覆水不返、然れども
頬に当たる風は氷のように冷たい。吸い込んだ凍てつく空気で肺が痛む。
勝手にこぼれ落ちる涙だけが熱かった。
俺は何をしに向かっているのだろう。
今更会ってどうするんだ。あの人を追い詰めると決めたのは他ならぬ自分なのに。
みんなと、仲間と、約束したのに。
頭の中で馬鹿な俺を諫める声がする。けれど、ジュネスへと向かう足は止まらなかった。
12月7日。
帰ってきたクマとりせの力を借りて、テレビの中に入った足立さんの居場所を突き止めた。
足立さんの口から動機を、犯行の全てを聞いて、この稲羽で起きていた事件の全容を知った。そこまでは、よかった。あの日仲間に足立さんの名前を告げると決めた時点で、こうなることは予想していた。それでも思ったより心が軋んだけれど、どうにか受け止めることは出来た。ただ、皆の前で取り繕うほどの余裕はなかったのだろう。直斗には労るように言葉をかけられ、里中や天城も俺を気遣うような様相だった。りせにも陽介にも、念を押されるように全員で最後の決戦に向かおうと言われてしまった。……そんなにひどい顔をしていたのかな。自分じゃよく分からなかったけれど。ただ、どうにか笑みを浮かべて、みんなの言葉に頷いたことは覚えている。
とても、静かな夜だった。
自室の扉を後ろ手に閉めて、俺はずるずるとその場に崩れ落ちる。
受け止めることは出来た。受け入れることは、出来なかった。
どうしてだ。全部あなたの言ったことは嘘だったのか? 菜々子と俺と足立さんで囲んだあの幸せな食卓も、堂島さんの淹れてくれたコーヒーを皆で味わったことも。あの時のあなたは確かに楽しそうに見えた。俺と同じに、この空間を愛してくれているのだと、無条件に信じていた。だってあなたは俺にコーヒーを淹れてくれたじゃないか。堂島さんが、お前はミルクだけでいいよなと俺に尋ねた言葉を覚えていてくれたじゃないか。意外とひどい顔だよって、食事なんて食べたいときに食べればいいって。堂島さんも菜々子ちゃんもすぐ帰ってきちゃうから心配しなくていいって。全部、ぜんぶ、足立さんが俺に言ってくれたことだ。
――でも。
僕はね、ひとりのほうが好きなの、と告げる足立さんと、今日の彼の姿が重なる。大人は色々あるから、と疲れたように笑うあの人は、結局俺じゃなくてもいいと漏らしたあの人は、本当はもっと、俺には分からないことを抱えているんじゃないか。それが、ああやって発露されてしまったのではないか。
胸元を強く握りしめる。答えは出ない。こんなことを考えても意味は無い。だって、今日足立さんが俺たちに語ったことが事実で、真実だ。
――それでも。
それでも、俺は足立さんに、確かに救われたんだ。あの人の優しさが嘘だったとしても、あの人に優しくされたのは嘘じゃない。足立さんと過ごす時間が、あの雰囲気が、俺は好きだった。あんな人だとは思わなかった、幻滅したと言えればどんなにいいか。嫌う理由は十分にある。なのに、嫌わない理由も十分すぎるほどある。胸がぎゅっと締め付けられて、息が止まりそうだった。俺があの人を疑うと決めたのに、いざ疑いが確信へと変わればこんなにも迷うなんて、なんて我儘なんだろう。
天井を見上げて、重たく息を吐く。何とはなしにそっと財布を取り出した。あまり家庭に関わらない父親に唯一貰った長財布だ。そこに大切なものをしまうのが、俺の癖でもあった。
力の入らない指先で財布を開け、目的のものを眺める。そこにあるのは、陽介から貰った絆創膏だ。またいつ喧嘩しても構わないように、開封せずそのまま残してある。そっと絆創膏を取り出して、指でなぞる。あの時、陽介は、自分の中のぐちゃぐちゃしたものを全て吹っ飛ばして欲しいと言った。なんだかそれが、今なら痛いほど分かるような気がした。こんな感情、吹き飛ばせるなら吹き飛ばしてしまったほうがいい。でも、吹っ切ってしまったら、俺は足立さんへの思いも無くすのだろうか。あの愛おしい時間を忘れるのだろうか。
嫌だ。忘れたくない。でも忘れたい。忘れるのが正しいのだろう。足立さんが今まで見せた姿は全部嘘だったと思ってしまえば楽だ。どうすればいいのかなんて分かっている。でも、そうしたくない自分も、確かにいるのだ。
――もしかしたら、先輩を呼んでるのかも。りせの言葉がぐるぐると頭の中を巡っている。
こんな気持ちのまま、俺は仲間と過ごして良いのだろうか。絆創膏を見つめていると、約束しろよ、という陽介の言葉が頭を過ぎった。りせの心配そうな顔も浮かんでくる。――ひとりで行くなんて、駄目だ。俺は皆と約束したじゃないか。硬く目を閉じて、俺は足に力を込めて立ち上がった。着替えて、さっさと寝て、明日に備えなければ。明日からは、犯人捜索に全力を注がなければならないのだから。
陽介の絆創膏を財布にしまおうとして、そこに鎮座する小さな紙に目がいった。ジュネスのレシート――尚紀に貰ったものだ。尚紀が少しずつ前に向かえている証拠で、彼の思いが詰まった大切なもの。これは尚紀の決意で、覚悟なのだ。少しだけあたたかい気持ちになって、陽介の絆創膏をしまい、それを取り出そうとして――その後ろの、もう一枚の小さな紙に気がついた。
心臓がすっと冷えていくのが分かった。サイズはほぼ一緒の、ジュネスのレシート。羅列された商品名には見覚えがあった。足立さんがよく買うカップ麺だ。震える指でそれを掴む。今度は確信をもって裏返せば、そこにはあの人からの走り書きが――あの人の心遣いが残っていた。
手から財布がするりと落ちた。小銭が飛び散る音がどこか遠くで聞こえた。感情のままに俺はレシートに手をかけて――それを破ろうとした。菜々子が生死の狭間を彷徨った夜、病室で生田目を見たときに走ったものと似た激情だった。ひどい裏切りだと思った。尚紀の、陽介の、小西先輩を失った悲しみ、犯人への憤りを、ずっと俺は見てきた。なんとしてでもこの事件の犯人は捕まえなければとその度に思った。彼らからの贈り物は彼らの覚悟でもあり、俺の覚悟でもあった。その俺が、犯人からの贈り物を、ふたりの贈り物と一緒に大切にしているなんて。なのに、俺は。
俺は。
――俺は、破れなかった。
まさか書き置きなんて残してくれると思ってなかった。あの人は人と関わるのを面倒に思う性質の人だから。だから、ちょっとだけ気恥ずかしかったけれど、嬉しかった。浮かれた。
初めて大人に頼って、それがちゃんと返された証だった。大人に頼るのは怖いことではないと教えてくれた証拠だった。大切だったんだ。
硬く手を握りしめる。掌の中で、レシートが潰されていく。あの時のようにそれをポケットに突っ込んで、俺は脇目も振らず外に飛び出していた。
足立さんに会いたかった。会いたくてたまらなかった。会って何をしたいわけでもない。会った後どうするかなんて分からない。それでも、ただ、あの人に会いたかった。
勝手にこぼれ落ちる涙だけが熱かった。
俺は何をしに向かっているのだろう。
今更会ってどうするんだ。あの人を追い詰めると決めたのは他ならぬ自分なのに。
みんなと、仲間と、約束したのに。
頭の中で馬鹿な俺を諫める声がする。けれど、ジュネスへと向かう足は止まらなかった。
12月7日。
帰ってきたクマとりせの力を借りて、テレビの中に入った足立さんの居場所を突き止めた。
足立さんの口から動機を、犯行の全てを聞いて、この稲羽で起きていた事件の全容を知った。そこまでは、よかった。あの日仲間に足立さんの名前を告げると決めた時点で、こうなることは予想していた。それでも思ったより心が軋んだけれど、どうにか受け止めることは出来た。ただ、皆の前で取り繕うほどの余裕はなかったのだろう。直斗には労るように言葉をかけられ、里中や天城も俺を気遣うような様相だった。りせにも陽介にも、念を押されるように全員で最後の決戦に向かおうと言われてしまった。……そんなにひどい顔をしていたのかな。自分じゃよく分からなかったけれど。ただ、どうにか笑みを浮かべて、みんなの言葉に頷いたことは覚えている。
とても、静かな夜だった。
自室の扉を後ろ手に閉めて、俺はずるずるとその場に崩れ落ちる。
受け止めることは出来た。受け入れることは、出来なかった。
どうしてだ。全部あなたの言ったことは嘘だったのか? 菜々子と俺と足立さんで囲んだあの幸せな食卓も、堂島さんの淹れてくれたコーヒーを皆で味わったことも。あの時のあなたは確かに楽しそうに見えた。俺と同じに、この空間を愛してくれているのだと、無条件に信じていた。だってあなたは俺にコーヒーを淹れてくれたじゃないか。堂島さんが、お前はミルクだけでいいよなと俺に尋ねた言葉を覚えていてくれたじゃないか。意外とひどい顔だよって、食事なんて食べたいときに食べればいいって。堂島さんも菜々子ちゃんもすぐ帰ってきちゃうから心配しなくていいって。全部、ぜんぶ、足立さんが俺に言ってくれたことだ。
――でも。
僕はね、ひとりのほうが好きなの、と告げる足立さんと、今日の彼の姿が重なる。大人は色々あるから、と疲れたように笑うあの人は、結局俺じゃなくてもいいと漏らしたあの人は、本当はもっと、俺には分からないことを抱えているんじゃないか。それが、ああやって発露されてしまったのではないか。
胸元を強く握りしめる。答えは出ない。こんなことを考えても意味は無い。だって、今日足立さんが俺たちに語ったことが事実で、真実だ。
――それでも。
それでも、俺は足立さんに、確かに救われたんだ。あの人の優しさが嘘だったとしても、あの人に優しくされたのは嘘じゃない。足立さんと過ごす時間が、あの雰囲気が、俺は好きだった。あんな人だとは思わなかった、幻滅したと言えればどんなにいいか。嫌う理由は十分にある。なのに、嫌わない理由も十分すぎるほどある。胸がぎゅっと締め付けられて、息が止まりそうだった。俺があの人を疑うと決めたのに、いざ疑いが確信へと変わればこんなにも迷うなんて、なんて我儘なんだろう。
天井を見上げて、重たく息を吐く。何とはなしにそっと財布を取り出した。あまり家庭に関わらない父親に唯一貰った長財布だ。そこに大切なものをしまうのが、俺の癖でもあった。
力の入らない指先で財布を開け、目的のものを眺める。そこにあるのは、陽介から貰った絆創膏だ。またいつ喧嘩しても構わないように、開封せずそのまま残してある。そっと絆創膏を取り出して、指でなぞる。あの時、陽介は、自分の中のぐちゃぐちゃしたものを全て吹っ飛ばして欲しいと言った。なんだかそれが、今なら痛いほど分かるような気がした。こんな感情、吹き飛ばせるなら吹き飛ばしてしまったほうがいい。でも、吹っ切ってしまったら、俺は足立さんへの思いも無くすのだろうか。あの愛おしい時間を忘れるのだろうか。
嫌だ。忘れたくない。でも忘れたい。忘れるのが正しいのだろう。足立さんが今まで見せた姿は全部嘘だったと思ってしまえば楽だ。どうすればいいのかなんて分かっている。でも、そうしたくない自分も、確かにいるのだ。
――もしかしたら、先輩を呼んでるのかも。りせの言葉がぐるぐると頭の中を巡っている。
こんな気持ちのまま、俺は仲間と過ごして良いのだろうか。絆創膏を見つめていると、約束しろよ、という陽介の言葉が頭を過ぎった。りせの心配そうな顔も浮かんでくる。――ひとりで行くなんて、駄目だ。俺は皆と約束したじゃないか。硬く目を閉じて、俺は足に力を込めて立ち上がった。着替えて、さっさと寝て、明日に備えなければ。明日からは、犯人捜索に全力を注がなければならないのだから。
陽介の絆創膏を財布にしまおうとして、そこに鎮座する小さな紙に目がいった。ジュネスのレシート――尚紀に貰ったものだ。尚紀が少しずつ前に向かえている証拠で、彼の思いが詰まった大切なもの。これは尚紀の決意で、覚悟なのだ。少しだけあたたかい気持ちになって、陽介の絆創膏をしまい、それを取り出そうとして――その後ろの、もう一枚の小さな紙に気がついた。
心臓がすっと冷えていくのが分かった。サイズはほぼ一緒の、ジュネスのレシート。羅列された商品名には見覚えがあった。足立さんがよく買うカップ麺だ。震える指でそれを掴む。今度は確信をもって裏返せば、そこにはあの人からの走り書きが――あの人の心遣いが残っていた。
手から財布がするりと落ちた。小銭が飛び散る音がどこか遠くで聞こえた。感情のままに俺はレシートに手をかけて――それを破ろうとした。菜々子が生死の狭間を彷徨った夜、病室で生田目を見たときに走ったものと似た激情だった。ひどい裏切りだと思った。尚紀の、陽介の、小西先輩を失った悲しみ、犯人への憤りを、ずっと俺は見てきた。なんとしてでもこの事件の犯人は捕まえなければとその度に思った。彼らからの贈り物は彼らの覚悟でもあり、俺の覚悟でもあった。その俺が、犯人からの贈り物を、ふたりの贈り物と一緒に大切にしているなんて。なのに、俺は。
俺は。
――俺は、破れなかった。
まさか書き置きなんて残してくれると思ってなかった。あの人は人と関わるのを面倒に思う性質の人だから。だから、ちょっとだけ気恥ずかしかったけれど、嬉しかった。浮かれた。
初めて大人に頼って、それがちゃんと返された証だった。大人に頼るのは怖いことではないと教えてくれた証拠だった。大切だったんだ。
硬く手を握りしめる。掌の中で、レシートが潰されていく。あの時のようにそれをポケットに突っ込んで、俺は脇目も振らず外に飛び出していた。
足立さんに会いたかった。会いたくてたまらなかった。会って何をしたいわけでもない。会った後どうするかなんて分からない。それでも、ただ、あの人に会いたかった。
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