壮悟と榛弥 短い話まとめ
閑散とした駅のホームで、その先輩はベンチに腰かけて本を読んでいた。
「福辺先輩、乗らないのかな」
電車に乗りこみながら、茉莉は動こうとしない先輩に振り返る。
彼は一つ年上で、ひと月ほど前に男子柔道部の部長に就任した。茉莉は女子柔道部に所属しており、男女ともに柔道部は体育館横の道場を練習場所にしている。ゆえに彼のことはよく知っていたし、なにより、その実力に憧れてもいた。
「行き違い待ちのため、しばらく停車いたします」と車内にアナウンスが流れる。茉莉は座席に腰を下ろそうか悩んで、とん、とホームに戻った。
間もなく反対列車がやってきて、乗るはずだった電車は次の駅に向かってしまう。それを横目で見送って、茉莉は先輩の前に移動した。
「福辺先輩」
「…………」
「福辺先輩、電車乗らないんですか」
「……ん?」
雑音が聞こえた、とでも言うように、彼はゆるりと顔を上げる。耳にかけていた前髪の束がはらりと頬に落ちた。日差しの影響か、茉莉を見上げる瞳は深い紫色に見える。
「須見?」
少しも迷うそぶりを見せず、彼は茉莉の名字を読んでくる。それが少し以外で、思わず目を丸くしてしまった。
「私の名前、覚えてるんですね」
「入部早々僕に『勝負してください』って挑んできた馬鹿だからな」
「それは忘れてください」
「なんで」
「実力を過信した身の程知らずの恥ずかしい過去だからです」
半年ほど前、新入生として柔道部に入部したばかりの茉莉は、自分は誰よりも強い自信を持っていた。女子にしては背が高く、中学の頃に全国大会で優勝した経験もあったため、男子相手でも立ち向かえるほど力があると驕っていた。
だから無謀にも、男子柔道部で一番強いと言われていた先輩に勝負を挑んだのだ。
周囲には止められた。危ないからやめろと。けれど高校の柔道部の実力がどの程度か知るには、彼と戦うのが一番だと考えていた。
――結局、秒で一本取られて負けたんだけど。
思い出しただけで、自分の行いの恥ずかしさと負けた悔しさがよみがえってくる。
「で、僕になにか言ってなかったか」
茉莉と話をすることにしてくれたのか、先輩は本にしおりを挟む。文庫の表紙には、なにやら気難しそうなタイトルが書かれていた。
「なんですか、その本」
「じいさんに借りた」
「電車を無視して読みふけるほど面白いですか?」
「電車? ……あ、忘れてた」
「忘れてたって、電車の存在を? え、そんなことあります?」
ついくすくすと笑えば、先輩はわずかにムッとしたように唇をへの字に曲げた。しかし反論が出来なかったらしく、文句が飛んでくる気配はない。
隣座っていいですか、と訊ねると、無言でうなずかれる。そっと腰を下ろすと、かすかに甘い香りがふわりと鼻をくすぐった。駅の周りには近隣住民の畑などがあり、休耕田には季節の花が咲いている。今の香りはそれか、あるいは先輩の家で使っている柔軟剤か。
「ずっとここで読んでたんですか」
「この時間帯は人が少なくて集中出来るから」
「家とか図書館で読んだ方が落ち着きません? なにもこんな外で読まなくても」
「家だと姉がちょっかいかけてくるからうるさいんだよ。図書館も、ここから行くには少し遠い」
「なるほど。どんな内容の本なんですか」
本には〝憑霊信仰論〟と書かれている。表紙は緑と黒の二色だけで彩られているが、写真なのか絵なのかは分からない。タイトル的にミステリーかホラーかと思っていたのだが、先輩は「フィクションじゃない」と首を横に振る。
「これは学術書だ」
「学術……?」
「著者が研究してきたこととか、専門分野の話が書かれている。これの場合はタイトル通り憑霊――憑きものとか憑依とかについてまとめてある」
「よく分かりませんけど、難しいものだってことは分かりました」
詳細を話されたところで理解出来るとも思えない。先輩はまだ説明したり無さそうだったが、茉莉が興味を失ったと悟ったようで、それ以上はなにも言わなかった。
「でも、なんか意外です」
「なにが」
「先輩って本とか読むんですね。しかもそんな難しそうなやつ。強いだけじゃなくて頭もいいとか、完璧じゃないですか」
「まあな」と先輩はあっさり肯定した。ともすれば嫌味に聞こえるのに、そう感じられないのは本人が自慢気でないからか。「けど僕にも不得手な分野はあるぞ」
「そうなんですか。例えば?」
「なんで教えなきゃいけないんだ」
「えー、だって気になるじゃないですか。なんでも完璧な先輩の不得意な分野」
「そこまで教えてやる義理は無い」
ため息をついて、先輩は再び本を開く。ちらと手元を覗いてみるが、字は細かいし、行間は狭いし、一段落が異様に長かったりと、茉莉だったら二、三ページで投げ出しているだろう。
しかし彼はすでに半分以上読んでいる。横顔は真剣そのもので、きっともう、周囲の音などなにも聞こえていない。
風が草花を揺する音と、蛙や虫の鳴き声、駅の待合室で談笑する生徒たちの声。決して静かとは言えないが、うるさ過ぎないのがかえっていいのかも知れない。
陽はゆっくりと落ちていく。駅のホームにも蛍光灯が灯り、東の空に浮かぶ月も淡い輝きを帯び始めた。きれいだなあと茉莉が空を眺める隣で、先輩は音もなくぺーじをめくっている。
どれだけそうしていただろう。カンカンとけたたましい音が響き渡った。次の電車が来たのだ。待合室にいた生徒たちが慌ただしくホームに駆けこんでくる。
「先輩。電車来ましたよ」
「…………」
「福辺先輩」
「……ん?」
最初に声をかけた時とまったく同じ反応だ。彼は茉莉を見て、「まだいたのか」と目をまたたいている。
「もうすぐ六時です。これ逃したらまた三十分待たないと電車来ませんよ」
「別に僕は構わないし、須見一人で乗ったらいいだろ」
「こんな薄暗いところで本読んでたら視力落ちちゃいますよ。集中力が高いのは結構ですけど、今日はもう帰りましょう。ほら、立ってください」
「……仕方ないな」
本をリュックにしまって、先輩は渋々立ち上がる。茉莉が促さなければ、きっとあのまま読み続けていたに違いない。
「放置してたら明日の朝までベンチに座ってたりして」
冗談めかして言えば、「さすがにそれはない」と真顔で返された。
「駅員に『帰れ』って追い出されるだろうし、親から『まだ帰ってこないのか』って連絡が入る」
「先輩の場合それも無視しそうじゃないですか」
到着した電車に、二人そろって乗車する。このまま離れた場所に別々で座ると思っていたのか、先に腰かけた先輩の横に茉莉が座ると、首を横に傾げられた。
「他の場所も空いてるだろ」
「いいじゃないですか。さっきまで隣に座ってたんだし、固いベンチがちょっと固い座席に変わっただけの話です」
「まあそれもそうだけど」
ドアが閉まり、電車はゆるやかに動き出す。先ほどまで座っていたベンチが視界の端に流れていった。
「先輩って毎日あそこで本読んでるんですか」
「ああ、まあ」
「ふうん、なるほど」
「?」
言葉通り、先輩は翌日も、翌々日も同じ時間、同じ場所で読書に没頭していた。周囲の雑音など意識の外に押しやって、知識の海に潜っている。
それを邪魔しないように、茉莉は静かに隣に腰かけた。
練習や試合で感じるのとは違う、彼のまとう穏やかで静謐な空気感が心地いい。存在を無視されているのをいいことに見つめる横顔は、一つの芸術品にも思えた。
頃合いになったところで声をかけて、そろって電車に乗りこむ。いつしかそれは日常になって、先輩も特に拒否したりしなかった。
二人が付き合うまで、あと半年。
「福辺先輩、乗らないのかな」
電車に乗りこみながら、茉莉は動こうとしない先輩に振り返る。
彼は一つ年上で、ひと月ほど前に男子柔道部の部長に就任した。茉莉は女子柔道部に所属しており、男女ともに柔道部は体育館横の道場を練習場所にしている。ゆえに彼のことはよく知っていたし、なにより、その実力に憧れてもいた。
「行き違い待ちのため、しばらく停車いたします」と車内にアナウンスが流れる。茉莉は座席に腰を下ろそうか悩んで、とん、とホームに戻った。
間もなく反対列車がやってきて、乗るはずだった電車は次の駅に向かってしまう。それを横目で見送って、茉莉は先輩の前に移動した。
「福辺先輩」
「…………」
「福辺先輩、電車乗らないんですか」
「……ん?」
雑音が聞こえた、とでも言うように、彼はゆるりと顔を上げる。耳にかけていた前髪の束がはらりと頬に落ちた。日差しの影響か、茉莉を見上げる瞳は深い紫色に見える。
「須見?」
少しも迷うそぶりを見せず、彼は茉莉の名字を読んでくる。それが少し以外で、思わず目を丸くしてしまった。
「私の名前、覚えてるんですね」
「入部早々僕に『勝負してください』って挑んできた馬鹿だからな」
「それは忘れてください」
「なんで」
「実力を過信した身の程知らずの恥ずかしい過去だからです」
半年ほど前、新入生として柔道部に入部したばかりの茉莉は、自分は誰よりも強い自信を持っていた。女子にしては背が高く、中学の頃に全国大会で優勝した経験もあったため、男子相手でも立ち向かえるほど力があると驕っていた。
だから無謀にも、男子柔道部で一番強いと言われていた先輩に勝負を挑んだのだ。
周囲には止められた。危ないからやめろと。けれど高校の柔道部の実力がどの程度か知るには、彼と戦うのが一番だと考えていた。
――結局、秒で一本取られて負けたんだけど。
思い出しただけで、自分の行いの恥ずかしさと負けた悔しさがよみがえってくる。
「で、僕になにか言ってなかったか」
茉莉と話をすることにしてくれたのか、先輩は本にしおりを挟む。文庫の表紙には、なにやら気難しそうなタイトルが書かれていた。
「なんですか、その本」
「じいさんに借りた」
「電車を無視して読みふけるほど面白いですか?」
「電車? ……あ、忘れてた」
「忘れてたって、電車の存在を? え、そんなことあります?」
ついくすくすと笑えば、先輩はわずかにムッとしたように唇をへの字に曲げた。しかし反論が出来なかったらしく、文句が飛んでくる気配はない。
隣座っていいですか、と訊ねると、無言でうなずかれる。そっと腰を下ろすと、かすかに甘い香りがふわりと鼻をくすぐった。駅の周りには近隣住民の畑などがあり、休耕田には季節の花が咲いている。今の香りはそれか、あるいは先輩の家で使っている柔軟剤か。
「ずっとここで読んでたんですか」
「この時間帯は人が少なくて集中出来るから」
「家とか図書館で読んだ方が落ち着きません? なにもこんな外で読まなくても」
「家だと姉がちょっかいかけてくるからうるさいんだよ。図書館も、ここから行くには少し遠い」
「なるほど。どんな内容の本なんですか」
本には〝憑霊信仰論〟と書かれている。表紙は緑と黒の二色だけで彩られているが、写真なのか絵なのかは分からない。タイトル的にミステリーかホラーかと思っていたのだが、先輩は「フィクションじゃない」と首を横に振る。
「これは学術書だ」
「学術……?」
「著者が研究してきたこととか、専門分野の話が書かれている。これの場合はタイトル通り憑霊――憑きものとか憑依とかについてまとめてある」
「よく分かりませんけど、難しいものだってことは分かりました」
詳細を話されたところで理解出来るとも思えない。先輩はまだ説明したり無さそうだったが、茉莉が興味を失ったと悟ったようで、それ以上はなにも言わなかった。
「でも、なんか意外です」
「なにが」
「先輩って本とか読むんですね。しかもそんな難しそうなやつ。強いだけじゃなくて頭もいいとか、完璧じゃないですか」
「まあな」と先輩はあっさり肯定した。ともすれば嫌味に聞こえるのに、そう感じられないのは本人が自慢気でないからか。「けど僕にも不得手な分野はあるぞ」
「そうなんですか。例えば?」
「なんで教えなきゃいけないんだ」
「えー、だって気になるじゃないですか。なんでも完璧な先輩の不得意な分野」
「そこまで教えてやる義理は無い」
ため息をついて、先輩は再び本を開く。ちらと手元を覗いてみるが、字は細かいし、行間は狭いし、一段落が異様に長かったりと、茉莉だったら二、三ページで投げ出しているだろう。
しかし彼はすでに半分以上読んでいる。横顔は真剣そのもので、きっともう、周囲の音などなにも聞こえていない。
風が草花を揺する音と、蛙や虫の鳴き声、駅の待合室で談笑する生徒たちの声。決して静かとは言えないが、うるさ過ぎないのがかえっていいのかも知れない。
陽はゆっくりと落ちていく。駅のホームにも蛍光灯が灯り、東の空に浮かぶ月も淡い輝きを帯び始めた。きれいだなあと茉莉が空を眺める隣で、先輩は音もなくぺーじをめくっている。
どれだけそうしていただろう。カンカンとけたたましい音が響き渡った。次の電車が来たのだ。待合室にいた生徒たちが慌ただしくホームに駆けこんでくる。
「先輩。電車来ましたよ」
「…………」
「福辺先輩」
「……ん?」
最初に声をかけた時とまったく同じ反応だ。彼は茉莉を見て、「まだいたのか」と目をまたたいている。
「もうすぐ六時です。これ逃したらまた三十分待たないと電車来ませんよ」
「別に僕は構わないし、須見一人で乗ったらいいだろ」
「こんな薄暗いところで本読んでたら視力落ちちゃいますよ。集中力が高いのは結構ですけど、今日はもう帰りましょう。ほら、立ってください」
「……仕方ないな」
本をリュックにしまって、先輩は渋々立ち上がる。茉莉が促さなければ、きっとあのまま読み続けていたに違いない。
「放置してたら明日の朝までベンチに座ってたりして」
冗談めかして言えば、「さすがにそれはない」と真顔で返された。
「駅員に『帰れ』って追い出されるだろうし、親から『まだ帰ってこないのか』って連絡が入る」
「先輩の場合それも無視しそうじゃないですか」
到着した電車に、二人そろって乗車する。このまま離れた場所に別々で座ると思っていたのか、先に腰かけた先輩の横に茉莉が座ると、首を横に傾げられた。
「他の場所も空いてるだろ」
「いいじゃないですか。さっきまで隣に座ってたんだし、固いベンチがちょっと固い座席に変わっただけの話です」
「まあそれもそうだけど」
ドアが閉まり、電車はゆるやかに動き出す。先ほどまで座っていたベンチが視界の端に流れていった。
「先輩って毎日あそこで本読んでるんですか」
「ああ、まあ」
「ふうん、なるほど」
「?」
言葉通り、先輩は翌日も、翌々日も同じ時間、同じ場所で読書に没頭していた。周囲の雑音など意識の外に押しやって、知識の海に潜っている。
それを邪魔しないように、茉莉は静かに隣に腰かけた。
練習や試合で感じるのとは違う、彼のまとう穏やかで静謐な空気感が心地いい。存在を無視されているのをいいことに見つめる横顔は、一つの芸術品にも思えた。
頃合いになったところで声をかけて、そろって電車に乗りこむ。いつしかそれは日常になって、先輩も特に拒否したりしなかった。
二人が付き合うまで、あと半年。
1/6ページ