あるフリーターの憂鬱Ⅳ
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五限が終わった休み。これが一回目のチャンスだ。
声を掛ける、机を揺らす、窓を開け閉めする、黒板に文字を書く。様々な方法を試してハルヒとキョンに俺の存在に気づいてもらおうと行動を起こした。
しかし、健闘虚しく俺は二人に一切認識されなかった。目の前に立てば目が合うが、声を掛けてくるはことはないしこちらの声も聞こえていない。机を揺らせば驚いている反応をする。窓は「誰だよ閉めたのは」なんて言ってまた開けるし、クラス委員が首を傾げながら黒板を掃除する。
──、それでも、大声を出しても「声がでかい」とは言われない。今自分の机が揺れて驚いたなんてことすらすぐに忘れてしまって、なかったことになる。窓も黒板も、クラスの誰かが自分の見ていない間に悪戯をしたのだろう、と処理される。まるでなにもかも気のせいみたいに、最初から芦川ヒカリなんて人間は、この教室にいなかったみたいに。
誘導能力を使って次の命令を入れなかった紙飛行機が元の場所に戻るような、そういう“なかったこと”にはならない。俺が開いた窓も黒板の落書きもその状態のままだった。ならば相手が注目している状態で印象深いことをするか、もしくは相手の記憶に残っていそうな行動を起こす必要があるってことだろう。
子供の頃、夏休みの観察用に朝顔を育てていた頃をぼんやりと思い出す。声を掛けるとよく育つなんていう話を充てにして、効果もよくわからないまま返事のない相手にひたすら話しかけた。結局あの朝顔が普通に育てたものとどう違っていたのか、俺は知らない。でも、愛着が生まれたのは確かだった。
透明人間、と聞いて思い浮かべるのはどんな不思議人間だろうか。
大半の人間が思い描くのは、服だけが浮いて見える不可思議な存在か、半透明で微妙に光っている人間だろう。なぜそんな表現をするかというと、本当に不可視の状態にしてしまうと映像として状況を説明できなくなるからだ。ヒロアカの葉隠ちゃんとか、ヒーロースーツを脱いだら完全に見えなくて、それを武器にしているくらいだし。一応ここにいますよ、と視聴者や周囲の人間にわからなければ、机を揺らした悪戯はなんらかの自然的な現象(例えば地震とか)に勘違いされてしまう。
だから、細かいことを言うと俺はハルヒの思う王道の透明人間ではない。俺が落書きをしていたらペンとノートが動いて自動筆記に見えるとか、そういうのが透明人間の面白さであるはずだ。しかし、意外にも真面目で現実的な涼宮ハルヒという女の子は、口ではああ言うが透明人間を信じてはいない。だから、存在しているのに、存在していない。目が合うのに、誰にも見えていない。YES/NOはどちらともいえるってのがウミガメのスープでは基本ルールだ。因みにカニバリません。
スタンド能力のアクトン・ベイビーだって触れるし匂いもわかる状態だったのに、俺のこの状態は分解に近いから、大抵の人間には感知されない。花粉かよ、とさきほどツッコミを入れたが、花粉だって目には見えないけどくしゃみとして反応されるんだぞ? だが俺は一定の基準を満たしていないとどんなアクションを起こしても相手にされない。一体どういうことだろうね。別の世界ならそれなりの能力者だぜ、今の俺は。
ハルヒは透明人間になったら何をしたいか、という問いの答えに憤慨していた。風呂を覗く、盗みをする、というのがベタなネタだ。で、俺はその答えをミスった可能性が高い。さて、だとするとそれ以外に透明人間である利点はなんだろうか。発想が貧困すぎて申し訳ない、その道の第一人者とかいたら、すぐに応援に駆けつけて欲しい。
しかし、透明人間になったらどんなことが出来るのか、なんてことは考えたことなどなかったな。なぜって透明であることはマイナスイメージの方が多い。どうせ想像するなら、安直だけど石油王かなあ。5000兆円欲しい。あとはなんだ、グレートバリアリーフの傍で暮らすとか、やっぱりそういう生活だろう。
でもきっと、ハルヒは一緒になって透明人間がどんなに楽しいかって話をしたかったはずだ。転校初日、ハルヒは俺をこう評した。
「あんた流されやすそうだから。気の抜けた若者って感じで、自分がないのよねー。しっかりしなさいよ? こういうのは本心でぶつかり合わなきゃ意味ないの。テキトウばっかり言ってちゃダメなんだからね。わかってるの?」
古泉とのBL関係について言っていたように聞こえるこのセリフだって、ちゃんと今の状況の伏線になっている。俺は今後、言える限りのことはハルヒに素直に話さないといけない。それに、仮にこの事件を切り抜けても、このまま次に「憂鬱のラスト」が待っている。まだまだ気は抜けない。ハルヒと遊ぶのも大変だ。ん? 今、なにかひっかかったような……。
六限が始まってもキョンは俺の机を不思議そうに眺めているだけだった。多分、なぜこの席は空いているのだろうか、というようなことを考えているんだろう。無視されているわけじゃないってわかっている。だけど、心の中に黒いしみが広がっていくようで、もやもやが治まらない。でも、うじうじしていたって解決はしないから気持ちを切り替えないと。
よし、透明人間生活がどんなものだったか伝えることも、ハルヒの説得に使えるかもしれない。とりあえず遊んでみるか。
せっかくだから実験だ。俺は授業中の教室を歩き周ってみることにした。透明人間であることを活用して、なにか得になることでもあればいいが。ひとまず席を立って黒板まで到達。重要そうな単語に勝手に赤いチョークで線を引いてみる。すると、生徒たちはそこに赤ペンでマークを付け始める。おお、なんか影の支配者みたいだな。
悪いことをしている気分だが、教師は俺の行動をなんら気にしていないみたいだった。廊下側の席を辿っていき、女子の名前が書かれたよくわからんあみだくじをしている谷口のノートに、俺を簡略化した似顔絵を残してみる。こうして動いてみると、時間停止能力者と同じような悪戯が出来るんだな。
俺という男子が一人多い上に朝倉が減ったことでクラスの男女比と席順は公式のものとズレている。国木田の隣は山根氏だが、彼は大ファンであった朝倉の転校でショックを受けすぎて早退、つまりは空席だ。そこに陣取った俺は、勝手に国木田の鞄からノートを取り出して写してみたりする。うわ、こいつ昼休みに明日の分の宿題やってたのかよ。最高だな。なるほど、透明人間ってテストのカンニングなんかにも利用できるんだな。
にしても、うーん、悪だ。悪いこと以外に使い道あるのかね。ハルヒが悪いことをしたら止める、と古泉に言い放った俺が何をやっているんだか。机に頬杖をついて、授業に集中する国木田の横顔をじっと見る。睫毛長いな、こいつ。一本くらい抜いてもバレないんじゃないだろうか。国木田の肩に手をおくと、ぴく、と反応がある。
「なにしてるんだい?」
国木田が黒板を見つめたまま、小さな声でつぶやく。誰に話しかけてるのかな、と彼の向こう側の席の成崎さんを見れば、熱心にノートをとっている。
「いや、君だよ」
国木田がこちらを振り向く。慌てて周囲を見れば、教師は谷口を注意しているらしく、俺たちの行動に気づいていない。
その目ははっきりと俺を捉えている。捉えていても、空気のように見えないはずなのだ。
「……俺?」
「そうだよ。びっくりした。急に横にいるんだもん。ていうか、よく怒られなかったね。谷口のおかげかな」
落書きを咎められる谷口を、国木田はわずかに振り返る。意外なことに国木田のやつがキョンより先に俺を思い出した。俺は席に座りなおして彼にちょっかいをかける。と言っても、こいつがクラスで変人扱いされるのも可哀相なので、小さな声で。
「お前、俺がわかるの?」
「わかるって?」
国木田は俺に呼応するようにひそひそと返事をする。吹き出しそうで、愉快そうな国木田の横顔。会話をして相手が笑ってくれるだけで、胸がしめつけられるように満たされる。不思議な気持ちだ。反応があるって、こんなに嬉しいことだったのか。
「なにかそういう漫画でも読んだのかい。席に戻らなくて平気?」
「まあね。俺はほら、ハルヒ団の一員だからみんな放っておいてくれるんだ」
「そういうものかなあ。もしかして、またキョンと喧嘩でもした?」
「ううん、今のキョンは俺のことわからないから、喧嘩もできない。考え事してたんだ。俺ってこのままいなくなっちゃうのかなあって」
どうせ忘れてしまうのだからと俺はなんでもないように事実を話す。信じてもらえないだろうし、笑って流されるようなことだ。ちょっと痛い思春期の妄想にしか聞こえまい。それに、国木田には今までもいろいろ相談してきたし、今更だ。
「ずいぶんアンニュイなこと言うんだね。わからないってどういうこと?」
「そのまま。クラスのやつも、先生も、キョンもハルヒもみんな。俺のことがわからなくなるんだ。見えないし聞こえなくて、名前も知らないんだ。それを、俺は切り抜けたいけどお手上げなの」
「え? 僕はわかるよ。芦川のこと。隣にいるじゃない」
「それねー。なんでだろ。お前もさっき一回忘れてたのに」
「そうなの? じゃあ、気付かない間に悪いことしたなあ。ごめんね」
俺は面食らう。どうして苗字の情報まで持っているんだ? やっぱりネットの考察での、国木田超能力者説って本当だったのかな。
教師がプリントを忘れたらしく教室を出ていくと、いっきにクラスは賑わい出した。国木田はようやく俺に向き直る。その大きな瞳が俺を見ている。どうして、国木田なんだろう。教室では、谷口と国木田との方がコミュニケーションを取っていたのだろうか。俺、そんなに国木田とばかり話していただろうか。
「別に謝らなくていいよ」
「この会話も忘れるから?」
相変わらず鋭い。谷口は書いた覚えもない落書きに唸っている。騒がしい教室では国木田が俺と話していても、誰も気に留めないみたいだ。
「……なんて、アニメの見過ぎだよな」
「困りごとなら相談にのるよ。忘れちゃうなら、今しかないだろ?」
「あは、お前って前向きだな」
「うん、いいね。芦川はそうしてる方が、僕は好きだな」
「……なんだよ、急に。今そういうの染みちゃうからやめろ」
「はいはい、こういう時は大きい声出さないんだ。で、何を悩んでるの? 勝手にノート写してたけど、勉強のことかい。写しても身にはならないよ」
普通に叱られた。国木田はこっちを見て、穏やかな顔で笑っている。
「なんつったらいいかな。透明人間の利点について悩んでるってとこか」
「急だね。レポートでも書かされるの?」
窓際の席を振り返る。ハルヒの命令とでも思っているんだろうか。彼女は最近、うつぶせているか窓の外を見ているかだ。それで成績がいいんだから羨ましい。
「そうだなあ。涼宮さん風に言うなら、やっぱり隠密行動に向いてるんじゃない? 忍者みたいな。情報を盗んで、有利に動くとか」
「……なるほど。なにも盗むのは宝石や金じゃなくてもいいのか」
「もしも本当に芦川が誰にも見えないし感知されないなら、人の家に勝手に入れるし、秘密の日記も読めるね」
「悪いことじゃねーか」
「いいじゃない。悪いことしたって。内申に響くとかじゃなきゃさ」
「ぶっちゃけSOS団に入っている時点で内申のことは捨てたも同義だからな」
でも、情報収集か。透明だからこそ調べられる場所。たしかに、ゲームのギミックなんかでは鉄板だな。ライブのステージ裏や、そういう普通じゃ侵入できないところを誰にも止められずに見ることができる。
まあ、俺は大人だし。大人は汚いし。使えるチートは使っていきましょう。
「それに人のノートを勝手に写すのも悪いよ。よかったら今度勉強会でもする? あー、僕が誘ったら涼宮さん、怒るかな。キョンも、古泉くんもいい気はしないかもね」
やっぱりそういう認識なのか。ハルヒは俺を気に入ってる。古泉は傍から、それも国木田の目から見て俺に好意があるように見えるってことだよな。それっていいのか? あいつのキャラ的に。逆にいいのかもしれん。キョンも、まあ俺の手助けをするって躍起になっているところがあるもんな。
国木田はなにも考えていない幼稚園児みたいな無垢な瞳で俺を見る。ところがこいつはこれで負けず嫌いで、計算高くて、付き合いがいいやつだということを俺は知っている。こいつほど腹の内が読めないやつもなかなかいない。多分、古泉が俺に恋愛感情など抱いていなければ、俺はあいつにも同じ印象を抱いていたのかもな。
「別に怒らないと思うよ。お前はほら、ハルヒの許可出てるし。勉強会だろうが水族館だろうが、行っていいんじゃない?」
「芦川がいいならいいけどさ。じゃあ、約束しようか」
国木田はノートの端に“芦川と水族館に行く”だなんて書き込む。ペン習字でもやっているのか、字がきれいだ。
「ここにサインしといてよ」
「契約書みたいだな」
「またはぐらかされちゃ、困るからね。それに芦川は人気者だもん。誰も気付いていないなら、今のうちに色んな約束を取り付けちゃうのがいいかなって」
「お前って、存外ずるいやつなんだな」
「ずるくないと、好きな人は誰かのところに行っちゃうものだろ? 人付き合いに正攻法なんてないんだからさ。優しくて良い人なだけじゃ、印象にも残らないよ。それって損じゃないか」
「まったく、なんの話をしてるんだか」
「芦川って追われるより追う方が好きなんだねえ」
俺はそこにサインをする。そんな風に、こいつやみんなと遊びに行ける未来のために。なんとか正解を導きだしたいものだが。国木田が「やったあ」なんて間延びした声を出した。
「しかし忍者か。たしかにそれはいいかもしれない。これを機に色々調べてみるか」
「芦川のこと、僕は忘れたくないなあ」
「まあ、頑張ってみるよ。俺もお前と出かけるのは楽しみだからな。谷口も誘う? 女子も誘ってみてもいいな」
「芦川ってそういうところあるよねー」
「因みに、どうしてお前だけ俺に気づいたんだと思う?」
「どうかな。詳細を聞いたわけじゃないからね。好感度って言いたいところだけど、それだと他の人の説明がつかないから……なにか、他の人にはしていないことをしたんじゃない?」
「お前よくこんな話に付き合うね」
「君たちとやっていくには、基本だろ」
よくわからない納得を残して国木田は微笑む。これだけ騒がしいなら外にだって聞こえているだろうに、足音を聞きつけた生徒の号令でぴたりとおしゃべりが止む。この間、ハルヒとキョンはなにも喋っていなかった。
英語教師が戻ってきて、樹形図みたいにプリントを行き渡らせていく。前の席の中島氏は空席を飛ばして、豊原氏にしっかりとパス。当然、俺の机には配られていない。これって提出しない理由になるだろうか? 変わらず教室の中を練り歩く俺は、教師机の横の棚に置かれた花瓶に目を向ける。HR中、担任岡部が浅く腰掛けてクラス中を眺めるそのエリアは、今までだいたい朝倉が花を取り替えたり掃除したりしていた。
その、陶器の細長い花瓶は彼女のいない今、誰も花を挿してはいない。なんとはなしに覗き込んだその暗闇の中に、そういえば昨日拾い忘れていたマジックペンを発見した。長門が再構築の結果そうした、ということは戦闘の最中にうまく入り込んだのか? いや、それはおかしいな。この教室は“異空間化される前に戻った”はずなのだ。なら、異物であるマジックペンは俺の元に戻って来なければならない。そういや、あの状況ではなにも考えられなかったが、ノートは? デッキブラシは?
慌てて花瓶を逆さにしてマジックペンを取り出す。からからと高い音が立ったが、幸い誰も気づいていないみたいだった。次に、掃除用具入れを開く。中には切断されたままのデッキブラシが収納されていた。なぜこれは直っていないんだ? 連結を解除する因子とやらが残っている様子はない。なら、長門がわざとこのままにしておいたのか? それとも朝倉──、なのか。いずれにせよ、これは使うものなんだろう。必要なんだ。
国木田の仮説では、俺は国木田に対して他の生徒には行っていないアクションを起こしたらしい。隣に座る、でいうならキョンにはしている。宿題を写すのにノートを拝借したけど、まさか物を取ることが関係しているのか?
席に戻って、試しにキョンの筆箱からシャーペンを一本拝借する。炭酸飲料のキャンペーンかなにかでもらったのだろう、メーカーのロゴが入っているそれを、彼は愛用しているのだ。物持ちがいいというか、文具などに興味がないというか。どっちでも可愛らしいが、ともかくいつもこれでノートを取っているので無ければ困るはずだ。なんかかまってちゃんみたいで不気味だが、一応検証しておこう。
「……?」
案の定、キョンは先ほどまで使用していたシャーペンを探して筆箱をひっくり返している。椅子を引いて、かがんで机の下まで覗いているので俺は驚いた。目の前で振っている黒いシャーペンが、どうやら彼には見えていないらしい。こりゃ、マジで犯罪に持ってこいだ。しばらく探して見つからないキョンは、後ろを振り返って、窓の外を眺めるハルヒに呼びかける。
「なにか書くもん余ってないか? シャーペンどっかやっちまった」
「あんた一本しか持ってきてないの? しょうがないわね」
ハルヒはイチゴ柄が描かれた意外にも可愛らしいシャーペンを取り出して、彼に手渡す。そして一瞬顔を顰めたキョンが受け取って「悪いな」と返す。なんだか、すごく「涼宮ハルヒの憂鬱らしい」やり取りだった。推しの家の観葉植物ってこんな感じなんだろうか。
物を勝手に盗んでも気づかれないし、入手したものは見えなくなることがわかったけど、国木田と同じようにはいかない。もしかして、俺にとって国木田って特別なやつなのか? それとも、国木田にはやっぱり隠された特殊能力があるんだろうか。回収したばかりのノートに検証結果を書き込んでいく。あ、睫毛を抜こうとするのは試してないな。いや、もしかして触れることが条件? 古泉とも手を繋いだけど、こっちからじゃなかった。俺から触れることに意味があるのか?
緊張しながら人差し指を彼に向ける。いくらなんでも素手ではよくないか、と思い直してカーディガンの袖を引っ張ると、厚手の布越しに彼の肩を叩く。キョンがこちらを向くタイミングで、シャーペンを振った。
「あ? なんだ、拾ってくれたのか」
よし、成功だ。とはいえ、拾ったわけではない。ここは素直に謝ろう。
「ごめん、勝手に借りた」
「ひとこと言え」
「うん……」
「涼宮、これ返す」
「ん」
「ハルヒもごめんね」
ハルヒは俺には返事をしなかった。キョンは不思議そうに眉を顰める。そして俺の机を見て、自分の机を見ると、ちょろちょろ駆けだす三歳児を捕まえる母親みたいに血相を変えてカーディガンの上から俺の腕を握った。
「…………お、まえ。今までどこにいた……?」
俯いて口元を隠すキョンの顔色は悪い。息も荒く、昨日の朝倉戦の最中みたいに狼狽しているようだった。やっぱり、脳に衝撃がなくたって何度も知り合いを忘れたり思い出したりするのって、精神的にはよくないよな。こっちから触れば俺の情報は吸い上げやすいみたいだけど、あのまましばらく忘れていた方がキョンにとっては良かったのかもしれない。
彼はハルヒを気にして振り返る。俺のノートを見ると端を引っ張って、なにやら書き込みだした。おお、筆談か。それなら聞かれることもない。と言っても、このページは朝倉戦で使ってたから闇の塗り絵みたいになってしまっているんだが。
“またお前を忘れてた”
“ページめくる まって”
“いつ忘れるかわからない、このまま”
“わかった”
“悪い、ローカでおれが手をはなしちまったから”
“手つないでも一定じかんしかもたないそうだし気にしないで”
“気にする”
“別にいいのに”
“このままにぎっててもイミないのか?”
“ないと思う”
“、そうか”
“どうすれば気づいてもらえるかはわかった”
“なら小キザミみにやってくれ心ぞうに悪い”
“そう思う だからしばらく忘れてて”
がたん、とキョンが椅子を蹴とばすように立ち上がる。
「お前、いい加減にしろよ!」
クラス中の注目を集めて、はたと気づいたらしい。自分が今どういう状況かを。一人で突然怒り出したキョンを生徒たちは囃したてる。「寝言か?」なんて言われて、彼はぎこちない苦笑を返す。悪目立ちさせてしまった。済まないことをした。文章だとどうも意図が伝わりにくい。
「すみません、寝てました。自主的に廊下に立ってます」
混乱する教師をよそに、キョンはそう言い放つとそのまま俺の腕を強引に掴んで教室を出る。廊下の壁に背中を預け、溜息を吐く彼の横で、俺は振り回された亀みたいに首を縮めて大人しく立っている。
「で、なんなんだよ。忘れてろって。まあ、何を言われようと答えは変わらんがな」
怒気を孕んだしずかな声にさらに委縮しながら、俺は彼の顔を見上げた。
「長門が次第に忘れていくって言ってたから、何回も思い出してもらえないかもしれない……だから、取っておいた方がいいかもしれないなって」
「お前マスターボール腐らせるタイプだろ」
「う……」
「ゲームじゃねえんだから、使えるなら何回でも使えばいいじゃねえか」
「でも、その度にキョンをびっくりさせるのも悪いし……」
「あのなあ!」
俺を見下ろして、キョンは再度溜め息を吐く。そして俺の頭を空いている手でぽん、と撫でた。
「……馬鹿なこと言うな。こっちは一秒だって……まあ一秒は言い過ぎかもしれんが、お前を忘れている時間が長ければ長いほど焦るんだよ。頼むから、一人で突っ走るな」
「でも、まだなにもハルヒを説得する材料がなくて。なのに、なんか……」
「……なあ、それのなにが悪いんだよ。その答えを探すのも含めて、俺と古泉とお前でやるって話だったんじゃないのか? 俺だけなのか? お前を忘れたくないと思ってるのは。お前は、別に俺相手なら答えがわかるまで忘れられてたって、なんでもないって言うのかよ」
「そ、そんなわけないだろ!」
そんなわけない。忘れられたくない。でも、だって、今だってクラスのみんなに笑われたりして。俺のせいで。キョンくんに迷惑かけたくないのに。
「お前、言ったよな。涼宮と一緒にいるための試練ならどんなものでも釣りがくるようなことを」
「いや、そこまでは言ってない」
「うるさい。とにかく、俺も同じだ」
「キョンも、ハルヒと一緒にいたいの? その為なら、SOS団の為ならさっきみたいな大恥かいたって良いって言うの?」
「何を聞いてたんだ一体。お前のことだ!」
クラスがざわめく。
「し、しーっ。キョン、声がでかい」
「ああそうだな、いつもと逆だな」
キョンは居直って鼻で笑う。
ああ、俺はこういうキョンくんを好きになったんだ。そうやって、巻き込まれた中でも傍観者の位置を死守していた彼が、結局解決役に回る時の頼もしいところを。
「お前は逸脱事項とやらを生業にしてるんだろ? SOS団のパーティで言や回復役だ。そのお前が放っておいたら自ら毒沼にどんどん沈んでいきやがって、このままじゃ全滅だろうが。それにな、俺はなにも一人でイカレた集団に骨を埋める気はないぞ。絶対にお前を道連れにしてやる、いいな。絶対だ」
石橋貴明のあの画像が頭をよぎる。
「……でも」
「でもじゃない。お前は異能もあんまり使えないんだろ? 今回は俺と古泉でやる。つべこべ言わずにたまには俺の言うことを聞け」
「だってさ、」
「でも、だって、俺のせい、別にいいよ、大丈夫、古泉は禁止だ。一回ごとに奢りだ。これは約束だからな」
「なんでや古泉なにも悪くないやろ」
「今ので一回奢りな。ともかく、今わかってることを全部あのノートに書け。長門は思い出深い場所だと情報がどうのっつったが、俺はノートを見てお前に気づいた。なら、思い出深い物だっていい筈だ。昨日のことは忘れたくても忘れられるような内容じゃない。それ関係なら嫌でも思い出すだろうからな」
なるほど、確かにそもそも朝倉戦は原作でもキョンに強烈な認識の変革をもたらした場面だ。そこに居合わせた俺のことを、そう簡単に忘れられはしない。忘れても、記憶を弄ったとしても、引きずり出しやすいってことか。
「全部書いたらあれを俺に預けてくれ。今の涼宮は朝倉の引っ越しに夢中だ。多分、今日は何言っても無駄だろうからな。明日までの宿題にするしかない。癪だが、放課後お前は古泉といる方がいいだろ。そっちはそっちで考えておけ。夜、古泉からうちに電話をかけさせろ」
「わ、わかった」
まさか放課後古泉に会うとは言えないもんな。いや、本当にそうなんだろうか。物語の大筋というのは、本当はもっと大雑把なものなんじゃないのか?
「もしかしたら、放課後そっちの用事が終わったら合流するかも」
「わかった」
「俺のだと気づかないかもだから、古泉の教えておく」
「まったく知りたくないが、仕方ないな。それで、思い出させる方法ってのはなんなんだ?」
「多分、俺から相手に触ること」
「そうかい。次からは汚いものに触るようにするんじゃなくて、ちゃんと素手にしてくれよ」
そう言って、キョンはカーディガンの袖に手を突っ込んできた。
「オワーーーーーーーーーーー!!!」
「声がでかい」
ああ、なんだか本当に解決してしまいそうだ。まだ何もわかっていないのに。
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