あるフリーターの憂鬱Ⅰ
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教室内で、こんなに派手な音が鳴ることがあるだろうか。
「無事っ!」
言うだけはタダである。俺は首の後ろに手を当てて頭を守り、辛うじて頭蓋骨がかち割れて脳みそを撒き散らすデスゲームの見せしめみたいな状況を阻止した。
俺の襟をつかんで後ろから引っ張った神様を見上げる。今時、暴力ヒロインは流行らないだのと友人に言われて喧嘩になったことを思い出した。
いいかな、諸兄。これは暴力ではなく、彼女は「人の服を引っ張ったら倒れて危ないよ」なんてことを考慮に入れていないだけなのだ。そう、ハルヒにとってこの行為はツンによって暴力を振るい、それを相手がデレだと感じるなどという生易しい解釈は存在しない。
涼宮ハルヒというのはどこまでも非日常を追う探求心そのものを指し、暴力ヒロインという枠などには到底収まらぬ「新感覚現象ヒロイン」なのだ。新感覚っていい単語だよな。考えても見ろ。現象になにを怒ることがある。現象が可愛かったらもうそれでよくないか? 満点だろう。
──、などという擁護をしておいたんだけど、それによって俺への労りが生まれることを主に望みます。
「あのー……パンツ見えそうなんですけど……」
「だから何? さっきから胡散臭い言い訳ばっかり並べて。それで誤魔化せるって算段なら全ッ然甘いわ。大甘よ! 大方、どこかのスパイってところかしら。うまくやったつもりでしょうけど、目立ってしょうがないわ。バカね。ピンときたのよ。知り合いなんでしょ?」
「ええ……? 困惑」
あまりの言いがかりに「困惑」まで口に出してしまった。
「そうね。あたしの見立てではあんたとそいつはかなり深い関係にあるわ。普段から苦労を分け合うような絆があるのよ」
「もしかしてなんかの占い? そいつって誰?」
「ちっがうわよ! しらばっくれようったってそうはいかないから覚悟しなさい! しかも、あんたはどう見てもあたしの思い描いてた男装女子だわ! 流行ってるしね。そうでしょ。そういうのが足りなかったのよね、うん」
「だったら良かったよな、マジでな」
流行ってるかなあ? まあ、そうなったらハルヒ違いになってホスト部に入っちゃいそうだけど、そうだったら寧ろ良かったよね。本当にね。などと思っている間に、ハルヒは俺のシャツを思いきり引っ張り上げた。唐突な行為に悲鳴を上げるタイミングを逃し、俺はわけもわからず微笑む。
春とはいえ、窓の開いた教室に肌を晒すとそれなりに寒い。転校初日に裸芸人枠に入ったら、繊細な生徒なら明日から来ないぞ。いや、別の意味で俺も来ないかもしれないけど、それをいじめによる不登校などと思われては君もこの先大変でしょうから、その辺でやめてはいかがでしょうか。
掛けてもいない眼鏡を心の中であげながら、心の中で抗議してみる。
「とぅわっ」
「おっかしいわね。サラシもつけてないわけ?」
「初対面でどんな偏見!?」
滑り込んできたハルヒの手がシャツの中をまさぐる。なんだよお、俺は昨日からセクハラについて真剣に考えたこともあったっていうのにさ。こんなことがまかり通るならこれから何も気にしなくていいですか?
俺は胸の前で両手をクロスしハルヒから身を守った。見方によっては死を覚悟してるようにも見えるなこのポーズ。このままミイラにでもされちゃいそうで、笑えない。
クラスの男子が哀れみと羨ましいの視線を半々で送って来ているのがわかる。顔は覚えたからな。クソ、今俺は男の子なんですよ? 顔がめちゃくちゃ近い! かわいい! なんかいい匂いする! いててて! 此女子力強過我泣!
「なんでよ? 絶対女の子の筈なのに! ちょっと下も脱いでみなさい!」
「キャーーーー!! お婿に行けなくなるーーーー!!」
「婿入り前提で生きてんの? あんたって」
いよいよ終わった。もっとお洒落なボクサーパンツを長門に頼んでおくんだった。いや、その前に初恋の人に裸を見られてしまうのは乙女として問題がある。ハルヒならいいというわけではないが、やっぱりほら、人が見てるしさ。照れるじゃん。そういう問題でもない。
でも、変に暴れてハルヒに怪我なんかさせたらもっと大問題だ。なにせ俺は彼女のファンだし。なにより性格が紳士的だからね。ホント、勝てないからとかじゃないから。本気出したらアレとか、真っ二つだからね。見てろよ。
「その辺にしとけ」
わさわさ動き続けるハルヒが、首根っこを掴まれてUFOキャッチャーのように引き剥がされていく。
「離しなさいよ、キョン! こいつは謎の転校生なんだから!」
「お前の行動の方がよっぽど謎だよ。いつまで経ってもHRが始まらないだろ。あんまりいじめてやるな。明日から不登校になっちまうぞ」
さすがは保護者というやつで、キョンの一声であの涼宮ハルヒが嫌々着席する。ふん、と鼻を鳴らして「おっかしいわね。なんで男なのかしら」と文句を垂れるものの、ちゃんと座るのだ。なんで男なのかは俺が聞きたい。
その間にキョンくんは床にぺったり座り込む俺に、身を屈めて手を伸ばす。
「転校早々災難だったな。大丈夫か?」
散ったはずの校庭の桜が咲き乱れるかと思った。苦笑いからこぼれ出る溜息で、ありとあらゆる草木が芽吹きそうな破壊力があるね。たまらん。
この、これ、これなんですよ~、キョンくんの恰好良さというやつは。さり気ないフォローを忘れない苦労人。え~、心配してくれるの~? 心の女子が総立ちで指笛を吹いた。
そして、キョンくんの好きなところ第二なんですけど、心配はしてくれるのに基本的にはハルヒを放任主義なんですよね。すぐに助けてくれるわけではない。彼のそういうところがイベントの起きる隙を生み出しているわけです。ストーリーテラーとしてかなりのやり手ですね。
まあ、あと多分関わるのが面倒くさいんでしょうね。そういうところも好きです。
「あわ~……あわわ~……うん。大丈夫、かな?」
「そうは見えんが、嫌なら嫌だと強く言った方がいいぞ」
「へー、言ったらやめてくれるのか」
「あの調子だと多分やめないな。さっさと飽きられるように祈っておけ」
「もっと早く助けてくれたらいいのに」
「随分楽しそうだったからな」
見透かしたように言うキョンの、その大きな手を取って立ち上がる。同じ男なのに、なぜだかとても大きいなと思った。肉厚で、骨の形もごつごつしている。
その手はすぐに離れてしまい、俺はシャツをズボンの中にしまいながら、着席する。ちょっと長く握りすぎたかな。気持ち悪いと思われていないといいけど。
その後。HRと授業は滞りなく進んだ。滞りなくというのは、斜め後ろから消しゴムのかけらが飛んで来ていることを除いて言う。ハルヒはまだ俺に飽きていないらしく、しかも謎の転校生だと疑っている。それはなぜか。
完全に放置していたが、ハルヒが廊下で朝に言ったことを覚えているだろうか。確か「こんな時期に転校生がまとめてやってくるなんて」と言っていたはずだ。つまり、俺が転校してきたちょっと前、もしくは今日、古泉もまた転校してきたということになる。
古泉の方は正真正銘の超能力者なわけだが、俺は違う。だが、何の因果かあいつは優秀な特進クラスの9組で、俺はハルヒと同じこのクラスに配置されてしまった。
もしも古泉の転校から間が空いていれば、ハルヒの性格を考えるとわざわざ言及しない筈である。今更うちのクラスに転校生が来てもなあ、くらいの態度を取られていたに違いない。つまり、古泉一樹がやってきたのは昨日か今日か、二人の関連を疑う程度には近い。これは確定と思っていい。
「おい、」
「え?」
「指されてる」
俺は慌てて立ち上がる。
せっかくキョンくんの隣の席で、さらに机をくっつけて教科書まで見せてもらえたというのに。これ以上ない至福の時間に俺は一体何を考えているのだろう。
今なんか肩をつんつんされちゃって。アオハルかよ。ああ、こんな悩みがなければ最大限楽しめるはずなのに。楽して青春して~。
ハルヒめ、と少し憎らしく思う。思うものの、実はハルヒがどうのというよりも、俺の性格に問題がある。
どうして俺ってこうなんだろう。一回疑問を見つけると、もうどうしようもない。わたし、気になります。と、自分自身で省エネ主義をぶち破ってしまう。
「すみません、わからないです」
俺は現代社会科教諭の残念そうな顔にぺこぺこ頭を下げて、聞いている風を装いながら考え事を続行する。今、キョンくんが俺のことを「こいつあんまり頭良くないんだな」って顔で見た気がしたけど、まあ事実なので悲しいが言い訳はしない。
もしも。もしも俺が古泉と間違えられてSOS団に加入する、なんてことになればストーリーの大筋を逸れることになり、なんとなく危険な感じがする。というのも、ハルヒ本人はてきとうに人員をひっぱってきてSOS団にぶち込んでいるつもりだからだ。
今、俺の方が古泉より物理的に近いからあり得ないとは言い切れない。しかし涼宮ハルヒの性質上、超能力者抜きの仲間で満足するわけがないから、知らない間にストレスが蓄積していき、機関はてんやわんやに陥る。
なんとか疑惑を解いて世界が平和で満ち溢れるルートに入ってほしいな。いや、なぜ俺は頼まれてもいない責任を負っているんだろうか。長門、頼むから俺に指示をくれ指示を。
昼休みのチャイムが鳴り終えるや否や、俺は脱兎のごとく駆けだした。ハルヒの興味から逃げ果せるため、というのが一つ目の理由である。なんか怒ってた気がしたけど聞かないことにした。残念ながら隣の教室にも部室にも長門はいなくて、仕方なく第二ミッションの方に取り掛かる。
第二ミッション、すなわち情報収集。スマホが一切機能しないのは、恐らく俺のが最新型のiPhoneだからだ。ここには5Gなんて電波は飛んでおらず、確かアニメで古泉が使っていたスマホがかなりの最新機種で、3G回線が出始めとか言われていた気がする。リアタイ視聴勢じゃないので、この辺の時間感覚がわからん。
つまり、だ。俺が向かうべきはコンピューター研究部。そこでネットを駆使し、この世界の常識を入手する必要がある。そうすればハルヒのいう怪しさとやらも少しは薄れるだろう。
「もしかして、入部希望者かい?」
コンピ研の部長は嬉しそうに俺の入室を許可してくれた。プログラムを組んだりはまったく出来ないことを伝えたが、部員が少ないのだろうか、快諾だった。
というか、訪ねてきておいてなんだが、昼休みも活動しているとは真面目な部活動だ。どこかの団長も今頃は勧誘に勤しんでいるだろうし、この高校はそういう感覚で部員を引き入れるものなのだろうか。
「ちょっと触ってみてもいいですか?」
「構わないよ。気軽に過ごしてくれ。何かあったら聞いてくれてもいいし」
「ヘッドホンとか使ってもいいですか?」
「もちろん」
めちゃくちゃいい人じゃないか。ハルヒ、この人からコンピューターを強奪したのか? いや、いい人だから強奪されちゃったのかなあ。
検索サイトを開いてすぐその重さに愕然としつつ、俺は「15才なら当然知っているであろう知識」を漁りまくった。まずここ何年かの時事ニュースを重大なものから浚っていき、その文字を追いながらアニメの主題歌と思われるものを探して聞いていった。とはいえ、配信サービスというものはまだ主流でないらしく、コンピ研の部員がパソコンに入れていたであろうCD音源を聞くのが関の山だ。ちょっとした浦島太郎状態だな。
それでわかったのが、俺がお馬鹿な高校一年生なら、時事問題なんて授業でやることだけ知っていればいいってこと。音楽の知識は、オタクなら今聞いたアニメの曲だけでは足らないかもしれない。第一本編を見ていないし。
もしも今日だけで俺の夢が終わらないならば、と仮定して。まず必要なのは携帯電話の入手だな。それからテレビをよく見るようにしないと。長門に頼めば契約するための個人情報を生み出してくれるだろう。ただ、手持ちの二万円で生活していくのはちと厳しい。社会人のやることじゃないが、アルバイトが見つかるまで当面は長門のヒモだなこりゃ。
くう、とお腹が鳴いて、俺はようやく空腹を思い出した。昨日の昼前に焼きそばパンを一つ食べたのが最後だった。俺はコンピ研の部長に丁寧にお礼を言い、購買でパンを二つといちごみるくを買って、中庭のベンチを目指した。
中庭に辿り着くと、古泉一樹が長門有希と会話しているという場面に出くわしてしまった。なんとなく顔が出しにくく、俺は隠れてハムサンドの封を開く。長門、こんなところにいたのか。
「あなたに接触するよう上から言われまして。今日、僕と同じくして転校してきた芦川ヒカリに関してです。最初にあなたの前に現れたようですね」
「そう。芦川ヒカリはイレギュラー。この時間平面上のどこにも情報が存在しない。本来、来るべきではなかったから」
「なるほど、道理でいくら調査しても奇妙な経歴しか集まらないはずです」
「私がそうした。芦川ヒカリは現在いくつかの鍵を手にしている。数値は変動し続けていて、不確定。既に情報誘導によって涼宮ハルヒの行動に影響を及ぼした」
「それは……まずいことになりましたね」
長門の話はよくわからないけど、これって「俺、なにかやっちゃいました?」のやつじゃないか? 思い返すが何が地雷だったのかさっぱりわからない。やっぱり好きな煮物の内容を微妙に変えちゃったことかなあ。
いや、そもそもハルヒの地雷がわかるやつなんているならノーベル平和賞くらいはやってもいいと思う程度には秋の空女なのだが。
「へいき」
「と、言いますと」
「へいき」
ちょうど終わったみたいだ。長門が二回同じ言葉を言うと、だいたい話はもうおしまい、という意味になる。俺はこれからのことを相談しようと、長門を引き留めるため立ち上がった。
口にサンドイッチを詰めたまま、ちょうど古泉と目が合ってしまう。
「ああ、ちょうど良かった。あなたにお話したいことが」
古泉は長い足をうまく操ってこちらにすたすた歩いてきて、逆に長門は去って行ってしまう。俺はやっとのことでハムサンドを飲み込んで長門の背中に声をかける。
しかし「へいき」とだけ残して、結局彼女が立ち止まることはなかった。
くす、と苦笑する声が聞こえるが、当然それを発したのは微笑みを湛えた長身の美青年だ。転校初日からさぞモテたであろう物腰の柔らかさは、しかし有無を言わせない。
「すみません。長門さんではなく、僕が話し相手でもよろしいですか?」
「よくは……ないんだけど。いや、でも俺も言っておいた方がいいことはある」
俺は古泉に促されるままベンチに座り、思ったよりも真横に腰を落ち着けた男の方を向かないように、植えられた樹々をまっすぐ見た。これ、横を見たら顔が近い、ってなるパターン入った。まったくイケメンに縁があることだ。
「まず、僕から。僕のことはご存じですか?」
「え? ああ。古泉一樹。三年前から不思議な力が芽生えた。閉鎖空間でハルヒの精神的お守りをしている。理数系で運動もできる。ボードゲームとミステリが好き。字がすこぶる汚い。身長は……178? だったかな」
「驚いた。よくご存じなんですね。聞いていた通りです」
「もしかしてここ、嘘ついたり誤魔化すとこだった?」
「いえ。ある程度の信用を勝ち得ているのでお話ししていただけた、と考えています」
俺はやつの顔の前に手のひらを向けて会話を止める。
「ちょっと待った。聞いたって誰に? 長門じゃないな。森さん? 新川さんか、それとも田丸さん?」
さっき、俺のことは調べてもわからなかったようなことを言っていたのに。
「本当によくご存じなんですね。それに、大胆かと思えば随分慎重だ。ますます聞いていた通りです。勘も鋭い。いえ、勘というよりも推察に近いのでしょう。それがあなたのアドバンテージ、ですか」
「褒めてるのか貶してるのかよくわかんないな」
「もちろん、高く評価しているつもりです。僕の個人的な感想に過ぎませんが」
古泉の笑みが一層深くなる。腹の探り合いなんてするつもりじゃないが、ハルヒが俺と古泉に関連を持たせようと考えた時点で、機関にとって俺が邪魔になる可能性というのは大いにある。
あるが、だからこそ尚更ここで逃げ出す選択肢はない。悪巧みの予定がないことを、個人的にではなく機関の人間として理解してもらわなければ困る。
「あなたのお話を伺っても?」
「……ハルヒは、同じ日に転校してきた俺とお前が知り合いだと勘繰っていた」
「やはりですか。他にもなにか?」
「どうやらかなり仲が良いと思っているみたいだ。普段から労苦を分け合っているはず、とかなんとか。あ、これはお前には関係ないが、俺のことを女だと疑っているみたいだよ。俺から言えるのはこんなところかな」
「ははあ。それはなんとも……都合がいいですね」
俺は顔を顰めて少し横にずれる。古泉から距離を取り、その整った顔を睨みつけた。APP高めのイケメンは怪しい、というのが世の常だ。
一応、長門が「へいき」と言ったので危ないことになはならないと思ってはいるが、微妙に信用ならないのがこの笑顔の胡散臭さにある。俺も人のことは言えないけど。
「警戒しないで欲しいな。なにも敵対しようというわけじゃありません。むしろ、手を組みたいのでその打診に。あなたにとっては好条件かもしれませんよ」
「なんだと?」
「先に答えておきましょう。あなたが僕のことを知っている。そう教えてくれたのは森さんです。これで、少しは胸襟を開いて話し合いができるといいのですが」
「……そうやって小出しにするところ。まあ、いいや。聞くよ」
古泉は演技っぽい仕草で両手を開き、こう告げた。
「機関に所属してはもらえませんか?」