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長編「暗黒閉鎖揺籃 東京 偽りの殺人鬼」

 霧の影の告げた道順に従って駆けると、藤丸とマシュはホテルに戻ってきた。ホテルの前も人でごった返していたから、さっさとエントランスに入り、入り口近くのソファのあるスペースに腰を落ち着けた。ホテル内は誰もおらずしいんと静まり返っているが、暖色の照明に照らされて、妙に安心する。
「何だったんだろう、あの影……」
 藤丸は影の姿を思い出そうと腕を組む。霧が出て、影がゆらりと現れて……それから先は記憶があいまいになっている。彼が口にした道順のことだけは覚えていて、声音は思い返すことができない。
「敵、ではなさそうだった?」
「よく覚えていませんが、いただいた情報は正確でした。無事にホテルに帰還できましたから」
「あの霧と影のことは気になるけど、まずはクレオパトラと蘭陵王を待とうか……ん?」ウェルカムドリンクと朝食の会場からいい匂いが漂ってきた。「このホテル、ランチもあるの?」
「特に案内はありませんでしたが、私たちが利用してもいいのでしょうか? フロントに確認してみましょう」
 会場に直行したい気持ちを抑えながら立ち上がり、二人はフロントへ。呼び鈴を鳴らす。現れたスタッフは、やはり呼び鈴が鳴らされるのを予見していたかのような歩みで出てきた。
「どうされましたか、藤丸様」
「ランチって、自分たちも利用していいんですか?」
「勿論でございます」にこりと微笑む。「藤丸様のご宿泊プランに含まれているサービスですので、どうぞご利用くださいませ」
「ありがとうございます」
 マシュと顔を見合わせて、弾む足取りで会場へ移動した。
 ランチはビュッフェスタイルで、種類は控えめながら、和洋さまざまな品がテーブルに並んでいた。他に利用者はいないが、かえって落ち着いて食事を摂れそうだ。特に藤丸の目を引いたのは炊飯器と味噌汁の鍋。鮭の切り身。漬物。和洋さまざまと書いたが、和食が特に目につくラインナップだった。
 手指の消毒をして、トレーを持つ。何からいただこうか。マシュはオムレツを皿に盛っている。藤丸はまず、白ご飯をよそうべく炊飯器に近付いた。
 家庭用のそれよりも大きく重そうな銀の炊飯器。ボタンを押して開けると、湯気と炊きたてご飯のあったかい匂いが立ち上る。ほかほかの白米は一粒一粒がつやつやと輝いて食欲をそそる。トレーを置いて茶碗を持ち、水に浸してあったしゃもじで、米粒の海をさくり。そのひとすくいもまた湯気が立っていて、茶碗に盛り、さくさくと均すとまたいい匂いを放つのだ。
「ちょっと足りないかな……」
 もう一度、しゃもじを炊飯器の中の白い海へ突き立てる。先程のひとすくいの半分の量をすくって、均した白米の上に乗せる。かくしてこの茶碗一杯分の米は、藤丸のものとなった。役目を終えたしゃもじを水の器に戻し、炊飯器の蓋をしっかりと閉め、すくわなかったお米たちに別れを告げる。
 次は、味噌汁の鍋。蓋を開けると味噌とだしの香りが鼻腔をくすぐる。ステンレスのおたまはまだ誰にも使われておらずぴかぴかだ。手に持って、味噌汁を底からかき混ぜる。ふわと浮いてきたわかめ。サイコロ状の小さなお豆腐。シンプルな具だが、これでいい。わかめとお豆腐をすくって、味噌汁の器にそっとリリースする。わかめを多くすくおうとおたまを沈め、持ち上げ、また器に注ぐ。湯気の立つ一杯の味噌汁。
 味噌汁の蓋を閉め、おかずを取りに行く。藤丸が選んだのは鮭の切り身ときゅうりの漬物。それとサラダも付けた。マシュの方をちらと見ると、彼女も料理を取り終えたようで、トレーを持って席に着こうとしているところだった。
「何選んだ?」
「私はパンとオムレツ、サラダとポタージュにしました。先輩は……」
「定食みたいにしてみた!」
「いいですね! とても美味しそうです」
 隣同士の席に座って、手を合わせる。まずはサラダから。ドレッシングのかかったレタス、コーン、細切りの人参。箸でつまんで口に運ぶと冷たくて、咀嚼するとシャキシャキと新鮮な音を立てる。レタスのかすかな苦みとコーンの甘さ、ドレッシングの塩味が合わさり美味だ。シャキシャキ、プチッとした触感が楽しい。
 飲み込んでから、味噌汁に手を伸ばす。飲むと、サラダで冷えた口内が温まって、味噌の持つ塩味と出汁のうまみが口いっぱいに広がる。喉に送り込むと、体の内側からぽかぽかと温まって、心まで染み渡る。
 今度は茶碗を左手に持って、箸で切り身をひと口大に切り分ける。口に運び、間髪入れず白米を頬張ると、薄味の鮭とほかほかの米の組み合わせに笑顔がこぼれる。噛めば噛むほどうまみ成分が溢れてくる。そこへ漬物を放り込むと、ぽりぽりと砕けて米と混ざって、米の味がより引き立つのである。
「う~ん、おいしい!」
 食事が進む。気付けばもう半分以上食べ終わっていた。あと数口分残った鮭の切り身に箸を伸ばしたところで、出入り口の方から足音がした。
「帰還いたしました、マスター」
「どこにいるのかと思えば、妾を差し置いて先に食べていたのね。いい時間ですから、その判断は正しいと思うけれど!」
 蘭陵王とクレオパトラが帰ってきた。二人に特に負傷している様子はないのを見て、藤丸とマシュはほっと息をつく。
「二人とも、大丈夫だった? 戻ってくるのに道に迷ったり……」
「ええ、実は」二人が向かいに座る。「クレオパトラ殿に止めていただいたあと、このホテルを目指して移動したのですが、どこの路地を通っても同じ場所に戻ってきてしまい。途方に暮れていたところ、ある人物に抜け道を教えていただいたのです」
「その通りに進んだら、やっとここに戻って来られた。でも、その人が誰なのか……私も蘭陵王も覚えていないのです」
 藤丸とマシュは箸を止め、顔を見合わせる。藤丸の方は考え込み、マシュは一度スプーンを置いた。
「実は、マスターと私も同じ体験をしました。道を教えてくださった方は、誰なのか……記憶に霧がかかったようなんです」
「霧。そう、文字通り霧がかかっていたように思います。魔力を帯びた霧が」
 蘭陵王も考え込む。断片的な記憶を頼りに思案していたが、やがてため息をつき、肩を落とす。
「……申し訳ありません。やはり、思い出せそうになく」
「なら、今考えても仕方のないことね。時間の無駄。それよりも、今わかっていることをまとめるのが先でなくて?」
「今わかっていること……」
「食べ終わってからです。早く食べてしまいなさい! ああ、すぐ飲み込まずによく噛むのです」
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