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覆水不返、然れども

閉店間際のテレビ売り場は、いつにもましてがらんとしていた。まるで示し合わせたかのように、誘われているかのように、テレビの中に入るにはうってつけの条件だった。
ひとりでテレビの中へと入るのは、初めてのことだった。自室で初めてテレビの中の世界に触れて以来はずっと陽介や里中――特捜隊のみんなと共にこの中へ足を踏み入れている。仲間の心配そうな顔が脳裏に浮かんで、ちくりと胸が痛む。それでも差し込んだ腕は止まらないまま、俺はこの稲羽で慣れ親しんだ感覚に身を委ねた。

テレビの中の世界は相変わらず全てを覆い隠すような霧に包まれている。ゆっくりと目的の部屋まで歩を進める。その間、俺はこのアパートをこの世界に生み出した人物――山野真由美について考えていた。……足立さんのことを努めて考えないようにしていた、のほうが正しいのだが。山野真由美。稲羽の地方テレビ所属の女子アナウンサー。稲羽市議員秘書、生田目太郎と不倫にいたり、演歌歌手の柊みすずに訴えられ世間を追われたひと。天城のお母さんには辛辣な言葉を吐いたと聞いている。巽屋ではオーダーメイドのスカーフ――二枚組のスカーフの受け取りを断った。彼女は世間で言われるほどの清涼さを、清純さを持ち合わせた人物では無かったのかもしれない。足立さんも似たようなことを――ああ、また考えてしまった。ともかく、山野真由美はテレビで見たような性格では無かったらしい。でもそれはりせも抱えていた問題だ。人に魅せる、テレビで映える存在、芸能人とはそういったものなのだろう。なら彼女はどういう人間だったんだろう。生田目太郎と愛し合った彼女に打算があったかどうかは分からないけれど――あの部屋を見ていると、打算だけで付き合っていたとは俺には思えなかった。数え切れないほどの切り裂かれた柊みすずのポスター、苦しみを象徴しているようなスカーフ――ここは、彼女の感情で溢れている。彼女は何を思って生田目を好きになったのだろう。何を思ってここまで苦しんだのだろう。結ばれない運命? ままならない現実? 答えは分からないが、彼女の気持ちは分かるような気がした。生田目を許せるか、と聞かれれば、俺はまだ分からないと答えるしか無いけれど――彼は悪人ではなかった。彼なりの正義で、本気で人を救おうとして誘拐を成していた。それが褒められたことでは無いにせよ、彼なりの信念がそこにはあった。そういうところに彼女――山野真由美も惹かれたのだろうか。彼女が知る生田目の良さがあって、想い合って、でもそれは悪いことで――スキャンダルとして取り上げられてしまったけれど。それが悪いことだなんて、分かっていたことだ。許されないなんて、分かっていたことだ。それでもどうしようもなくて、諦めきれなかった。そういうことだろうか。
――生田目は罪を犯したが悪人ではなかった。
じゃあ、この先にいるあの人は?
物音ひとつしない殺風景な部屋――空虚な部屋にぽっかりと空いた穴を見つめる。この先には足立さんが居て――この先には、足立さんの作り出した空間が広がっている。今までの法則と照らし合わせるなら、この先は足立さんの心象風景でもあるはずだ。今まで止まることなく動き続けていた足が、床に吸い付いてしまったかのように動かない。こわい、のかな。本当はあなたが何を考えていたのか――知りたいようで、知りたくない。でも、会いたい。逡巡した末、俺は目の前の赤と黒に彩られた虚へと向かった。

一歩踏み出した直後だった。赤黒い裂け目――入り口がかき消える。
「困るんだよねー。」
背後からかけられた声に心臓が跳ねた。人の気配はなかったはず――それも探し人本人の気配なんて。焦りに身を任せたまま振り返るが、そこには誰の姿もなかった。代わりに、カチリ、と軽い音が背後から聞こえ、固い金属の感触を後頭部に感じた。
「ちゃんと皆で来てもらわないとさ。……拍子抜けでしょ?」
冷たい汗が背を伝っていく。目の前で起きている現象に理解が追いつかない。いくらここがテレビの中といえど、シャドウだって瞬間移動はしていなかったはず。随分とこの世界に気に入られた――足立さんの言葉が蘇る。
「いつも探偵ごっこしてる友達はどうしたのよ?」
「……ひとりで、来ました。」
それしか返せない。だって本当に何をしに来たわけでも無い。まだ頭の整理もついてない。
つまらない、と目の前の足立さんは俺を嘲笑する。不意に突きつけられた拳銃が外された。どうして。撃たれるとばかり思っていたのに。足立さんの意図が読めなくて、俺は混乱したまま足立さんに向き合おうとした。けれど振り返っても彼の姿は無く、代わりにまた背後から声が投げかけられる。まるで霧に巻かれているようだ。みんなで悪いヤツを倒しにくればいい――足立さんはそう言って薄笑いを浮かべた。彼の口から語られる悪いヤツ、の一言に心が揺れる。
本当にあなたがやったんですか。馬鹿げたことを口走りそうになって口をつぐむ。俺はこの人に何を聞きたいんだ? 足立さんが犯人であることは間違いない。分かっている。分かっているのに。どうしても心が受けつけない、のは。
「――あなたを、信じて、いたんです」
頭が理由を弾き出す前に、口から心の声が溢れだしていた。そうだ。信じていた。考えれば考えるほどあなたへの疑いは強まるのに、そうであって欲しくないと心の奥が叫んでいた。一昨日、あなたを問い詰めるために病院に向かったのか、そうでないことを確かめに向かったのか分からないほどに、相反する思いで胸がいっぱいだった。
「信じるほど、僕の何を知ってたわけ?」
冷笑と、少しの苛立ちが声に含まれていた。改めてこの人自身に突きつけられて疑問に思う。俺はこの人の何を知っていたんだろう。ひとりのほうが好きと言う割に、お婆さんに構われることを話すあなたは嬉しそうだった。その分、「透ちゃん」と呼ばれなかったとき、あの寂しそうな眼差しもよく焼きついている。菜々子のことはよく見ていてくれた。ひょっとしたら俺よりも長いこと菜々子を気にかけてくれていたのかも、とすら思った。堂島さんのことを話すあなたの口ぶりは、おどけてばっかりだったけど、親しみがよくうかがえた。――結局まだ高校生でしょと言ってくれたのもあなただった。病院で、俺を気遣ってくれたのも。ひとりでいるのが好きだという割に、他人に踏み込ませないくせに、他人のことをよく見ている人だった。そう、思っていた。
別に話なんて無い、と足立さんは倦んだように言い捨てた。
「だいたい君が信じてたのは、君の頭ん中で、君が勝手に創った僕だろ?」
ひゅ、とかすれた音で喉が鳴った。
俺の中の足立さん。俺の知る足立さん。分かっていたことだ。それでも、目の前の足立さんに否定されると胸が軋んだ。たとえ嘘でもあなたの嘘に俺は救われた。けれど。それが嘘だったと突きつけられるのは、胸が切り裂かれるように痛かった。
――じゃあどうして、あの日俺を助けてくれたんですか?
分かっていたはずだ。脅迫状を送りつけたのがあなたなら、いずれ俺が、俺たちが邪魔になる存在だと分かっていただろう。なのになんで。どうして俺にコーヒーを淹れてくれたんですか? どうして――あんな言葉を残していったんですか。
声にはならなかった。なんでどうしてと激情が胸を駆け回っていて、何一つとして言葉に出来なかった。
「勝手に信じて、勝手に裏切られて……
僕に文句言うってちょっとお門違いじゃない?」
そのとき俺の中に溢れていた激情が、明確な怒りに変貌した。足立を追ってくれと俺に頼んだ堂島さんの顔が脳裏にちらつく。あの人も――勝手に信じて、勝手に裏切られただけだと、あなたはそう言うのか?
俺のことはいい。この人のことを分かっていなかったのは俺なのだから。でも、それでも、あの四人で過ごす幸せな食卓が本当に嘘だったとは思えずにいた。倒れ伏す堂島さんを見つけたあの時、誰よりも早く足立さんは的確な処置をしていた。病室で彼に向ける眼差しには間違いなく心配が含まれていた。それらすべてが彼にとっては仮面でしか無かった?
本当に?
「堂島さんにもそう言うんですか?」
――あなたが?
「君、結構つまんないこと言うね。」
瞬間、殺気のような、鋭く焦げ付いた色が足立さんの瞳に浮かぶ。唸るように吐き捨てた彼の声には、明確な怒気が含まれていた。俺は、その姿に俺の知る足立さんを見た。ああ、やっぱりこの人は――堂島さんが、あの親子が、大切だったんじゃないか?
動揺する俺を余所に、静かな殺意を湛えた瞳が俺を射抜く。そしてごく自然に拳銃が構えられた。冷たい、人の命を奪うためのそれが、鈍く光をたたえている。
「撃ったら、どうなると思う?」
足立さんは、笑っている。撃てないはずだ、とは言えなかった。それを言うのは、今目の前にいる足立さんへの侮辱だと思った。足立さんは被害者を――小西先輩を落としただけと言うけれど、落とした結果どうなるかは分かっていただろう。だから、目の前の彼は、間違いなく殺人犯だ。俺の知らない彼なんだ。
「……あなたの罪が、ひとつ、増えますね」
「そうだね。たったそれだけのことだ。」
違いない。気取られないようにフッと微笑んでから、足立さんの顔を正面から見据えた。
黒い金属の塊が俺に向けられている。別に、それで頭を撃ち抜かれても構わないと思った。俺が信じていたのは、俺の中の足立さん。それはそうだ。ここに来たのも、俺が知っている足立さんを求めてのことなのかもしれない。否定はできない。
ここにいるあなたは、間違いなく俺の知らない姿を見せている。けれど――
やっぱり、俺の知るあなたもいる。
だから――最後まで、俺の知っている足立さんを信じることにした。それで撃たれたのなら仕方ない。足立さんの言うとおり馬鹿なんだ、俺は。
足立さんの右人差し指に力が入るのが、まるでスローモーションのようにはっきりと見えた。

左耳が酷く熱かった。それでも、目だけは逸らさなかった。

「分からない? 話は、終わったんだ。」
焦げ臭い硝煙の匂いが部屋を満たす。撃ち抜かれたかのように心臓が静かだ。
「……次は外してあげないよ。」
足立さんは剣呑な笑みをたたえていた。再度構えられた銃口が俺に向いている。脅しではない。足立さんは本気で俺を殺すつもりだろう。
さも良いことを思いついたかのような、場違いな明るさのこもった、それでいて敵意に塗れたおどけた声が投げかけられる。
「選ばせてあげよっか。
お友達のとこに逃げ帰って、みんなを連れてくるか……それともここで死ぬか。」
答えは決まっている。俺は真っ向から足立さんを見据えた。銃弾が掠った左耳がじくじくと痛み始めていたが、引き下がる気はさらさら無かった。撃たれたら撃たれたで構わない。ここで引いたら負けだ。――あなたに、負けたくない。
そんな俺を見て、足立さんはゆるゆると首を振った。
「でも単なる復讐じゃつまんないか。」
黒光りする銃身が下ろされる。一瞬彼の言葉の意図が分からなくて当惑した。つまり、俺を殺したあと陽介たちが足立さんに復讐しに来ると、足立さんはそう言っている? 不意に仲間の心配そうな顔が浮かんできて、つきりと胸が痛んだ。俺の内心を見透かしたかのように、足立さんは探偵ごっこと称した俺たちの活動を揶揄った。
「みんなを連れておいでよ。ねぇ、リーダーさん?」
その一言を最後に、目の前の足立さんが姿を消す。思わず駆け寄るが、既にそこには何の気配も痕跡も残ってやしなかった。ここではないどこかから足立さんの声が聞こえる。――つまりこの足立さんも本体じゃない、そういうことだ。
背後の入り口は消えたままだ。俺が来るのを拒むように。
「……ずるいな」
乾いた笑みが俺の口からこぼれた。撃たれるなら、殺されるものだと思った。でも、そうじゃなかった。
今の足立さんは、確かに俺の知る足立さんでは無い。でも、だからといって、別人ではないんだ。俺の知る足立さんも、確かに存在した。
――本当のあなたは、どんな人なんだろう。俺たちに決して見せなかったもう一つの側面は、一体どんなものなんだろうか。
知りたい。知ってどうするものでもないけれど――俺は、そうしたい。
「必ず来ます。今度は、みんなで」
――特捜隊の、リーダーとして。あなたと決着をつける。


テレビをくぐり抜けた俺を待っていたのは、予想外の――いや、彼しかいないとも思うが――良く見知った人物だった。
「おかえり。」
「陽介……」
「ひとりで行くなっつったろ? ま、行くと思ったけどな。」
……お見通しか。相棒の約束しろよ、という言葉が思い出されて胸が痛む。それでも俺を止めずに送り出してくれた陽介の気遣いが申し訳なくもあり、有り難くもあった。
後ろめたさに相棒の顔が見れずにいる俺を笑う気配がした。
「その、悪い、俺は」
「いいよ、わーってるって。」
特捜隊の仲間には内緒にするし、向こうで何があったかは問い詰めない。陽介だって何があったか聞きたいだろうに、そう言わせてしまった――迷惑をかけ通しだな、俺は。
「けどさ……俺らをもっと信用しろよな。」
少しだけ憮然としながら、切なそうに陽介が呟く。その言葉にはっとして顔を上げれば、彼は複雑そうな面持ちで俺をまっすぐ見ていた。そんなつもりは――いや。どんな理由があれど、仲間との約束を破ってしまったことは確かだ。俺の行動は、明らかに俺の我儘でしかなかった。それでも陽介は俺を許してくれるという。すまない、相棒。でも――もう、大丈夫だ。
「ま、無事で何よりだ。
今日はもう閉店です、お客様。また明日、皆さんでお越しください……ってな。」
ユーモアたっぷりに陽介が言う。張り詰めていた体から緊張が抜けて、ようやく小さく笑みを作れた。お前は間が悪いところもあるけど――こういう気遣いは流石だな、相棒。
「……ありがとう、陽介。」
お前が居てくれてよかった。そう笑いかければ、呆れたように陽介ははにかんだ。
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