「今日はさぁ、髪型変えようと思うんだよね」
 ドレッサーの前でアイシャドウを選びながら静が口を開いた。今日は授業がない九郎は静の声がするなりゲームをするタブレットから目を離して、艶やかな長い黒髪が目を惹く後ろ姿を見つめた。
「良いと思いますよ」
「どんなのがいいかなぁ」
「静は可愛いから、何でも似合うでしょう」
「そのふわふわした答え方やめてよ、決められないじゃん!……嬉しいけど」
 振り向いた静の表情は満更でもない顔だった。口を尖らせてはいたものの、九郎が発した「可愛い」という言葉はとても嬉しかったようで、まだチークを塗っていない頬がほんのり桃色に染まっていた。まるで乙女のような仕草を逐一見せてくれる静が愛おしくて、九郎は終始口端が緩んでいた。
「では、僕とお揃いにするのは?」
「ポニテってこと?」
「そう」
 間違いなく可愛いよ、と念押しするように続ける。そしておもむろに立ち上がった九郎は静の髪を手に取って感嘆するような溜息をつきながらその感触を楽しんでいた。
「髪フェチかよ……」
 鏡越しに九郎の表情の変化を見ていた静が少し顔を歪める。
「そんな顔しないでくださいよ、君さえ良ければ、結んで差し上げますよ」
「じゃあ、お願い」
 静に手渡されたブラシとヘアゴムを手に取り、九郎は早速ブラシの目を静の髪に通した。寝癖直しは済ませているのか、長い髪は全くブラシに引っかかることはなく、流れるように静の髪を整えていった。
「本当に綺麗な髪ですね」
「でしょ」
 ふふん、と自慢げに静は笑った。九郎がブラシを手に取っている間に静のメイクはかなり進んでいて、二重が麗しい瞼には小さな星がいくつも乗せられて輝きを放っていた。静の深紅の瞳の色に良く似合う色だった。
「結ぶ位置はどうしますか? 耳より上でいいかな」
「あんたとお揃いにするって言ったから、あんたがいつもする感じで結んでほしい」
 いつもこの辺で結んでるよね?と後ろに伸びてきた静の白い手が、髪を束ねている九郎の手を掠めるように触れた。そうして初めて気づいたが、静の爪が一晩のうちに鮮やかな赤に塗り替えられていた。昨日までは自然な爪の色だっただけに、九郎の目には赤が刺さって眩しかった。
「うん、それじゃあここで結ぶよ」
「ありがと。……かわいくしてね?」
 瞬間、九郎の心にドガーンと大胆な音を立てて荒々しく雷が落ちた。あまりの衝撃に髪を結ぼうとする手が止まり、そのまま力が抜けていく感覚がした。はらはらと九郎の手から滑り落ちていく自分の髪を見て、静は怪訝そうな表情を浮かべてついに振り返る。
「……どうしたの?」
 九郎は黙ったままで微動だにしない。しびれを切らした静が胴を小突くと、やっと顔を上げた。そして顔を上げたかと思うと、九郎は静の華奢な肩を両手で掴み、その目をじっと見据えた。
「君って本当に心臓に悪い。僕におしゃれを任せてくれたかと思うと可愛い顔して振り返って、いつでも可愛いのに『かわいくしてね?』なんて言うからもう本当に駄目だ、愛おしすぎて胸が破裂するかと思った」
 九郎は色々と早口で言っているが、要約すると「可愛い」だけで済む薄っぺらい内容だった。珍しく九郎が顔を赤くしている姿にぽかんと見とれていたら、肩を掴む手はそのまま九郎の方へ引き寄せられ、静の頭が九郎の胸に収められた。
「ちょっと」
「可愛いね……」
「九郎あのね、それはそれでめちゃくちゃ嬉しいんだけどさ、あと十分で出たいんだよね……あんたが髪結んでくれたら、もう支度終わるんだけど」


 色々あったが、その後静は何とか予定通りの時間に家を出ることができた。いつもの金曜日より早い時間に出発したので、歩いていても呑気なあくびが出た。今日は授業で使う資料を完成させるために図書館に行って調べ物をしようと決めていたが、夕べその準備が終わってからずっとファッション通販のサイトを見ていて少し寝不足がちだ。およそ十歩進むごとに一回あくびが出るくらいには睡眠が足りていなかったようである。
 九郎が結んでくれた髪を尻尾のように揺らし、ふぁ、ふぁ、と涙がこぼれそうなくらい間抜けな声を出しながら電車に乗る。最寄駅から大学までは乗り換えなしでおよそ二十分かかるのだが、今日は立っていてもこの眠気に二十分耐えられる気がしない。
 ボリューム大きめのロックを聴いたら目が醒めないだろうかと思い立ってイヤホンを耳にはめてお気に入りのアルバムを再生してみたが、やはり眠気は静にまとわりついて離れなかった。ドアに寄りかかっても、吊革に掴まっていても瞼を完全に閉じてしまいそうだったので、静は大学の最寄り駅に着くまで仁王立ちで慣性に身を任せていた。
 そして途中、前に座っていた男が立ち上がる拍子についにその頭を不自然な角度に曲げて静の下乳に突っ込んで来ようとしたので、静は少し後ろに退いて回避した。この男は静が前に立つなり何度も顔と胸を交互に見つめては、暑い夏には不格好なマスクの下で口角を吊り上げていた。マスク越しとは言えど、向けられるあらゆる視線に敏感な静はそれにすぐ気付いてわざと大きな溜め息を吐いた。
 おかげでその時完全に眠気が飛んでいった。そこはまあいいでしょうと、静は寛大な気持ちで発車を待つ。前の席は空いたが、あと二駅で大学に着くので隣に立つOLに譲った。
 ふと目の前の広告に「米」という字が印刷されているのを見て、静の目が開かれる。寝覚めが悪くてぼーっとしている時間があったせいで、炊飯器を仕掛けてくるのを忘れていた。手に持っていたスマホの画面を点け、九郎宛てに「お米研いでおいて」とだけ素早く送る。そして間もなく既読の二文字が付いた。
 ――わかりました。今日は授業ないので、やれることはやっておきますね。
 ただの文章から九郎の柔らかい声が聞こえてくるようで、思わず静の赤い唇がわずかに緩んだ。こちらも声を出すように口内でゆっくりと舌だけ動かしながら「ありがと」と返す頃には、ちょうど大学の最寄り駅に着いて電車が減速し始めていた。
 外は暑いんだろうなぁ、と溜め息を吐くと、再び「ふぁ」と小さなあくびが出た。

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