたところに、すかさず紫乃が返事を寄越してきた。
「これから一緒にショッピングしませんか?」
 ショッピングか――と納緒子は何とも言えぬ気持ちになった。納緒子はてっきり勉強会だとか、参考書を見繕うために書店に行こうというような「真面目な」紫乃に付き合うつもりでいたのである。それだけに普通のショッピングに誘われるのは意外だったが、紫乃がまだ青春真っ盛りの高校生であることを思い出したら腑に落ちた。
「いいよ、何時集合にする」
「わたしはもう準備できてるから、何時でもいいよ!」
「そう。それならあたしもすぐ行く。集合はいつもの駅ね」
「わかりました~!」
 納緒子の無機質で素っ気ない文面とは対照的に、紫乃の文面はふわふわとした声が聞こえてきそうなくらい緩い。そんな緩さに拍車をかけるように緩い表情の猫のスタンプが送られてきた。今日はもう特に予定はないから午後は帰って本でも読みながら時間を潰そうと考えていたので、結局納緒子は紫乃の誘いが嬉しかった。表情には全く出ないが、納緒子の心はきらきらと輝いて「嬉しい」という気持ちに満ち溢れていた。この気持ちは後で「うれしきもの」のリストに列挙してもいい。
 さて、久しぶりに人とショッピングに行くわけだけど、新しい店ができたりしているかな、書店に面白そうな新刊はあるかな、紫乃は元気にしているかな――と、まるで青春を謳歌する少女のように考えながら、人生最後の夏休みを目前に控えた納緒子は残りのサンドイッチを元気よく咀嚼した。


「なおちゃーん!」
 駅に着くなり、わかりやすい場所にいるのに紫乃が大きく手を振っていた。手を振られてるこっちが何か恥ずかしいんだけど、と戸惑う気持ちはどこかへ追いやって、納緒子も小さく手を振り返した。夏の鋭い日差しに射抜かれた真っ白なセーラー服が眩しい。
「制服じゃん。学校帰り?」
「そうなのです! 友達は一旦帰ってからお友達とお出かけしたりだとか、学校に残って自習室に行っちゃったのですが、夏休みを初日から楽しむ気満々のわたしはなおちゃんをお誘いして制服でショッピングしちゃおうと思いまして!」
 えっへん、とでも言うように胸を張る紫乃の姿が、四つ年上の納緒子にはやけに子どもっぽく見えた。
 紫乃が通っている高校は超名門のお嬢様学校で、かつ毎年ハイレベルな大学へ進学する生徒を何名も輩出しているような進学校である。実は納緒子も紫乃と同じ高校の出身なのだが、紫乃のように青春を満喫した記憶があまりない。放課後は校門が閉まる時間ギリギリまで自習室に籠って勉強をするか、図書室でずっと本を読んでいた。終業式やテスト期間のような早く帰宅できる日も、さっさと家に帰って一人で過ごしていた。何だか楽しそうな紫乃とは対照的な学生生活だったかもしれない。
「まあ……初日くらいはね?」
「そうだよね! わたしね、今年の夏休みは、初日はいっぱい遊ぶぞ~!って決めてたんだぁ」
 今年高校三年生になる紫乃は、春からずっとこれまで以上に勉強に力を入れていた。きっと夏休みも勉強漬けの一か月半を送るのだろう――それを考えると、今日だけは思う存分遊ぼうと浮かれている紫乃に余計なことを言う気は起こらなかった。
 じゃあ行こうか、と一歩踏み出す。


「で、ショッピングってことは何か目当てがあるわけ?」
「特にないです!」
「ノープランかよ」
 建物の中は冷房が効いていて涼しかった。熱い肌がじわじわと冷やされていく感覚に浸りながら、二人同じ歩幅で歩く。納緖子の隣を歩く紫乃はきょろきょろと目配せしながら納緖子と会話を続けていた。
 駅を出てすぐ近くにある新しいショッピングモールということもあって、平日の午前中でもそれなりに人がいた。制服姿の少年少女もちらほら見かけるので、今日が終業式だった所も多いのかもしれない。紫乃と同じ真っ白なセーラー服は全く見かけなかったので、納緒子はもし運悪く巡回中の教師に会ったら、可愛い紫乃のために「姉です、参考書選びに付き合っているところでして」と言ってやり過ごそうと考えていた。あの学校はやけに過保護なうえ、よく学生が集まりそうな施設を私服で見回っているので正直面倒くさい。エスカレーターに乗っている間も、対向する下りの方から教職員のような雰囲気の人間がこちらを見ていないかと、納緒子は会話のための口を動かしながら頭の隅ですれ違う人間たちを悉く観察していた。
「でも……せっかくだから本屋さんに行きたいです。新刊も気になるし、何よりなおちゃんが普段どんな本を読んでいるのか気になります。おすすめがあれば教えてほしいな!」
「元々何でも読むけど、最近はそうだな……写真集。ド定番だけど夜空とか良いよ」
「いいですね! わたしも晴れた夜はベランダに出て空を眺めたりするけど、写真で見たらきっともっと綺麗なんだろうなぁ」
 そりゃそうだよ、良いカメラで撮るんだから――という少し冷たい言葉は飲み込んだ。代わりに「あたしたちの目がひどく悪くなってるだけで、星はどこでも写真集みたいに細かく燦然と輝いてる」と念押しするように口を開いた。
「えへへ。そういう風に言えるなおちゃん、素敵です」
「何感心してんの……別に語録とか作る気ないけど」
「でも、とても心に響きました。スッと腑に落ちる感じ」
「あっそ……」
 やっぱりそのままカメラの性能を理由にしてもよかったかも、と納緒子は思った。エスカレーターを三階で降りると、目の前に最近改装した書店がそびえている。いつ見てもここの書店はショッピングモールに入っている割には大きいと、二人は感じている。
 この書店でまず目に入ってくるのは、新刊と話題書、売れ筋ランキングのコーナーだ。納緒子の方はこのランキングのコーナーを店舗ごとに見比べるのが好きである。納緒子の場合、店舗によって順位が異なるところに面白さを見出しているわけではなく「この店舗はこういう趣味嗜好や思想の人間が多いわけね」とランキングを基にした人間観察の材料としてうってつけだという点が面白くてたまらないのである。
 一方の紫乃は新刊や話題書の棚を流れるように眺めつつも、ぽつんと入り口に設置されている見慣れないテーブルが気になっているようだった。
「ねぇなおちゃん、あれ……」
「ん?……お、あれは……老舗の香だね」
「やっぱり!……なるほど、老舗の出張ブースなんですね。それにしても何だかここだけいい匂い……」
 色とりどりのパッケージと、火を灯さずとも漂う微かな薫香にうっとりしている紫乃を横目に、納緒子は早速テスターを色々手に取ってはその香りを堪能していた。
「ロータス……蓮か。ちょっとスパイシーだけどいい匂い」
「すごい……! なおちゃん、さては通ですねっ!? お香を聞く時の所作がとても奥ゆかしいです」
「まあね。……これ、紫乃好きそう。どう?」
 納緒子の手からテスターをそっと受け取り、柴乃も納緒子を真似してそっと鼻を近付けですぅーっと深く息を吸い込んだ。
「わ……! 甘い匂いです。何だろう……フローラルだけど少し重厚感がある気も……」
「鋭いじゃん。フローラルなムスクってパッケージにあるよ」
 スッと紫乃の前にパッケージを差し出す納緒子の指は華奢で長い。紫乃は香を堪能しながらその指にも見惚れていた。テスターを置いて納緒子の手からガラスで出来た筒状の入れ物を受け取ると、濃紫色の手ごろなサイズの線香が頭を揃えながらカランと音を立てて転がった。
「ムスク……ジャコウジカの器官から抽出できるあれですね。そのままだときついアンモニア臭を放つようですが、香りのアクセントに少量加えるだけで途端に芳香に変わってしまうとか」
「え、詳しいね?」
「以前何かの本で読みました! 確か……地域コミュニティで聞香の体験に参加するときだったかも」
「そんなのあったんだ……行きたかったな。もっとアンテナ張っとかないとね」
 納緒子が少し寂しそうに眉を下げたのを紫乃は見逃さなかった。すかさず「大丈夫です! よ~く覚えてるので今からでもお話できますよ!」と笑って見せると、納緒子の表情も明るくなった。
「ありがと。じゃ、あとで聞かせて」
 生き生きとした表情で意気込む紫乃が納緒子には眩しかった。その陽の気に当てられたからか、納緒子の方も「よし!」と思い切って「紫乃、気に入った香りがあったら教えて。プレゼントしてあげる」と気前よく言葉を続けた。
「えっ!? でもそんな、悪いです……い、いいんですか?」
「ずっと勉強頑張ってるし、明日からはこれまで以上に頑張るつもりなんでしょ。休憩タイムとか、寝る前のお供にしてよ」
「なおちゃん……! ありがとう!」
 紫乃が勢いよく頭を下げると、綺麗に鎖骨のあたりで切り揃えられた射干玉色の髪と髪飾りのリボンの赤がふわりと空気を孕んで膨らんだ。そして頭を上げた紫乃は再びテーブルの上の香たちに向き直り「どうしよう……」と目を輝かせて楽しそうに悩んでいた。
 そうしてしばらく悩んで紫乃が「これにします!」と決めたのは、納緒子から手渡されたフローラルなムスクの香と、桜の香だった。納緒子は密かに紫乃がどれを選ぶか予想していたのだが、寸分狂わず予想通りだったので、思わず「紫乃らし~」と笑った。紫乃の方も「予想通りでしたか? なおちゃん、わたしのこと何でもわかっちゃうもんね」と笑みを絶やさない。


 それから書店の中をぐるっと一周して、納緒子は好きな作家の新刊を、紫乃は受験勉強をさらに充実したものにするために日本史の参考書と文房具を手に取った。次はどこを見ようかと書店を出たところで紫乃の腹の虫が可愛らしく鳴いたので、二人はその足で併設されているカフェに入った。
「紫乃、好きなもの頼みなよ。あたしの奢りだから」
「お茶菓子まで!? い、いいんでしょうか……」
「あんたは勉強も頑張ってるし徳も積んでるからいーの」
 あと人が何か食べてるところ見るの好きだし、と一言付け加えながら納緒子はメニューを手渡した。紫乃はメニューを追いかけながら、ふと「あれ、わたし……もしかして今日なおちゃんの懐にずっとお世話になってる……?」と頭の隅で考えた。そうしてページを捲る手が止まったのを、もちろん納緒子は見逃していなかった。
「ね、マジで遠慮しなくていいから」
「本当に……ありがとうございます」
「お礼はあんたが今書いてる連載の最新話でいいよ。こないだの更新分すごく面白かった」
 納緒子の純粋な褒め言葉を聞くなり、一瞬下がりかけた紫乃の頭が再び上がる。メニューの中で宝石のように輝くケーキや甘い匂いが紙面を飛び出して漂ってきそうなクッキーよりも、紫乃がサイトに連載している長編の続きを期待する納緒子の言葉の方が、紫乃の目には形を持って輝かしく映った。かの清少納言は「星はすばる」と綴っていたが、まさに冬の空の一等星のような眩い輝きを放ち得る明るい言葉だった。
「うれしい……! なおちゃんがわたしの小説を読んでくれているっていうのは話ごとに寄せてくれる感想のペンネームで知ってたけど……面と向かって言われるともっと嬉しいです」
 紅潮した頬を両手で包んで照れる紫乃を見て、悪戯っぽい納緒子は「なら具体的に言おうか?」と切り出し、お冷が運ばれてくるまで延々と紫乃の小説の感想を述べ続けた。次第に紫乃がメニューを盾に顔を隠し始めると、その仕草が可愛くて優しく口角が上がった。
 紫乃と待ち合わせをするまで喫茶店でサンドイッチを食んでいた納緒子はブルーマウンテンブレンドのコーヒーを、紫乃はショートケーキと紅茶のセットを注文して再びお喋りに花を咲かせる。
「次の更新いつだろうって読む度に考えてんだよね」
「ふふ、実は近々上がります」
「マジ? あたし藤本くん推しなんだけどさ、最新話でちょっと不穏な感じだったから次の更新でどうなるかすごいドキドキしてる……」
 紫乃がサイトで連載している長編小説『片桐ゆかりは傾かない』は、紫乃が高校一年生の夏から書き始めた創作恋愛物語である。連載当初はまずまずの人気だったのだが、今となってはその天才的な文章力と緻密なストーリー構成、張り巡らされた伏線とその回収の仕方が話題になり、更新のたびにデイリー閲覧ランキングのどこかにはランクインするという人気ぶりである。
 そんな『片桐ゆかり』を、納緒子は連載スタート時から愛読している。昔から紫乃が書いた小説を読ませてもらうことはあったが、第一話を初めて読んだとき、率直に「これは人気出る」と思った。実際その通りになったので、紫乃のことをずっと応援していた納緒子は紫乃の作品が大勢のユーザーに読まれて人気になっていくのが自分のことのように嬉しかった。
「藤本推しなんですね! これまでも『藤本くんがかっこいい』と感想を寄せてくださる方は多かったので、藤本も喜んでいるかも……!」
 藤本がどうなるかはぜひ次の更新をお楽しみに!と紫乃が笑ったところで、ケーキとコーヒーが到着した。二人で「いただきます」と手を合わせ、紫乃は早速フォークを手に取って甘い崖を切り崩した。そしてゆっくりと咀嚼すると、イチゴの酸味と甘いクリームが舌の上で絡み合って幸せな気持ちになった。
 

 楽しいお喋りは絶えず続いたが、ふと納緒子が神妙な面持ちで「紫乃」と切り出したとき、二人が座っているテーブル席の周りだけ微かに空気が変わった。
「ちょっと考えてたんだけどさ。何で夏休み初日っていう特別な日にあたしを誘ったの」
「えっ? それは、真っ先に思い起こされたのがなおちゃんだったから……」
「あんた他に友達いないの?」
「い、いますよ!……いるけど、わたしの一番のお友達はなおちゃんだから……」
 だからなおちゃんと一緒に思い出を作りたくて、とだんだん声を小さくしながら紫乃は答えた。言い終えるなりずっと持っていたティーカップを唇に当てて、入っているのはアイスティーであるにもかかわらず、熱い紅茶を飲むときのような仕草でちびちびと飲み始めた。しばらく返事をする気はなさそうだと読んだ納緒子もそれ以上何も言わなかったので、しばらく二人の間に沈黙が鎮座した。
 紫乃と納緒子は歳こそ離れているものの、小さい頃近所の公園でよく遊んだ仲が今日まで続いている。図書館に行って二人で紙芝居や絵本を読み聞かせ合ったり、お互いの家の本棚から本を貸し借りして楽しんだこともあった。最近も「紫乃が二十歳になったら一緒に酒飲むか!」と、納緒子の方から半ば一方的な約束もした。
「……なんかごめん、変なこと聞いたわ」
「い、いえ、お気になさらず。あの……なおちゃんさえ良ければ、今度はわたしの進路が決まった後に、今日みたいにショッピングとか、寺社巡りとか……行きたいな……」
 もじもじと言葉を紡ぐ紫乃を見て、納緒子は目を丸くし、そして安心した。てっきりさっきの「あんた他に友達いないの?」という言葉で紫乃に少し嫌われたと思っていたのだが、紫乃は優しかった。むしろ他に友達がいないのは納緒子の方だった。
「いいよ、行こ。もし今日お香に興味持ったなら、あたしおすすめのお香ショップ一緒に行くのも楽しそう」
「えっ! いいですね、行きたい……! なおちゃんと一緒なら、きっとどこに行っても楽しいよ!」
 紫乃がパッと笑った。納緒子の方は紫乃の明るさに焦がされるような心地さえした。はは、と笑って先程から動揺する気持ちを隠しながら、納緒子も「ありがと」と小さく呟く。
「でも今日はせっかく大きいお店に来ているので! 次は雑貨や服を見たいな……」
 ケーキと紅茶を腹に収めた紫乃は笑みを絶やさず、丸い目を納緒子に向ける。いいじゃん、と納緒子が相槌を打つと、再びパッと表情を明るくして嬉しそうにする。もう十八歳なのに、まだまだ子どものようだった。
「それじゃあ早速行きましょう! なおちゃんと一緒にいると時間が経つのがあっという間だから……えへへ、今日は本当にいい日だね!」
 立ち上がった拍子に真っ白なスカートが揺れる。納緒子も立ち上がって、何となくその眩しい制服にケーキのカスが付いていないかぐるっと見渡した。紫乃は普段から素行が良いので、制服には汚れ一つ見当たらない。納緒子が動かないので、紫乃が「なおちゃん、行こう!」と笑顔で急かす。

「あたしも久しぶりに『いい日だな』って思えたかも。誘ってくれてありがとね」


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