のべるばーまとめ
ずい、と正面から拳が伸びてくる。茉莉はマグカップを持ち上げながら、対面に座る彼氏に目を向けた。
「なんですか?」
「渡してなかったと思って」
なにを、と首を傾げつつ、中に入っていたココアを口に含む。ピスタチオ風味という珍しさに興味を惹かれて注文したのだが、なかなか美味い。喫茶店の入り口にはフレンチトーストの看板もあったし、もちろんそれも注文している。そちらの期待値も上がって、無意識に「ふふふ」と笑みがこぼれた。
なかなか受け取られないことに焦れたのか、彼は握っていたなにかを机の上に置く。〝ぺち〟と〝かちゃ〟を合わせたような音が鳴った。
「鍵だよ」
「なんの?」
「お前がさっきまでいた部屋」
さっきまでいた部屋――つまり、昨日から彼の住まいになったアパートの一室である。
一つ年上の彼氏は大学生だ。先日まで実家暮らしだったけれど、毎朝電車に乗るのが面倒くさいという理由で、この時期になってようやく大学の近くに引っ越した。
ぱちぱちと目をまたたきつつ、茉莉は鍵に手を伸ばす。ごくごく普通の、凸凹とした刻みのついたシリンダータイプだ。煎餅のごとく平べったい持ち手には、眠たそうにあくびをする三毛猫のストラップがついている。
「この猫ちゃんは先輩の趣味ですか」
「いや、下の姉」と彼はゆるく首を振って、自身が頼んでいた抹茶ラテを味わっていた。「家に余ってたから、と拒否する間もなくつけられた」
「で、あれですか。無断で取るとお姉さんに怒られるし、そのままにしてると」
「なにもぶら下がってないよりはマシかと思って。それに」
茉莉が鍵をつまんでいると、彼の指が猫をちょいちょいとつつく。ちりん、とかすかに鈴の音が響いた。
よく見ると、猫の首輪にごく小さな鈴がついている。音のもとはこれか。
「落とした時に分かりやすいし、まあいいか、と」
「いや、それならもうちょっと大きい音の方が良くないですか?」
「ちょうどいい。これ以上だと逆にうるさいし」
「そうかもしれませんけど」
ふらふらと揺らせば、鈴はちりちりと密やかに存在を主張する。微妙に不細工な猫の表情と相まって、なんだか可愛らしく見えてきた。
「お待たせいたしました。フレンチトーストのお客様」
待ってましたとばかりに、茉莉は「はーい」と手を上げた。ハチミツの甘い香りが鼻孔を通り抜けていく。二枚重なったトーストは極厚で、上にちょこんと乗る丸いバニラアイスはすでに熱で溶け始めていた。
「いただきます」とフォークとナイフを手に取るのと、ふ、と彼が肩を揺らすのは同時だった。「なんですか」
「ずいぶん嬉しそうだなと思って」
「だってフレンチトースト好きですもん。自分で作ると下準備大変だし、なかなかうまくいかないし。あ、先輩も一口食べます?」
「美味そうに食べる茉莉を見るだけで僕は満足だから」
そういえば彼は餡子以外の甘いものはあまり好きではないのだった。じゃあ遠慮なく、と切り分けたトーストを咀嚼して、皿の横に転がる鍵に目を落とす。
「でも、いいんですか」
「なにが」
「私に鍵を預けてって意味です。なんの用もないのに押しかけたりするかもしれませんよ。勉強教えてほしいとか、柔道の手合わせしてほしいとか」
茉莉は現在高校三年生だ。受験勉強もあるし、平日はそう頻繁に来られないだろうけれど。
「休みの日とか、理由なしに突撃してくるかも」
「そうしてほしいから渡したんだろ」
分かれよ、と言いたげな視線を投げて、彼は抹茶ラテを口に運ぶ。
よく見ると耳と目元がほのかに赤い。素面で小恥ずかしい台詞を吐くのはままあるが、今回は照れくさかったのか。
「分かりました。そこまで言うなら受け取ってあげましょう」
ふふん、と胸を張って鍵をつつく。ちりん、と軽やかな音が再び響いた。
「なんですか?」
「渡してなかったと思って」
なにを、と首を傾げつつ、中に入っていたココアを口に含む。ピスタチオ風味という珍しさに興味を惹かれて注文したのだが、なかなか美味い。喫茶店の入り口にはフレンチトーストの看板もあったし、もちろんそれも注文している。そちらの期待値も上がって、無意識に「ふふふ」と笑みがこぼれた。
なかなか受け取られないことに焦れたのか、彼は握っていたなにかを机の上に置く。〝ぺち〟と〝かちゃ〟を合わせたような音が鳴った。
「鍵だよ」
「なんの?」
「お前がさっきまでいた部屋」
さっきまでいた部屋――つまり、昨日から彼の住まいになったアパートの一室である。
一つ年上の彼氏は大学生だ。先日まで実家暮らしだったけれど、毎朝電車に乗るのが面倒くさいという理由で、この時期になってようやく大学の近くに引っ越した。
ぱちぱちと目をまたたきつつ、茉莉は鍵に手を伸ばす。ごくごく普通の、凸凹とした刻みのついたシリンダータイプだ。煎餅のごとく平べったい持ち手には、眠たそうにあくびをする三毛猫のストラップがついている。
「この猫ちゃんは先輩の趣味ですか」
「いや、下の姉」と彼はゆるく首を振って、自身が頼んでいた抹茶ラテを味わっていた。「家に余ってたから、と拒否する間もなくつけられた」
「で、あれですか。無断で取るとお姉さんに怒られるし、そのままにしてると」
「なにもぶら下がってないよりはマシかと思って。それに」
茉莉が鍵をつまんでいると、彼の指が猫をちょいちょいとつつく。ちりん、とかすかに鈴の音が響いた。
よく見ると、猫の首輪にごく小さな鈴がついている。音のもとはこれか。
「落とした時に分かりやすいし、まあいいか、と」
「いや、それならもうちょっと大きい音の方が良くないですか?」
「ちょうどいい。これ以上だと逆にうるさいし」
「そうかもしれませんけど」
ふらふらと揺らせば、鈴はちりちりと密やかに存在を主張する。微妙に不細工な猫の表情と相まって、なんだか可愛らしく見えてきた。
「お待たせいたしました。フレンチトーストのお客様」
待ってましたとばかりに、茉莉は「はーい」と手を上げた。ハチミツの甘い香りが鼻孔を通り抜けていく。二枚重なったトーストは極厚で、上にちょこんと乗る丸いバニラアイスはすでに熱で溶け始めていた。
「いただきます」とフォークとナイフを手に取るのと、ふ、と彼が肩を揺らすのは同時だった。「なんですか」
「ずいぶん嬉しそうだなと思って」
「だってフレンチトースト好きですもん。自分で作ると下準備大変だし、なかなかうまくいかないし。あ、先輩も一口食べます?」
「美味そうに食べる茉莉を見るだけで僕は満足だから」
そういえば彼は餡子以外の甘いものはあまり好きではないのだった。じゃあ遠慮なく、と切り分けたトーストを咀嚼して、皿の横に転がる鍵に目を落とす。
「でも、いいんですか」
「なにが」
「私に鍵を預けてって意味です。なんの用もないのに押しかけたりするかもしれませんよ。勉強教えてほしいとか、柔道の手合わせしてほしいとか」
茉莉は現在高校三年生だ。受験勉強もあるし、平日はそう頻繁に来られないだろうけれど。
「休みの日とか、理由なしに突撃してくるかも」
「そうしてほしいから渡したんだろ」
分かれよ、と言いたげな視線を投げて、彼は抹茶ラテを口に運ぶ。
よく見ると耳と目元がほのかに赤い。素面で小恥ずかしい台詞を吐くのはままあるが、今回は照れくさかったのか。
「分かりました。そこまで言うなら受け取ってあげましょう」
ふふん、と胸を張って鍵をつつく。ちりん、と軽やかな音が再び響いた。
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