短編
前夜
空に浮かぶストームボーダーの上に、ひとりの女が立っていた。入り口の前で立ち尽くし、感情の抜け落ちた表情でそれを見下ろしている。女の存在は輪郭を持たず、ただ、影がそこにある。それでも女である、人型である、意思を持っている。影の奥に見える鋭い目が、まるで何かを待っているかのように鈍く光っている。
入り口が開いた。女はゆっくりと一歩だけ下がる。開いた入り口の中から出てきたのは、分厚いマントに身を包んだ男。
「俺を呼んだのは、おまえか」
影に語り掛け、入り口が閉まるのと同時に懐から煙草の箱を出して一本取り出す。影はじっと男を見つめるだけで、何もしないし、何も言わない。男はもの言わぬ影にちらと視線を投げかけてから煙草に火を点け、口に咥えてからふうっと煙を吐き出した。
「おまえが呼んだ、という言い回しには語弊があるか。であれば、俺に呼び掛けたのは、おまえの霊核そのものか?」
「憎しみによる救済が、近付いています」
女の声は感情を抑制した、こもった声だった。
「憎しみは救済とは結び付かん」
彼の言葉には、実感が込められていた。すべてを知る賢者のように重い言葉は、確かに女に届いて、しかし影は首を横に振る。
「そんなことを言わないで。憎しみに救われる人間も、確かに存在する」
「だとして、おまえは何の用でここに足を運んだ? たったそれだけを告げに来たわけではあるまい」
「観測のため、そして、警告」
「ほう」興味深そうに目を開いて、もう一度煙草の煙を食む。「言ってみろ」
「復讐者が刃を研いでいる。あなたがたに視線を向けながら」
男の表情は変わらず真剣で、彼女のひと言ひと言を取りこぼさない。表情も存在も、なにもかもが曖昧な彼女から真意を読み取るには、言葉を汲み取るしかない。冷静なようでいて救いを求めるようなその声音に乗せられた真意を、男は受け取る。
「……女。おまえは、何に属するものだ」
「貴方と同じ種類の光を持つ者です」
「わが身に光などない。あるのは漆黒の炎のみ」
「わからなければそれでいい。そうして生きて来られたのなら、それを継続するべきです。無自覚とは、時に合理的な手段となる」
「まるで、言葉の意味するところを深く探れと言っているようだが」
煙草の煙が風に運ばれる。影の中の目が一瞬伏せられた。
「……時間切れのようです」
彼女は一歩だけ下がり、男と距離を置く。少しだけその体が透けて、言葉通り時間切れであることを表す。
「此度の言葉は」
「お任せします」
「口を閉ざしておこう」
男も、己の炎で煙草を灰にし、ライターを仕舞って、背を向ける。ストームボーダーの入り口が開いて、その中へ足を踏み入れる。
「では、お待ちしています……巌窟王」
「せいぜい足掻け、新しき復讐者」
空に浮かぶストームボーダーの上に、ひとりの女が立っていた。入り口の前で立ち尽くし、感情の抜け落ちた表情でそれを見下ろしている。女の存在は輪郭を持たず、ただ、影がそこにある。それでも女である、人型である、意思を持っている。影の奥に見える鋭い目が、まるで何かを待っているかのように鈍く光っている。
入り口が開いた。女はゆっくりと一歩だけ下がる。開いた入り口の中から出てきたのは、分厚いマントに身を包んだ男。
「俺を呼んだのは、おまえか」
影に語り掛け、入り口が閉まるのと同時に懐から煙草の箱を出して一本取り出す。影はじっと男を見つめるだけで、何もしないし、何も言わない。男はもの言わぬ影にちらと視線を投げかけてから煙草に火を点け、口に咥えてからふうっと煙を吐き出した。
「おまえが呼んだ、という言い回しには語弊があるか。であれば、俺に呼び掛けたのは、おまえの霊核そのものか?」
「憎しみによる救済が、近付いています」
女の声は感情を抑制した、こもった声だった。
「憎しみは救済とは結び付かん」
彼の言葉には、実感が込められていた。すべてを知る賢者のように重い言葉は、確かに女に届いて、しかし影は首を横に振る。
「そんなことを言わないで。憎しみに救われる人間も、確かに存在する」
「だとして、おまえは何の用でここに足を運んだ? たったそれだけを告げに来たわけではあるまい」
「観測のため、そして、警告」
「ほう」興味深そうに目を開いて、もう一度煙草の煙を食む。「言ってみろ」
「復讐者が刃を研いでいる。あなたがたに視線を向けながら」
男の表情は変わらず真剣で、彼女のひと言ひと言を取りこぼさない。表情も存在も、なにもかもが曖昧な彼女から真意を読み取るには、言葉を汲み取るしかない。冷静なようでいて救いを求めるようなその声音に乗せられた真意を、男は受け取る。
「……女。おまえは、何に属するものだ」
「貴方と同じ種類の光を持つ者です」
「わが身に光などない。あるのは漆黒の炎のみ」
「わからなければそれでいい。そうして生きて来られたのなら、それを継続するべきです。無自覚とは、時に合理的な手段となる」
「まるで、言葉の意味するところを深く探れと言っているようだが」
煙草の煙が風に運ばれる。影の中の目が一瞬伏せられた。
「……時間切れのようです」
彼女は一歩だけ下がり、男と距離を置く。少しだけその体が透けて、言葉通り時間切れであることを表す。
「此度の言葉は」
「お任せします」
「口を閉ざしておこう」
男も、己の炎で煙草を灰にし、ライターを仕舞って、背を向ける。ストームボーダーの入り口が開いて、その中へ足を踏み入れる。
「では、お待ちしています……巌窟王」
「せいぜい足掻け、新しき復讐者」
