あるフリーターの憂鬱Ⅰ
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「どわっ!」
瞼を開いた瞬間に美少女の顔が目の前にあった。距離が近いっていうネタはキョンと古泉の持ちネタであり、俺と長門のやつではないと思うんだが。
なにかサイコスリラーじみた夢を見た気がするが、今の衝撃で吹き飛んでいった。ついでに昨日の長門の発言も半分くらい吹き飛んだ気がするが、まあどっちにしろよくわかってないんだけどさ。
「眠れた?」
「あ、うん。ぐっすり」
「そう」
長門の顔が離れていくのに付随するように俺も起き上がる。彼女は看病でもするように俺の横に正座したままで、突然前へ倣えするみたいに両腕を突き出した。緩慢な動作に反比例して突如繰り出されるジークンドーじみた一撃に、俺は顔を引きつらせて小刻みに震える。
「……なんの攻撃?」
「いい」
「なんの肯定!?」
長門はそれ以上なにも言わずに両手をこちらに突き出している。俺は慌てて向き直る。じっと見つめている分だけ、長門も見つめ返してくる。なにかのクイズだろうか。女子の気持ちを読み取りなさい、という出題ならいくらか俺にも分があるはずだが、それにしたって長門は読みにくい。宇宙にありがちな慣習か? と考え始めたところで、はたと気づく。
俺はおそるおそる長門の脇腹に沿って両腕を差し込み、その身体を引き寄せた。そうして、ぎゅ、と抱きしめる。
「おはよう、長門」
「おはよう」
どうやら正解だったらしく、長門はしばらくそうしていると身体を離してさっさと立ち上がった。あ、もう終わりなんですね。残った体温を感じながら思い返す。朝にもする挨拶、って言っちゃったもんな、昨日。
「じゃあ、今日も帰ってきたらおかえりのハグするかあ」
「しない」
「しないかあ……」
それが、言われた分のタスクはこなしましたという意味なのか、それとも今日の夜には現実世界に俺が帰還してしまうからなのかは聞かないでおいた。どちらにしても寂しすぎる。どうして、長門はあんなに柔らかくて暖かいのに、生きてるって感じがするのに、これが現実じゃないんだろうか。
ふと、長門が見つめている部屋の一点に俺も視線を動かす。北高の制服がラックに掛かっていた。それは一度は女の子なら着てみたいセーラー服──、ではなく、なんとなくそんな気がしていた濃紺のブレザーだった。
逆に考えるんだ。キョンくんと同じ型の制服を着られる喜びっていうのもまた、ありといえばありじゃないかな。どうかな、無いかなあ。
「あーね。登校する感じでハルヒに会うんだ」
「そう」
「たった二年のブランクで急に制服を着ることに抵抗が生まれるのはなんでなのかなあ」
そもそも男子制服など着たことはないので、そこも抵抗の一部なのかもしれない。アニメのコスプレ感が出ちゃうんだよな。その恰好でイベント会場でもない、普通の道を出歩くってのもなんか、恥ずかしい気がする。いや、真実これはアニメのコスプレなのだけれども。ここではそれが普通なんだもんな。
実際、制服がかわいくて人気な学校ってのはちょっと現実離れしたデザインだったりするし、気にすることはないのかもしれない。そういうことにしよう。した。
「着て」
「いえっさ。すぐ着替えるから外してもらってもいい?」
頷いた長門が部屋から出ていき、俺は言われるがまま袖を通す。サイズはいつ採寸したのかピッタリだ。髪の毛をローポニーテールでゆるく結んで姿見に目をやれば、案外いいんじゃないかと思えた。男子制服を選択できる高校も今や珍しくないし、そこまで違和感を感じない。
高校生かあ。一番年齢が近いのは三年ということになるが。三年生でこの身長だと、男子じゃちょっと浮いちゃいそうだな。
「来て」
俺が自信満々の男装(男装もクソもなく事実男だ)を披露しに居間に出ると、待ち構えていたように長門は玄関に出て靴を履く。俺の分のローファーもきちんと用意されているみたいだ。
財布とスマホだけをポケットに突っ込むと慌てて靴を履き、俺は長門の後に金魚のフンみたいに続いた。エレベーターに乗り、マンションから出る。
川沿いを歩き、踏切を超え、ひたすら北高を目指した。急な坂道に差し掛かった辺りでちらほら同じ制服の生徒が見え始め、不審だとはわかりつつ周囲にその姿を探してしまう。ハルヒは……いないか。あの黄色いカチューシャを見つけるのが何より大事な仕事。ていうか会う以外で明確にやるべきことが見つかっていないので、そればかり気になってしまう。
そうこうしている間に長門はすったか先に行ってしまい、俺は慌てて後を追う。その繰り返しだ。生徒たちはどう思っていたんだろう。男子が女子の後を必死に追いかけてる姿を。ストーカーとか噂になったりしないといいけど。
──結局、通学路に見知った顔を見つけることはできなかった。谷口も国木田も、キョンもいない。ということは早めの登校なのかもしれない。ならば真面目な古泉のやつや、朝比奈さんはというと、彼らもいない。かと言って生徒会長辺りの姿も見つからない。たしか1年5組だったよな、という顔は何人か見つけた。
夜も朝も食べてないから、坂道がやたらとしんどい。お腹空いたなあ。長門って基本的にごはん食べないんだろうか。
「で。今日一日俺が体験入学するのは問題ないよう、色々画策してもらってるんだよね?」
「ちがう」
「ほな違うなあ」
校門をくぐり、校舎に入る。長門の靴箱からは二足の上履きが出てきて、その靴底を見る限り同じ色だ。彼女は少しサイズの大きいそれを俺の目の前に下ろした。とんとん、と床でつま先を叩いた長門は、すぐに一段あがって廊下を進んでいく。
「マジか。俺も一年生なんだ」
「そう」
俺はまたまた長門にぴったりついていく。気づいたんだが、高校生で金髪って結構悪目立ちするんじゃないだろうか。周りを見ると髪の長い男子もあまりいないみたいだ。
道理でよく生徒たちの視線とかち合う。その度に、店でお客さんにするように笑ってみるのだけど、向こうから話しかけられはしない。
もしかしなくても近寄りがたいんだろうか。俺って。
うーむ、こんなに美少女(男)に仕上がっているというのに。風呂入った時も思ったんだけど、男になったおかげかどうかは知らないが、肌つやもいいんだよな。まるで若返ってるみたいに透けるような白い肌。産毛も薄いし、朝起きて髭もなかったし。これが無料で手に入るなら、まあモニターとしては評価3だな。コメント欄に余計なものが生えている苦情だけ書き込ませてもらいたいもんだが。
さて、金髪ロン毛の男が眼鏡の少女と連れ立って歩いている絵面は、俺が気弱そうな笑顔を浮かべてへこへこしていることで、さらに変な感じになっている。どうしよう、長門姉御説とか出ちゃったら。くだらないことを考えている間に1年5組の前で長門はぴたりと足を止めた。
「お? 長門、隣だろ」
「そう」
「ああ、今ハルヒと顔合わせした方がいい、的な?」
「ちがう」
俺が小首をかしげていると、長門はすぐに背中を向けて歩き出した。その背中はこんな恐ろしげな一言を残して去って行く。
「あなたはそっち」
「嘘!? ハルヒと同じクラスなの?」
途端に不安になって長門を見つめ続けるが、一度も振り返らないままに彼女は隣の教室に吸い込まれていった。嘘過ぎない? そりゃ、ハルヒのクラスなんてすごく嬉しいけど、なにもわからないまま放り込まれるには荷が重すぎないだろうか。
俺の独り言は廊下に取り残され、誰の耳にも入らない。
「あたしを呼び捨てにするとは、いい度胸じゃない」
──、はずだった。
「げっ、ハルヒ!」
「げってなによ。あんたは何者? どうしてあたしの名前を知ってるの? なんで金髪? 一体全体誰の許可を得てあたしの前に立ってるわけ? なんで男子の制服着てんの?」
怒涛の質問ラッシュを浴びせたのは、言うまでもなく涼宮ハルヒその人である。尊大で快活、リボンのついたカチューシャを揺らし、つやつやの髪を靡かせる。びしっと俺を指を差して、長い健康的な両足を地面にしっかりつけて、ふんぞり返って立っている。
ぶっちゃけ俺が何者かなんて、俺の方が聞きたい。
「人を指差しちゃいけないんだぞ」
「そんなこと聞いてないわよ。すぐさま答えなさい。答えないっていうなら」
「縛り上げる?」
「よくわかってるじゃない。もう一度だけ聞いてあげる。あんたは何者?」
「煮物? 里芋とかが好き」
「……なにそれ、舐めてんの?」
「普通の男子高校生に、ウケる一発ボケなんてかませるわけないだろ」
普通の男子高校生の、はずだ。ちょっと普通じゃないのは、影からハルヒを見守ったりする特殊任務があること。しかし、長門のいない状況で何を言っていいのかもわからない。少なくともハルヒがとんでもないチートだということは、自覚させてはいけないんだったよな。そうなると長門とつるんでることも紹介できないから、とりあえずはぐらかす他ない。
「全部一気に答えるぞ。俺は普通の高校生。お前の名前はその辺で噂されてて有名。金髪なのは気合が入ってるからで、お前の前に立って教室のドアを塞いだのはごめん。で、普通の男子高校生だから男子の制服を着ている。ループしてね?」
「嘘ね!」
「なんでえ?」
「全部一気に説明してあげるわ。まず、普通の男子高校生は自分を普通だとは言いません。あたしの名前を知ってるのは、あんたが……そうね、あたしたちの心を読めるから。金髪なのは……親戚に外国の人がいるんでしょうね、多分。それで、制服は正体を隠すため」
ところどころ事実にかすっててヒヤっとする。これが涼宮ハルヒってやつなんだよな。本当に不思議属性てんこもりのやつらはさぞかし大変だろう。
「金髪のところ、今適当に考えたろ」
「うっさいわね! とにかく怪しい。怪しいったら怪しい! こんな時期に転校生がまとめてやってくるなんて、なにかの罠か陰謀に違いんないんだから。すぐに正体を見破ってやるわ」
「おお、芦川。もう来てたのか」
神の助けか、担任岡部が背後から現れる。今話してるんだけど、というオーラを隠しもしないハルヒを無視し、俺は扉を開けて岡部を教室内に逃がしつつ、自分もひらりと舞い込んだ。ハルヒはぷりぷり怒ったまま大股で自分の席へと向かっていく。瞬間、ここまで嫌な予感もないだろうという、妙な違和感を覚える。
キョンの横に、これみよがしに空席が出来ていt。たしか、そこにはコーラス部の女子が座っていたはずなのだが、彼女の席がズレている。入学してきて、誰もその席が空いていることを不思議に思わなかったのだろうか。
冷や汗をかく俺をよそに、熱血教師岡部が黒板に名前を書き、俺を紹介する。
「ご両親の海外赴任をきっかけに、ひとり暮らしで頑張るそうだ。みんな仲良くしてやってくれ」
「芦川ヒカリです。好きな煮物は肉じゃがです。よろしくお願いします」
「なにか質問のあるやついるか?」
初めて知ったけど、俺の親って海外赴任してるんだ。もしもハルヒの目からレーザーが出たら俺を焼き切ってもおかしくない視線が突き刺さる。海外赴任は強引だよなあ。俺もそう思うが顔を背けた。
女子が手を挙げる。
「好きなテレビは?」
「薄型のやつとか、新しいものが好きです」
こんな質問にも答えられない。しくじった。情報が武器だなどと言っておきながら完全にしくじった。俺は昨晩から一回もメディアに触れていない。俺が見たことのあるテレビ番組がこっちで放送しているわけもないから、話題を滑らせていくしか躱す方法がない。
なにせ、歌番組ですと言えば好きな歌手を聞かれ、アニメと言えば推し声優を聞かれるかもしれない。ツッコミづらい発言で封殺する以外に道はなく、そしてそれはハルヒからすれば確かに怪しい人物に相違ない。こんな吊り確定人狼バラエティ、誰が面白がるんだよ。
「髪の毛って染めてるの?」
「そうです。転校生なので気合を入れました。芦川です。これだけ覚えて帰ってください」
「彼女いますか?」
「いないです。いたことないです。いるわけないです」
「どっからきたの~?」
「あっちの方です。見えるかな。すっごくあっちの方」
「兄弟とかいる?」
「どうかなあ。弟とかいたらいいですね」
ふわふわした受け答えにより完全にクラスでの妙ちきりんな立ち位置になってしまった。俺は死刑宣告を受けたような顔で先生の指定した通りキョンくんの横の席に移動する。
共感性羞恥というものをご存じだろうか。今みなさんが感じているそれのことだ。何を話せばいいかわからず転校初日に衆人環視のど真ん中でスベり倒して、イカレた集団の首領に因縁をつけられた俺を憐れむ視線もちらほら。そう思うならもっと早く地獄の質問タイムを終わらせてくれても良かったじゃないか。
着席して左側を見れば、少しだけ訝し気な目線を寄こす男がいる。キョンくん、そう、キョンくんである。少女時代の俺の恋心を一瞬で奪い去った彼を、こんなに近くで見ることができる日が来るとは。これだけでも晒し上げられた価値はある。
気だるげな目元、俺より10センチくらい高い背。軽く着崩した制服に短めの髪。ちょっと寝ぐせがあってかわいい。
溢れるときめきを押し殺しながら、俺は机の感触を確かめる。かたい。これが、リアル……!
「まあ、よろしくな」
ぶっきらぼうな声。眠そうな瞼。頭の中に何度も反響させてみる。よろしくな、だって。く~、イケボだ。しみじみとキョンくんの隣の席である幸福を実感しつつ、満面の笑みを返しながら手を差し出して。
「うん! よろし……くぎゅっ!!!!」
──くぎゅの名を叫びながら俺は後方に椅子ごと倒れた。