あるフリーターの憂鬱Ⅳ
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扉を開いたままのキョンが再度中に入るよう顎で示す。
彼は繋がれた俺たちの手を迷惑そうに見て溜息を吐いた。古泉もさっきまで同性だと言っていたことから、性別の情報は忘れやすいのかもしれない。だとしても、それが最後に話したことだから忘れられるのか、制服という見た目の情報を捉えやすいから間違えるのか、どっちなのだろう。
こっちに来てから長いこと一緒だった古泉に忘れられるのもきついが、当然のごとく好きな人に忘れられるのも寂しい。なにせ、彼とは昨日の朝倉戦で信頼関係を深められたばかりなのだ。解決に向けて動くと決めたのだから落ち込んでいるわけにもいかないが、それでも悲しさはある。もしくは彼のことだから、別に忘れているわけではなくて、単に一緒にBLトリオになってもいいという発言を後悔しているだけかもしれない。ありそうな話だ。
いつまでも突っ立っている俺たちに痺れを切らしたキョンは、勝手知ったる我が家のように電気ポットから湯を注ぎ、急須にお茶を入れ始めた。四つの湯飲みに入ったほうじ茶の匂いに理由もなくほっとして、俺は湯気に誘われるように入室する。いちいち扉を押さえて中に誘導する古泉は、まるでいつも通りだ。
「わーキョンくん、お茶ありがとう」
「どうやら話が長くなりそうだからな。お前らのはついでだ。それより……なんなんだ古泉。そいつと手でも接着されたか」
「ああ、なるほど。いっそくっつけてしまうのはいい案かもしれませんね。あなたもどうです?」
「冗談を真に受けるな。面倒なやつだな」
「長門、邪魔するぞ~」
手を挙げると、椅子にちょこんと座った長門がこちらをじっと見つめる。瞬きを数回した長門は、少しだけ瞳を潤ませたような気がした。数秒の後、興味を失ったように彼女の視線がお茶に釘付けになる。長門が俺と挨拶をしないということは、多分そういうことなんだろう。覚悟を決めないと。きっとキョンも、下手をすれば長門でさえも俺のことを全て覚えてはいない。
温めるように湯飲みに左手を触れさせる。添えるだけだ。もう片方の手は古泉と繋がっているので、椅子にも座らず立ち尽くしている。この手を離してしまったらまた忘れられるかもしれないと思うと、照れくさくてもこうする他ない。
「先に一つだけ。長門さん、ヒカリくんと手を離して、このまま記憶は保持できますか? あるいはこの場所ならば……と考えたのですが」
「この空間には芦川ヒカリの情報拡散を留める因子が存在している。教室や通学路もそう。互いに情報交換をした地点であることが重要。でも時間の問題。接触による情報の構築は一時的なもの。構成を固定させる要素ではないから」
「つまりこういうことですか。手を繋ぐことで思い出せるわけではなく、ヒカリくんとの記憶を一時的に所持しているだけに過ぎない。所持したヒカリくんのデータは一定時間の経過で必ず手を離れていく。思い出したり忘れたりしているわけではないんですね。粘着力の弱いシールのようなもの、と言えばいいでしょうか。僕たちの中に定着する知識ではない、と。そしてそれは、思い出深い場所では多少なりとも効力が増すんですね」
「そう」
古泉は俺の手を離すと部室の扉と窓を閉める。俺はパイプ椅子を引いて着席し、湯飲みを両手で包んだ。なんか二人で納得しているが、要するに手を繋いでいたって忘れるものは忘れるってことだろうか。
でも、今の説明を聞く限りは多分脳がどうこうって話ではない。その辺は、古泉に負荷がかかるようなことにならず良かったのかもしれない。いや、こいつにとって俺を忘れるとかいなくなるとか、そういう状況は十分負荷がかかってるんだろうけど。
「気休め程度ですが密室化しておきましょう」
「俺のパーソナルデータは花粉かよ」
「だいたい……マジなのか? ついさっき長門に聞いたが、朝比奈さんにも同じようなことを言われたぞ。お前がわからなくなるって? なんとも笑えない冗談じゃないか」
「ああ、聞いてたんだね。キョンは俺のことをどれだけ覚えてる?」
「どれだけって。お前は異世界人で紙飛行機をむちゃくちゃに動かすような力が使えて、俺の命の恩人だ。古泉と知り合いってのは嘘で、本当かどうかは知らんが成人している。変わった兄がいるんだったか? ああ、あと記憶力がいい。飯がうまい。言ってたら腹が減って来た。昼まだなんだよな」
「……全然忘れてないの? 俺も昼途中だよ」
「ああ、だから長門の話がよくわからなくてな。お前のことを忘れるだとか言われてもピンと来ない。だが、気付いていないだけでとっくになにかしら忘れているのかもしれんしな。弁当途中ってことはまだあるな? よこせ」
「食べかけなんだけど」
手を出したままキョンは俺を見つめ続ける。彼も彼で強引なところがあるよな。ハルヒと似ているのかもしれない。仕方なく折れて差し出した弁当に、キョンは遠慮なしで手をつけた。噛んでないんじゃないかというスピードで食べ進めていく。もっと味わって食ってくれよ。鰈のチーズ焼きを口に入れた時、キョンはこちらを見て親指を立てた。美味しいならよかったけど、俺も食ってないって言ったよな? 全部食う気じゃないか、それ。
「ああ、でも俺の性別は忘れてるんじゃない?」
箸を止めてお茶を啜ったキョンが難しい顔をする。
「性別もなにも……いや、わざわざ言うってことは、そうか……たしかにお前に女だと言われた気がする。くそ、本当に気づかないもんだな。このまま他のことも忘れちまうのか? そんな話があるかよ」
「それでも僕よりよほど記憶が残っていますよ。先ほど長門さんが仰った通り、この場所だから記憶喪失現象が遅延しているんでしょうか。もしくは、あなたが選ばれているからか……」
SOS団が根城にしている文芸部の部室は、さまざまな要素が絡みあってほとんど異界と化している。ここにいる間、異世界人である俺はそれなりに調子がいいくらいだ。俺の世界と繋がれるオブジェがあるのもその手助けをしているのかもしれない。
そして、キョンはこの世界の鍵だ。ハルヒに選ばれた存在。そう思うとキョンの方が覚えていられるのかもしれない。だいたい問題を解決するのはキョンの役割だから、妙なことに巻き込まれないで済んでいることが多い。所謂主人公体質というか。
でも、古泉。それってお前は自分で言っててきつくないのか? へらへらしているがどうなんだろう、放っておいてやるか。
「長門はさすがに俺のことわかるよね?」
「暫定的には可能。わたしがあなたとコンタクトしている条件下において、情報統合思念体はあなたの観察を続行すべきだと感じている。でも現在のあなたが自律進化の可能性を担う存在であると定義できないのも事実」
「俺を見るまでは長門も忘れている……ああ、便宜上忘れているって言い方をするけど、そうなるってこと?」
「厳密には違う。情報統合思念体はあなたを観察する重要度を下げている。保持していた異空間情報を放出したことで、涼宮ハルヒに対して行使できる情報誘導効果が軽微だから。状況の改善によっていずれあなたがまた涼宮ハルヒに影響をもたらすことを情報統合思念体は認識している。でも、あなたはイレギュラー。不確定のままでは観察続行の必要性を維持し続けることはできない」
「なんだそりゃ。涼宮と一緒になって情報なんちゃらというのが起こせないなら、こいつはもうお払い箱ってことかよ。お前の親玉もずいぶん冷たいんだな」
「しょうがないよ。ハルヒがやったことなら一番最初に俺を忘れてるのはあいつだ。あいつに認識されず、影響を与えることもできないなら情報統合思念体としても扱いに困るだろ。ていうか、宇宙側だけじゃない。現状の俺はどの派閥にとっても重要な役割を果たさなくなる。その代わり危険視もされないんだろうけど」
「朝比奈みくるにとってはそうでしょうか?」
「ええい、顔が近い。朝比奈さんがなんだと言うんだ」
全員が長門の傍に固まって話していると、必然的に距離が近くなる。キョンは椅子を引いて、俺たち三人から少しだけ離れた。朝比奈さんの名前を出されて、些か不機嫌そうだ。
「未来側は確定された事象が覆るのを良しとしません。ヒカリくんが存在することによって既に一度動いた未来の時間軸が、再度いなくなることでそのまま元通りになるとは思えません。ヒカリくんがこの世界に影響を及ぼし、逸脱事項が発生する──、それ自体が証拠なんですよ。勿論、大元のイベント事は彼の知る通りに起きているのでしょう。ヒカリくんが解決しなければいけないのかどうかは、本当のところわかりませんが。それを言うと、あなたにも色々暗躍してもらわなければならなくなりますからね」
「俺が? 昨日逃げ回ってるだけだった俺になにができる」
「できるんですよ。いえ、これはあなたにしかできないことなんです。昨日もあなたがいたからこそ逸脱事項が解決したんですよ。朝比奈みくるの既定を重んじるなら、かならずあなたが鍵になります。しかし、このままでは現在を形作るいくつかの要素が完全に消え去ることになってしまうんです。ヒカリくんはしょうがない、と言いましたがそれでは済まないんですよ」
「話が長い。俺にもわかるように言うか、もしくは俺のいないところでやれ」
「とんでもない。状況を解決するのはキョンくん、あなたなんですよ。あなたがいなければ始まらない。これはいずれヒカリくんに聞いてもらう方がいいとおもいますが。ともかく僕が言っているのは、ヒカリくんは最悪の場合、自分が訪れる前の規定された世界に戻るならこの状況を許容するのかもしれないという話です」
「おい芦川、はったおすぞ」
「じ、事実の歪曲だよ! 説として可能かどうかとか、状況はこうだよねって話をしているだけだ。いや、ちょっと前まではそう思ってたけど、でも俺は帰りたくないって言ったろ。まだ一週間だぞ。全然足りないよ。まだまだ居座る。もちろんみんなとちゃんと話せる状態で、だ」
朝比奈さんは泣くだろう。マークしていなければならない人間が知らない間に消えてしまうなんて、きっとすごく困る。あるはずのものがないことを、彼女はとても怖がる子だから。そんな顔は絶対に見たくないものだ。
「そうしてください。機関としても──、僕としても困りますね。感情的な部分もありますが、実際に問題があるんです。このままでは」
「えっと? 古泉が知ってる話ってことになると、現状起きうる未来の改変って……兄貴に伝言をしたのが未来の俺の可能性があるからか? でも、それって機関関係あるか? いくらオブジェを用意したのが機関でも……」
「おいおい。あれ、そうなのか。余計なことしやがって」
キョンが部室の隅を見る。古泉は苦笑を広げた。一瞬かなりシリアスな顔をしていた気がしたが、なにか俺の知らないことで俺がいないと機関が困ることがあるのだろうか。くそ、協力者とかいうやつをさっさと捕まえたいな。
「兄貴の電話なら、情報改変でなんとかなるんじゃないかな。過去が消し飛んだりはしないと思う。勿論、無意識化のハルヒの不機嫌は別問題としてだし、本当に全然いなくなるつもりはないんだけど、仮説の一つとしてね?」
「お前がいなくなって丸ごと一週間消え去っていいなら、なんで長門は朝倉を転校ってことにしたんだ? 全員の記憶を消して問題ないなら、最初から朝倉がいなかったことにする方がいいだろ」
「さっき、俺の場合は記憶が消えるわけではないって長門が言ったろ。拡散してるだけだって。朝倉だと文字通り消すことになる。それだとみんなの脳に負担がかかるからじゃない?」
「言わせておけば、仮説だなんだとさっきから解決できなかった時のことばっかりじゃねえか。もっと前向きな話にならないもんかね。可能性を一つづつ潰すったって、気持ちのいいもんじゃない。お前が一人でうだうだ抱え込んでどうにかなる話なのか?」
「まったく同感ですね。ですが、ここは付き合ってあげましょう。彼は頑固な人ですから、納得しないと次の話ができないんですよ」
なんか二人して俺の保護者になってない? 急に仲良くなって男子の友情が芽生えるとか、ずるいぞ。
「では仮に、ヒカリくんがこの世界に関わっていた時間が……、一週間よりもずっと長い場合ならどうです? 大規模な情報改変を行うことは、長期的な涼宮ハルヒの観察を行う上でTFEI端末にとっては不都合なんでしょう。ならば、この状況を放置するべきだと考える派閥もあるのかもしれません」
「……えー、その推論、機関的に言っていいやつなの? 情報統合思念体がそう考えているなら多分俺が消えても世界は存続するぞ?」
古泉の言い方はなんだかレギュレーションのギリギリみたいだった。もしも俺がいなくなって元通りっていう図を描くなら、そのためにはそれこそ三年前に俺が干渉したこと自体まで改変しないといけないんだろうか。そして、そこまでのことを長門はきっとやらない。バグっても一年程度しか改変しないはずだからな。
俺とハルヒが同時に世界を繋ごうとしたらしい、三年前。ハルヒはこちらに連絡を寄こしたし、俺の連絡も五年以上経ってハルヒに届いた。けれど、俺はこちらには来られなかった。なぜかはわからない。張られて放置された伏線って感じだ。
湯飲みのお茶が冷え始めている。長門は、ずっと黙っていた。
「ええ、そうですね。ですから“存続したその未来が朝比奈みくるのいた未来でなければ大変なことになる”という話です。そうすると彼女は消失するかもしれませんよ。少なくとも大きな問題があれば、予定よりも早く未来に帰還するでしょう。ほら、もうあなた一人がいなくなるから済むような問題ではなくなりました」
「古泉、あまり脅してやるなよ。ただでさえ困ってるやつを」
「わかっています。僕だってヒカリくんがいなくなった後の話なんてしたくはありませんよ。その僕も……、まあここにはいられないでしょうね。長門さんも責任を取らなくてはならないかも。そうしたら、最後に残るのは涼宮さんとキョンくん、あなた達二人だけです。アダムとイブのように、案外それで片付くのかもしれませんが」
「恐ろしい想像はよせ」
「そうでしょうか。涼宮さんは……まあ強烈な方ですが。可愛らしいじゃないですか」
「そう思うんなら、お前が涼宮を口説いて二人の部活でもなんでも作れよ。それでうまく行けば文句なしだろ。アダムとイブなんてそこでやってりゃいい。部室は長門に返して、朝比奈さんと俺と長門、それからこいつで本読みクラブにでもしてうまくやるさ」
「大変興味深い提案ですがそういうわけにもいきませんよ。それはきっと、ヒカリくんが知る規定から遠ざかってしまいますから。仮にあなたが読書クラブを設立したとしましょう。涼宮さんはヒカリくんを奪ったあなたを許さないでしょうね。どちらにせよ世界はそこで終わりです。だから、僕たちはこの事件を解決するしかないんですよ。このままでは世界が滅びるのは間違いないと思います。それは百年後か千年後か、もっと先の可能性もありますけど……それでも遥か未来の滅亡、その引き金を引いたのは涼宮ハルヒと芦川ヒカリになるんです」
古泉は断言した。俺が昨日逃がした偽俺、もしくは機関の協力者というやつから何か聞いているのかもしれない。
ていうか、マジで相当な未来の規定情報を古泉に勘づかれてしまっているな。俺、本当にこいつの傍にいて大丈夫なのか? 朝倉戦が終わった今となっては、朝比奈さんのとこに住む手だってあると思うんだけど。これが解決したら打診してみるか。ていうかもうハルヒと住んじゃダメかな。高校卒業したらハルヒと二人暮らししたいなあ。いかんいかん、夢を見ている場合じゃない。
そもそもまだハルヒと仲直りもしていないんだ。そして、そうするためには俺のことを分散させるのをやめてもらわないと。しかし、なんだって俺がばらばらになって飛んで行くなんて現象が起きているのだろうか。そこを解明しないと前には進めないよな。
「……わかってるよ。俺だって俺のいない未来は嫌だ。俺は部外者じゃない。古泉、お前にさんざん叱られて、キョンに心配されまくって、朝比奈さんに応援されて、長門をあそこまで追い詰めてさ。昨日のこともあって、遅すぎたけど痛感した。俺の一挙手一投足はすべて誰かに見られていて面倒ごとを呼び込む。だけど、そうならないよう注意して後ろに下がってるんじゃだめだよな。ハルヒが“物よりも事件が欲しい”と思っている以上、起きるもんは起きる。俺が見えないんじゃ、俺だけではどうにもならない。どうか手伝ってほしい。策はないけど」
拳を握りしめる。
ハルヒ、俺はまだ全然足りないぞ。お前と行っていない場所がいっぱいある。喋りたいこともたくさんあるし、遊び足りないんだ。こんなこともあろうかと昔バッティングセンターに通っていた腕前も見せていないしな。いつか帰ることはわかってる。その時、浦島太郎みたいに元の世界に俺を知ってる人なんて一人もいないかもしれない。
それでも、俺は一日でも長くここにいたい。みんなと遊んでいたい。
髪の毛を引っ張られるような、つんとした妙な引っ掛かりを感じた。なんだろうか。今の思考に気になるところなんて、なかったと思うけど。
「なんだ、意外に前向きだな。ひやひやさせるなよ。それに……混ぜろと言っちまったのは俺だからな。昨日の借りもある。お前が朝倉みたいに粉々になって消えるなんて、俺はまっぴら御免だ」
「んや。俺が消える時はもっとすうっといなくなると思うよ。消えたことも気づかないだろうね」
「ぞっとしないな。さらっと言うな。せめて進行だけでも遅らせられないものなのか?」
「やってる」
長門は湯飲みを見つめながら小さく呟いた。
「朝倉涼子の異常動作がなければ、本来芦川ヒカリの情報拡散行動はもっと後だった」
「ああ、じゃあどっちにしろいつかは耐えられなくなっていたんだね」
「そう。涼宮ハルヒがそれを留めていた。あなたが放出している情報はこの時空に存在し続けている。どこにも移動していない。連結が解除された状態で世界を構築している因子と結びついているから。それらの中からあなたの情報を選び取って蓄積するという意思が、情報統合思念体に存在していない。構成情報の固定の概念はあなたを通して理解している。構築は試した。けれど完全にはできない」
「それって、俺が自分の存在を維持や固定しようとしても?」
「遅らせることはできる。最大で三十六時間程度まで。でも推奨はできない。あなたは常に自分の構成情報を維持、固定しつづけていた。それらは本来そこまで難しいことではない。記憶を封鎖すること、朝倉涼子の暴走停止に使用した能力の負荷によりあなたは自らの構成情報を維持、固定することに限界を迎えた。能力を使用するのはあなたの定義する異空間の中に留めるべき」
「じゃあ、ええと、俺は元々この世界にいるだけで自分を確立するために存在証明するみたいに力を使っているんだな、オートモードで。でも、それが発動できないくらいの無茶を今回してしまった。能力を使えるのは決まった場所だけ。で、そのタイムリミットが来ても俺はこの世界に残り続ける。誰からも忘れられた状態で」
「だいたいそう」
ほっとする。長門から「だいたい」って言葉が出ただけで。
それって、いないのと変わらない気がするけど、確かにそれならハルヒはせっかくとっ捕まえた異世界人をこの世界に保ったままでいられるわけだ。辻褄は合う。
朝倉が戦闘中に「跡形もなく消えた方が、ひとりぼっちの異世界に肉体を置いていくよりいいでしょ?」と言っていたが、彼女もいずれは俺が崩壊する可能性を知っていたわけだ。……? それって、おかしくないか?
キョンが溜息を吐いた。頭をがしがしと掻いて、机に上体を預ける。
「じゃあ、無理させないとしてだ。こいつは何時くらいまで残っていられる」
変わらず長門は湯飲みを見つめている。ただ、聞けば返事はしてくれるみたいだった。キョンは情報統合思念体を冷たいと言ったが、そもそも人間とコンタクトするために一人生み出すような相手だ。そいつが観察しなくていい、と言ったなら本当は手助けだってしてくれなくてもいいわけだからな。
「二十二時間程度」
「よく見積もって明日の一限後……ですか」
「なんだってこんなことになっちまったんだ?」
「涼宮ハルヒが連結解除を早めた。情報誘導によって芦川ヒカリがそうした。あなたが無意識化で涼宮ハルヒに働きかけたこと。観測が不可能になっても、あなたの意識や感覚は残り続ける。話しかけることも、出かけることもできる。人間でもあなたにアクセスができる。でも有機生命体が重視する五感の情報ではそれを知覚できない。理解できない情報を入手した場合、有機生命体の脳では混乱が生じる。アクセスの方法は過去一週間の芦川ヒカリとのコミュニケート手段により異なる。情報が通りやすい人間とそうではない人間がいるのはそのせい」
やっぱり、俺が願ったんだ。俺がいなければよかったのに、と俺はこっちに来て何度も思った。それが、招いた。
でも、どれだけ関わって来たかが俺を捉えられる基準になるなら、谷口とはスキンシップも会話も多かったのに、なんで忘れられちゃったんだ? 古泉は思い出したり忘れたりだったのも、わけがわからない。
「古泉、部室棟に走って来た時のことは覚えている?」
「それが……その部分だけ空白のように抜け落ちているんです。いえ、正確には昨日の夕方頃の記憶も穴が開いているような感覚ですね」
「ちょうどこいつが電話を掛けた辺りか? こっちも忙しかったし、お前しかこいつの幽霊やらに聞いてない話もあると思うが」
「……お役に立てず、すみません」
「いいよー。それより話を戻すけどさ。じゃあ、朝倉はなんで助言したんだ? 昨日も朝倉は俺を殺すんじゃなくて消そうとした。それなら今この状況になる予測がついていた朝倉としては万々歳じゃないか。俺が消えることでハルヒがなんとなくストレスが溜まって、いずれ爆発するなら尚更あいつにとっては……」
「朝倉涼子はあなたの行動を観察することに興味があった。昨日の暴走で、あなたの行動によって連結解除されたことで得られる情報は急進派にとって可能性でもあった。芦川ヒカリがこの状況を切り抜けることで発生する変化をわたしを通して情報統合思念体が観察することを望んでいる」
なんだよそれ、じゃああいつの勝ち逃げマッチポンプじゃねえか。なにが消えられたら困る、だよ。
キョンは俺を見て口元を覆い、俯く。それが重大な事実に直面したような表情で、俺は彼に掌を差し向ける。
「キョン? なにか気づいたなら言ってくれ」
「……いや、俺は今長門が芦川ヒカリと口にした時に思っちまったんだよ……誰そいつ? って」
「あー……じゃあやっぱり名前の情報は掴みにくいのかな? 谷口も国木田もハルヒも、朝から一度も俺の名前を呼んでない。キョンもだった」
でも、古泉は名前だけは憶えていた。九組の女子は俺の存在にすら気づかなかったのに、コンピ研の部長は存在自体は感知していた。谷口や国木田はクラスメイトだとは理解していたようだ。人によって情報の欠け方が違うのだろうか。
「悠長に言ってる場合かよ。我がことながら不気味だぞ、お前のことがわからなくなるなんて……しかもそのまま消えちまう? ふざけた話だ。なんかさっきも似たようなこと言わなかったか? 俺」
「“性別もなにも、いや、わざわざ言うってことは、そうかたしかにお前に女だと言われた気がする。くそ、本当に気づかないもんだな。このまま他のことも忘れちまうのか。そんな話があるかよ”のこと? それとも“だいたいマジなのか。ついさっき長門に聞いたが、朝比奈さんにも同じようなことを言われたぞ。お前がわからなくなるって? なんとも笑えない冗談じゃないか”のこと?」
「……お前が記憶力がよくても解決しないんだよ。俺や古泉や朝比奈さん、そもそも涼宮が覚えてねえんだから。長門は覚えていてもどうしようもないらしいしな。まったく、それなら涼宮に直接言ったらどうだ? 勝手なことをするなって」
「長門の言い方だと多分俺も願っちゃったんだと思うよ。俺の後ろ向きなところが、この事態の原因でもある。ハルヒを怒らせたのも、そこだったし。どうすればいいかなあ」
「そうですね。今後気を付けてください」
今日の古泉、切れ味鋭いな。ん? 今暗唱したセリフって……。
「さて、二十二時間と言わず、早急に解決したいところですね。ガラスの靴を持っていたとして、探す相手が見つからないのではお手上げですから」
「そういや、涼宮のやつがシンデレラの話をしていなかったか?」
していた。いや、もっと気にかかる話をしていたと思うんだが、ああ、そうか。俺が欠けていっているのだから、考えが纏まらないのもそのせいか。頭脳労働できなくなった俺って本当に無価値じゃないか? 記憶力と特殊能力を取ったら、本当になにもない人間だ。その状態の俺に、一体何を解決できるというのだろう。いや、そうじゃないって。前向きにならないと。
古泉は携帯を取り出してなにやら操作しはじめる。
「“別に恋しようと勝手だけど、今まで仲間だったやつを疎かにするのは違うでしょってこと”そう言っていた」
「彼女は素直じゃありませんから、その言葉を真に受けることはないと思いますよ。勿論、寂しい思いもあったのでしょうけど、あなたの恋に一役買いたいのは事実なんじゃないですか。あれだけ大々的に募集をしようとしたくらいですから」
「だとすると、他にごちゃごちゃ言っていたのはガラスの靴を隠すってところか? 森に動物と移り住めだとか言っていたな」
「動物と言うと“シンデレラには友達がいた”のことでしょうか」
「思い出したの?」
いえ、と古泉は携帯を見せる。メモ帳が開いていた。
「今ふと、僕しか聞いていないことがあるのならば、メモを残してはいないかと思いつきまして。なんのことかはわかりませんが、やはりありました」
メモ帳には“シンデレラには友達がいた”と“記憶は最も近くにいたものに残る”が記されている。その前にもいくつかメモがあり、内容は“三年前の七月六日”とか“キョンくんが一連のキーパーソンになる”などと、多分幽霊の俺が言ったことをそのままメモしているらしかった。これなら未来の規定をいくつか察するだろう、古泉ならば。
“この後一つの事件が起きる。詳しくは長門に”とか“俺のことを頼む”だとかの口調からも、協力者ではなく幽霊が言ったことをヒントに古泉は動いていたみたいだ。にしてもこの“事件が起きたら解決までお前はメモを取るな”っていうのはどういうことなんだろうか。
「しかし、なるほど……涼宮さんはガラスの靴を隠すと、そう言ったんですね。王子に迎えに来させない。それは、元の世界に帰したくないという意味でしょうか。もしくは、誰にもヒカリくんを渡したくない、というような思いなのかもしれません。誰にも渡したくないから、隠す……ですか」
古泉は考え込む仕草をした。
「本格的にまずいですよ、これは。涼宮ハルヒがそんな消極的な方法を取ろうとするなんて……信じられません」
「そうか? 世界に吸収されても、一応異世界人はいなくなってないし、なにがしか複合的な理由があってあいつが得するとか、楽しいってことがあるんだと俺は思う」
「お前が消えて涼宮が楽しい? まためちゃくちゃな話だな」
「たしかに、涼宮さんはあなたを隠すことでなにか得をするのでしょう。けれど、世界なんてあやふやなものになってしまったあなたとは会話もできませんからね。部室に来てオブジェを見る度に、斜め前の空席を見る度に、彼女だけじゃない。長門さんもアクセスは可能だと言っていましたね。なぜだか思い出せないストレスを抱え続けたクラス一つがまるごと発狂するかもしれませんよ。今、彼がそんな目に遭うのは可哀相だと思ったんじゃないですか?」
「安心しろ。お前も十分可哀相だよ。いくら俺でもさすがに古泉が発狂するのを面白がったりはしない……多分」
「多分かよ。シンデレラの友達がどうこうって言うなら、こいつのコピーだか幽霊だかは、一番近くにいたやつが記憶に残るとかも言ってなかったか?」
メモにもあった文言だ。一番近くにいたのは古泉だと思う。でも、じゃあなんでキョンの方が覚えているんだ?
「忌々しいことにそいつは古泉、お前だろうな。今回はこいつも異能は使えないんだろうし、お前がなんとかするしかないんじゃないか? まあ、俺も出来ることがありゃ恩を返すくらいのことはするが」
「忌々しいんですね」
「……何が言いたい」
「いえ、簡単な解決法があるにはあるんですよ。ヒカリくんを認識できない今の涼宮さんには効力がないかもしれませんが、この件が終わった後ならば今後の憂いはそれで解消されるでしょうね」
「なんだそれは、含みのある言い方しやがって」
「そうですね。手を繋ぐことで一定時間情報を維持できるなら、クラスにいる間、お二人がそうしていることをお勧めします。ハグでも構いません。もしかしたら、その状態でならば涼宮さんもヒカリくんを視認できるかもしれませんよ。なにせ〝涼宮さんが見て来た中ではヒカリくんの一番近くにはあなたがいた”はずです。彼とあなたは隣の席だ。涼宮さんはいつも、お二人の背中を見ていたんじゃないですか?」
「無茶苦茶言うな。涼宮どころかクラス中から除け者にされかねん。それに、涼宮が見ていた中でも、こいつと一緒にいたのはお前だと俺は思うがな」
「そもそも手繋いでたらキョンがノート取れないだろ」
「それって問題ですか? 僕からすると、この状況で僕が“一番近くにいた相手”の欄に該当していること自体が問題なんだと思いますよ。あなたや涼宮さんだけがそうでなかったことが。涼宮さんは僕とヒカリくんに距離を置かせたがっていましたからね。谷口氏にもですが」
「そりゃ、こいつが俺や涼宮を避けてたからだ。あいつも腹が立つだろう。百歩譲ってお前らが言う通り涼宮がなんでも叶えられるなら、わざわざ同じクラスにしたお気に入りのやつが、長門や古泉、朝比奈さんとばかりつるんでるんだからな」
うぐう。
「言われちゃいましたね」
「古泉とコンビにしたのはハルヒなのにさ~。つうか、お前、俺が仮に九組だったらくっついたまま授業受けられるのかよ」
「やりようはいくらでもありますよ。教科書を忘れたフリでも、なんでも」
「ちっ……。なんだよ、市内探索でコンビになれてあんなに面白かったのに、ハルヒの中ではなんでもないわけ? オブジェだって喜んでたのにさ」
「拗ねるなよ」
「楽しかったからですよ。だから、どんどんあなたへの執着が増しているわけです。取られないようにするために分解までし始めているんですから、いじらしいですよね」
「ヤンデレの妹に愛されて夜も眠れない……あ、でもキョンくんには長門や朝比奈さんとも仲良くしてるように見えるんだ。それは嬉しいな」
「そういうところですよ?」
朝比奈さん。なにかひっかかる。記憶で猫が爪研ぎをしているような、なんだろうか。朝比奈さん、未来人の朝比奈さん。
「あ!!!!!」
「声がでかい。俺はそんなに近づいてないぞ」
「じゃなくて、朝比奈さんと言えばさ! “ついさっき長門に聞いたが、朝比奈さんにも同じようなことを言われたぞ”って変じゃないか。朝比奈さんはそんなこと言えないはずだ。カッコダイに言われたな?」
「ああ、そういや話がどんどん脱線して言い忘れていた。古泉、お前に言伝があったのを思い出した。なんだかこの言伝をするのはよほど大変なことらしく、申請に時間がかかったんだと。内容は“グリフィンとジュード”だそうだ。それで、わざわざそんな言葉を残すなら、俺はお前が今回の解決役だと思ったんだが」
古泉は片眉を器用にあげて珍しい顔をする。たしか古泉は未来側に危険視されてるんだよな。そりゃ大変だったに決まってる。朝比奈さん大丈夫なのかな。このタイミングでそんな無理を通してでも朝比奈さん(大)が古泉に向けて言葉を残したなら、この事態を解決するのは古泉だと誰でも思う。
そして、古泉は昨日俺の霊に“キーパーソンはキョン”と言われているのだから、キョンが解決すると思うのも当然だ。俺の態度から元々主人公がキョンだと勘づいているみたいだし。
どっちが正しいのかと言われれば俺としては朝比奈さんだと思うが、あれで俺の脳から出た予言も馬鹿にはならない。
「僕はメモを見る限りあなただとばかり……しかし、これは二人で分担、ないし協力をする必要がある、ということなんでしょうか? 無論協力は惜しみませんし、助かるのですが……なるほど」
「古泉、なにか思いつきそうか? 関連性」
「関連性? ぐりとぐら、みたいな一つの単語じゃないのか?」
「ちょっと萌えさせないで、今考えてるんだから……うん、やっぱりぐりとぐらに並ぶ言葉じゃないよ。だってそれなら俺やキョンへの言伝だっていいだろ。調べれば一発だもん。でも敢えて古泉に言うなら、それは古泉の知識でならわかる、関連性がある別々の言葉なんだよ。名前っぽいけど」
「なるほどな。ちなみに今の何が萌えだったんだ?」
なあ、俺もしかして今めちゃくちゃ愚かなんじゃないか?
「えーと、そんでシンデレラや白雪姫やかぐや姫、そういう単語が出ている中で二つの言葉が並ぶのは変だ。とはいえ、これは規定にはない単語だから今回の事態解決のために使うんだろうな」
「流しやがったな。まあいい。そうかい、じゃ白雪姫は元の規定とやらにあるんだな」
う、と俺は言葉に詰まる。古泉は思案顔だ。あれ? やっぱり俺調子悪い? キョンくんといると馬鹿になるのはいつものことだけど、それにしたって迂闊がすぎる。
「別にいいだろ。どうせ使うことだし、もう聞いた話なんだ。お前、神経質なんだよ」
「……名前……関連性、ですか。そしてお二人が話しているのは全て物語の題名ですよね。この状況に即した物語に当てはめる登場人物ならば……、それはH・G・ウェルズのSF小説に登場するジャック・グリフィン博士と、それからトーマス・ハーディ最後の小説と言われる日陰者ジュードのジュード・フォーレイでしょう。前者は薬品と光の屈折を利用し自らを不可視の存在へと変えてしまった男が、それ故に孤独にのめり込んでいく狂気の物語。後者は環境を変えれば自分も変われると信じた男が、他人に相手にされないと自覚する疎外感の物語です。両者とも、今の状況に合致した主人公ですね。この二つの作品は別々の角度から……言ってしまえば社会的、物理的な観点での透明人間を描いたお話です」
合致しているし、普通に詰られてるみたいで凹む。ん? 透明人間? 俺とキョンは顔を見合わせる。
「おいおい、じゃあなんだよ。朝のあの、透明人間をSOS団に入れたいなんて涼宮の世迷い言が現実になるっていうのか?」
「いや、だとしたら既に実現していることになる。異世界人も透明人間も両方俺だ。もうSOS団に在籍しているんだよ。おい、これ、ちょっとやそっと説得してハルヒが意思を曲げるか?」
「んなこと言ったって、どうにかするしかないだろ」
厄介なことになった。
なにせ、ハルヒは本当に俺の属性を盛ってしまったのだ。新しく呼ぶわけではなく。
苦労して呼び寄せた異世界人に新規作成の透明人間。現状に満足している可能性が非常に高い。今のハルヒに、どうやってあれだけはしゃいでいた透明人間を諦めさせればいいんだ?
「ああ、参ったな……長門さんならどうします?」
「どうにもできない。涼宮ハルヒはわたしの言葉を重要視しない。今のわたしは芦川ヒカリから得た情報のいくつかにアクセスする権利を剥奪、封鎖されている。わたし個人としては復元を望む」
時計を見れば、もうすぐチャイムが鳴りそうだった。また後でな、と手を挙げた俺を見て、珍しく長門は僅かに眉を寄せる。彼女は椅子に座ったまま、去っていく俺たちをじっと見ていた。
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