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のべるばーまとめ

「見てください坊ちゃん。あれはなんの形でしょう?」
 膝の上にガレスを乗せて、血のつながらない姉が空を指さした。さっぱりと青く晴れ渡ったそこには、ほわほわと白い綿がいくつも浮いている。
「んーとね……」ガレスは瑠璃色の大きな瞳で、その一つ一つを順に見つめた。「あっちは大きいケルベロスで、そのとなりはクラーケン」
「すごいですね坊ちゃん。私もそう思いました」
 偉い偉い、と姉に頭を撫でられて悪い気はしない。ガレスは丸い頬を薄赤く染め、ケルベロスに見えた白い綿を見上げた。
 しかしいつのまにか、形が変わってしまっている。頭が三つあったはずなのに、少し目を離したすきに崩れて一つになっていた。脚も四本から三本に減っている。あれではただの犬ですらない。
 クラーケンには穴が開き、もはや元の形がなんだったのか分からなくなっている。あのままどこに漂っていくのか楽しみだったのに。ガレスは唇を尖らせ、ぶらぶらと足を揺らした。
「どうしたんですか。急につまらなそうにして」
「だってケルベロスがケルベロスじゃなくなっちゃった。クラーケンも」
「仕方ありませんよ。風に流されていくうちに、形も変わるんです。雲が不変のままどこかに行くことなんて、そうそうありませんよ」
「くも? あの白いわたみたいなの、くもっていうの?」
「ええ。坊ちゃんのお父さまにそう教えていただきました」
 ずっとタンポポの綿が大きくなったものだと思っていた。一つ賢くなれた気がして、ガレスは忘れてしまわないよう、何度も「雲、雲」と口ずさむ。
「でも、雲ってなにでできてるの? どうして空にういてるの?」
「……どうしてでしょうね?」
 姉が知らないということは、きっと父も知らないのだ。
「あ、でも」なにを思い出したのか、姉はぽんっと手を叩く。「いつだったか、おばさまがこんなことを言っていたような」
 おばとはつまり、父の妹だ。いつでも明るく前向きで、常に忙しなく世界中を飛び回っている。ゆえに知識も相当深く、雲がなんなのか、姉に教えたことがあったのだろう。
 姉は空の一か所を指さした。そこではぶつ切りの雲が連なっている。まるで空に浮かんだ大きな川だ。
「あれはうろこ雲と言うんだそうです」
「うろこ? ってなに?」
「魚とか蛇とか、あとはドラゴンとかの体を覆っている皮膚の一部みたいなものですよ。空に浮かぶうろこ雲は、もともとドラゴンだったと教えてもらったことがあります」
 その昔、とある村で悪さを働いたドラゴンがいたという。人々を怖がらせ、家畜を食い尽くしたけれど、神さまに怒られて地上から空に追放されたそうだ。
 ドラゴンは己の行いを悔い、二度としないと固く誓った。お詫びに空から人々を見守っていたけれど、いつの間にかその姿はうろこ雲に変わっていたらしい。
「じゃああのうろこ雲は、そのドラゴンなの?」
「かも知れませんね。坊ちゃんの良いところも、悪いところも、全部見ているかも知れませんよ」
 例えば昨日の夜、苦手な野菜を残してしまったこととか。姉の声が急に低くなり、ぞくぞくと背筋が震える。恐るおそる顔を見上げれば、彼女はいたずらっぽい笑みを浮かべていた。
「どうします? ドラゴンの中には炎や毒を吐く個体もいますから、野菜を食べない子は火だるまにされちゃうかも」
「こわいこと言わないでよ! きょ、今日からはちゃんと食べるし!」
「本当ですね? 嘘つきもドラゴンは見ていますよ?」
「でっ、でもさ!」姉の膝から飛び降りて、ガレスは反論に転じた。「昨日はあのうろこ雲、あそこに無かったよ!」
 雲は風に流されていくと教えられたばかりだ。つまりあのうろこ雲も、今日はガレスの頭の上にいるけれど、明日にはいないかもしれない。だから少しくらい手を抜いても、と言いかけたのを、姉は察したようだ。
「甘いですね坊ちゃん。逆に言えば、いつ坊ちゃんのところに戻ってくるか分からないんですよ? 普段から野菜を食べておいた方がいいと思いませんか?」
 聖母のような笑みで言われれば逆らえない。ガレスはなにも言い返せず、しょんぼりと項垂れるようにうなずいた。
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