のべるばーまとめ
ふう、とひと息ついて、アタラムは眉間を揉んだ。もうどれだけの時間、書類と向き合っていただろう。肩をぐるりと回せば骨が軋む。南の空高くにあったはずの太陽は傾き、窓ガラス越しに背中を照らしていた。
机の端にはまだ書類が積みあがっている。国王が他国に赴いている現在、民からの陳情だとか、貴族からの要望書だとかに目を通すのは、宰相たる自分の役目だ。しかし昼食を摂って以降、ようやく書類の山が低くなったと思った直後に追加が来た。あの瞬間、終わりが遠のいたのを悟った。
「……休憩するか……」
頭上で指を組み、ぐんっと腕を伸ばす。
こつこつ、と扉が音を立てたのは、その直後だった。
「失礼します」遠慮がちな響きが耳を打つ。妻の声だ。「アタラムさま、少しお時間よろしいですか?」
「ああ。構わない。入ってくれ」
促してすぐ、彼女は扉を開ける。隙間から顔だけ覗かせて微笑む姿は愛らしい。疲れを少しだけ忘れられ、つられてこちらまで笑顔になる。
アタラムが手招くと、妻は両手を後ろにしてとことこと歩いてきた。黒髪を後頭部の高い位置でくくり、飾り気のないドレスにはエプロンを重ねている。
「お仕事中に申し訳ありません。お邪魔してしまいましたか?」
「いや。ちょうど今から休もうと思っていたところだ。気にしなくていい」
アタラムは椅子から立ち上がり、彼女の頬に軽いキスを落とした。その瞬間、ふわりと甘い香りが鼻先を掠めていった。
「今日のあなたはずいぶん美味しそうな香りがするな。食べてしまいたくなる」
「食べるのなら、こちらをどうぞ」
妻は少女のようにはにかんで、後ろに回していた手をこちらに差し出してくる。
背中に隠していたのは四角いバスケットだったようだ。受け取って上にかかっていた布を退かすと、先ほどの芳香がより強くなる。
「カップケーキか」
「この前、王妃さまと一緒に作ったんです。本当はその時にアタラムさまに食べていただきたかったんですけど、陛下と一緒に隣国に行かれていたので」
「改めて作ってくれた、と? 俺のために?」
「もちろんです。作り方を覚えているうちに、と思って」
カップケーキは四つ入っていた。生地がほのかに紫に色づいた方はブルーベリー味、黄色みの強い残り二つはマロンだという。いずれも二つずつ用意してくれたようだ。
書類をいったん片付けると、妻は机の上にカップケーキを並べていく。アタラムはその間に、先日手に入れたばかりの茶葉に湯を注いだ。
「なんのお茶ですか?」
「西の方に、とある貴族の領地があるだろう。最近そこで栽培に成功した新種の茶葉を使った紅茶だ。まだ市場にはあまり出回っていない貴重な品だよ」
妻の目が興味深そうにキラキラと輝く。早速ティーカップに注いで渡すと、すんすんと香りを確かめていた。
「なんでしょう、ラズベリーに近いようなにおいですね」
「あなたが作ったカップケーキと合えばいいんだが。早速いただくよ」
アタラムはまずブルーベリー味のそれを手に取った。一口咀嚼すれば、バターの甘みとブルーベリーの酸味が舌に広がる。
食べ進めてみると、潰れていない実が中に潜んでいた。ぷち、と歯で押しつぶすと食感も楽しめて面白い。マロンの方も同様に大きな実がごろりと贅沢に一粒使われていて、たまに見る妻の大胆さが表れているな、と楽しくなった。
彼女はカップケーキを味わいつつ、紅茶にも口をつけている。
「どうかな。合いそうか?」
「すごく合います! 紅茶自体に少し渋みはありますけど、ケーキが甘いのでちょうど良い感じですね。実はバターの量を前より多くしてしまったので、味がくどくなってるかも、と思ったんですけど、紅茶が相殺してくれてます」
「喜んでもらえて良かった。――そうだ。実はこの紅茶にはまだ名前が無い」
「え? そうなんですか?」
「思いつかなかったらしい。だから考えてくれ、と頼まれていたものの、俺も名案が浮かばない。仕事に巻きこんでしまって悪いが、一緒に考えてくれないか?」
「いいですよ。じゃあ、例えばこんなのはどうですか?」
妻はうきうきと案を上げていく。楽しそうな顔に癒されながら、アタラムはまた紅茶をすすった。
机の端にはまだ書類が積みあがっている。国王が他国に赴いている現在、民からの陳情だとか、貴族からの要望書だとかに目を通すのは、宰相たる自分の役目だ。しかし昼食を摂って以降、ようやく書類の山が低くなったと思った直後に追加が来た。あの瞬間、終わりが遠のいたのを悟った。
「……休憩するか……」
頭上で指を組み、ぐんっと腕を伸ばす。
こつこつ、と扉が音を立てたのは、その直後だった。
「失礼します」遠慮がちな響きが耳を打つ。妻の声だ。「アタラムさま、少しお時間よろしいですか?」
「ああ。構わない。入ってくれ」
促してすぐ、彼女は扉を開ける。隙間から顔だけ覗かせて微笑む姿は愛らしい。疲れを少しだけ忘れられ、つられてこちらまで笑顔になる。
アタラムが手招くと、妻は両手を後ろにしてとことこと歩いてきた。黒髪を後頭部の高い位置でくくり、飾り気のないドレスにはエプロンを重ねている。
「お仕事中に申し訳ありません。お邪魔してしまいましたか?」
「いや。ちょうど今から休もうと思っていたところだ。気にしなくていい」
アタラムは椅子から立ち上がり、彼女の頬に軽いキスを落とした。その瞬間、ふわりと甘い香りが鼻先を掠めていった。
「今日のあなたはずいぶん美味しそうな香りがするな。食べてしまいたくなる」
「食べるのなら、こちらをどうぞ」
妻は少女のようにはにかんで、後ろに回していた手をこちらに差し出してくる。
背中に隠していたのは四角いバスケットだったようだ。受け取って上にかかっていた布を退かすと、先ほどの芳香がより強くなる。
「カップケーキか」
「この前、王妃さまと一緒に作ったんです。本当はその時にアタラムさまに食べていただきたかったんですけど、陛下と一緒に隣国に行かれていたので」
「改めて作ってくれた、と? 俺のために?」
「もちろんです。作り方を覚えているうちに、と思って」
カップケーキは四つ入っていた。生地がほのかに紫に色づいた方はブルーベリー味、黄色みの強い残り二つはマロンだという。いずれも二つずつ用意してくれたようだ。
書類をいったん片付けると、妻は机の上にカップケーキを並べていく。アタラムはその間に、先日手に入れたばかりの茶葉に湯を注いだ。
「なんのお茶ですか?」
「西の方に、とある貴族の領地があるだろう。最近そこで栽培に成功した新種の茶葉を使った紅茶だ。まだ市場にはあまり出回っていない貴重な品だよ」
妻の目が興味深そうにキラキラと輝く。早速ティーカップに注いで渡すと、すんすんと香りを確かめていた。
「なんでしょう、ラズベリーに近いようなにおいですね」
「あなたが作ったカップケーキと合えばいいんだが。早速いただくよ」
アタラムはまずブルーベリー味のそれを手に取った。一口咀嚼すれば、バターの甘みとブルーベリーの酸味が舌に広がる。
食べ進めてみると、潰れていない実が中に潜んでいた。ぷち、と歯で押しつぶすと食感も楽しめて面白い。マロンの方も同様に大きな実がごろりと贅沢に一粒使われていて、たまに見る妻の大胆さが表れているな、と楽しくなった。
彼女はカップケーキを味わいつつ、紅茶にも口をつけている。
「どうかな。合いそうか?」
「すごく合います! 紅茶自体に少し渋みはありますけど、ケーキが甘いのでちょうど良い感じですね。実はバターの量を前より多くしてしまったので、味がくどくなってるかも、と思ったんですけど、紅茶が相殺してくれてます」
「喜んでもらえて良かった。――そうだ。実はこの紅茶にはまだ名前が無い」
「え? そうなんですか?」
「思いつかなかったらしい。だから考えてくれ、と頼まれていたものの、俺も名案が浮かばない。仕事に巻きこんでしまって悪いが、一緒に考えてくれないか?」
「いいですよ。じゃあ、例えばこんなのはどうですか?」
妻はうきうきと案を上げていく。楽しそうな顔に癒されながら、アタラムはまた紅茶をすすった。