あるフリーターの憂鬱Ⅰ
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高そうな紙袋を手首に下げて、お昼の残りのメロンパンを咥える。すると背後で樹がばさばさと揺れて、ついでに「わひゃあ」と聞こえた。なんか、パンを頬張っている時に限ってアクシデントに襲われるな今日は。パンには悪いジンクスがある。俺は一口分のメロンパンを飲み込んで、足元に転がり出てきた女性に手を貸した。
「なにしてるんです、朝比奈さん」
「えへへ……ドジしちゃいました」
よろよろと立ち上がる小柄な女性は、困ったように眉を下げてスカートの前で指を絡めている。話しかけるきっかけを探してこちらの顔色を窺う瞳は、今にも泣きだしそうにうるんでいた。
ふわふわの髪の毛を身体の震えで揺らし、朝比奈さんはこちらを見上げて「あにょ」と第一声を噛み倒し、沈黙。わかりますよ、一回目で噛んだらきついですよね。俺もちょうど今朝、第一声からスベったところなんですよ。お気持ちは本当に痛いほどよくわかります。
でもまあ、可愛らしいけれど可哀相なので、こちらから話題を振ることにした。
「もしかして聞いてました? さっきの」
「いえ! 内容までは聞いてないです、でも……多分、大事なことを話していたんですよね」
「朝比奈さんの話も聞きますよ。ゆっくりで大丈夫です」
「ありがとうございます……やっぱり、私のことも知ってるんですね。うん……言わなきゃいけないことがあるの」
「朝比奈さんも俺を脅しにきたんですか?」
「ふえ、脅し? いえ、そんな物騒な話じゃ……でも、どうなんだろう……もしかすると、あなたにはそう感じられちゃっても仕方がないのかも」
不安げにスカートを握りしめる手が震えている。ハルヒが思わず抱きしめたくなるのも頷ける小動物っぷりだ。
俺は彼女が喋り出しやすそうな、できるだけ棘のない言葉を選ぶ。
「じゃあ、俺になにかお願いがあるんですね」
「はい。そうなんです。そうなの。お願い……あなたが知っていることを、未来側はとても脅威に感じています。それを、言わないでほしいの。もちろん、私にもです。今の私には、あなたの持つ情報を参照する権限がありませんから」
「そりゃ、もちろんネタ晴らしをして今後の展開を変えるようなつもりはありませんが、長門曰く俺がいるだけで既にダメなんですよ」
う、と朝比奈さんが言葉に詰まる。責めるつもりはないが、確認したかった。
やはりそういうことだった。どこからか俺の情報を入手した周囲の勢力のみなさんは、俺がこれから先に起こることについて幾らか知識を持っていると、なぜだか知っている。長門は全知みたいなもんだし、先読みでいえば朝比奈さんたちにはわかることなのだろう。機関はなんでわかったのか謎だが、とりあえずは置いておいて。
多分、それこそが長門の言った「俺が存在するだけで起きる問題」なのだろう。例え俺がそれを口にしなくても、周りは俺の反応や行動でそれを悟り、対策を取ることができてしまう。
例えば、俺が慌ててその場を離れればこれからそこで何かが起きるとわかる、という風に。
「芦川さんには、我々が制限を掛けることがどうしてもできないの。どうしてかは言えません。勿論、あなたの判断で断ることもできます。必要な時に、必要な情報を取り出すことを、禁止はできません。あなたは涼宮さんと同じだから……」
「そんなことを最近よく言われますね。ハルヒと同じとは?」
「ごめんなさい。禁則事項です」
「俺が本来来るべきだった時間については」
「禁則事項です」
「俺の能力って?」
「禁則事項です」
「俺は、いつ帰れますか?」
「禁則……事項です」
「ですよね。というように、俺は俺のことをな~んにも知りません。俺は、俺の能力を活用できません。長門はあんまり色々して欲しくないみたいで言いませんし、古泉には見張られてますから」
「そう、なんですね……私と同じかあ。それじゃあ、お互いに手探りなんですね」
「そういうことです。ちなみにおすすめの部活とかって禁則ですか?」
「ひぇ? え、そ、そうね……書道部……かなあ?」
急に話題を変えてみたが、SOS団とは言わないんだな。やっぱり俺は所属しないで済むみたいだ。そりゃ、ちょっとは仲間に入りたいと思わないこともないけど、組織間の面倒ごとに巻き込まれるなら、別の部活の方がいいかもしれん。書道部、考慮に入れておこう。こんな感じに、俺はうまく逃げられる。
しかし朝比奈さんは制限があって、監視があって、自分が何をすればいいのかもよくわからない場所にいなければならない。こう言っちゃなんだが俺と朝比奈さんはトップクラスの無力な存在である。古泉に即答できなかったのはこれも理由だ。
俺は先を知ってる。朝比奈さんは知らないが、後ろの組織は知ってる。だけどそれをうまく使って逃げるようなことはできず、同じように、ここに放り投げられてしまっている。なら、少しでも知っている俺は出来るだけ彼女の傍で助けになりたいと思った。
「でも……だからこそ、お願いを聞いてもらうしか、私には、それだけしかないんです」
「いいですよ」
「えっ」
「もちろん、ここぞという時には俺は自分の知識を活用します。それこそ、ハルヒを止めなきゃどうしようもない時。今、こんなことを言うとあなたはそれがどういうことかわかってしまって、上から怒られちゃうのかもしれません。だから、俺はいちゃダメなんでしょうね」
自嘲気味に言う俺を見て、朝比奈さんは耳に手をあて、首を横に振る。
「いいえ、それは……大丈夫みたいです。わたしたちは、芦川さんをいちゃいけないなんて思っていません。むしろ、いてくれなきゃ困っちゃいます」
「え~、なんか嬉しい」
「えっ」
「あはは。すみません。なんか、昨日から来るべきじゃないとか怪しいとか、脅しとかだったんで。ちょっと嬉しくなっちゃいました」
「……ごめんなさい。わたしたちも、変わらないです。あなたを利用しようとしているんだもの」
「謝らないで。それでもいいです。俺、朝比奈さんの手伝いができたら嬉しいですよ」
俺は朝比奈さんの両手を握った。愛想のいい政治家みたいに。一番立ち位置の近い人だから協力したい。でも、それだけじゃない。いつも一番困っているように見えるこの人が、何もできないと嘆いているけど頑張ろうとしていることが、俺はとても偉いなと思うから。例えその姿が悲哀を誘うと未来側がわかって送り込んでいたとしても、この感想は変わらないだろう。
朝比奈さんだけじゃない。理解されなくても諦めないハルヒ、なんだかんだ付き合うキョン、ひとりぼっちで大人しくしていた長門、恐怖もあったのに戦っている古泉。みんなそれぞれ頑張っている。
俺は一回頑張ることをやめてしまった人間だ。流されることに慣れて、好きなものから遠ざかったりもした。のんべんだらりと生きて来た。
だから、少しくらいは役に立ってみたい。
「でも、でも! それだけじゃないです。わたしは、芦川さんのこと、一つだけ知ってるの。だから、それで力になれるかなって……」
「知ってる?」
なにかそんな素振りがあっただろうか。早送りで今の会話を再生しなおして、はたと気づく。
「あれ? 芦川さんって呼んでる」
朝比奈さんの他の団員の呼称を並べてみる。キョンくん、古泉くん、長門さん、涼宮さん。うん、やっぱりおかしい。
「はい。そうなんです。知ってるんです。女の子だって……」
「じゃあ、二人の秘密なわけですね」
「ふぇ? あ、本当ですね! そう、そうですね……! はい、だから。そういう時はわたしを頼ってください。あ、でも……その、みなさんの前では……」
「ヒカリくんとかでいいですよ」
「じゃあ、わたしのことはどうぞ、みくるちゃんと呼んでくださいね」
満面の笑みで、朝比奈さんはガッツポーズした。超かわいいな。かわいいを溶かして固めた可愛いって感じのかわいいだな。
しかし名前呼びか。いや、それはなんだか危険な気がするな。急に親しげに呼び始めてみろ。キョン辺りにどうしてそんな間柄なんだと詮索され、羨ましがられてしまう。
拗ねるのもきっと可愛いだろうけど、俺はキョンには嫌われたくないしね。さっき古泉にパワーバランスの話をしたばかりだし、不用意に仲良しオーラは出さないでおこう。
「うーん、それはやめておきます。やっかまれそうだ。俺のこともやっぱり、芦川くんでお願いします」
「はい。わかりました。あれ……? 承認……」
朝比奈さんは耳に手を当てて、きょとんとした顔で俺を見る。さっきからよく見る顔だな。今日という日をきょとん記念日に制定できそうなくらいだ。
「……あのう、さっきと言ってることが違っちゃうんですけど……えっと」
「構いませんよ。何か言えることが?」
「はい、芦川さんの出来ることなんですけど……今、自覚しているのは“いくつ”ですか?」
「いくつって、そんなレベル99転生みたいな……俺は単にこれから先のことを知ってるだけで、」
待てよ、と俺は思い出す。昨晩の長門との会話に、似たような話が出て来たはずだ。確かこう。
「維持と、補正……いや、制御、凍結……だったかな。すみません、長門語は難解だから……誘導とかだったかもしれません。もしそれを異能みたいに言うんだったらって話ですけど」
「そう……ですか。わたしたちはいくつかのあなたの能力をこう総称しているみたいです。“危機回避”。だから……お願いします。これは危ないという気がしたら、心の声に耳を傾けてください」
「はあ、まあ、はい。それはそうしますが。なにせ俺はビビりですし、戦ったりなにか操ったりができるわけでもないんで」
「ですよね。うん……私も詳しいことは言えなくて。でも、そうです。芦川さんは、そういうタイプじゃないみたい」
やっぱり後方支援型、それも微弱バフ程度が俺のやれることか。現状維持とか回避とか、俺って事なかれ主義を叱られてるわけじゃないよな? まあ、言われなくても多分、俺は自分の嫌がることは極力しない性質だ。キョンには悪いが、刺されそうになるとか、そういう酷い目には遭いたくない。
ていうかいくつかあるんだろうか、俺の能力。あんまり強そうじゃないんだよな。神様がいらないスキルを纏めて置いておく倉庫みたいだ。まあ、でもいっぱいあるってだけで十分それらしくはなってきた。
タイトルをつけるならこうだろうか。涼宮ハルヒの世界にトリップしたら属性乗せすぎな件。うーん、早期連載終了しそうな感じだな。
「あ、最後に一つだけ聞いていいですか?」
「はい、なんでしょう」
小首をかしげる朝比奈さんが、俺を見あげる。
「俺が男だったらアリでしたか?」
「禁則事項です」
ウインクする彼女に、思わずドキッとする。心は女のつもりなのに、いたずらっぽい笑顔にくらくらした。柔軟剤か、香水か、彼女が去った中庭にほのかに花の香りが広がる。うーん、やっぱり朝比奈さんってめちゃくちゃかわいいな。
原作の再現に思わず夢心地になっていた俺は、昼休み終了のチャイムを聞き慌てて教室に滑り込んだ。
そこに、声がかかる。
「五分前行動。先生がまだ来てないから良かったけど」
斜め前の席に座る朝倉が振り返った。
また、強烈な違和感を覚える。朝も感じた違和感だ。
キョンの隣の席が空いていたことで、今朝はすっかりそのことだと思い込んでいた見落としがあるのではないか。不思議とそんな気がして、心臓が早鐘を打つ。
それが一体なんなのかと、俺は注意深く教室内を見渡してみた。席順は……うん、設定資料集の通りだ。アニメの1話となにも変わりない。
ただ、何故だろう。たったそれだけのことが、なんだかすごく「嫌な感じ」だ。
「ねえ、聞いてる?」
ど、と冷や汗が噴き出した。
小首をかしげる朝倉が、俺の斜め前の席を陣取っていることに、俺は今更になって気づいたのだ。
原作でもアニメでも「初期は」そうだった。そこに朝倉がいるのは「普通だった」から、そこになんの疑問も抱けなかった。
だが、今は「アニメ1話と席順が同じでいいはずがない」んだ。
どうして失念していた? このクラスは月に一度席替えをしている筈なのに。本当は、この時点でキョンとハルヒは窓側の席に移っていなければおかしい。
では、なぜこんなことになっているのか。そんなこと、クソ……! 答えは明瞭じゃないか!
──朝倉涼子。長門と同じヒューマノイド・インターフェース。その、急進派。そして、このクラスの委員長。
彼女が言い出さなければ、否定すれば、席替えなどがあるわけもない。
原作ではキョンを襲ったり長門を抉ったりした彼女が、面倒見のいい笑顔で優しげに俺を見ている。
なぜ見ているのか。転校生の俺に声をかけるのは、委員長としてはまったく不自然じゃない。
でも、お前が俺の斜め前に座っているこの状況が、既に十分不自然じゃないか……!
「気を付けてね」
しずかな、しずかな声。
わざわざ言葉を切って、朝倉はそう言った。深く考えなくてもわかる。古泉や朝比奈さんと話した今ならば。恐らく、朝倉は俺の反応を窺っているのだろう。そして、長門の意図もようやくわかったぞ。
長門は朝倉が俺に目をつけると読んで、俺に危機感を持たせるため、古泉と朝比奈さんが俺に接触してくる今日を選んで転校させた。三つ巴ならぬ四面楚歌状況を作り上げるために。
今日でなければハルヒは俺を気にしないかもしれない。古泉とも関連付けない可能性がある。そうすると古泉は俺を試したりしなかっただろうし、そのポジションにいなければ、もしかしたら朝比奈さんが俺に能力を開示できなかったかもしれない。
そして、朝倉もこんだけ色んな組織がピリピリしている今日だと大きく動けないから、俺の反応を見るだけになってる、って感じかな。俺を殺しても長門はそこまで困るわけじゃないと思うので、頼むから早々に見限ってほしい。
「やー、ごめんな。いろいろ見て回っちゃった」
「そうなんだ。良かったら放課後、案内しようか?」
これは、うまいアシストが既にあるから躱せる。
「いや、放課後は約束があってな。男同士でしか話せないこともあるかもしれないから」
「そう、残念。部活は決まった? もし興味がある部があれば、一緒に見学に付き合うわ」
「ありがとう。頼りになる委員長なんだな。でも、大丈夫。候補はあるから」
「一人で、だいじょうぶ?」
妙にゆっくり、言う。
「紹介してもらったり、勧誘してもらったんだ。その人たちと見学する予定」
「そっか。それならいいの」
朝倉は前に向き直る。ちょうど、教師が扉を開いた。俺は冷や汗をかきながら着席し、みんなが鞄を掛けている机横のフックに、どらやきの袋を引っ掻けた。
ひとまず、朝倉と放課後二人きりになりそうな状況からは脱出できたみたいだ。マジであるじゃん。危機回避。偉いぞ俺の能力。
「芦川。お前、体調悪いのか?」
横から声がかかる。キョンだ。意外とよく見ていてくれるんだな、と嬉しくなる。
「え? 全然。心配してくれんの? キョンくん」
「お前まで俺をそう呼ぶんだな。ならお前もヒカリだ」
「うえ? いきなり名前?」
びっくりした。でもまあ、キョンくんなら名前で呼ばれてもいいだろう。嬉しいし。いや、ダメかな。ダメかもしれない。だって恥ずかしいし!
「奇天烈な渾名よりはいくらかマシだと思うが」
「照れるやん」
「気色が悪い。わかった、苗字で呼べばいいんだろ」
「俺はキョンって呼び続けるけどね」
「こいつ……」
緊張の糸がほどけていくような安堵感に包まれて、俺は溜息を吐く。重大な話し合いの後に朝倉との駆け引きだ。疲れて、ちょっと眠くなってきた。
午後一の授業を居眠りで過ごした俺は、当然その時に何が起きたかはわからない。いや、わかっていたとしても、斜め後ろも斜め前も、表情を見ることは出来なかったんだろうけどさ。
──かくして、俺は重大な地雷を一つ、踏み抜いた。