あるフリーターの憂鬱Ⅰ
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幸か不幸か俺には死に戻りの能力などは備わっていなかった。
よって、ハルヒ暴風域に囚われた俺は、古泉と雁首揃えて文芸部の部室へとバーゲンセールの荷物のように両手に引きずられている真っ最中である。台風の目って風がないんだぞ普通は。知ってるか? だがしかし、その辺のちゃちな気圧と涼宮ハルヒを一緒くたにしてはいけない。こいつの場合、中心部分が一番息が出来ないのだから。どっちかっていうと竜巻だなこりゃ。
ところで、数分前まで歯の浮くようなセリフを言ってみせた古泉は、ハルヒに腕をキメられながらも俺に笑顔のプレゼントを寄こしてきている。恐らくは一挙一動見逃さず把握して、監視するために。まったくご苦労なことである。せっかくのイケメン面を四六時中俺の方に向けていたんじゃ、女子の一人も言い寄れない。
案外、俺はそのために古泉に盾にされたんじゃないかという気すらする。男が好きだということにしておけば、大抵の女子は諦めてくれるだろうからな。羨ましいを通り越して忌々しい。俺も人生に一度くらいはモテまくってみたいものだ。
「いい? ヒカリ、昔馴染みって言ったって、なにも簡単に付き合うことないわよ。ちゃんと、古泉くんのこういうとこがいいって思えなきゃ意味がないんだから。とにかくあんたは自主性を持ちなさい」
お前の勝手な妄想のせいで古泉をホモにしておいて、よく言う。ていうか何? 俺叱られてる? お前は俺のおかんか?
「最初からそんな気ない。言われなくてもそうするよ。心配どうも。つーかどっちの味方だお前は。出来れば俺の味方をしてくれよ。お前が一人加勢してくれれば、少なくとも顔面偏差値では勝てる」
「どうかしら。あんた流されやすそうだから。気の抜けた若者って感じで、自分がないのよねー。しっかりしなさいよ? こういうのは本心でぶつかり合わなきゃ意味ないの。テキトウばっかり言ってちゃダメなんだからね。わかってるの?」
お前の方が若いんだが、とはさすがに言わない。でも、俺はハルヒに反抗すると古泉にちゃんと宣言しているので、ちゃんと反抗した。大人を甘く見たことを反省させてやるのだ。
「ボロクソかよ。言っておくけどな、お前が自我最強すぎるだけで俺は普通だからな。自我ゼロはむしろ古泉だ。そいつに言え。そうだ、特に意味もなく労ってやれ。その一言で古泉はきっとこれからも頑張っていける。スマイルがタダってのは一部店舗だけだからな」
「言われなくてもそうするわよ。いいわね古泉くん、頑張りなさい。あたしはあんたに期待してるんだから。今までも頑張ってきたんだろうけど、それはそれ、これはこれよ。ちゃっちゃとヒカリをモノにして見せなさい!」
「……もちろん。そのつもりです」
古泉はまたきょとんという顔をして、それからにっこりと笑ってそう言った。そうそう、ハルヒ大明神様のために粉骨砕身やってんだからちゃんと褒めてやらんとな。ハルヒに隠れて百面相する古泉ってのは、気分がいいもんだね。
薄く瞼を開き、居心地の悪い目で古泉が俺を見る。睨んでるつもりなら無駄だ。お前がああやって策を講じるなら、俺だってギリギリの単語でヒヤヒヤさせてやるくらいの事は出来るんだぞ。毎日ぐっすり眠りたいなら、強引な手段に出ることはこれで最後にするんだな。
古泉はやはり自分の行動を後悔しているのか、こちらを見て思案顔なぞをしている。
目の前の餌に飛びつくからそうなるんだ。俺はちゃんと引き返せる隙間を残しておいた。お前が勝手に俺の足首を掴んで道連れに落ちたBL蟻地獄である。無論、嘘の恋愛などに付き合ってやるつもりは毛頭ない俺は、ざまあみろという気持ちを込めて古泉に歯を見せた。
「へい、お待ち!」
顔馴染みのUber eats配達員のように部室の扉を開き、ハルヒは俺たちを叩き込む。荒々しく扱いやがって。低評価つけてやろうか。
「一年九組と我がクラスにやってきた、即戦力の転校生、その名も、」
「古泉一樹です。……よろしく」
即戦力ってなんだろうな。今年のコミケとかかな。創作BLでスペースを取るつもりなら、俺は全身全霊をかけて止めるぞ。なにせそうなったら売り子をするのは俺と古泉だろうからな。
ここまで精度のいいコスプレもないってくらいの注目を集めてみせるだろうが、晒し物になるのはお断りだ。
「ここ、SOS団。あたしが団長の涼宮ハルヒ。そこの三人は団員その一と二と三」
「もうちょいちゃんと紹介しろよ。入るもんも入らなくなるぞ」
まあ、古泉は絶対入団するんだが。それにしたってケチをつけておく。後で名前を呼んで、なんで知っているんだなどと聞かれるのは三流ミステリのオチより質が悪い。
「しょうがないわね。この子は長門有希。文芸部の部室を貸してくれてるの。見ての通り本が好きなメガネっ娘よ」
長門は無言でわずかに顎を引いた。多分、あれで頭を下げているつもりなんだろう。思えば、今日は長門がキョンに身バレを行う日ではないか。つまり、昨日長門が俺とばったり出会ったのは、日課のキョン待ちの最中に俺が訪問することを知っていて、途中で切り上げて駆けつけてくれたということなのだろう。大変済まないことをした。
長門の目はガラス玉のように透き通っていて、そこには怒りや疲労は見えない。でも、なるべく世話はかけたくないものだ。
「で、こっちが一個上の朝比奈みくるちゃん。見ての通りロリ巨乳よ。うちのマスコット」
「ふぇえ……な、なんでそんなこと言うんですかあ……」
今の世、ふええなんて言って許されるのは朝比奈さんくらいだ。彼女はわかりやすいくらい俺を見て困惑している。そりゃ、さっき助け合おうねって言った相手が突然自称彼氏みたいな男を連れて現れればああもなろう。
彼女は今のところ、最も俺の身元を労わってくれる重要人物である。なにせ性別のことを知っているわけだしな。
長門も知ってるだろうけど、あいつはまだデリカシーって言葉はまだまだ勉強中だ。放って置けば、ハルヒのように教室で平然とジャージに着替えかねないタイプである。
「こいつはキョン」
「俺にも名前くらいはあるんだが」
「どうっでもいいのよそんなことは。古泉くん、キョンは雑用みたいなもんだから、好きに使っていいからね」
キョンくんは呆れ顔で肩を竦めた。
そういえば彼の名前を、元の世界で知っているのは作者と編集者と俺くらいなんだろうな。俺は彼の名前の響きがとても好きだけど、ここではそのままキョンくんと呼ばせてもらうことにする。せっかく身近にいるのだし、ちょっと嫌そうなところがかわいいから。
「ほらヒカリ、あんたも」
「こん~。芦川ヒカリです。好きな煮物は筑前煮です。よろしくお願いします」
「毎回変わってんじゃないの。煮物がそんなに好きなわけ? ああ、お菓子もそうだし、和食派ってことね」
ハルヒは一人でどうでもいい納得をした。実際それは当たりで、俺は和食好きだ。でも、洋食だって別に嫌いじゃないぞ。楽な料理も多いしな。俺はこの後の校内散策の描写を反芻している。確かさくっと描かれていたので、何が起きるかは未知数だ。そういうのが一番怖い。
「古泉くんは絶賛ヒカリに片想い中だそうよ。みんなジャンジャン応援してあげなさい。応援ってのは立ちはだかる壁のことをも言うんだからね。障害になったっていいのよ」
「公開処刑じゃねえかよ。古泉のやつ可哀想に」
「なに人事みたいに言ってんのよ。あんたが冷たくするから、あたしが手を貸してあげてるんでしょ。さっさとオーケーしちゃえば早いんだから」
なんなんだよそのダブスタは。さっきはよく考えろとか言ってたじゃねえか。お前さては恋愛相談に乗ってみたかっただけでちょっと飽き始めてんだろ。はえーな。
キョンが鞭で打たれるサーカスの珍獣を見るような目でこちらを見ていた。君のそれが一番傷つくからやめてくれ。あーあ、もう、完全に俺のこと変なやつ扱いじゃないか。地味にショックだなあ。
「入るのは別にいいんですが」
古泉は柔和な笑みを崩さない。冷静で羨ましいことだ。
「何をするクラブなんですか?」
「よく聞いてくれたわね」
長門と朝比奈さん、それからキョンくんがこちらをじっと見る。ああもういい。だいたい言いたいことはわかった。
長門は視線を向けただけ。朝比奈さんは新規参入事業者である機関の寄こした古泉を気にしていて、キョンは俺と古泉を被害者だと憐れんでいる。残念ながら被害者はここにいる全員だけどな。
「宇宙人や未来人や超能力者、異世界人を探し出して、一緒に遊ぶこと!」
俺は頷きながら腕組みをしている。アニメ1話の有名なセリフである「普通の人間には興味ありません」は聞き逃したが、ここで回収できればいい方だ。ん? あれ? 今なにか違和感があった気がしたが、反応が遅れても面倒なことになりそうだ。とりあえず、付箋をつけて横に避けておく。
硬直する長門、沈黙する古泉とは珍しいものを見た。雷に打たれたような顔をしていた朝比奈さんが、食事を抜かれたチワワのような目で俺をそわそわと見つめている。そんな目で見られても、ハルヒの前じゃ妙な行動は取れませんし、俺は黙って置き物になっていますよ。
「何聞き流してんのよ。あんたも入るんだからね」
「ちなみに入らないって選択肢は」
「あるわけないでしょ」
「まあ、おもろそうだなとは思うけど」
「よくわかってるじゃない! さすがはあたしが見込んだ不思議寄せパンダなだけはあるわ」
おい、今酷い言葉が聞こえた気がするぞ。一般人枠その2だと思ってたら、俺ってマスコット枠その2だったのか。朝比奈さん特有の、あのかわいらしさは俺にはないんだけどなあ。
「はあ、なるほど」
古泉は何を思ったのか一拍おいて「さすがは涼宮さんですね」と、とりあえず褒め称えてから頷く。さすがの古泉でも予想はしていまい。まさかこの学校に犇めき合う勢力をハルヒが集めて、自分まで引き込んでおかしなチームを作ろうとしているとまでは。
しかし、そこはやはり柔軟性のある古泉だ。
「いいでしょう。入ります。今後とも、どうぞよろしく」
こんな感じで入団を了承した。原作ネタが聞けないことも多い中、台本に忠実な古泉からは完璧な再現が得られて大満足だ。
俺がどら焼きを気にしている間に古泉のやつはキョンくんと挨拶を済ませたらしい。予定通り朝比奈さんが躓き、オセロ盤をひっくり返した。古泉が彼女の助けに入る。見るからに美男美女の仲睦まじい光景で、俺は微笑ましくなって眺めている。
「ちょっと、ヒカリ。これでいいわけ?」
「何が?」
どこかでしたような会話だ。
「何って、古泉くんよ。あんたに長年片思いしてたのに、もうみくるちゃんが陥落しそうじゃない。なんとも思わないの?」
「仮にその主張が正しいとして、片思いしていたのがあっちなら俺がなにかを思う要素はない。それに朝比奈さんはそう軽くないと思うが? 解釈違いなんだが?」
「はー、もう、つまんないやつね。ところで古泉くん。好きなコスプレってある?」
「話の腰がギックリになってるぞ」
朝比奈さんと少女漫画みたいな映像を繰り広げていた古泉は、悩ましいような仕草をした。仕方なく、俺は助け船を出してやることにする。まあ、一応衣食住を保証してもらうのだ。協力くらいはするさ。
「執事とか似合いそうだな」
「馬鹿ね。古泉くんが似合うやつじゃなくて、古泉くんがグッとくるやつの話よ」
なさそうだから俺が会話に割って入ったのだが。そもそも、女の趣味なんての自体がなさそうじゃないか。お前にしかかまけてないないんだぞ、こいつは。いや、隠れてこっそり彼女がいてもおかしくないスマートさに見えなくもないが、やっぱりいないだろう。うん。
もしも過去にいたとしても、デート中に突然電話が来ていなくなるようなやつ。振られちゃうだろうし。
「で、古泉くんはどういうのが趣味なのよ。清楚系? 元気系?」
元気系だろうな。とはいえ、古泉にハルヒがそれを聞くというのは酷な状況だろう。あーあー、今日一日で古泉の胃に穴が開きそうで見てられん。
「お前は実際バニーすきなの?」
「好きってわけじゃないけど、兎ってとこがいいじゃない?」
「まあ、かわいいけど」
「あたしを褒めてどうすんのよ。古泉くんの話でしょ」
「お前じゃなくて兎を褒めてんだよ」
てきとうな相槌を打っていると、古泉が会話に参入してくる。さて、イエスマン古泉に相応しい、無難な答えは見つかったのかね。
俺の方は完全な時間潰しである。早くここを出てやりたいので、長くは話さない。長門はキョンに用があるだろうし。
「そうですね。多分に漏れず、一般的な趣味だと思いますよ」
「じゃあメイドさんとかも好きなのね」
「そうなりますね」
すごいな。一言も自分の趣味を言わないまま会話を成立させた。さすが超能力者、汚い。
「ちょっとヒカリ、あんたはないの? 着てみたいやつ」
「俺は着る側なのかよ」
そうだなあ。今が既にコスプレだからなあ。特にないなあ。このどら焼き一個食べちゃダメかなあ。そういや、昼間結局ちゃんとメロンパン食えてないんだよな。腹減ってきた。
「ない」
「メイドさん、お似合いだと思いますよ」
やめろよ。それ朝比奈さんのやつだから。古泉はハルヒの機嫌を取るのに忙しいらしく、ああでもないこうでもないと俺のコスプレの話をしている。何に決定しても着るつもりはないけど。
俺はポケットのスマホをちらと見た。いざという時のために、消耗しないよう電源は入れてない。これは根拠のない予感だが、このサバイバル生活では元の場所との明確な繋がりであるスマホが、唯一の生命線な気がする。
「あんたやる気ないわねえ。なに、時間でも気にしてんの? ご両親から連絡でもあるわけ?」
ハルヒの言葉に、俺はぴし、と姿勢を正す。古泉も身構えた。いもしない家族の話を深堀りされるのは避けたい。そこから長門や朝比奈さんに飛び火しても悲惨だろう。多分みんな一人暮らしだろうから。
次に来そうな会話のネタとしては「そういえば、親って外国のどこに行ったの?」とか「なんの仕事してるの?」辺りだろうか。俺は深呼吸を一つして、備える。
「いや、連絡はないと思う。これでも家事は出来るほうなんだ。さすがは俺。信頼と実績が違いますよ」
「ふーん。あんたの親ってどこにいるの?」
「にっ……、」
やっぱりそう来たか。と、思っていても咄嗟に言葉が出ないのが人間というものである。
よくクイズ番組を見ている時に、簡単な問題に解答者がトチっているのを見て、何をやっているんだと文句を言ったりするのは俺もだ。しかし、今となっては解答者席に座ったこともないのに、よく言えたものだと思う。
さらに、ハルヒの出すクイズは難問である。触らぬ神に祟りなしとは言うが、足の速い神様が追いかけてきてタッチしてくるのだから、逃げようもない。独特の緊張感があることを、みんなに一度味わってみてほしいくらいだ。
現に俺は「日本」の「に」を口に出してしまった。ぱっと思いつくのはニューヨークだが、国じゃねえ。
「ニカラグア……」
「そこって何語よ」
しくじった。ニュージーランドもあったじゃないか。知らねえぞ、ニカラグアの共用語なんて。と、古泉がひょっこりと顔を覗かせる。
「スペイン語じゃありませんでしたか?」
今、俺はお前に表彰状と手作りメダルをあげたい。
「へー、そうなのね。まあ、親なんだし日本語喋れるんでしょ? 電話したら?」
てきとうな相槌を打っていたことに深層心理で気づいたのか、ハルヒは俺をセンターに入れてひたすらスイッチを押している。そういう機嫌の悪さもあるのか、へえ勉強になったな。緊張通り越して落ち着き始めた人間ってのは、もうダメだよな。ダメです。
と、古泉は唐突に俺の肩を引き寄せる。俺は汗まみれの靴下を嗅いだ猫みたいな顔で固まった。ちなみにこれをフレーメン反応という。テストには多分出ないので覚えなくていい。一応古泉の沽券に関わるので否定しておくが、古泉自体はムスク系の香りだった。しゃらくさいなおい。
「携帯電話を壊してしまったと、お昼に言っていましたよね。もしも僕と番号を交換するのが嫌で、嘘を吐いたのでなければの話ですが」
「はあ? なっさけない。まあ、あんた不幸そうな顔してるもんね」
「顔近! そう、壊れた! ていうか不幸そうな顔ってなに!?」
散歩を嫌がる犬のように距離を取ろうとする俺を見て、ハルヒはむすっとした顔をした。おかしいな、わざわざ古泉が身体を張って機嫌を取りに行ったのに、あまりお気に召さなかったようだ。
俺もHPを削って耐えてるけど、腐女子ってあからさまなのにテンション上がらないんだよな。あるある。公式からの供給で逆に萎えるみたいなのね。小芝居おしまい。離れろ古泉。
「まあいいわ。あたし寄るところあるから。あ、古泉くん、番号教えて」
ハルヒはあっさり引き下がる。寄るところ? ちょっと、校内案内はどうしたんだ。俺は焦る。古泉はすぐさま俺と離れてハルヒと電話番号を交換し始め、俺は長い溜息を吐いた。原作と違うことされるとそわそわするな……。ハルヒは不機嫌そうじゃないのに、ぴりぴりとした空気を感じてしまう。
そのハルヒが「解散」と言い残して去って行くと、古泉も茶番は終わりだとばかりに「失礼」と部室を出ていく。いや、お前いないと俺、家わかんねえんだけど。仕方なくどらやきを抱えた俺を、朝比奈さんが呼び止める。その手は、耳を抑えていた。
「ヒカリくん。途中まで、一緒に帰りませんか?」
「願ってもない提案です」
振り返れば、キョンが俺を睨んでいた。なにもないってば。
なんだよもう、俺はこのまま全員の嫉妬を浴びながら暮らしていかないといけないのか。それはさておき、長門、ファイトだぞ。頑張って長台詞を浴びせかけて、キョンの度肝を抜いてやってくれ。俺が拳を握って突き出すと、長門は数秒遅れて緩やかに拳を握って見せた。
うーん。なんか、あんまりキョンくんと話せなかったな。いや、その方が安全なんだろうけどさ。なんだか引っ掛かる。もっと話せば良かったかな、という気がする。いや、これは単なる俺の趣味の話だな。やめやめ。
「ごめんなさい。呼び止めちゃって」
「なにか話でも?」
後ろ手に扉を閉めながら、朝比奈さんの背に手を添え、部室を離れるよう促す。古泉の姿は廊下にもない。意外にもさっぱりしたやつだ。まあ、それくらいでちょうどいいんだろう。ハルヒがいるわけでもないのに、恋愛ごっこなどやる必要はないからな。
「あのう……もしかしてなんですけど。今の涼宮さんの行動って、なにかおかしかったですか……?」
「それを俺に聞くように命が下ったなら、イエス、と答えます」
「やっぱり……」
「顔に出てました?」
「ううん、多分ですけど。あなたの行動によって、段階的に禁則が解除されていっているの。それで……その、悲しまないで聞いてほしいんですけど」
なんですか、といたって普通に微笑んで俺は返事をする。内心冷や汗だ。朝比奈さんが気を遣っている様子から、なにかまずいことが起きた気がする。気を付けてるつもりなのになあ。
「……わたしたちは、それを“逸脱事項”と呼んでいるみたいです。芦川さんの観測していた状態から、横道に逸れてしまった時間軸。あの、でも、基本的にはそんなに大きな問題とかじゃなくって……その、芦川さんが存在しているという時点で多かれ少なかれ分岐してしまうものなの」
また俺の存在如何、という話か。存在如何と存在が遺憾でラップができそうだ。
「そして、それは通常の場合、何もしなくても収束していくものなんです。時間というのは、本当は一瞬一瞬が繋がっていないものだから。だから、わたしがここにいても、何も影響は出ないんだもの」
「でも、俺は違うんですね?」
「う……ええと、はい、そうです。でも、芦川さんの場合も、揺れ幅が大きいっていうだけなの。結果は同じ、筈なんです。でも、分岐の先のいくつかに、行き止まりがあるみたい」
「やばい可能性も、ないわけじゃない、と」
「はい……そう、なんです……」
「俺の言葉、行動一つで対策を取る組織がいる、ってだけじゃない。確かに考えてみれば、この世界で最も影響力のあるハルヒがすぐそばにいるんだ。そこにこそ、慎重にあたるべきでしたね。すみません」
「でも、それは薄々気づいていましたよね? 何度か、言葉を選んでいる場面があったもの。だから、芦川さんが悪いわけじゃないです。それに……」
朝比奈さんは言葉を切る。
「芦川さんが涼宮さんに気を遣ってるとき、多分涼宮さんは気づいています」
「そんな気はしてました。腫物みたいに扱われると、気づいちゃうもんですからね。とはいえ、かと言ってハルヒと真っ向でぶつかり合い続ければどこかの組織は壊滅するほどダメージが入るでしょう。それは避けたい」
「あ、そ、そういう意味で言ったんじゃ」
「わかってます。今のはただのボヤキですから」
まさか、朝比奈さんがそんなことを望んで発言しているとは思ってはいない。そういう闇取引みたいなもの、一番遠いところにいる人だからな。
「まあ、探り探りやってみます。ありがとうございます」
「ううん、ごめんなさい。わたし、芦川さんに何もしてあげられないもの……」
「助かってますよ。頑張ってるとこを、ちゃんと見ていてくれる人がいるっていうのは。やっぱり違います」
「そっかあ」
彼女は小さな拳をぐー、と握り、ぱー、と開く。
「うん、わたし、ちゃんと見てます。あの、じゃあ……また明日ね」
朝比奈さんはようやく笑顔になって、スカートを翻して去って行く。さて、俺も帰るか。校門に寄りかかって恰好をつけるなりして、すまし顔の男が待っていてくれることだろう。さすがに置いて帰るほどクールな男じゃないと信じているぞ。
が、俺の予想は微妙に裏切られる。実際、校門の傍に古泉のやつはいたにはいたんだが──そこにはおまけに、老齢の運転手が乗るタクシーが停められていたのだから。