便利屋結ちゃん

「ただいま~」
 二人でしばらく談笑していると、玄関の方から草履の音とともに清らかな神気が漂ってきた。散歩に出ていた「銀ちゃん」が帰ってきたのだ。
「銀雪さんかしら」
「ちょっとメスっぽい声してるからそうだね」
 結が声を張って「おかえりー」と言うなり、素人には感じ取れない神気を纏った銀雪がぴょこりと二人の前に姿を現した。白い大きな狐の耳に艶やかで健康的な黒髪、ふさふさの大きな白い尻尾――黒髪以外の要素が、銀雪が完全な人間ではないことを象徴している。
「あら、夏芽ちゃん? 久しぶりね」
「ええ、そうね。ごきげんよう」
 夏芽が微笑んで会釈をすると、銀雪も「うふふ、ごきげんよう」と返した。何だか楽しそうである。
「何これ、セレブか何かの挨拶?」
「私はともかく、銀雪さんは狐のランク的にはセレブかもしれないわね」
「白狐ですもの、気品も能力も尻尾も二流よ」
 そこは一流じゃないんだ――と結は心の中でツッコミを入れたが、確かに銀雪は「白狐」という肩書に相応しい素質を持っているのでそれ以上は何も考えないことにした。狐にもいろいろいるが、白狐の上には「空狐」や「天狐」と呼ばれる極限まで神威の高まった狐もいると銀雪から聞いたことがあった。
「銀雪さん、どちらまで行かれていたの?」
「お散歩のついでに歌響院さんちにお邪魔してきたのよ」
「は!?」
 銀雪の発した「歌響院さんち」という単語に結は食い付いた。歌響院というのは由緒正しい歌人の家系を継いでいる一族のことで、日本の古典文学の研究は歌響院なくして発展しないとまで言われている。結はその歌響院家の当主である硝子(しょうこ)と仲が良く、しばしば遊びに行っては共に読書をしたり、国語の勉強に付き合ってもらったり、お互いの家から出てきた古文書を交換して読み深めたりしているのだ。――結に断りなく硝子さんに会ってきた銀ちゃんが羨ましい!
「そうなの。それでね、これは硝子さんから結ちゃんにって頂いたのよ。たくさんあるから夏芽ちゃんもどうぞ」
 銀雪が結に手渡した質の良い紙袋の中には、達筆で「結へ」と書かれた小さなメッセージカードと、結行きつけの和菓子屋の甘い餡子がぎゅっと詰まった饅頭に、小瓶に入った金平糖、透き通ったぷるぷるのわらび餅が入れられていた。結と夏芽の口から同時に「ほぅ……」と溜め息が漏れる。
「それじゃあ、あたしは冷蔵庫に入れておいた水羊羹をいただくことにしましょうね」
 うきうきと冷蔵庫に向かっていく銀雪を見て、金平糖を摘まむ結の手がピタリと止まった。ざあっと鳥肌が立ち、心の中で銀雪に謝り倒した。そうか、あの水羊羹、どこかで見たことあるロゴだなあとは思っていたけれど、銀ちゃんお気に入りのお店のだったのか……ごめんごめん……と。

「ほんっとうにごめん」
 大好きな水羊羹を食べられて拗ねてしまった銀雪は、手を合わせて謝る結に時折視線を移しながら、ぺしぺしと畳に尻尾を打ち付けてそっぽを向いている。
「別に、怒ってません」
「ほんとかなぁ……」
 結は銀雪の顔色を窺いながら「明日硝子さんち行った帰りに買って来るからそれで許して……」と続けた。銀雪も「約束よ」と念を押し、この話は終わった。
「ねぇ、結……」
「うん? 夏芽は何も悪くないから気にしなくていいんだよ」
 羊羹のことを気にしていそうな夏芽に、結は笑顔を見せた。それを見て夏芽もホッとしたようで、あからさまに腹をさすりながら「銀雪さん、とってもおいしかったわ」と微笑んだ。
「まあ……お二人さんが楽しそうだから、もういいわね。ごめんなさい、あたしもちょっと大人げなかったわ」
 銀雪は尻尾を落ち着かせたが、今度は何かを思い出したような「あ」という間抜けな声とともに立派な狐の耳がピコンと立った。
「どしたの銀ちゃん、洗濯物はまだ乾いてないけど」
「そうじゃないわ……お客様に出してからこんなこと、不躾なんだけど……歌響院さんにいただいたお菓子、一つずつ貰っていっていいかしら?」
 そわそわ落ち着かない様子の銀雪に合わせて再び大きな尻尾が揺れ始める。事情を察した結と夏芽は頷き、同時に「いいよ」「断る理由がないわ」と笑顔を見せた。
「ありがとうね」
 銀雪も笑って、詰め合わせのお菓子を一つずつ持って再び外に出ていった。一途な彼がどこへ行こうとしているのか理解している二人は静かになった涼しい部屋で顔を見合わせて、また笑った。同い年の少女の他愛無い会話に花が咲いていく。
「銀雪さんって、本当に素敵な方だわ。私、銀雪さんみたいな人と結ばれたい」
「う~ん結もわかる! 今でもこんなに好き好きアタックされてるご先祖様がちょっと羨ましいかも!……」


 青春真っ盛りの少女たちを不覚にもときめかせた白狐が向かったのは、狐塚家の母屋の裏にひっそり佇む先祖の墓だ。もはやオブジェのような佇まいの苔生した岩の下に、狐塚の先祖が眠っている。狐塚の先祖にも色々いたわね、と回想しながら、銀雪はマッチを擦って線香の煙を立たせ、お土産の茶菓子を共に供えた。手を合わせて目を瞑ると、在りし日の像が鮮やかな色で彩られたまま浮かび上がってくる。
「毎日暑くて、嫌になっちゃうわね。昔はこんなに暑くなかったのに」
 銀雪の口は自然と開いた。その表情は柔らかく、じっと一点を見つめる眼差しは母のような慈愛に満ちている。
「今年のお盆も早く帰ってきてくださいね、宗仁さん」
 銀雪が今もなお慕う宗仁というのは江戸時代末期を生きた狐塚家の陰陽師のことで、暇さえあれば思い出しているというくらいには銀雪は宗仁に惚れ込んでいる。退屈そうな結に惚気話を延々と聞かせることもしょっちゅうだが、先祖のことを知りたがっている結にとっては嬉しい話のようで、二人して恋愛話に花を咲かせる女子高生のようになることも多い。
 地面から立ち込めるジワジワとした不快な熱と、銀雪の気持ちを汲まない蝉の合唱が絶えず銀雪を取り巻くが、銀雪は今日も気が済むまで苔生した先祖に語りかけていた。結のこと、現代の社会のこと、銀雪自身のこと、あの時打ち明けられなかった本音――気付けば玄関の方で結と夏芽が名残惜しそうに別れの挨拶を交わす声が聞こえるまで時間が経っていた。微笑みを崩さずちらっと視線を玄関の方に向けるなり、やはり自然と口が開いて言葉を紡ぐ。
「とっても素敵よね。何だかあたしたちみたいじゃない?」
 ああ、と低く肯定する声は、銀雪の頭の中でしか響かなかった。

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