長編「暗黒閉鎖揺籃 東京 偽りの殺人鬼」
暗闇の中にふたりきり
「貧相なラインナップでしたが、まあまあ悪くないドリンクね!」
八〇八号室。ここが藤丸の部屋として使うことが自然に決定したすぐあと、各々が選んだドリンクを片手に腰を下ろした。椅子を引いてベッドに腰掛けたクレオパトラは、ジャスミンティーを口にしながらふふんと機嫌よさそうにしている。マシュと蘭陵王は座ることなく飲み物を机に置いて、蘭陵王はバスルームを確認した。藤丸が椅子に座る。
「マシュ殿、応急処置の道具はありますか?」
「ありますよ。傷の程度はどのくらいですか?」
「腕を斬られた程度で。大した傷ではありませんが、見苦しいですから、処置して参ります」
マシュからセットを受け取って、蘭陵王は軽く一礼してから「拝借します」とバスルームに入った。マシュが飲み物を手に取り盾を壁に立て掛け、クレオパトラの隣に座った。
「……予約者の名前、ジャックって言ってたけど」手元のオレンジジュースをひと口、藤丸が口を開く。「ジャックちゃんが近くにいるのかな」
「ジャック。ありふれた名前ですから、あのジャックさんとは違うかもしれませんね」
「それに、彼女にホテルの予約ができるとは思えないわ。まして会社を騙るなんて器用な真似、誰かに入れ知恵されていなければ発想がないでしょう」
「それもそっか……ありがたいけど、不気味だね」
三人同時に飲み物に口を付ける。
「交戦開始時、急に人がいなくなったのも気になります。逃げたという感じは一切ありませんでしたね」
「ああそれ、わかる。不自然だった。たくさん人がいたのに、あんな短時間で気配までなくなるなんて」
「……」
「クレオパトラ?」
「……気になることがあるような、気がしたのですけど。何かを忘れているような、見落としているような」
彼女は立ち上がり、閉じられていたカーテンを開く。外は暗く、街灯や他の建物の灯りがその暗さを少しだけ照らしている。それ以外には何もなく、人も歩いていない。クレオパトラはしばらく外を見下ろしていたが、やがてカーテンを閉め、再びベッドに座った。
「何かあった?」
「いいえ、何も。夜だからかもしれないけれど、誰もいないし何もありません」
彼女が足を組むのと同時に、蘭陵王が処置を終えて戻ってきた。
「遅くなり申し訳ございません」
「蘭陵王、大丈夫?」
「傷そのものは問題ありません。戦闘にも支障はないでしょう」
「なあに、その言い方。含みがある言い回しね」
「気付いたことなのですが」怪我をしていた右腕に手を添える。「あのアサシンはマスターを狙い、視線もそちらをずっと向いていました。それでいて、逃走時には私の攻撃をかわしてみせた……私とは一度も目が合わなかったというのに」
自分の飲み物を取って、ひと口。考えながら、言葉を選びながら、頷く。
「思うに、彼は奇襲すること、されることに慣れています。怯えてさえいなければ戦闘力は高いのでしょう。ああまで怯えていたのは何故なのか……そこには意味があるのではないでしょうか」
心に留めておくべきだと思うのです。蘭陵王は目を伏せた。顔を見合わせる藤丸とマシュ。クレオパトラも思案するようにゆっくりまばたきを行う。
「……ひとまず、今日のところはもう休みましょう。夜更かしは美容と健康の大敵。サーヴァントの身であっても、あと平凡なマスターでも、それは変わらないことよ」
「そうですね。電話も備え付けてありますから、何かあったら八一七号室までいつでも電話してくださいね」
「私は八一六号室ね」
「では私は八一五号室をいただきます。明日、何時頃に集合いたしましょうか」
「今は九時ちょうどね。では遅くとも七時には顔を合わせているようにしましょう」
「承知しました。では先輩、失礼しますね」
「起きたらすぐに顔を洗うことね!」
「どうぞごゆっくりお休みください、我が主」
「おやすみ、三人とも」
順に部屋を出る。藤丸一人になった部屋は眠るだけなら充分なスペースがありながら、心なしか広く感じてしまう。藤丸は、ベッドの上に畳まれていた寝巻きが上下揃っていることを確認して、シャワーを浴びるべくバスルームへ入る。
服を脱ぎ、頭も体も顔も洗って、体を拭く。寝巻きを着てドライヤーで髪を乾かす間も、特に違和感を感じることはなかったらしい。乾き切った髪。あくびをひとつ。体が温められたせいか、まぶたが重くなる。ベッドに横になると、何かを考える間もなく、すぐに眠りに落ちてしまった。
まぶたの裏はだいたい暗いものだが、その暗さはいっそう深いものに見えた。深い深い黒。暗い暗い闇。その中に、二人の女が向かい合って立っていた。女は、同じ姿をしている。切り揃えられた黒髪に、黒のレディーススーツ。
「苦しむものが増え続けるなら、対処しなくては」
右の女が低い声で言う。左の女は何も言わない。感情の抜け落ちたような顔をして、ただ真っ直ぐに右の女を見ている。
「救済の道は険しく、しかし停滞こそは後退。誰かがやるべきことならば、私がやらねばならない」
「……」
「あなたも、そう思うでしょう?」
ゆっくり、右の女の視線がこちらへ向いた。暗い目が、静かな憎悪をたたえてこちらを向いた。何かを答えようとするが口が動かない。うごかしかたがわからない。ふたつの目が、脳の奥底まで観察するように、見つめている――。
次の瞬間には天井があった。真っ暗な部屋の中で目が覚めた。
「夢……」
自分が見たものを咀嚼する。夢の中の女は自分を見て、問いを投げかけた。彼女は何と言っていた?
「誰かがやるべきことなら、自分がしなくちゃいけない……」
その言葉を反芻して藤丸は目を閉じる。眠気はない。ただ、己の中の何かが引っ掛かりを覚えている。この引っ掛かりは何なのだろう? 考える藤丸だったが、答えを得ることはできなかったようで、もう一度ベッドに沈む。
「それって本当に、しなくちゃいけないことなの?」
そんな言葉が自然と漏れたが、それは何を意味する言葉であろうか。
「貧相なラインナップでしたが、まあまあ悪くないドリンクね!」
八〇八号室。ここが藤丸の部屋として使うことが自然に決定したすぐあと、各々が選んだドリンクを片手に腰を下ろした。椅子を引いてベッドに腰掛けたクレオパトラは、ジャスミンティーを口にしながらふふんと機嫌よさそうにしている。マシュと蘭陵王は座ることなく飲み物を机に置いて、蘭陵王はバスルームを確認した。藤丸が椅子に座る。
「マシュ殿、応急処置の道具はありますか?」
「ありますよ。傷の程度はどのくらいですか?」
「腕を斬られた程度で。大した傷ではありませんが、見苦しいですから、処置して参ります」
マシュからセットを受け取って、蘭陵王は軽く一礼してから「拝借します」とバスルームに入った。マシュが飲み物を手に取り盾を壁に立て掛け、クレオパトラの隣に座った。
「……予約者の名前、ジャックって言ってたけど」手元のオレンジジュースをひと口、藤丸が口を開く。「ジャックちゃんが近くにいるのかな」
「ジャック。ありふれた名前ですから、あのジャックさんとは違うかもしれませんね」
「それに、彼女にホテルの予約ができるとは思えないわ。まして会社を騙るなんて器用な真似、誰かに入れ知恵されていなければ発想がないでしょう」
「それもそっか……ありがたいけど、不気味だね」
三人同時に飲み物に口を付ける。
「交戦開始時、急に人がいなくなったのも気になります。逃げたという感じは一切ありませんでしたね」
「ああそれ、わかる。不自然だった。たくさん人がいたのに、あんな短時間で気配までなくなるなんて」
「……」
「クレオパトラ?」
「……気になることがあるような、気がしたのですけど。何かを忘れているような、見落としているような」
彼女は立ち上がり、閉じられていたカーテンを開く。外は暗く、街灯や他の建物の灯りがその暗さを少しだけ照らしている。それ以外には何もなく、人も歩いていない。クレオパトラはしばらく外を見下ろしていたが、やがてカーテンを閉め、再びベッドに座った。
「何かあった?」
「いいえ、何も。夜だからかもしれないけれど、誰もいないし何もありません」
彼女が足を組むのと同時に、蘭陵王が処置を終えて戻ってきた。
「遅くなり申し訳ございません」
「蘭陵王、大丈夫?」
「傷そのものは問題ありません。戦闘にも支障はないでしょう」
「なあに、その言い方。含みがある言い回しね」
「気付いたことなのですが」怪我をしていた右腕に手を添える。「あのアサシンはマスターを狙い、視線もそちらをずっと向いていました。それでいて、逃走時には私の攻撃をかわしてみせた……私とは一度も目が合わなかったというのに」
自分の飲み物を取って、ひと口。考えながら、言葉を選びながら、頷く。
「思うに、彼は奇襲すること、されることに慣れています。怯えてさえいなければ戦闘力は高いのでしょう。ああまで怯えていたのは何故なのか……そこには意味があるのではないでしょうか」
心に留めておくべきだと思うのです。蘭陵王は目を伏せた。顔を見合わせる藤丸とマシュ。クレオパトラも思案するようにゆっくりまばたきを行う。
「……ひとまず、今日のところはもう休みましょう。夜更かしは美容と健康の大敵。サーヴァントの身であっても、あと平凡なマスターでも、それは変わらないことよ」
「そうですね。電話も備え付けてありますから、何かあったら八一七号室までいつでも電話してくださいね」
「私は八一六号室ね」
「では私は八一五号室をいただきます。明日、何時頃に集合いたしましょうか」
「今は九時ちょうどね。では遅くとも七時には顔を合わせているようにしましょう」
「承知しました。では先輩、失礼しますね」
「起きたらすぐに顔を洗うことね!」
「どうぞごゆっくりお休みください、我が主」
「おやすみ、三人とも」
順に部屋を出る。藤丸一人になった部屋は眠るだけなら充分なスペースがありながら、心なしか広く感じてしまう。藤丸は、ベッドの上に畳まれていた寝巻きが上下揃っていることを確認して、シャワーを浴びるべくバスルームへ入る。
服を脱ぎ、頭も体も顔も洗って、体を拭く。寝巻きを着てドライヤーで髪を乾かす間も、特に違和感を感じることはなかったらしい。乾き切った髪。あくびをひとつ。体が温められたせいか、まぶたが重くなる。ベッドに横になると、何かを考える間もなく、すぐに眠りに落ちてしまった。
まぶたの裏はだいたい暗いものだが、その暗さはいっそう深いものに見えた。深い深い黒。暗い暗い闇。その中に、二人の女が向かい合って立っていた。女は、同じ姿をしている。切り揃えられた黒髪に、黒のレディーススーツ。
「苦しむものが増え続けるなら、対処しなくては」
右の女が低い声で言う。左の女は何も言わない。感情の抜け落ちたような顔をして、ただ真っ直ぐに右の女を見ている。
「救済の道は険しく、しかし停滞こそは後退。誰かがやるべきことならば、私がやらねばならない」
「……」
「あなたも、そう思うでしょう?」
ゆっくり、右の女の視線がこちらへ向いた。暗い目が、静かな憎悪をたたえてこちらを向いた。何かを答えようとするが口が動かない。うごかしかたがわからない。ふたつの目が、脳の奥底まで観察するように、見つめている――。
次の瞬間には天井があった。真っ暗な部屋の中で目が覚めた。
「夢……」
自分が見たものを咀嚼する。夢の中の女は自分を見て、問いを投げかけた。彼女は何と言っていた?
「誰かがやるべきことなら、自分がしなくちゃいけない……」
その言葉を反芻して藤丸は目を閉じる。眠気はない。ただ、己の中の何かが引っ掛かりを覚えている。この引っ掛かりは何なのだろう? 考える藤丸だったが、答えを得ることはできなかったようで、もう一度ベッドに沈む。
「それって本当に、しなくちゃいけないことなの?」
そんな言葉が自然と漏れたが、それは何を意味する言葉であろうか。
