あるフリーターの憂鬱Ⅳ
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しかし、本当になんで妹ちゃんは覚えていたのだろうか。道行く人々ですら俺が見えないようだったのに、初対面の彼女は俺を一発で認識できた。子供には幽霊が見えやすいという話があるが、透明人間もそうなのだろうか。冷気のように拡散した情報が重いわけもあるまいし。急いで最中を抹茶ミルクで飲み下す。テレビ台の下には大量の絵本が収納されている。三匹のこぶた、にんぎょひめ、かぐや姫などメジャーなものが一通り揃っているみたいだ。ピーター・パンの絵本なんか、リメイクされてかなりアニメっぽい絵柄になっている。
「あ、キョンくんおかえりー」
「キョンくん俺もいるよー」
さすがに古泉が変質者扱いを受け続けるのは可哀相なので、俺の存在にも気づいてもらおう。キョンのひとさし指を握ると、予期していない相手からの接触に彼が息を呑んだ。一拍というには長すぎる硬直の後、キョンはリセマラを諦めた限界ガチャ芸人のような辟易とした顔で俺を見下ろした。
「……、あ、そうか。そうだったな、お前もいたのか」
倦怠ライフリターンズ、ラストのギター音くらい時間をかけて俺をじっくり見つめている。その目が、納得いかないといったような色を灯していることにようやく気付いた。ああ、そうか。
「いちいち触らないと話せないのか? お前たちコンビは」
「あー。こりゃ忘れてますね、解説の古泉さん」
「そのようですね、実況のヒカリくん」
「はあ?」
認識の速度と制度が落ちている。回数制限の線もあるが、単純に時間経過だろう。なんとなくそんな気はしていた。ハルヒが小学生時代の頃の話をしたら、事件は加速するだろうと。閉鎖空間と同じく、彼女が起こす現象はその精神と比例するわけだ。
で、絶不調のハルヒに呼応するようにキョンは俺と話した内容をすっかり思い出せなくなっている。これを利用して今から告白とかしちゃうのも手かと思えてくる。俺って前向きなのか後ろ向きなのか微妙な性格をしているな。
「正直者のキョンにはこれをあげよう」
「いらん。なんだその木の棒は。勇者だってひのきくらいは初期で持たせてもらえるぞ」
「まあまあ、そう言わず。子供は黙って受け取るもんなのじゃよ」
「誰!? おい、ちょっと……しつこいな、なんだ。こんな強引なやつだったか、お前」
キョンにお年玉のように握らせたのは、昨日朝倉に切断されてしまったデッキブラシの柄だ。ナイフに一刀両断されるデッキブラシなんて、生きていてそうそう目の当たりにする光景ではない。さぞかし瞼の裏に焼き付いていることだろう。
想像通り彼は深い溜息を吐いて「悪い」と心底反省したように呟いた。やっぱり、これはキョンに思い出してもらうためのアイテムだったんだ。
「まあしょうがないよ。でも、やっぱりひやっとはするね。慣れないな」
「慣れるわけないだろ。俺だってまったく慣れないね。ったく、古泉でもアホの谷口でもなく、なんだってお前なんだ」
「朝比奈さんが仰っていましたよ。どうしてなのか、誰か一人くらい覚えていられる人がいればいいのに、と。きっと、あなたのことを言っていたんでしょう。僕もそうであればどんなに良かったかと思います」
「そりゃ朝比奈さんの気持ちも尤もだ。鍵だなんだと担ぎ上げるなら、こういうところまでちゃんと特別にしておいてほしいもんだぜ。納得がいかないのはこっちだって同じだ」
古泉は洋画のコメディ枠キャラのように大げさに肩を竦める。言い返されてぐうの音も出ないようだった。
「で、なにしに来た? まさか記憶を確認しにきたのか?」
「ああ、用があるのは俺じゃなくて古泉なんだ。それで待ち伏せしてたところに妹ちゃんがね。一応断ったけど、一緒にアニメを見ようって言われて……つい魔が差しました」
彼は両手を握って顔の前に突き出した俺の手を押しやり、
「なんらかの犯人のような言い方をしなくていい。つうか悪いな。世話させちまったみたいで」
「お世話になったのは僕たちの方です。お茶まで出していただいて。外で待つことにならずに済みました」
床に正座する古泉とあぐらをかく俺を交互に見て、茶菓子の一つを持ち上げる。
「いただいてるよ。和菓子でラッキー。このアニメ見ようと思ってまだ見れてなかったから、それもちょうど良かった。うさうさうさー、もう覚えたわ。耳に残るテーマソングだな」
「あのねキョンくん、ヒカリちゃんと一緒におべんきょう怪人いーっぱいたおしたんだー。古泉くんにもねえ、すごいってほめられたんだよ」
「そりゃ良かったな……、あー、なんかこいつ変なこと言ってないよな?」
キョンはテレビ画面を見て、それからこちらを部屋干しの洗濯物をみるような瞳で見つめる。古泉が口元を覆って顔を逸らすのを認めて妹ちゃんを連行しようとするが、彼女が抵抗して失敗に終わった。妹ちゃんは俺の足にぴったりくっついて隠れている。
「おい、お前、もしかして余計なことを……! 待て、こら!」
「どうか許してあげてください。彼女はなにも悪くありませんよ……、ふ、ふふ……状況証拠が揃い過ぎていたもので」
「古泉、笑うな」
「あのさー、何が起きてんのか全然わかんねーんだけど、そんなに回られたらバターにでもなりそう」
キョンと妹ちゃんが、トムとジェリーのように追いかけっこを始める。
「いーやー! あたしまだヒカリちゃんとぜんぜん遊んでないもん。キョンくんだけ古泉くんとご用事してきてよお」
「お前と遊びにきたんじゃないんだよ」
「遊びたいのはやまやまなんだけど、俺も一緒に行かないといけないんだよね」
「えー、何時におわるの?」
スラックスを引っ張り見上げる妹ちゃんに、さきほどから一切動かないでのんびり状況を眺める古泉が答える。
「今からだと夜になってしまうかもしれませんね」
「えー! じゃあ夜になったら来る?」
「わがまま言うな。いろいろ忙しいんだよ」
言いつつ、キョンくんも無理矢理引きはがしに来ないから甘いよな。
「ねえねえどうしてー? せっかく来てくれたのに、おきゃくさんはおもてなししないといけないんだよ、にほんのきまりなんだよ。ウサコもおもてなしされて、にほんが大好きなんだもん。お泊りしてもらおうよー!」
とても嬉しいお誘いだけど、それは俺の情報の前に精神がぶっこわれて飛んでいってしまうから遠慮しないといけない。これはマジレスだが、これから二人がどんどん俺を覚えていられなくなるなら、夜は一番一緒にいた回数が多い古泉の家か俺の家にいるべきだ。
仮に妹ちゃんが情報を集めやすい得意体質かなにかをもっていたとしても、いるはずのない俺を相手にする兄妹に、ご両親の方がパニックになりかねない。
「じゃあさ、今日は無理だけど。今度遊べる時までにアニメ全部見とくからいっぱいお話しよう? たしかコラボカフェがきてたと思うから、お母さんがいいよって言ったらおでかけしようか。ウサコの漢字カレーとかさんすうパフェとか食べたくない?」
「食べたーい! ウサコがつくってたさんすうパフェ?」
「そうみたいだよ。アニメにでてきた料理があるんだって。じゃあ、キョンくんと二人でお母さんとお父さんを説得しないとね。帰ってくるまでお留守番できるかな?」
「できるよー!」
「偉い!」
「えへへー」
妹ちゃんは「また来てねー!」と玄関まで見送ってくれる。この行動、朝比奈さんそっくりだな。
どこかで待っていたのだろうか、新川さんの運転するタクシーが走って来たのを古泉が止め、俺たちは乗り込む。おそらく存在を感知していない俺が最初に乗り込んだため、運転手の目にはいつまでも乗り込まない不思議な集団に映ったことだろう。
「古泉、先にお前の話を」
俺、古泉、キョンの三人で鮨詰になった車内で俺が最初に口を開く。
「その間俺は考えておく」
「お前の用事ってやつか。一体どこに連れて行こうって?」
そこから古泉とキョンの間で交わされるのは、原作通りの“人間原理”になぞらえたハルヒの話である。やはりどれも懐疑的にキョンは返答した。
「これまでのヒカリくんとのやり取りでは、僕たちはこれらのことを共通認識とした上で話していたつもりでしたが」
「抜かせ。話が進まないから相槌を打っていただけで、なにもそんな与太話を信じているわけじゃない。昨日のことで超常的な現実があることは紛れもない事実だと、いくらなんでも飲み込んださ。長門やヒカリや、朝比奈さんだってなにがしか秘密があるんだろう。だが、だからといってお前の鳥肌ものの話をなにからなにまで全部信じるわけがない」
「ヒカリくんの口から言えば信じてもらえるんでしょうか?」
「俺が80になって耄碌したとして、ここまで胡散臭い話を信じるかは、甚だ疑問だがな。まあ、こいつが情けない顔で信じて欲しいと言えるならそうなのかもしれない、とは頷いてもいいだろう。だがよ、ヒカリが異世界人だというなら、この世界の仕組みとやらはこいつこそが半信半疑なんじゃないか?」
二人の視線が集中する。
「まあ、別に機関の教義を信じているわけではないなあ。長門だって朝比奈さんだって、それに古泉もだが対個人の信用がないのに手伝うほど人が好くはないつもり。それを機関だ統合思念体だのに送り込まれた別の奴が命令したって俺は従う気はないよ。なので、そういう場合は事前にそれぞれの前線メンバーを通して俺に申請してよね」
「結局いい様に使われる気満々じゃないか」
「そんなことはないぞ。俺だって古泉が言いにくそうなら言わされてるんだって思うし、そんなことをする機関につく必要はないって思う。いくら援助されていても、脅されたりしてもこういうのは信用問題だもん。資金面では弱くなるけど、そしたらまたコンビニアルバイトでもするさ。ただね、言い方や規模が違うだけで、ハルヒが物理法則を捻じ曲げる能力を持っている可能性はすこぶる高いんだと思うよ。無論、巧妙に認識を操作されていてすべては超常存在が行っていた、なんて可能性もないとは思わないけど今のところそのフラグは立ってないしな」
「じゃあ、涼宮が悪の権化だとして。なんだってお前があくせく動かにゃならん。お前がきたからできたワームホールでも狂った生態系でもなんでもいいが、元々ただの一般人なんだろうが」
「本当にヒカリくんの言葉は信用するんですね。それこそ彼が元の世界でどのような人物だったかなど、どこにも確証はないのに。でも、それもすべて一言で解決できてしまうんです。彼がどうして無理をしてまでこのようなことをしているのか、その役割を担っているのか……」
「どういうわけだ」
「あなたのせいですよ」
古泉の目はちっとも笑っていない。時折覗く、おそらくこいつ本来の性格に近しいであろう排他的な雰囲気を漂わせ、口元だけ辛うじて微笑んでいた。猜疑心があり賢いため、これと決めた相手には人懐こいやつだ。そして、その相手を害する人間に対して反抗心を露にすることがある。何巻かそういう描写があるが、俺がこっちに来てからは顕著だ。
こいつは自分の変化をよいものだ、と言ったが俺は手放しには喜べない。元々古泉にとって心を許せる存在はキョンくらいで、そして害されてはならない対象の範囲はハルヒとSOS団の面々だったはずだ。それが、俺のこととなるとちょっと嫌な物言いをするようになった。ある意味、キョンと原作よりも打ち解けている、と受け取ることもできるのかもしれないが。
こういう話をすると姑のようにねちねちとまた自分はコマの外にいる気か、と叱られかねない。
「こいつが自分のせいだと思っていることも、全部俺のせいだというのか」
「あなたが涼宮さんに妙なことを思いつかせたんです。それが彼の知る規定であったにせよ、原因を作ったのはあなたですよ。怪しげなクラブを作るように吹き込んだのですから、責任のありかはあなたに帰結します」
「濡れ衣だ……」
「まあ、それだけではないのですが」
タクシーは国道を東に向かっている。行き先は県外の大都市だ。
「それくらいにしておけよ。ハウス。すぐに威圧するな、なんのための表情筋だ」
「酷いな。あなたが言いそうにないので僕が代弁したまでです。涼宮さんでも彼でも、あなたは彼らにとって得になること意外では否定しないじゃないですか。感情的になっても構わないと思いますよ。むしろそれを望まれている」
「あーあー、そのせいでお前の柔和な笑顔を崩して大変申し訳ございませんでしたよ。でも、俺は別にお前だってこれみよがしに悪く言ったりしないけどな。どう見えてるか知らないけど、どれだけ大切に思ってるかなんて話なら、俺は全員エピソード付きでトークできる。どんな表情だったか声色だったか、俺の方は忘れてないぞ」
「……わかりました。僕の負けです。なにか話が?」
いつも通りの笑顔に戻った古泉は肩を竦めて、
「解決方法でしょうか?」
「ああ、そうなんだよ。今考えてたんだけど、キョンは家で俺の話を妹ちゃんにしていて、彼女にとってはお気に入りのアニメキャラと外見が酷似していたから印象深かったってことだけどさ」
結局ウサコ大人バージョンとやらは見られなかったので実際に似ているのかどうかは別としてだが、それにしてもひっかかる。
「おい、その話を掘り返すなよ」
「仮にキョンが家で俺の愚痴を言いまくっていたとして、それでも毎日会っている人間たちよりも印象深いってことがあるのかと思って」
なにか反論したそうなキョンを遮って古泉が身を乗り出した。近い。この距離なら小声だって聞こえるというのに。
「会ったことがないからこそ、なのかもしれません。イマジナリーコンパニオン、という言葉をご存じですか?」
「イマジナリーフレンドのことか? あのな、ああ見えて小六だぞ、あいつは」
「ええ、それで間違いありません。他にもインビジブルフレンド、とも。透明な友人、そう言い換えると妹さんの件についてなにか解釈の広がりを感じませんか? 涼宮さんの信じる透明人間はパーティの招待状を出すほど友好的なようです。自分にしか見えない友人、限定的で特別な感じがするじゃないですか。ですが、それを望む涼宮さん自身が見えないことで彼女の物語は破綻しているんです。にも拘わらず、なぜ妹さんには見えたのか」
「……自分にしか見えない友人か。なるほどと言えばなるほどだな」
「なにか聞き出していただけましたか?」
古泉の視線にキョンがジャケットから万年筆のようなものを取り出し、
「一応な。お前たちが聞けば気になる部分もあるだろう。俺としちゃ、今の話の補強になる単語が一つ思い当たったくらいか」
「聞かせていただいても?」
「絵本の話になってな。ほら、シンデレラだのなんだのと話題に出ていたもんだからよ。あいつ、最近ピーターパンの絵本を読み返したらしい。そこから元の本も調べて買ったとか言っていたな」
おそらく転校初日に俺を脅したものと同一であろうペン型のレコーダーを受け取り、古泉は頷く。こいつはこいつでいつの間にか根回しをしていたのか。
「うーん? でもピーター・パンって大人にも見えるだろ。ウェンディのお母さんと普通に喋る描写があるじゃないか」
「ええ、ですが子供でなければネバーランドには招待されません。妹さんが十二歳であれば、ちょうど作中のウェンディと同い年、子供と大人の間ということになりますね」
「つまりなんだ? 涼宮の言っていた透明人間の集会ってのがネバーランドだって話か。だとするとこいつがピーターパンって?」
「成長できないっていうか巻き戻されたし、ここに連れて来たのはハルヒなんだけどね。でも、ハルヒからなにか面白いことを起こしてくれるんじゃないかと並々ならぬ期待を受けている自覚はある。仲介役らしいから他の透明人間と接触してくれって思われてたってのもありそうだ。それにあの物語もある意味じゃ異世界に行って戻ってくる内容だろ。妹ちゃんも絵本を持っていたし」
ピーター・パンなんて流行るようなものじゃなく、それこそイマジナリーフレンドよりも身近に幼児期に通過するような物語だ。それがこんな風に点と点で繋がるなんて、どっかで絵本のたたき売りでもしていたのだろうか。
少なくとも今の俺がピーターパン症候群かどうかと聞かれたら答えに窮するのは間違いない。
「見える見えないを差し引いて、接触してくるという点ではピーター・パンは子供にしか相対しません。子供の脳は成長途中で幻覚を見やすいなんて説もありますよね。それ故に幽霊が見えるという噂もできたわけですから」
どうやら似たようなことを考えていたらしい古泉が片手を広げる。身振り手振りがくせなのかしらんが、さっきからちょいちょい俺に当たってるんだよな。
「涼宮が頭の中では宇宙人なんて会えるわけないと思っているみたいに、透明人間にも会えるわけない、会えるとしてもなにか制限があるはずだと思ってるってことか?」
「ご明察です。ですが、透明人間はピーター・パンのように子供としか接触しないのではないか、と提示するだけでは些か弱いですね」
「だいたいこいつがピーターパンってタマか。涼宮のほうがそれっぽいくらいだろ……、そういや金髪の妖精が一緒にいたな」
「ああ、なるほど。役割が入れ替わっているわけですね。一見バラバラな事件も彼女の中では一貫性があるわけです。ティンカーベルは嫉妬深いところも魅力の一つですからね」
お前は本当にハルヒが大好きだよなという俺の顔を見て、難解な理論が証明できた学者のように古泉は頷いた。腹立つ。
「……なるほど、俺が殺されかけるウェンディ役というわけか。恨むくらいなら席くらい操作しろって感じだけど、それもお前風に言うといじらしいのか?」
「どうでしょう。元々あなたが消えかかっていたという状況に拍車がかかっただけで、案外涼宮さんは本気であなたをネバーランドへ連れていくつもりなのかもしれません。このまま進んだいつかの未来では涼宮さんだけがあなたを観測できる機器を発明する、なんて彼女ならやり遂げそうじゃないですか。いえ、もしくは正しくあなたがピーター・パン役に任命されていて、なんらかの手段であなたの慣れ親しんだ世界に彼女が向かう手立てを集めている可能性もありますよ」
ハルヒならやりかねないことをそうすらすらと並べ立てられるとぞっとしないな。
「長門は人によって差が出やすいように言っていたが、もしかすると子供には無条件で見えるのかもしれないな。イマジナリーフレンドって女の子に多いみたいだし。それも幻聴として、幻覚として、現れる方法はさまざまらしい。ただ、見えたり聞こえたりしたって子供の話に大人は真実味を感じない。結果、俺が存在することを証明できないってわけだな」
「学校に妹さんを連れていくわけにもいきませんからね」
「結局手詰まりってことか」
「……と、着きましたよ」
車が止まり、ドアが開かれる。思わず挟まれそうになるのをすり抜け、ようやく車内から脱出した俺を運転手は顧みない。それどころか、会話をしながら古泉とキョンが雑踏へ向かって歩き出してしまう。やっぱり密閉空間の方が情報の収集率は高いのだろうか。
考えている場合じゃない、ともかく二人を追ってぶつかりながら人混みに逆らって歩き出す。大抵の人間が私鉄の改札に向かって歩く中をもみくちゃになりながら進んでいくのは骨が折れた。スーツを纏う大人の背丈に隠れながら、辛うじて目的地が見える。横断歩道のど真ん中に垂れ下がった、薄暮に染まる半透明の膜。ATフィールドだろうがなんだろうが、素手で破ればいい。能力を使うことは極力制限したいが、恐ろしいのはこの先に更なる逸脱事項が待っていて、二人が怪我をすることだ。
よくやく辿り着いた頃にはブレザーが皺だらけになって、髪もぼさぼさになっていた。俺は手を繋いだ二人に上半身をぎりぎり伸ばし、縋り付くようにキョンの手を握る。
「もうけっこうです」
古泉の合図に忌々し気に手を振り払ったキョンが、どこか胡乱な目で俺を見下ろす。繋がれた手に視線を動かすも、一切の反応がない。今までで一番薄い反応だった。男同士で手を繋ぐことを嫌がる素振りもなく、かといって許容してやれやれと溜息を吐くふうでもない。
「……なんでだよ、そんな目で見ないでよ」
能力の制御はうまくいかず、スイッチを切ることができないままオートで空間の掌握が始まる。俺がひどい頭痛に足を止めると、なにも握っていないようなキョンの手はいとも容易くほどけた。なるほど、ハルヒが透明人間よりも朝倉の登校に興味があったように、キョンにとって初めて見た閉鎖空間は朝倉戦の衝撃を上回ったのだ。
それだけなのか? 俺が一週間してきたことって。こんなあっさり、二人に見えも聞こえもしなくなるような、そんなものなのか?
「キョンくん、」
声は聞こえていないようだった。何度も握り直す俺の手を、鬱陶しそうにキョンが見下ろす。蚊でも止まっているかのように払われて確信した。
やはり、閉鎖空間は俺が自由にどうにかできる空間などではない。ここは、涼宮ハルヒの精神と直結した、もっとも彼女の願いに近い空間なのだ。そこでは、現在透明人間としての存在を与えられている俺は、二人の意識から根こそぎ存在を奪われる。辛うじて空間に干渉しているので一応見えているだけ。それでも、彼の目に俺がどんな風に映っているかさえわからない。なんで? なんでこんなことになったんだ? タクシーの中で待っていればよかったのか? いや、そうしたら二人と離れた分の時間だけ記憶喪失が加速したかもしれない。じゃあ、どうすりゃよかったんだよ。
はやく、はやく閉鎖空間を固定してこのシーンを終わらせなければならない。直感的に震える手でノートにドームを描く。塗りつぶすペンの動きは緩慢で、自分がまったく集中できていないことを嫌でも自覚させられる。焦っている。冷静じゃない。このままじゃ、今まで立てた作戦も失敗するかもしれない。どこで間違えた? 俺はなにを、しくじった?
そもそも黄昏時というのは「誰ぞ彼時」と書く。互いに相手に声を掛け、他所者を炙り出し排除するための風習からきているそれは、今の俺にとって分が悪すぎる。夕方以降はハルヒと電話でしか話したことがない。彼女の認識の中では、俺という存在がもっとも薄まる時間帯だ。
「しかしあなたも大したものだ。この状況を見て、ほとんど驚いていませんね」
まるでプログラムされたAIみたいに原作通りの会話を続行する二人が、急に遠く感じる。
「キョンくん……、キョンくん、」
朝倉のことを思い出したはずの彼が、一度だけ俺を振り返る。もう、目は合わない。古泉に目をやれば、既に飛び去ってしまっている。すべてが後手に回った。古泉ならまだ俺を認識できていたかもしれない。閉鎖空間ではあいつといた回数がもっとも多い。
もう一度呼びかけようとした俺の呼吸が止まる。ビルをなぎ倒し現れた鈍い青色の巨人──神人が、轟音を響かせながらこちらを振り返った。
「あ……、嘘、だろ」
瞬間、嫌な予感が脳裏を掠める。のっぺりとした光を孕んだ巨人が、そいつだけが窪んだありもしない目で俺を確実に視界に収める。振り回した腕で電線をひきずりながら、よたよたと神人がこちらに近づいてくるのがわかる。息が荒くなる。あいつを誘導しているのは、いまや俺の意思ではない。だが、かならず神人は俺に向かってくる。もしかしたらキョンは無事でいられるかもしれない。ハルヒの深層心理の空間で、彼だけは守られるかもしれない。
でも、俺は? 朝倉の時とは違う。神人には余裕や遊びがない。観察しようなんてのんきな感情もない。ただ、俺を求めて、駆けてくるのだ。
もしも。
もしも今、俺がここで死んだら、誰がそれに気付ける──?
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